seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

再定義する世界の中の日本、とは

2021-08-15 | 日記
 朝から強い雨が降り続く。これでは散歩にも行けないなあなどと思いながら窓の外を見やったりしている。わが家の南側には保育園があり、北側には中学校があるのだが、日曜ということもあって、いつもはにぎやかな子どもたちの声は聞こえず、園庭も校庭も水たまりが出来ている。
 こうした天候は気分も沈んでしまう。この時間に勉強が出来れば良いのだろうが、なかなかそうしたことに気持ちが向かっていかないのは困ったことだ。
 
 東京五輪をきっかけとして、この国が抱える病理が露わになったという意見が目に付くが、当事者たちがそれをどれほど自覚していたのかどうか、社会もまたそれを許容していたのではないか……、そこに深い問題があるように思える。
 とりわけ問われているのは、この国に蔓延する人権意識、人権感覚の鈍麻である。女性蔑視発言、いじめ問題、ホロコーストをネタにしたお笑い、名古屋出入国管理局施設内でのスリランカ国籍女性の死亡事件に対する国や入管サイドの対応等々、これらは五輪・パラリンピックを開催する当時国に突き付けられた極めて深刻な問題であるはずだが、これを自分事として捉え直し、どうすればよいのかを考え続ける必要があるだろう。

 別の観点だが、8月12日付毎日新聞オピニオン欄「激動の世界を読む」のアジア調査会会長・五百旗頭真氏の論稿に「……個々の身近なことも日本社会という入れ物の中での出来事であり、さらに日本社会の出来事も世界という大きな入れ物の中での営みなのである。世界の中の日本という視点を見失うと国民生活が立ち行かなくなることが、時に劇的に示される」とある。
 この論稿の主眼は、「周辺国の大軍拡と支配拡大意思に対し、それをさせない方途が平和のために必要であり、攻めず攻められない関係をいかに築くか」ということであり、そのために「世界の中の日本を再定義する必要は、かつてなく高まっている」と言うのだが、この問題と、五輪を契機として問われているこの国全体の、つまりは私たち一人ひとりの人権感覚は実は一つながりの同根なのである。そのことを深く理解したうえで世界の中の日本を再定義し、平和にために力を尽くし、発信していくことが求められているのだろう。そのために時に青臭いと思われることも真っ当なこととして言い続ける必要があるのである。
 
 最近、川端康成文学賞受賞作品を少しずつ読んでいる。1999年発行の全作品集の「Ⅰ(1974~1986)」を先日読み終わり、今は「Ⅱ(1987~1998)」を読み始めたところ。
 昨夜は眠る前に読んだのは、古井由吉の「中山坂」。これは1986年の発表だから、もう35年前の作品ということになる。400字詰め原稿用紙で40枚足らずの中に切り取られ、交錯する登場人物たちの姿が鮮やかだ。選者の意見など読むと、その独特の文体に戸惑う意見もあるようだが、後年のさらに先鋭化した小説と比べるとはるかに読みやすい。
 このほか、スーザン・ソンタグの「隠喩としての病」を少し読み進める。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿