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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

演劇を語ること

2011-05-24 | 演劇
 5月18日と19日の日本経済新聞夕刊に、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、宮城聰という2人の演劇人のインタビューが続けて掲載されていた。
 誤解を怖れずに言うならば、端的に、震災後2カ月経ってようやくそれぞれの表現領域に立脚したアーティストらしい発言が出てきたという感想を持った。
 何かのためにする芸術というもの、被災者の人々を元気づけ、あるいはその傷ついた心を癒やそうという芸術のあり方は素晴らしいし、そういった要素を芸術は本来的に持っているのだから、そうしたあり様は十分に尊重され、活用されなければならないと思うけれど、その一方で、アートが有する別の側面があまりに捨象されているのではないかとの危惧を感じていたのだ。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチは、原発問題に潜む不条理劇的構造に言及し、我々が日に日にカフカの登場人物のような状況に追い込まれているようだと語る。
 今回の震災から原発問題まで、実に様々な人が様々な立場で情報を流し、あるいは論評し、あるいは批判し、ときに謝罪し、とめどもなく言葉を発し続けているのだが、それがいかほどに真実であり、言葉が言葉通りの意味を持っているのかどうか分からない状況のなかで不安ばかりが増幅されている。
 それは芝居で描かれる世界以上に不条理化してしまっている現実の表われにほかならないのだろう。

 一方、宮城聰は、震災後、人々の思考が狭まっていくなかで、演劇の役割は観客が自分の頭で考え、心身を外に開いていく場を提供することだと規定する。
 そのうえで、「最もうち捨てられている人に詩が降りてきて、みずみずしい言葉に変わらないか。俳優が一番弱い存在として舞台に立ちうるか」と自らに問いかける。

 3・11から2か月余りの時間のなかで、私たちはこれまでに経験したことのない価値観の変換や喪失、根本的なものの見方の転換を否応なく受け入れるべく迫られている。
 そうした現実を様々な視点から誠実かつ冷徹に見つめることこそがアートの持つ、大きな役割の一つであるはずだ。
 その先に見えてくるはずの希望というものを、私は信じたいと思う。


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