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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

標的家族

2010-02-13 | 演劇
 10日、Space早稲田にて「標的家族」を観た。
 作:佃典彦、演出:小林七緒、音楽:諏訪創、美術:小林岳郎、芸術監督:流山児祥、制作:流山児事務所。
 社団法人日本劇団協議会が主催する次世代を担う演劇人育成公演である。

 現代においてイジメの標的となった「家族」とそれを取り巻く状況をシニカルな視点で描いた好作品だ。
 小林七緒の演出は、Space早稲田という天井の低い限られた空間をうまく使い、他者=外部=社会から理由も意味もなく圧迫される人間の心理を乾いた視点で抉り出す。
 決して感傷に堕することなく、悲惨を通り越してもう笑うしかないという滑稽味すら醸し出しながら、イジメられる側、イジメる側、それを傍観する側の三者をそれぞれ等間隔に見つめる演出家の眼差しは冷静でいながらも温かさを感じさせる。観終わって、絶望的状況の中にもそれとなく希望を感じるのはそのためだろう。

 今回の育成対象者は俳優の小暮拓矢と音楽、美術の3人なのだが、この集団において、次世代の演出家もまた着実に育っていると感じさせられた。

 さて、現代のイジメを格差社会がもたらした人間関係のヒズミと言ってしまうのは簡単だが、問題はそれが社会のあらゆる層に降り積もる塵となってどのように腑分けしようとも排除できない病根となっていることだ。
 その根本を絶ち、治療するのはすでに不可能であるようにさえ思えてしまう。
 最近の子どもの自殺にはある種ゲーム感覚に似たところがあり、負けが決まった途端にリセットするようなものだという意見を聞いたことがある。リセットすることでやり直せると考えるのはゲーム感覚としても、その手段が自殺でしかないというのはやはりやりきれない。
 
 本作の登場人物たちもまたイジメの標的という状況をゲーム感覚のものとして受容しているように思われる。
 どうせ逃れようのない状況であるのなら、いっそゲームとしてででも受け容れるしかないという絶望である。
 演劇の効用は、そうした状況を俯瞰しながら、イジメられる者の痴れものめいた無表情、イジメる側に立った者のことさらに賢しらな表情、傍観する者の残忍さといった三者の顔を具体的に描き出すことだ。
 そのうえで絶望的な状況を笑い飛ばし、それでも明日はあるということを信じさせる力が演劇という表現には備わっているのだと思う。これはあまりに楽観=ナイーブに過ぎる感覚だろうか。

 この舞台を観ながら、私は安部公房の一連の家族の物語や別役実の初期作品の味わいを感じていたが、そうした先行作品へのオマージュが本作には秘められているのだろうか。

 安部公房は「明日のない希望よりも、絶望の明日を」と書いた。
 リセットするのはゲームや芝居の世界でシミュレーションすればよいことだ。
 とにかく明日のあることを演劇=表現=アートを通して伝えたい。考えたい。
 いま切実にそう思う。


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