プロ野球界の巨星がまた1人いなくなった。中日、ロッテなどで強打者として活躍し、史上初めてセ、パ両リーグで首位打者になった江藤慎一氏が28日午後3時38分、肝臓がんのため、東京都内の病院で死去した。70歳。気迫をむき出しにするプレースタイルから「闘将」と呼ばれた中日の代表的な強打者だった。
昭和のプロ野球を沸かせた豪傑は70年の生涯を静かに閉じた。
晩年は病との闘いだった。99年に肝臓を手術。03年夏に脳こうそくで倒れてからは入院生活が続いた。ここ数年は容体も安定していたが28日午後になって急変。前日夜から同日午前にかけて、巨人、中日で活躍した弟・省三氏ら弟たちが相次いで見舞ったのが、弟たちとの別れとなった。
江藤氏は、4人兄弟の長男として生まれ、1959年に中日に入団。1年目からフル出場。どんなボールでも左に引っ張る豪快な打撃で頭角を現し、64、65年に連続首位打者。巨人・王貞治一塁手(現ソフトバンク監督)の3冠王を連続して阻んだことを「野球人として最大の誇り」と喜んだ。当時の水原茂監督との確執から中日を退団すると、ロッテに移籍。ここでも首位打者となり、日本シリーズではV9巨人と対戦した。
史上初の両リーグ首位打者として一時代を築いた男は、どんぶりで日本酒を飲み明かしても翌日に平気でプレー。野球の鬼とも形容され、一塁へのヘッドスライディングなどスタイルも豪快そのものだった。郷里・九州に戻った太平洋では外野手兼監督として“山賊野球”を率いた。バットをズボンの後ろポケットに刺してチームの先頭に立ち、平和台球場を大いに沸かせた。
引退後の85年には、伊豆半島にある静岡・天城湯ケ島に野球塾を設立。アマ球界に身を置いたが、中日ドラゴンズへの愛情は深く、「(1軍の)監督は無理でも、2軍の打撃コーチになれたら…。ドラゴンズの若い人を教えたい」と語り、指導者として古巣・中日に戻りたいという夢を抱いた時期もあった。
長い闘病生活となったが、豪快な九州男児は、弱ったところを見せたくなかったのだろう。親族以外はほとんど病室に入れなかった。プロ野球関係者で病床を見舞ったのは親しかった江夏豊氏(阪神、西武など)ら数えるほど。衰えてもなお気骨あふれる生き方を貫いた。波瀾(はらん)万丈の人生は、最後まできらめいていた。
【江藤慎一(えとう・しんいち)】 1937(昭和12)年10月6日生まれ。熊本県山鹿市出身。熊本商-社会人の日鉄二瀬を経て、中日に59年入団。プロ入り後は捕手から野手に転向し、中日では1年目から130試合に出場するなど活躍。64年から2年連続で首位打者を獲得。69年に1度は任意引退を表明したものの、翌70年にロッテに移籍。71年には再び首位打者となり、史上初の「両リーグでの首位打者」を獲得。72-74年は大洋、75年が太平洋、76年がロッテと渡り歩き、75年の太平洋では選手兼任監督。現役引退後の85年には静岡・天城湯ケ島に「日本野球体育学校」(江藤野球塾)を設立。業務提携した社会人チームのヤオハンジャパンを都市対抗出場にも導いた。プロ通算2084試合、2057安打、1189打点、367本塁打、打率2割8分7厘。
日本のプロ野球はキャンプインして丸2週間を経過した。一方米大リーグも、バッテリー組みから徐々にキャンプインである。そんな中、メジャーの草分け野茂英雄が復帰をかけてキャンプインしている。
ロイヤルズ野茂英雄投手(39)が、ひじに負担がかからないフォームに修正を加え、3年ぶりとなるメジャー復帰へ第1歩を踏み出した。招待選手としてキャンプイン。メジャー1年目の背番号「16」をひっくり返した「91」でスタート地点に立った。
「(右ひじを故障した)2年前より調子はいいです。ずっとリハビリをしていましたが、ただメジャーリーグでプレーしたい、それだけでした」。
先発5人枠はメッシュら3人までが確定。残り2枠をトムコ、マロースら実績のある選手と争う厳しい条件に変わりはない。「やることは自分で分かってますし、しっかり結果を残して、メジャーに残ることしか考えていません」。「1番は先発ですが、特にこだわってはいない」とも話した。さらに「トルネード投法」も、少しヒジを下げるフォームに修正。「なるべく肩・ヒジに負担をかけないようにしたい」と改良を加えた。
ヒルマン監督も、野茂に対して最大の敬意を示した。「彼は米国の歴史の中でもっとも勝った日本人選手。日本人はみんな誇りに思っているし、彼のプロ意識はすばらしい」。「彼の決め球であるフォーク」を合否のカギに挙げた。
背番号は「91」を選択した。その意図について野茂自身は「ないです」と否定したが、メジャー入りした当時の「16」を逆さにしたもの。「野球をするのが好きですし、野球をするならメジャー。それだけです」。95年ドジャーブルーでデビューした野茂が、13年後、ロイヤルズブルーに身を包み、再起へのスタートを切った。
脳梗塞(こうそく)によるリハビリ中の巨人長嶋茂雄終身名誉監督(71)が10日、04年3月に倒れて以来、初めてテレビカメラの前でインタビューに応じた。この日放送されたNHKスペシャル「闘うリハビリ・あなたはここまで再生できる」で、4年前を振り返りながら「やったこと自体分からない」「ショック、ショック」「何をしているか分からない」など、心境を語った。
僕らは長嶋茂雄に憧れた(You Tube)
引退セレモニー(You Tube)
僕らは長嶋茂雄に憧れた(You Tube)
引退セレモニー(You Tube)
やはり、ただ者ではなかった。注目の高校生ドラフト1巡目、日本ハムの中田(大阪桐蔭)が、プロ初の対外試合となった阪神との練習試合で、いきなり場外本塁打。長距離砲の資質を存分にみせつけた。
五回の第2打席だった。カウント1-3から3つファウルで粘った8球目、阪神の左腕・筒井の内角直球をとらえると、打球はあっという間に名護市営球場の左翼席を越え、場外へと消えた。
推定飛距離130メートルの特大弾に「飛び上がりたかったけど、練習試合なので…」とガッツポーズを封印。淡々とベースを回ったが、ベンチ前で梨田監督らに出迎えられると笑みがこぼれた。
この打席「まだ変化球をねらい打つ技術はない。真っすぐならフルスイングできる」と18歳に迷いはなかった。「うまく体全体を使った回転で打てたね。太めの体が細く見えるほどしなやかさがあったよ」と指揮官も文句なしの一発だった。
第1打席では久しぶりに、バットを担いで胸を反らすカブレラ(現オリックス)ばりのポーズを見せた。「少し猫背気味だったのを直すため」と自己分析も怠りない。
梨田監督は中田を三塁手としてじっくり育てる意向だったが、試合後には休養日明けの14日から一塁の練習もするよう本人に通達。怪物が開幕レギュラーに一歩近づいた。