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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

移動祝祭日

2009-04-14 | 雑感
 引越しの後遺症からまだ立ち直れないでいる。書類や蔵書にたまった埃や蜘蛛の巣を払い、片付けにいそしむかたわらご近所への挨拶回りもしなければならない。人付き合いがいやだからこそ隠棲していたのに、急に陽の光を浴びたようで身体のリズムばかりか頭の回転まで妙にギクシャクしているような気がしてならない。

 世に引越し魔と呼ばれる御仁がいるが、こうした人の頭の中はいったいどうなっているのだろう。
 江戸川乱歩は晩年池袋に居を構えるまでに数十回の転居を繰り返したそうだし、かの葛飾北斎の変転振りも有名だ。思えば芸術家と呼ばれる人たちは実によく移動をする。
 けれど乱歩先生が引越しのたびにその荷物の整理に頭を悩ましたなんて話は聞いたことがない。先生は資料収集魔ではあったが、大の整理魔でもあったのだ。先生ご自身がまとめた貼雑年譜なんてその真骨頂ではないだろうか。
 怠け者には引越しは向いていない。それどころか勤勉でないものはそもそも芸術家には向いていないのだろう。

 今年の2月、新潮文庫から高見浩の新訳でヘミングウェイの「移動祝祭日」が出て、それを少しずつ読んでいる。これまで45年前に出版された福田陸太郎訳で親しまれてきた作品だ。たしかこちらは岩波書店の同時代ライブラリーに入っている。
 その巻頭の言葉はあまりにも有名である。
 「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」

 「不運」にも私はパリで暮らしたことがないが、これを比喩ととらえれば、誰だって心の奥に「パリ」のようなものを持っているのに違いない。
 そこで過ごしたこと、経験したことが心の拠り所となり、いつでもそこに帰っていける「場所=時間」のようなもの。

 今月はじめの4日、かつて手塚治虫らが若き日を過ごし、いまや漫画の聖地として伝説にもなっている東京・椎名町にあった「トキワ荘」の記念碑が建てられ、その除幕式が関係者や多くのファンの集うなか挙行されたことが大きく報道された。
 最初は記念碑と聞いていささか釈然としなかった。当の漫画家たちがどう受け止めるのだろうと疑問でもあったのだが、当日私も同じ場所にいて、関係者の皆さんが心から喜んでいるのを見て考えが変わった。
 当時編集者だった丸山昭氏が話していたが、確かに昔は「漫画文化」などという言葉などなく、それどころか子どもに悪影響を及ぼすとばかり世の親には目の仇扱いにされていたのである。学校によっては、子どもに強制的に漫画本を拠出させ、それを校庭で焼いたという話まである。まさに焚書である。
 そんな時代、トキワ荘に集った天才たちは世の蔑視を撥ね返し、互いに切磋琢磨しながら、時代を経ていまに残る傑作群を次々に生み出していった。それが今や日本が世界に誇るソフトパワーの源流となっているのである。
 「トキワ荘」が天才を輩出する「装置」としてどのように機能したかというのはとても興味深いテーマであるけれど、とりあえずここではふれない。
 それよりも、「トキワ荘」がそこに関わった人々にとって、忘れることのできない「移動祝祭日」であったということが、私にはなにより感慨深い。

 一人の手塚治虫、一人の赤塚不二夫の後ろには、ヒット作を生み出せずに挫折していった100人、1000人の漫画家たちがいたはずである。
 そんな彼らにも「トキワ荘」という叶わぬ「夢」が、ヘミングウェイにおける「パリ」のようなものとして、たとえどこに移動しようとついて回っているのに違いない。

 そう考えると何だか胸が熱くなる。

ダンスするロボット

2009-03-28 | 雑感
 人間らしい動作や対話ができるヒト型ロボットを、産業技術総合研究所が16日公表、20歳代女性の体格と顔立ちを備え、喜怒哀楽の表情も作ることができ、方向転換などの二足歩行も可能で、今月23日開幕した第8回「東京発 日本ファッション・ウィーク」でデビューしたと報道されている。
 開発費は約2億円、実用化に向け1体2000万円程度に価格を下げることを目指しているとのことである。
 新聞記事を読みながら、10年後、20年後、開発技術の進展に伴い、ロボットは私たちの生活にとって、ますますなくてはならない存在になっていくのだろうと思った。
 ロボット技術はすでに産業部門においてすでに活用され、その分野も拡大しつつあるのだが、今後は、家事援助をはじめ、介護や子育てなど人間でなければできないと考えられてきた分野、さらには心の領域にもその範囲は広がっていくだろう。
 エンタメ・ロボットも当たり前のようになって、そのうちロボットだけの音楽バンドや劇団なんてのもできるのではないだろうか。
 
 そんなことを考えていて、雑誌「シアターガイド」に掲載されていた平田オリザと飴屋法水の対談の一節を思い出した。

飴屋  そういえば平田さん、先日、あるシンポジウムで“役者なんていらない”って暴言を吐いたとか!(笑)
平田  ああ。「早くて10年、遅くて20年後には役者の半分はロボットになる」と言ったんです。というのは、この間ロボットが出る芝居を作ったんですけど、役者なしでロボットだけのシーンでお客さんが泣いてて、僕、ちょっと感動してしまって。スタニスラフスキーは間違ってたってことが証明できたわけですから(笑)。劇作家と演出家がいれば、役者の内面に関係なくお客さんは感動させることはできるんだ、と。

 平田氏の発言はかなり逆説的な意味合いを含んでいるようにも思うけれど、確かに内面の演技とか、感情の表出、個人史を背景とした表現などという言葉は今や過去にものになりつつあるのかも知れない。
 表現という行為において、役者個人の内面など何ほどの意味も持ち得ないのだ・・・。

 演劇と美術の領域は次第に重なり合いつつあると感じているのだが、そのうち役者が一人も登場しないのに観客に深い感動を与える、といった舞台作品が生まれるのではないだろうか。このことについてはもう一度深く考えてみたい。

 舞踏家の笠井叡が日本経済新聞のインタビュー記事で語っている。
 「今は音楽も映画もコンピューターで作ることができる。そうなると、もう踊るしかないよね。自分の身体でしかできないことって、ダンスくらいじゃない?」

 人間にしかできないこと、それは何だろう。それを探すために私たちは今日も劇場に足を運ぶのである。

エンターテイメントと経済危機

2009-03-08 | 雑感
 映画「おくりびと」が公開25週目にして興行成績1位となったことが大きく報道されている。米国アカデミー賞の外国語映画賞に輝いたことが大きな要因であることは確かだが、慶賀として素直に喜びたい。
 きっかけは何であれ、作品の存在が人々に広く知られ、その価値が認知されたということが重要なのである。
 このことは近年の邦画製作本数の増加がもたらした結果と見る向きもあって、確かに作品数が増えればそれだけ優れた作品が生まれる可能性も高くなる。無論ことはそれほど簡単な話ではないだろう。粗製濫造に陥ることは厳に戒めなければならないし、資金調達や市場開拓の問題、次代の人材育成など課題は山積している。
 しかし、そうした中でも、日本的感性や心性に根ざした作品が内外に受け容れられたことは何よりも喜ばしいことだ。
 反面、わが国での洋画の相対的な停滞ぶりが話題となっている。これはどういうことか。

 米大手映画会社が邦画の製作・配給に相次いで進出しているとの話がある。ワーナー・ブラザースやソニー・ピクチャーズ、20世紀フォックスの日本法人が製作委員会の一角に加わるなど、邦画に参入している。これに最近、ウォルト・ディズニーも加わったとのことである。
 これは文化帝国主義の凋落というべきか、従来のようにハリウッド映画をそのまま日本に持ち込む方式に限界がきたということであるが、別の見方をすれば、わが国の多くの観客が邦画独自の面白さや価値に気付いたことの確かな現われでもあるだろう。

 さて、かたやミュージカルの名所、ブロードウェーの話題であるが、人気作品が次々と公演打ち切りに追い込まれているとのことである。深刻な不況を受けて、娯楽費を抑える家庭が増え、観客の減少に歯止めがかからないためであり、「100年に一度」といわれる経済危機が華やかなショービジネスの街に暗い影を落としている、と日本経済新聞は伝えている。
 こうした事態への対策は次のようなものだ。
 1つは、チケット代の値引きであり、以前と比べておよそ30から50%の値下がりとのこと。また、ディズニーは大人用チケット1枚購入につき、子ども用1枚の無料キャンペーンを実施している。
 第2に、当たり外れの読めない新作よりも、実績のあるリバイバル作品を重視する戦略。
 第3が、製作費のかさむミュージカルではなく、有名俳優を起用した演劇にくら替えしてコスト減を図るという方策。
 さらに第4が、アジアを中心とした新規市場に期待して出稼ぎ公演を行い、海外市場を開拓するというもの。
 すでに演劇ガイドの雑誌などでは大きな広告が目を引いているように、「ヘアスプレー」「レント」といった作品は今年の初夏以降、日本での公演が決まっている。

 新たな収益機会を伺ったこれらの戦略であるが、不況はいずれの国においても深刻化しつつあり、すでにエンターテイメントの飽和状態にあるともいえる日本において、わが国独自の価値への目を開かれつつある観客がどのような動きを見せるのか、様々な意味で興味は尽きない。

壁と卵 アートの力

2009-03-06 | 雑感
 作家の村上春樹がイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞し、その記念講演で、パレスティナ自治区ガザ地区を攻撃したイスラエル軍を批判したことはすでに大きなニュースとして報道されている。
 この受賞そのものに批判はあって、ムラカミは辞退すべきだったとの声も根強い。
 しかし、辞退することは簡単ではあっても何も生み出さない。その地に赴き、肉声で語ることのほうがはるかに大きな勇気を要することだったろうと思う。

 その時の講演の全文が毎日新聞の2日、3日付夕刊に掲載されている。
 村上氏は「壁と卵」の隠喩を使い、小説家である自らは「卵」である「武器を持たない市民」の側に立つと語る。私たちは一人ひとりが卵であり、世界でたった一つの掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っているというのだ。
 村上氏が小説を書く理由はただ一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることであり、物語を作ることによって、個人の独自性を明らかにする努力を続けることだというのだ。
 だからこそ彼は「体制=ザ・システム」と呼ばれる壁を乗り越え、何とかして壁の向こうにいる人々の心に言葉を伝えようとしたのだろう。

 これは現実を見ないナイーブな楽観主義に過ぎないのだろうか。
 そうではないだろう。システムの中に立てこもり、壁を高くして身を潜めることのほうが安全であるに違いないからだ。しかし、システムから発せられる言葉は人々の心には響かない。
 私たちは、壁にできたわずかな隙間やひび割れの間からでも何とかして相手側の心に浸透し、響き合う言葉を見つけ出さなければならない。
 そうしたしなやかな強さを引き出し、多様な価値観や視点を提示しながら、相互に尊重しあうための対話の回路を開こうとするのがアートなのではないだろうか。
 
 5日付の日本経済新聞の「経済教室」に文化庁の青木保長官が寄稿している。その一部を引用させていただく。
 「現代日本の文化には日本社会が抱え込んだ停滞を打ち破るような力がある。
 それらに共通するのは地域社会や個人の生き方も含めて今日のローカルな場に創造性の根拠を置きながら、そこから発するメッセージが極めてグローバルに訴える力を潜めていることだ。グローバルな画一性を求めて伸展してきた市場経済の展開の仕方とは対照的に、個人や地域に場を設定してのローカルでグローバルな発信に特質がある。」

 政治体制にしても市場経済にしても硬直したシステムは壁をつくり、他を排除しようとする。システムがシステムそのものを守ることを自己目的化してしまうのだ。
 だからこそ、そうした壁を突き崩し、打ち破るためにも、私たちは常に個人一人ひとりの「卵」を大切にし、ローカルな場に根拠を置きながらメッセージを発し続ける必要があるのだろう。

ゴッホが夢見た共同体

2009-02-19 | 雑感
 さて、前稿で「協同労働の協同組合」について紹介しながら私が考えたかったのは、役者をはじめ、アーティストや芸術を志す人たちの「働く場」ということである。
 無論、めざす表現の領域で「食える」ことができればそれにこしたことはないのだ。しかし、現実においてその割合は1%に過ぎないといわれる厳しい状況のなか、何とか表現活動と日々の生活をともに成り立たせる方法はないのだろうかと思い悩むのである。

 私は単純な人間だから、クラシック音楽の演奏者をめざす若者が、例えば音楽酒場のような場で酔客を相手に楽器を演奏したり、歌を唄ったりして糊口を凌ぐことに何ら拘りを持ってはいない。
 これに対し、今年75歳になる指揮者宇宿允人の言葉は私の浅慮をえぐって胸を衝く。
 以下、昨年11月の毎日新聞のインタビュー記事から一部引用。

 そば屋で働いている演奏家がいる。バーでバイオリンを弾いている女の子もいる。「おい、ねえちゃん弾いてみな」。酔客に言われ、だんだん惨めになって、才能のある子がやめていく。自分の音楽を安売りしちゃいけない。「君たち、楽な仕事しちゃだめだ。駅のトイレ掃除とかビル掃除をやれ。帰ってから手を洗い、オーボエ吹いたり、ホルン磨いたりするんだ」
 切ないですね。
 「切ないですよ」
(中略)拍手喝采が鳴りやまない客席に孤高の指揮者は語りかけた。「年金もらってぬくぬくしているなら死んだ方がいい。倒れるまで、死ぬまで、私は闘います。どうかこのオーケストラを育ててください」

 いつだったか、私は芸術家コロニーならぬ役者やアーティストたちによる協同労働体を秘かに構想したことがある。
 商業的に成功した劇団やテレビや映像で稼ぐことのできるタレントを多数抱える劇団は別にして、多くの場合、公演活動で黒字を出して「食える」のはまだまだ希少な例といってよいだろう。
 たとえば、そんな3つほどの食えない劇団、あるいは個々の役者が集まって協同体をつくるのだ。それぞれの集団は公演時期をずらし、1つの劇団が公演中は他の2つの劇団が仕事を請け負って収益をあげ、公演中の彼らのために生活費を稼ぐという、支え合いの仕組みである。
 役者をはじめ、劇団の人間はいわば職人集団でもある。大工仕事はもちろん、電気、塗装、家具修理、運送、清掃、植木の剪定、印刷デザイン、ペットの世話、話し相手、本や新聞の読み聞かせ、ヨガのインストラクター、マッサージ師などなど、ありとあらゆることに対応することができる。
 いま、地域社会が疲弊し、人と人とのつながりが希薄化しているなかで、営利を優先する企業体では対応できない地域ニーズに応えるコミュニティビジネスの芽はそれこそ数え切れないくらいにあるのではないか。
 アーティストとしてではなく、アルチザンとして地域社会に貢献しつつ、表現者としての道を生きる。そんな生き方は果たして絵空事に過ぎないのだろうか・・・。
 
 アルル時代の画家ゴッホは「黄色い家」を拠点として芸術家コロニーをつくろうと夢見ていた。
 その構想による共同体がどれほど現実的なものだったかは分からないが、ゴッホとゴーギャンの二人の共同生活は、強烈な個性と自我のぶつかり合いが焼けつくような心理の葛藤となって、例のあまりに有名な「耳切り事件」を惹き起こす。

 労働と芸術は決して折り合うことのできない永遠のテーマなのかも知れない。ゴッホはこの問題をどう考えていたのだろうか。まさか、パトロンたる弟テオへの依存を当然視していたわけではないと思うのだが。
 それゆえの焦燥や煩悶があの傑作群を生んだとも考えられるけれど、この問題への決着がつかない限り、アーティストによる「協同組合」も挑戦し甲斐のあるテーマではありながら、彼方にある夢に過ぎないのかも知れない。

協同労働という働き方

2009-02-19 | 雑感
 アルル時代の画家ゴッホは孤独のなかで仲間たちとの共同体をつくることを熱望していた。「黄色い家」を拠点として芸術家たちが集まり、共同生活をしながら創作に没頭できる場をつくろうとしたのだ。

 そんなことを思い出しながら、働く場をつくる、ということについて考えた。

 「協同労働の協同組合」という考え方を知ったのはつい最近のことだ。ひょんなことから、この「協同労働の協同組合」法制化市民会議の勉強会に参加する機会があったのだ。
 何のことかと思われるかも知れないが、簡単にいえば「みんなが労働者で、みんなで出資してみんなで経営する仕組み」のことである。
 過日、日本経済新聞のコラムでも紹介されていたが、介護、子育てなどをはじめとする様々な分野で、すでにこの「協同労働の協同組合」の理念のもと、3万人を超える人々が働いているとのことである。
 ただし、今は法的根拠がなく、法人格が持てないために自治体が行う請負契約の競争入札に参加できないなど、活動が大きく制限されている。
 そのため、NPO法人等の形をとって活動している組合が多いのだが、NPOはその性格上収益金を配当できないといった制約がある。
 そうした制約を打破するためにも「協同労働」の法制化が必要とされ、その実現を目指す活動が活発化しているのである。国会議員のなかにも多数の賛同者がいて、超党派での議員連盟も作られているという。坂口力元厚生労働大臣を会長とし、与野党を問わずそれぞれの代表が副会長を務めるという布陣である。
 すでに法案も出来上がりつつあると言われているが、一部保守系議員の中に慎重論があることや現下のねじれた国会情勢においてこれからどうなるのか、先行きは不透明である。

 今の労働法規が労使関係を前提にしているように、私たちは職を求める「求職」や「就職」という考え方にとらわれがちだ。そうした働き方ではなく、仕事をつくり、職を担う「創職」「担職」が必要になってきたというのが、この法制化を進める市民会議会長で前連合会長の笹森清氏の考えである。
 協同労働の可能性は地域の活性化にもつながる第一次産業において大きい。また、限界集落化している地域でも、協同労働なら働く場をつくれる、と言うのだ。

 雇用情勢が悪化の一途をたどり、雇用と求職のミスマッチが問題となっている今だからこそ、「雇い・雇われる」という働き方ではない「協同労働の協同組合」の法制化が求められていると言えるのではないだろうか。

大衆演劇の冒険

2009-01-12 | 雑感
 映画「英国王給仕人に乾杯!」の中で、主人公ヤンの人生の師ともいうべき商人ヴァルデン氏が客に向かって言う売り口上・・・
 「私はファン・ベルケル社の代表。世界で最大の企業はカトリック教会です。彼らは目に見えず、手に触れないものを商う。我々が“神”と呼ぶものを。世界で第2の当社は秤を製造している・・・」
 現在世界的な大津波に見舞われてはいるが、金融市場の本質的な部分が他の市場と異なっているのは、将来の利益に関する「約束」を取引している点であると一橋大学名誉教授の今井賢一氏が書いている。
 「神」も「約束」も人々からの「信頼」によって担保されているところが似通っていると言えるのではないだろうか。

 こんな時にいつも考えるのが、芸術や芸能、エンターテインメントは何を担保として取引されるものなのかということである。
 話を思い切り単純化してしまえば、それは名声であったり、テレビに出演し、人々の前に露出しているその頻度だったり、古典芸能であればその人の家柄のようなものだったりするのだろう。
 誰しも名前も知らないような役者の出ている舞台よりは、テレビのバラエティ番組で名の売れたアイドルやタレントの出演する出し物により関心を抱くものだ。
 そのこと自体に異論もあるだろうが、中劇場以上の規模で興行を打つ場合、プロデューサーは一定以上の集客を見込めるタレントを使いたがる、というのは一面の真実であるだろう。

 いま、派遣切りなど、雇用の問題が大きな社会的関心事となっている。そうした時、大衆演劇の沢竜二が職を失った人々を対象に役者や裏方として劇団で働いてもらうという構想を打ち出し、その面接あるいはオーディションの様子がテレビニュースでも放映されていた。
 このことが果たして現実的に成立する構想なのか否かということには、いささか興味を引かれてしまう。
 そもそも昨日までまったく畑違いの職場に派遣されていた人が、いきなり大衆演劇の舞台で役者を務めることができるのだろうか。彼らは何を担保として大衆から木戸銭を得ようというのか。

 翻って、このたびの金融危機の最大原因とされるクレジット・デフォルト・スワップ(CDU)は、格付け機関の格付けを鵜呑みにして流通する商品となったことで「信頼」や「約束」が反故にされ、詐欺的で「ねずみ講」的なものに変質してしまった、と言われる。
 いまや旧来の「信頼」は価値を失ってしまったのだ。
 そんな変質の時代に今さら何を信頼しようというのか。価値観が引っくり返ってしまったような時代だからこそ、どんな出自をもった人間だろうが、無名だろうが、舞台は誰をも吸引するブラックホールと化して人々を魅了しようとするのではないか。

 昔よく通った大衆演劇の芝居小屋では、さっきまで切られ役をしていたおじさんが、白塗りのまま舞台袖でスポットライトを操作する照明係に早変りしていたりする。あるいはその人は昼間、芝居小屋の二階の窓から洗濯物を取り込んでいたはずだ。そんなおじさんの後姿を見ながら、この人は一体どんな人生を歩んできたのだろうと考えたりしたものだ。
 そこには生活の匂いと非日常の暮らしとが違和感なく結びついて息づいている。そんな芝居小屋の空気が私は好きでならない。
 大衆演劇の舞台にはそんな何もかもを受け入れる度量の大きさのようなものがあるのだ。
 座長・沢竜二の挑戦に快哉を送ろう。

観客論

2008-12-15 | 雑感
 ピランデリロの「山の巨人たち」では、観客に見放された劇団員達は山奥への遁走を余儀なくされた。登場人物のコトローネは言う。「芝居は観客に理解されない」と。
 大衆とはなんだろう。観客とはなんだろう。

 12月6日の毎日新聞夕刊での役者梅沢富美男のインタビュー。
 「ピンスポットの当たった役者がとうとうとこむつかしいせりふを語る、気持ちいいけど、それは単なる自己満足で。毎日、お客さまの色は違う。泣かせてくれよ、とか笑わせてくれよ、とか。それを見極める。いい芝居だったね、と言われると、次の日の入りは少ない。面白かったね、と言われると、次の日は満タンになる。お客さまは怖いんですよ」
 「兄に教えられた哲学がある。<10人客呼んだら、3人帰しな>。70%を満足させる芝居が大衆演劇だ、と。」
 私(筆者)がまだ若造だった昔、梅沢武生座長のこんな話を面白いなあと思って聞いた記憶がある。
 「お客というものは満腹してしまったらもう次の日は来てくれない。腹七分目くらいの芝居で帰っていただくのがコツだ。そうするとまた来てくれる」
 その日の客の入りがそのまま食い扶持にかかわる真剣勝負のなかで磨かれた知恵には瞠目させられる。

 同じく毎日新聞夕刊、12月9日での宮城聰(静岡県舞台芸術センター芸術総監督)のコラム。
 「・・・公立の劇場に専属劇団があり、その劇場を専属使用するというのは、考えてみればヨーロッパなどでは当たり前のことだ。パリのコメディフランセーズに見にいってみたら、その日は貸し小屋の日で、どこか別の団体がコメディフランセーズを賃借して上演していた、なんてことはあり得ようはずもない。(中略)
 ・・・従来の日本の公立劇場は劇場を賃貸する収入を大きな財源としてほそぼそと自主事業を回してきたわけだが、そういう環境では『文化政策』と呼ぶに値するものは現れないだろう。そこではシビルミニマムとしての文化が行政によって給付されるだけであって、文化によって積極的に社会を変革したり、地域のアイデンティティーを構築したりといった『文化政策』とはまるで別物である。」

 宮城氏はこれを初代芸術総監督だった鈴木忠志のはかりしれない努力によって実現したSPACこと静岡県舞台芸術センターの「真の公共劇場」としての在りようを紹介するなかで述べているのだが、この発言を先ほどの梅沢富美男の話と比較すると実に興味深い。
 もちろんこれはどちらが正論などということではなく、それぞれが属する世界観がまるで異なる次元にあるということなのだ。それぞれが正しく、真理であろう。
 ただ、これは批判ではなく(宮城さんは私も大好きな人である)感想として言うのだが、宮城氏の語る公共劇場の観客の姿が私には今ひとつ鮮明なものとして浮かんでこないのだ。
 劇場に訪れる年間何万人かの観客のほかに、何倍もの人々=演劇に無関心な住民が税金によって劇場と専属劇団の存続を賄っている。
 その存続を住民の何割くらいの人々が本当に支持しているのか。その支持を獲得するための行政との調整や議会への説明責任は、公共劇場に関わる者すべてに課せられた命題でもある。文化による社会変革とは何なのか、公共劇場によって地域のアイデンティティーはいかに構築され得るのか、芝居ははたして観客に理解されるのか・・・。

 かたや下町の小さな芝居小屋に娯楽を求めて訪れるおばちゃんやおじちゃんたちが乏しい小遣いの中から払う木戸銭によって日々の食い扶持を賄ってきた梅沢の言葉はしなやかで強い。
 これらを比べること自体が無意味なことかも知れないとは思いつつ、興味は尽きない。

リーマンショックとアート

2008-10-29 | 雑感
 10月25日の日本経済新聞朝刊文化欄に「金融危機、文化にも波及」「しぼむアジアの美術市場」「大口支援打ち切りで・・・国内オーケストラに影響も」といった見出しが踊っている。
 記事によれば、米国証券リーマン・ブラザースが経営破綻した4日後の9月19日、韓国ソウルで開幕したアートフェア(見本市)「KIAF」は、資金収縮の衝撃に見舞われ、出店した画廊全体の売上げが昨年より2割以上もダウンしたとのこと。
 一方、アートバブルがしぼみ、当面は痛手には違いないが、これは正常な調整局面に入っただけのこととの冷静な見方もある。本来の美術愛好家にとっては作品が買いやすくなることと、作品を買うことで芸術を支援するという文化を確立している欧米のコレクターは必ず戻ってくるとの期待である。
 欧米金融機関のメセナ活動は今後どうなっていくのか。
 紙面では、資金難によりアイスランド交響楽団の来日公演が土壇場で中止になったことや、リーマン・ブラザースから支援を受けていた東京都交響楽団の現状にもふれ、今後の運営難が懸念されるとしている。
 これらのことは、すでに多くの文化芸術活動が企業や国、自治体からの支援を受けることによってようやく成り立っているという現状において、対岸の火事どころではない、すぐ目の前に迫った危機といってよいのかも知れない。
 今後、景気の後退局面がより鮮明になるにつれ、財政の縮小が文化部門の経費削減に直結することは明らかだからだ。
 もっとも、美術市場のいわゆるバブル崩壊に対して、あまり同情を感じるというわけにはいかない。
 それは、芸術的価値を経済的価値に転換することによって、作品を投資対象物として私たちの手の届かないところに持ち去った末のドタバタ劇に過ぎないと思えるからだ。作品そのものが持つ芸術的輝きや作家の創造行為とそれは何ら関係のない次元の話だからである。
 懸念すべきは、交響楽団の運営である。子どもたちを対象に気軽に音楽を聴いてもらう活動や、安価なコンサートも支援あってのことという現状においては、そうした場の提供や楽団の存立そのものが危ういと言っても過言ではない事態なのだ。
 私たちはどうすればよいのか。まずはコンサート会場に足を運び、彼らの音楽に耳を傾けることから始めるしかないのだろうけれど。