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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

無名ということ

2010-06-20 | 言葉
 俳優にとって、あるいは多くの芸術を志す人間にとって成功とはなんだろう。
 隠棲したいまとなってはもはやどうでもよいことのように思えるけれど、若い頃の自分は「無名」であることに拘っていた。振り返れば青臭い考えなのだが、そのことで自分のなかの純粋性に酔っていたのだ。
 成功することがマスコミに取り上げられ、映画やテレビドラマに出ることを意味するのならそんな成功はくそ食らえと本気で思っていた。オレのタマシイは売り渡さないぞというわけだ。
 しかし、観客に観てもらってはじめて成り立つ演劇(この定義には異論があるかもしれないが)にとって、無名であることはそのまま興行上の不採算を意味する。
 結局、客は自分でチケットを売りさばいて呼んだ知り合いか、コアな何百人かの固定客にとどまって広がりをもたない。
 その大半は演劇自体には何の興味もない観客ばかりだから、そうした人々を相手に媚びた瞬間、舞台は荒れ果ててしまい、そんなものを誰も評価しない。
 当然、芝居では生活ができないからバイトで食いつなぐか、誰かの世話になるしかない。そうやって、芸術上の成功という問題以前の生活に疲れてしまい、舞台を去っていった何人もの優秀な舞台俳優たちがいる。

 「語るピカソ」(ブラッサイ著、飯島耕一・大岡信訳)のなかでピカソはこう言っている。
 「芸術家には成功が必要だ。パンのためだけではなく、とくに自分の作品を実現するためにだ。金のある芸術家ですら成功しなければならない。芸術について何かがわかっている人はほんとうに少ない。すべての人に絵画への感受性があたえられているわけではない。大部分の人は、芸術作品を成功の度合いによって判断する。(中略)ぼくを守る壁となってくれたのは、私の若い時代の成功だ・・・・・・青の時代、バラ色の時代、それはぼくをかばってくれた衝立みたいなものだった・・・・・・。」

 成功とは何か、ということを明確に定義づけることは難しい。所詮それは一人ひとりの価値観の問題なのだ。
 だが、その瞬間に立ち会ってもらわなければ成り立たないパフォーミング・アーツにとって、一人でも多くの観客を集めることは成功・不成功の価値判断に直結する。

 腹話術の芸人である「いっこく堂」が何かのインタビューで、昔まだ無名だった頃、ボランティアで芸を披露したときのことを語っていた。
 ある高齢者の福祉施設かどこかでのことだ。自分ではよい出来だと手応えを感じた舞台だったのだが、ある中高年の女性から、彼がまったく「売れていない」芸人ということでその芸まで揶揄されてしまった。一方、その女性は同じ舞台に出ていたテレビに出始めのタレントの歌を絶賛したそうで、彼は「売れていなければ評価もされない」ということを思い知ったという。

 最近、小劇場といわれる舞台にもアイドル系のタレントや俳優がこぞって出演するようになった。まさに私のような化石時代の役者の目からは隔世の感がある。
 これは言わずもがなのことだが、多くの観客を集めたい興行上の要請と、そうした舞台に出ることで箔をつけたいタレント側の利害が一致したということで、それだけ演劇が認知された証左と言えなくもないのだろうが、そこには留意すべき陥穽がある。
 芸術的良心を売り渡した瞬間、舞台はお子様ランチと化してしまうからだ。

 森まゆみ氏が地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の草創期のことを書いた「『谷根千』の冒険」のなかにこんな文章がある。
 創刊したばかりの地域雑誌の広告取りや委託販売の依頼に行っては、まだまだ冷たいあしらいを受けていた頃のこと。あるきっかけでその雑誌が新聞に取り上げられ、テレビでも報道されたのだ。
 「しかし、たしかにマスコミは偉大であった。何度、私が目の前で心をこめて広告や委託をお願いしてもウンといわなかったお店が、新聞に出たとたん、『あんた新聞にでてたでしょう』と相好をくずす。『奥さんテレビ映ってたね』とあっさり信用してくれる。この権威付与装置としてのマスコミの効果はすごい。すごいというか恐い。」

 結局のところ、観客の評価を信用してはならないということだ。
 であるならば、自分のやるべきことを愚直にやりぬくしかないのではないか。

 今日の毎日新聞にジャズピアニストの故ハンク・ジョーンズのこんな言葉が載っている。
 「練習を1日休むと弾いている自分が、3日休むと妻が(技術の衰えに)気づき、1週間休むと仕事がなくなる」
 「世にピアノプレーヤーはごまんといるが、ピアニストはほんの一握りだ」
 「演奏は、一人でできるものじゃない。大きな耳で共演者の音を聴いて対話するものなんだ」

 心に刻み込みたい言葉だ。