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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

感想と批評/キュレーションの時代

2011-08-16 | 舞台芸術
 こんなふうにブログという形で個人的なメモや感想を書き込みながらこんなことをいうのは自己矛盾の何ものでもないようだが、ネット上には芝居にしろ、映画にしろ、刊行された小説にしろ、それらに対する感想文の類が氾濫している。
 自分の文章が人様にどんなふうに読まれているのか分からないけれど、時には言葉足らずの表現が関係者の皆様をひどく傷つけているのではないかと不安になることがないではない。
 そのことは、自分が当事者となっている舞台の感想を読んでしまったときの居心地の悪さからも容易に推し量ることができる。
 いつの頃からか、劇評サイトなるものがあって、自分の出演した舞台の感想が☆いくつという評価とともにその日のうちにネット上に書き込まれるようになっている。
 励まされるような温かい言葉も中にはあるけれど、時には悪意を含んだとしか思われない感想があって、それが作品そのものの出来や創作の意図に由来するものならまだしも、単にどの役者が台詞を何回とちったとか、声をつぶして台詞が聞き取れなかったとか、着物の着付けがなっていないとか、殺陣が下手だとか踊りの振りをどの役者が間違ったといったことをあげつらうのに終始している文章を読むとムナクソが悪くなって仕方がない。
 それらが役者個人の責任に帰する部分であることは十分承知しながらもあえて言いたいのは、そうした感想(=批評ではない)なるものの大半が、対象物の欠点やその日の出来不出来をことさらに強調し、貶めることによって、評者たる自分を高みに置こうとする臭気に満ちており、そういった精神のありように何ともいやなものを感じるからなのだ。
 それらの感想が、劇場で配られるアンケート用紙に書かれたものならば罪はないが、ネット上に配信されたとたん、それは一種の公共性と暴力性を帯びることを書き手たる私たちは自覚しなければならないだろう。
 さて、これは余談だが、そうした劇評サイトに載った人様の感想をもとに翌日の舞台前にダメだしする演出家がいたとしたら・・・・・・、その舞台の成果は推して知るべしではないか。私の身近にも実際にそんな演出家がいるので困ってしまう。

 と、ここで考えるのだが、感想と批評はどう違うのだろう。
 感想とは、その人が感じた想念、感慨を単に綴ったもの、と言ってよいかもしれない。
 これに対して、批評は、表現されたもの(=演劇に限らない)をその論者の視点から捉え直し、解釈し、意味を新たに付与しながら、歴史的時間軸や社会的空間軸のなかに位置づけ、価値づける行為、と言えるのではないだろうか。
 そうした批評といえるものこそ劇評というに値するのだろう。
 これを「キュレーション」という言葉に置き換えてもよいのではないかと私は思っている。

 佐々木俊尚氏は、その著書「キュレーションの時代―『つながり』の情報革命が始まる」(ちくま新書)のなかで「キュレーション」について次のように書いている。

 ――「美術館やギャラリー、あるいは街中の倉庫など、場所を問わず、展覧会などの企画を立てて実現させる人の総称がキュレーターです。形式も展覧会に限らず、パフォーマンスなどのイベントや出版物という形を取ることもあります。『作品を選び、それを何らかの方法で他者に見せる場を生み出す行為』を通じて、アートをめぐる新たな意味や解釈、『物語』を作り出す語り手であると言えるでしょう」(「美術手帖」2007年12月号)
 これは情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、クチコミのようにしてソーシャルメディア上で流通させるような行いと非常に通底している。だから、キュレーターということばは美術展の枠からはみ出て、いまや情報を司る存在という意味にも使われるようになってきているのです。――

 批評、キュレーションもまたひとつの表現行為にほかならないのである。
 私が尊敬する劇作家・演出家の故・金杉忠男はよく「批評される作品を創らなければいけない」と言っていたが、これは、そうした批評行為を促すような、挑発するような、批評に値する舞台を創れということだったのだ。

 一方、もう一人、私が敬愛してやまない演劇評論家でシェイクスピア全作品の翻訳者として知られる小田島雄志氏は、「僕は評論家じゃないよ。ボクの書くのはただの感想」と言ってはばからない。
 そうかなあ、とは思うけれど、氏の書く「感想」が素晴らしいのは、それが「芸」にまで昇華されているからである。劇評サイトの凡百の感想とはまったく別種別物なのだ。
 その視線はあくまで温かく、かつプロフェッショナルな奥深さを有している。

 その小田島氏が先月7月の日本経済新聞に連載していた「私の履歴書」の第1回目にこんなことをお書きになっていた。

 「そのように芝居のおかげで人間を見つめ、人間を好きになってきたぼくは、演劇評論家とも呼ばれるようになった。だが、ほんの数年間だが文学座の文芸部に在籍したとき、スタッフ、キャストが30日、40日と血の汗流して創り上げた舞台を一晩見ただけで、ダメとかヘタとか言えなくなってしまった。(中略)
 たまたまイギリス演劇界の大御所で、演出家という仕事を独立させたゴードン・クレイグが、90歳をすぎてのインタビューに答えて、『自分はいい観客(グッド・オーディエンス)の一人、そう言ってよければ最良の観客の一人だった、と思いたい』と言ったのを知って、ぼくも評論家や批評家ではなく、いい観客の一人になるぞ、と宣言した。」

 氏が言う「感想」にはこんな背景があったのだ。
 その言葉には覚悟があり、懐の広さがある。芝居に対する愛情と励ましに満ちている。
 もちろん、その背後には人知れず激しい批評精神がひそんでいることを私は知っているのだけれど。


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