seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

音楽のちから

2012-11-05 | 音楽
 10月26日、東京芸術劇場コンサートホールでの国際親善交流特別演奏会(日本音楽文化交流協会主催)を聴いた。指揮:及川光悦、演奏:モーツァルト・ヴィルトゥオーゾ祝祭管弦楽団。
 この演奏会は、障害者週間における演奏会という意義を持ち、さらには東欧音楽家支援、東日本大震災チャリティーコンサートと位置づけられ、障害者やボランティア団体、養護施設の子どもたちや高齢者が多数招待されている。
 駐日セルビア共和国大使、駐日ブルガリア共和国大使、駐日スペイン大使の3人が打ち揃ってのオープニングののち、それぞれの国の若手演奏家をソリストに招いた曲が演奏されるという趣向である。
 スッペ作曲:喜歌劇≪軽騎兵≫序曲にはじまり、ベートーヴェン作曲:ピアノ協奏曲第1番、サン=サーンス作曲:ヴァイオリン協奏曲第3番、ラフマニノフ作曲:ピアノ協奏曲第2番といった親しみやすい曲目が並ぶ。
 この演奏会自体、音楽を通した文化交流とともに、あらゆる人々にクラシック音楽を届けたいという趣旨から、堅苦しいことは抜きに音楽を楽しもうという好ましい雰囲気を持っている。
 したがって、演奏の始まる直前になっても場内がざわめいていようが、誰かが奇声をあげようが、楽章の間に拍手が起ころうが、指揮者も演奏者もそれを柔らかく受け入れながら演奏する様が好ましい。

 そんな演奏会を楽しみながら、こうしたクラシック音楽が私たちに訴えかけてくるものの本質は果たして何なのだろうかということを考えていた。
 音楽それ自体が具体的な何かを訴えるわけではもちろんなく、メッセージとして明示された何かを伝達するわけでもない。
 もっと言うならば、社会的、政治的、経済的存在として現代の情報社会に生きる私たちにとって、これら音楽の演奏はいかなる意味を持つのだろうということを考えたのだった。
 結局のところ、その答えはその音楽のただ中にいる聴き手一人ひとりの心の中にしかないのだけれど。

 1816年、モーツァルトの弦楽五重奏第4番を聴いた19歳のシューベルトは日記にこう書き記しているそうだ。
 「……これらの美しい印象の断片は、僕らの魂の中にいつまでも残り、時が経ち、境遇が変わっても、決して拭い去られることなく、僕らの日々の生活に限りない恩恵を与え続けるだろう」(實吉晴夫編訳「シューベルトの手紙」)

 ラ・フォル・ジュルネの芸術監督ルネ・マルタンは脳科学者・茂木健一郎との対談の中で次のように言っている。
 「すばらしいクラシック音楽に一度出会った人は、もう、後戻りはできない。それを知る以前の状況とは、全く違っていると思うのです」

 こうした言葉をいくら書き連ねても音楽を語ったことにはならない。それゆえの掛け替えのない価値が音楽にはあるのだろう。
 アメリカの酔いどれ詩人チャールズ・ブコウスキーもまたクラシック音楽を愛した。「死をポケットに」の中でブコウスキーはその日記にこう書きつける。
 「ラジオからはマーラーが流れている。彼は大胆な賭けに出ながらも、いともやすやすと音を滑らせる。マーラーなしではいられない時がある。彼は延々とパワーを盛り上げていってうっとりとさせてくれる。ありがとう、マーラー、わたしはあなたに借りがある。そしてわたしには決して返せそうもない。」

 私たちの人生は幾多の困難の中にある。生き難いと思うことの多い日々の生活のなかで音楽と出会うことの意味は計り知れない。