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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

博士と彼女のセオリー

2015-04-22 | 映画
 驚いたことに芝居も映画も今年に入ってからまともに観ていないことに愕然としてしまう。ただ日々の移ろいに身を任せていただけなのか。そうではなく、それだけ忙しくて大変だったのだと言いたいのだけれど、どうもただの言い訳じみてしまう。
  
 最近になってようやく観たのが、『博士と彼女のセオリー』(原題:The Theory of Everything)である。理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士と彼の元妻であるジェーン・ホーキングの関係を描き出したある種の伝記映画で、監督はジェームズ・マーシュ、主演のホーキング夫妻はエディ・レッドメインとフェリシティ・ジョーンズが務めている。第87回アカデミー賞では5部門にノミネートされ、エディ・レッドメインが主演男優賞を受賞したのは周知のとおり。

 こうした実在の人物をモデルにした映画で何より重要なのは、画面上の俳優が当該のモデルとなる人物に「見える」ことにほかならない。この映画の場合、ホーキング博士がまさにそこにいると観客に感じさせることができなければ、そもそもこの物語自体が成り立たない。
 このことは、現代のイコンとなってその肖像写真等が人々の記憶にイメージとして深く刻まれている主人公の役づくりにおいて顕著な課題である。伝記映画の宿命として、リンカーンはリンカーンらしく、マーガレット・サッチャーはよりサッチャーらしく、ホーキング博士はまさにホーキング博士として観客を納得させることが、この映画=物語を成立させる大前提となるのである。
 この「観客を納得させる」ということはすなわち、観客がイメージするホーキング博士像に一定程度寄り添う形での造型とともに、新たな発見=従来イメージの転換というハードルも課されるからなかなかに厄介な課題である。
 加えてホーキング博士を演じるうえで筋萎縮性側索硬化症患者という要素は不可欠であり、こうした難病を実際に患った人や家族、関係者にも納得させる形で、その罹患の初期から進行する時間軸に沿って演じることが至難の業であることは容易に想像できる。そしてこれらの課題にエディ・レッドメインは果敢に挑戦し、成功したといってよいだろう。

 こうした役どころでは多くの名だたる俳優がそうであったようにともすれば熱演方の役作り=名優ぶった演技に陥りがちだが、エディ・レッドメインの場合にはむしろ冷静で理詰めとも思われるアプローチが特筆される。
 それに大きく寄与したのが、発声コーチのジュリア・ウィルソン=ディクソンと身体動作ディレクターのアレックス・レイノルズを中心としたチームだが、彼らは運動ニューロン疾患の様々な退化ステージについて科学的に分析しながら、脚本で要求されているように、どのようにうまく画面上で表現できるかを研究、指導したという。
 シーンごとに疾患がどれほど進んでいるかを表す進行度チャートを作り、それに合わせて演じわけたということだ。昨日は疾患が相当程度に進行した状態を演じたかと思えば、明日には時間を遡って、そのごく初期段階のレベルを演じなければならない。まさに没我とは対極のアプローチが求められる所以であるが、そのことは結果として演じるその役をごく自然なものと見せることに大きく貢献して、よりリアリティを増す要因にもなっているように思える。
 複雑かつデリケートな役作りの過程を経ることで余計な自意識の入り込む隙のなかったことが却って幸いしたということもいえるのではないか。こうした手順を幾重にも積み重ねるという作業そのものが、まさに演じるその人物そのものに成るという最も直接的な方法だったということだろう。


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