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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

こんな芝居を観た

2011-06-25 | 演劇
 6月11日、銀座8丁目の博品館劇場で私の知人・友人である伊藤貴子、長縄龍郎、花風みらいの3人が出演している舞台「天切り松闇がたり~衣紋坂から」を観た。原作:浅田次郎、なぎプロ・草薙良一プロデュース公演。
 原作の人気シリーズの第1巻所収の作品のいくつかをつなぎ合わせた内容で、原作のエッセンスをうまく台本にまとめて舞台化した作品と言えなくはないが、正直に言って、どうにも底が浅く見えて仕方がない。
 こういうお芝居が好きな方はいるだろうし、事実、前列のおばちゃんたちはもちろん(この私まで!)涙を流して観ていたのだが、浅田次郎の原作に溢れる今の時代へのアンチテーゼであったり、権力を振りかざすものへの言いようのない怒りであったりというものが何とも希薄に思えるのだ。
 それに、目細の安吉親分をはじめとする一家の面々が矮小化されて描かれているように思えるのもつらい。
 私の友人たちが3人とも脇ながらしっかりと存在感を出していたのが救いと言えば言えるのだが、商業演劇でもなく小劇場演劇でもない中途半端さのなか、恐らくは稽古時間も不十分だったのだろうなという裏の事情ばかりが透けて、舞台に立つことの動機を欠いていたように見えたのは、果たして私の目が曇っていたのか・・・。

 6月17日、東池袋の劇場「あうるすぽっと」で「NOISES OFFノイゼス オフ」を観た。 作:マイケル・フレイン、翻訳:小田島恒志、演出:千葉哲也。
 これは紛れもない傑作舞台である、と言ってしまっても良いだろう。これぞ演劇、これぞコメディ、という素晴らしい舞台だった。
 作品は、1982年に書かれたシチュエーション・コメディー。作者マイケル・フレインが書いた別の喜劇を、彼自身が舞台袖から見ていた際、客席から舞台を観るより、舞台裏から観た方がより面白いと感じたことがきっかけで作られたという。
 1幕と2幕では舞台セットが反転し、舞台の表と裏における役者たちの姿を観客は覗き見ることになる。
 場面は時間軸としては大きく3つに分かれていて、「NOTHING ON何事もなし」という芝居の本番初日を控えた舞台稽古の一日、それから1カ月を経た地方公演のある日、さらに2カ月後の千秋楽という時の流れのなかで変貌する俳優たちの姿がコミカルなうえにも残酷に描かれる。
 役者というものは、たとえ裏ではどれほどいがみ合ったり、三角関係にあったり、破局したりといろいろ込み合った人間関係にあろうと、舞台上にはそれをおくびにも出さないよう取り繕うものだが、この芝居の見どころは、それがちょっとしたきっかけでその暗黙のルールが破れてしまい、裏の顔が次第に表の顔に取って代わってしまうというそのプロセスにあるといえるかも知れない。その壊れようはまさに世界の屋台骨が崩れたかと思えるほどの衝撃なのだが、それを観客はもう笑って観ることしかできないのである。
 私はこれを観ながら、今の政権のごたごたをしきりに思い起こしていたのだが、この芝居には確かにそんな批評性もあるのに違いない。
 出演する俳優には、体力をはじめ神経的にも相当過酷を強いる芝居だが、それを補うだけの稽古の時間の積み重ねがあったはずと思えて何とも羨ましい舞台なのでもあった。
 ケネス・ブラナーがかつて監督した映画「世にも憂鬱なハムレットたち」について語った「俳優とは、誰もが感じている自己妄想を強調した実例であるということがどんなに面白いかということをこの映画は描いている」という言葉を思い出す。

 6月21日、王子小劇場にて、ひげ太夫の第31回公演「崑崙クジャク」を観た。
 「天切り松闇がたり」に出ていた伊藤貴子ちゃんがあれから1週間ほど過ぎたばかりでもうこちらの舞台に出ている。今の私にはもうとても望み得ないバイタリティだ。これまた羨ましい。
 ところで、お馴染みのひげ太夫は今回もいつものパターンで暴れまくる・・・のだが、今回はいささか元気がないようにも感じられたのは何故なのか。
 黄金の公式とも思えたこのワンパターンも、震災後の疲れた眼には退屈にしか映らない。
 この手法は両刃の剣なのだと気づかされる。
 私は、この劇団の主宰で作・演出の吉村やよひさんの大ファンなのではあるけれど、作者あるいは演出家の世界観に他の役者たちが奉仕するだけの舞台、と感じた瞬間にその芝居の魅力はたちまち色褪せてしまう。
 それはわが身を振り返って、まさに自分自身の胸先に突きつけられた剣なのでもある。