seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

感想

2010-02-04 | 演劇
 私がお付き合いさせていただいているM先生から舞台の感想を頂戴した。
私の演技に対する評価は身贔屓の過大なものとしても、全体を語るうえでことさら私があれこれ話すよりも芝居の本質を捉えているように思うので紹介させていただくことにする。
 先生には了解を得ていないのだけれど、お許しいただけるものと思う。
 以下、引用。

 鄙見ですが、この劇で流野さんの家老腹心役は、ホンの展開に応じて、主役にもなり、脇役にもなり、解説者にもなる難しいキーパースン、作者佐藤伸之さんの苦心の人物造型で、流野さんの才知と演技力に頼ってセリフをつくり、本読みや立稽古、ゲネプロ各段階で、流野さんと話し合いを続け、セリフ回しや仕草など細かく打ち合わせて役づくりを高め深めていたのではないかと存じます。殺し確認の合図手についてお尋ねしましたのはその思いからです。

 当時庄内藩は会津と並んで官軍の標的化し刻々情勢変化する危機状況のなかで、家老腹心は、戦上手の猛将酒井主水(現実には酒井玄蕃がモデル?)の出先砦突出の危険性や厄介者化する元新選組二人の存在、跳ね上がろうとする玄武隊士衆、それを廻る民衆の気分の総体を正確に把握し、藩にとって何が状況的に最善かを考え抜く。作者演出家はその複雑な性格を描き、孤独にして苦悩し時に冷徹な智謀者の存在を造型し、劇の要所要所で独り舞台演技をさせた。そのこと自体、佐藤さんの鋭い才覚であるし、役のうえでそれを実現した流野さんの演技力共々高く評価致します。

 流野さんの腹心役は、声が良く通り、或る時は緊迫感を盛り上げ、或る時はゆっくりと冷厳なセリフ回しで、家老への進言、部下への指示と恫喝、人間としてのモノローグ、観客への政治状況の説明と、四つの局面を見事に表現しました。動きの少ない役柄でセリフが命の難役でしたが、実にドラマティックでユニークな存在感を表出しました。佐藤さんは立ち回り役、主水之介の動きの激しさと対比して、「動」の主役と「静」の主役と好一対となり、ドラマの立体感を盛りたてました。

 劇の発端で、原田左之助は、日露戦争前線に出兵、大陸で馬賊になったとの設定は、巷間に実しやかの噂から、敗者義経のジンギスカン伝説の小型バリアントとも思えました。謡曲「安宅」・歌舞伎狂言「勧進帳」での義経、弁慶、冨樫左衛門のトライアングル・ドラマが、日本海岸を北上し変形しながら、幕末庄内藩日和見砦で再発したかのごとく想像できました。酒井主水之介が弁慶役、左之助が義経役、全てを判っている冨樫は家老腹心の役、如何に義経を咎めず逃がすのか、そのようなアナロジー劇として読みとれ、娯楽劇ながら大人の観る重厚な伝統劇の深みが出ていました。史実的には原田と永倉は、京都から脱出、東北路を一時同行していましたが、この劇では永倉の個性と役回りの表現が曖昧で、食事の場面などは長すぎた嫌いがあり、中だるみになったと思えます。永倉は強すぎる剣士であり、追われる長旅の惶惑を漂わせながら、明日はどこで勢力を再興するのか、焦燥感がもっと強く表現されてもいいと思いました。それが加わると、左之助像にももっと陰翳深い存在感が出たのではと思えます。

 舞台の場面転換は実にテンポ良く、座長のホンづくりの妙、この劇団芝居の得意の技のようです。プロローグ、日露戦争戦場の場面、エピローグで留守妻まさの幻を追うセリフ顛末は好い。殺陣はイマイチでしたが、概して女優陣には着物の舞台栄えがあり声が通っておりました。役割人数の少ない劇団キャスト、スタッフの皆さん、投入時間はままならずとも、芝居好きな心情熱く創意工夫努力に溢れ、可なりの場面で劇的興趣がひしひしと伝わり、観劇後の充実感を得ました。


千秋楽

2010-02-04 | 演劇
 私が客演した劇団パラノイアエイジの睦月公演「幕末異聞 夢想敗軍記」が1月31日に千秋楽を迎えた。
 この間の経緯についてまめに記録しておけばそれなりの読み物になったとは思うのだけれど、生来のものぐさから結局正月以来この日記から遠ざかってしまった。(それだけ芝居のために使える時間はすべて注ぎ込んだということなのだ)
 11月22日の顔合わせから足掛け3か月、1年の6分の1以上をともに過ごした「仲間たち」とは深い絆が生まれたように思う。楽しい日々であった。
 残念だったのは、楽日の翌日に午前中から会議が設定されていたため、深夜からの打ち上げにほんの少ししか顔を出せなかったことか。もっともっと語り合いたいことがあったという悔いが残る。

 とはいえ、最初の頃はほとんど自分の子ども世代といってよい若いメンバーとどう接したらいいのか手探りの状態でもあった。もっともそんなことは日常生活のなかでいくらでも経験することだ。会社だろうが、商店街だろうが、あらゆる組織は多種多様な人の集合体だ。それをいかに機能させていくかというのは、あらゆる社会の普遍的課題だろう。演劇の効用はそうした課題にどう向き合うかというシミュレーションにもなり得るということだ。
 そしてその課題を劇団主宰で演出の佐藤氏は見事にクリアした。オーディション参加の大半の役者が殺陣にも和服の着付けにも所作にも素人同然であったのをそれなりの見え方に仕立てていくある種強引ともいえる力業には目を瞠らされる。
 結果、この舞台を観た人は幸運、見損なった人には「ザンネンでしたネ」と胸を張っていえる作品になったのではないだろうか。

 もっともこの芝居は私が普段接することの多い斬新なスタイルのアート作品でもなければ、社会的課題を浮き彫りにするような芸術作品でもない。あくまで娯楽活劇であることを謳った時代劇なのだが、そこには日本人の心性に根底から訴えかけるような何かがある。
 このことについてはいつかちゃんと考察してみたいと思うのだが、掛け値なしに終演後、号泣しながら帰っていったお客様が何人もいたし、多くの観客が涙をこらえたことだろう。
 私も出番の終わった楽屋のモニターで舞台の様子を見ながら、毎回胸を熱くしたものだ。こんな経験は初めてである。私の30年来の友人も開口一番「新撰組ってやっぱりいいよねえ」と叫んでいたが、こうしたことは日本人論を考えるうえで興味深い視点を与えてくれているような気がする。
 いつか機会があればちゃんと考えてみたいものだ。