いとうな日々

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フセイン元大統領:死刑執行 「人道に対する罪」で

2006-12-30 | ニュース
毎日新聞より

イラクのイスラム教シーア派住民殺害事件で死刑判決が確定したフセイン元大統領(69)を、イラク政府は30日午前6時(日本時間同日正午)ごろ、バグダッドで絞首刑に処した。24年間にわたり同国を独裁支配してきた元大統領は、03年のイラク戦争を経て「人道に対する罪」で裁かれた。米国の影響下で行われた裁判の正当性には疑問がつきまとい、旧フセイン政権を支えたイスラム教スンニ派の反発は必至だ。シーア派が主導するイラクのマリキ政権や米国は死刑執行で治安情勢が安定することを期待しているが、泥沼化している宗派間対立にいっそう拍車がかかる恐れがある。

中東の衛星テレビ「アルアラビーヤ」によると、米軍施設に収容されていた元大統領の身柄は午前5時半ごろ、バグダッド北部カドミヤ地区の旧軍情報部施設(現イラク軍施設)でイラク政府側へ引き渡され、同施設内で死刑執行された。元大統領はイスラム教の聖典コーランを手に、ずきんの着用を拒否して絞首台に向かったという。執行や遺体の様子は国営テレビなどで放映された。

元大統領は11月5日、イラク中部でシーア派住民148人が殺害された「ドジャイル事件」(82年)でイラク高等法廷から死刑判決を受け、今月26日に確定した。執行命令書にはマリキ首相が署名した。元大統領とともに死刑が確定していたイブラヒム元ジュネーブ国連代表部大使らは30日は執行されなかった。

元大統領の死刑執行を受け、マリキ首相は「追放された体制(旧フセイン政権)の支持者が自らの立場を再考し、すべてのイラク人のためのイラク再建を支援するよう望む」との声明を出し、元大統領の支持母体だったバース党の残党やスンニ派武装組織に和解を求めた。

フセイン元大統領はアラブ社会主義を掲げるバース党の要職を歴任後、79年7月に大統領に就任した。政敵を排除し、シーア派やクルド人を弾圧する恐怖政治で独裁者として君臨してきた。03年3月のイラク戦争でのバグダッド陥落(03年4月)後、同年12月に北部の故郷ティクリート近郊で潜伏しているところを米軍に拘束された。

◇サダム・フセイン元大統領 1937年4月28日、イラク北部ティクリート近郊の村に生まれる。カイロ法科大卒業。57年にアラブ社会主義政党バース党に入党。60年にカセム政権から死刑判決を受けカイロで亡命生活を送る。その後、帰国し逮捕されたが、68年にバース党と軍部が起こしたクーデターで指導的役割を果たし、69年に革命指導評議会副議長に就任。79年7月にバクル大統領の引退を受け大統領に就任、石油収入を基に社会基盤や教育環境を整備する一方、反体制派を弾圧した。湾岸戦争(91年)後に国際的孤立を深め、イラク戦争(03年)で政権の座を追われた。

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新たな対立の始まり? 既に内戦状態にあるイラク国内で、さらにスンニ派とシーア派の対立が激化するのではとの懸念が広がっている。アメリカの論理が通用しない国々が尚この地球上には存在する。イラク国民は本当にアメリカの言う「民主化」を望んでいたかどうかは疑問だ。単にアメリカの戦争ごっこの犠牲になった可能性が高い。金正日が考えるように「イラクは核を持たなかったからアメリカに攻撃された」ということかもしれない。
サッダーム処刑

30日日本時間正午ころ、サッダーム・フセインが処刑されたとの報道があった。一時代の終わりに他ならない。しかも、米軍管轄下のバグダード市内グリーン・ゾーンにおいてイラク政府の手により執行されたらしく、これは、イラク戦争後の構図を明確に示しているようで、興味深い。

90年5月、バグダードで開催されたアラブ首脳会議において、サッダーム・フセイン大統領は満面の笑みで演説を行った。イラン・イラク戦争に「勝利」してアラブの東岸をイスラーム革命から「防衛」したサッダームは、アラブの盟主として地位を確信していた。

その年の8月、サッダームは肥大化した軍をクウェートに向けて侵攻させ、国際社会から孤立し、米国をはじめとする国際社会や多くのアラブ諸国から吊るし上げられた。サッダームはアラブの大義を振りかざし、イスラエルを標的とすることによりアラブ大衆の同情をひいたが、圧倒的な多国籍軍の前に敗北し、国連の厳しい経済制裁下に置かれた。わずか3ヶ月の「我が世の春」であった。

その後のイラク戦争に至るストーリーは日本でもなじみ深いはずである。サッダームは「諸悪の根源」とされ、米軍の侵攻の口実となった。2003年4月の戦争中にアーザミーヤ地区に姿を現したサッダームは大衆の歓喜に応え、その後、2名ボディガードと共に逃亡生活を続け、この年の12月、「プレジデンシャル・スイート」と米軍に呼ばれたあばら家近くの壕から引きずり出された。

その後、人道の罪に問われてイラク高等法廷で訴追されたサッダームは、大統領を演じきって絞首刑の露に消えた。

サッダームはあらゆる面でイラクを象徴し、恐怖政治を体現した存在であったがために、イラク人に与えた衝撃は小さくないはずである。この処刑をもたらした判決は、3つの側面を有しているようである。
 ○ 元大統領の人道上の罪が裁かれた
 ○ 宗派・民族対立が深まる中で、シーア派やクルド人に対する抑圧が裁かれた
 ○ 旧政権の悪しき秩序が裁かれた

戦後、スンニー派が米軍等の標的となり、疎外される中で、サッダームはいつの間にかスンニー派抵抗運動の象徴となった側面がある。権力や金をばら撒かずともサッダームが祭り上げられたのは、皮肉なことにこれが初めてのはずである。逆に、サッダームの処刑はシーア派やクルド人の溜飲を下げることになった(クルド人に対する罪が法廷で裁かれる以前に処刑されたことに対する不満は残ろうが)。このような感情が表に出る場合、サッダーム処刑はすでに深刻化している宗派・民族対立を激化させ、報復の連鎖の基盤を提供することになる。

国民の信を得られないイラク政権から見れば、無法者の象徴であるサッダームを法の下に裁き、処刑台の上で「屈服」させることは、新時代の幕開けと新政権の正当性を訴える上で、きわめて重要であろう。また、イラク政策の誤りを認めざるを得ず、イラク戦争の大義が問われている米政権としては、サッダームの処刑は米有権者に唯一示すことが出来る「前向きな進展」となるはずである。

サッダームの処刑は、このように強い政治色を伴っているが、旧バアス党勢力の報復を含め、宗派・民族の対立感情は強まるに違いない。政権としては、処刑のプラス面を強調し、いかに事態を収束させるかが問われることになる。その一方で、高まるであろう宗派対立が組織的なうねりとして永続する可能性は高くないように想われる。旧政権の枢要によるテロ活動は、2004年時点よりも後退しているため、処刑を契機として高まる宗派・民族対立感情が組織的に糾合される基盤が存在しないからである。

いまひとつ忘れてならないのは、アラブの反応である。米国の管轄下に置かれ続けたサッダームは、アラブ世界の一部で反米抵抗運動の象徴になっている。イラク人よりもサッダームの圧制に対する反感が薄いアラブ・イスラーム世界では、サッダームの処刑が反米運動を盛り上げる可能性がある。特に、メッカ大巡礼の一連の行事が始まる数時間前に処刑されたサッダームに対する感情は、宗教的に高まるかもしれない。巡礼が終わった後の大祭では、多くのイスラーム教徒が集い、共通の問題を語り合う。この時期は、政治的に機微であり、処刑により高まる感情が増幅される懸念が強い時期である。

諸悪の根源サッダーム政権が転覆され、拘束されれば、世界はよくなり、イラクは別世界となるはずであったのかもしれないが、この期待は実現されなかった。元大統領の処刑は大きなインパクトを残すであろうが、イラク問題の根源は別なところにあることを忘れてはならない。サッダームの処刑にかまけて、イラク問題への取り組みがおろそかになれば、処刑がもたらす負のインパクトがより強調されることになるかもしれない。

(大野元裕氏:Wewomuiteblogより)

大野元裕(おおの・もとひろ)
(財)中東調査会上席研究員。1991年の湾岸戦争勃発時には、イラクの日本大使館で専門調査員としてイラク政府をウォッチしてい た。NHKニュースなど各メディアで中東情勢について解説。現場経験と知識に基づいた、分かりやすい解説・コメントに定評がある。


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