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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

チェーホフ?!/黒衣の僧

2011-03-12 | 演劇
 舞台芸術のような、その瞬間に消えてしまうものに多くの人が魅了されるのはなぜだろう。その淡雪のように消えてしまった舞台の記憶や観ていた時に心の中に想起する様々な思い=感情のようなものが、それから何年も経ってから突然心の中に甦ってくるという経験は誰にもあるのではないだろうか。

 もう1か月も前、2月13日(日)に観た東京芸術劇場プロデュース:チェーホフ生誕150周年記念の公演「チェーホフ?!~哀しいテーマに関する滑稽な論考」は、そんなことを改めて考えるきっかけを与えてくれた舞台だった。
 作・演出:タニノクロウ、ドラマトゥルク:鴻英良、出演:篠井英介、毬谷友子、手塚とおる、蘭妖子、マメ山田ほか。
 チェーホフの作品「曠野」「簡約人体解剖学」「黒衣の僧」「第六病棟」「かもめ」「グーセフ」といった作品群の中からそのエッセンスを取り出し、新たに組み立て直した、というより、まったく別の作品として創りだしたような舞台である。
 これがチェーホフ?!と言われるとたしかに首を捻りたくなる作品でもある。
 パンフレットの中で毬谷友子が「『桜の園』や『かもめ』を期待していらっしゃったお客様、ごめんなさい。実は、私も最初、期待してました(笑)。」と書いていたけれど、同じ思いをした観客も大勢いたことだろう。

 元・精神科医のタニノクロウは、チェーホフの未完の博士論文「ロシアにおける医事の歴史」のための草稿にインスパイアされたそうなのだが、その文章はまるでチェーホフの作品世界の原型のようだ、と鴻英良氏が紹介している。
 私は無論のことその草稿を読んではいないのだけれど、そうした医学研究の過程で知り得た魔女や芸人たちの秘事ともいうべき医療行為が様々に変容しながらのちのチェーホフ作品に反映され、結晶していったことを想像すること自体、きわめて興味深い物語のようにも思われる。

 一つのアイデア、着想、夢や妄想、幻想がどのように伝播し、相互に影響し合い、形を変えながら新たな物語や映像を脳裏に映し出すのか。
 私たちの芸術=私の見ているこの世界はいかなるものから創られているのか。

 チェーホフの小説「黒衣の僧」のなかで、疲労困憊して神経を痛めた主人公コーヴリンがある伝説を語る場面がある。

 「千年も昔、黒い衣を着た一人の修道僧が、シリアかアラビアの砂漠を歩いていた……。ところがその修道僧の歩いていたところから数マイル離れたところで、もう一人の黒い衣の修道僧が湖をゆっくりと渡っていくのを漁師たちが見かけたのだ。
 このあとのほうの修道僧は蜃気楼だったのだ。その蜃気楼からもう一つの蜃気楼が生まれ、それからさらにもう一つ生まれて、こうしてこの黒い修道僧の姿が一つの大気層から別の大気層へと限りなく伝わって行った。
 それはアフリカでも見えたし、スペインでも、インドでも、北極圏でも見えた……。
 とうとうそれは大気圏外へ出て、今では全宇宙をさまよって、どうしても消えるべき条件に恵まれない。きっと今ごろは、火星か南十字星あたりでも見えるかも知れない。
 けれど、この伝説の肝心要のところは、修道僧が砂漠を歩いていたときからちょうど千年後に、蜃気楼がもう一度大気圏内へ戻って、人の目に映るという点なのである。
 ……けれども何より不思議なのは、この伝説がどこから自分の頭に入りこんだのか、どうしても思い出せないことだ。何かで読んだのか、人から聞いたのか。それとも、ひょっとすると、自分が黒い修道僧を夢に見たのか。思いだせないのに、この伝説が頭から離れないのだ。」

 この話にはとても心惹かれるものがある。
 芸術の成り立ち、創造の秘密といったようなものが、あるいはそこに潜んでいるのかも知れないと思えてくるのだ。



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