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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

再び、「標的家族」について

2010-02-14 | 演劇
 雑誌「世界」3月号に同志社大学大学院教授の浜矩子氏が「死に至るデフレ」という論考を寄せている。その一部を引用する。

 「経済環境が厳しくなればなるほど、あらゆるレベルで我が身かわいさが先行する。もとより、いずれも止むを得ざる自己防衛反応だ。個別的にみれば、しごく当然の選択である。だが、誰もがその道を選んでしまえば、どうしてもお互いにお互いの首を絞めることになっていく。自分さえよければ病に人々が集団感染した時、結局は、そこに勝者なしである。自分さえよければ病にかかったもの同士が、こうして不毛な闘いを繰り広げる。」
 「誰も、決して我欲に走って自分のことだけを考えているわけではない。止むなき自己防衛行動がお互いを追い込んで行く。この流れを逆転させることが、どうすれば出来るか。」
 「(これらの病のいずれも)元をたどれば、発生源は一つだ。それは地球経済を覆う大きくて本質的な不均衡問題だ。」

 上記の文章は、リーマンショック後の地球経済の健康状態を診断した結果の症状に関する分析なのだが、これを「標的家族」の登場人物たちに当てはめて考えても驚くほどぴったりと当てはまることに気がつくだろう。
 この悪循環を断ち切り、流れを逆転させるために、私たちはどう考え、どう行動しなければならないのか。
 そうした問題のあり様を提示し、考えさせるのが演劇という芸術の力であり、その表現を生み出すための基盤となるのが「劇団」であると言えるのではないか。

 さて、「標的家族」の「劇場」(Space早稲田)で配布されたパンフレットに芸術監督:流山児祥氏のあいさつが載っている。気にかかった箇所を引用する。

 「2010年に入って日本の文化行政のあり方が大きく変わろうとしています。舞台芸術を取り巻く状況がドラスティックに、それも気になる方向に変化する(「公共」という名の大政翼賛会的意思が見え隠れする)いやな気配です。「劇団:ヒト」から公共=「劇場:ハコ」へ! とならないように演劇人は今こそ、発言・行動すべき時代である。コンクリートからヒトへ!」

 これは、日本芸能実演家団体協議会が昨年3月に発表した劇場法(仮称)の提言をはじめとする一連の動きを示しているのだろうと思われる。
 これについては2009年11月28日付の日本経済新聞に詳しく報じられていた。
 いわく、専門家が参加して地域の芸術、教育活動を活性化することをうたったもので、これ自体に異を唱えるものはいないだろう。
 ただ、劇場法の推進者の一人で、内閣官房参与となった劇作家:平田オリザ氏の次の発言を聞くと、若干の懸念がないとは言えないのだ。
 「創造する劇場と鑑賞する劇場をきちんと分けたい。30から50の拠点劇場で舞台を作る。それを鑑賞のための劇場に回す。拠点劇場は観光にも役立つ」
 11月25日の文化芸術推進フォーラムには鈴木文部科学副大臣も出席し、介護や医療など対人コミュニケーションに付加価値をつける産業が雇用を生むとの見方を示し、「劇場法はコミュニケーション教育と車の両輪」と語ったという。

 もちろん新聞報道は発言のごく一部でしかないし、真意を十全に伝えているとも思えない。鈴木副大臣の発言は政府=行政の立場からむべなるかなと思わないでもないのだが、それでも平田氏の話にはおいおい本当かよという危惧が拭えない。
 劇場の仕分けを一体誰が行うのか。それは公共劇場を中心に据えたものなのか、中小の民間劇場は対象から外れてしまうのか。創造する劇場には誰がどれだけの予算を配分し、その演目は誰が決定するのか。このことは舞台芸術の世界に意図せざる不均衡をもたらすのではないか・・・。

 劇作家である内閣官房参与が首相の演説に関与し、国民にその声をより的確に伝えようと努めることについては、むしろ私は評価する考えだった。
 しかし、「表現」の領域が政治に接近し、それを積極的に利用する・あるいは利用されるかも知れない懸念のある動きについてはより慎重に疑いをもって対処すべきだろう。
 「表現」はあくまで《個》を基盤としたものであり、一つの方向に一斉に大同団結するような時代の潮流には常に疑問符をつきつけるものでなければならないと思うからだ。