自由広場

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石川さつき著「村八分の記」(現代教養全集第11集より)

2012-12-20 13:24:17 | きままに一冊。
仕事の関係上で借りるに至りました。


昭和34年に出版された全集で、だいぶ年季の入ったものでした。貸し出しも昭和49年以来だそうで、本書は久々に外の空気を味わったようです。この本に眠る思念は、今の世を見てどう思ったことでしょうか。

「村八分」とは差別用語のようですが、ここでは知識の記憶やオリジナリティの尊重という意を兼ねて、そのままの言葉を使っていきます。また現在は入手困難なものなので、多分に本書の言葉を抜粋しようと思います。

「村八分」の由来にはいくつかあります。火事と葬儀という、放っておくと周りにも迷惑がかかる二つの事(二分)以外、一切村との係わりを立つ、という説が有力だそうです。つまりは「村から爪弾きにされる」という、とても閉鎖的で時代錯誤な意味を持つ言葉です。しかしこれは今もなお強く根を張っていると言われます。残りの八分についても調べると出てきますが、後付けの感がぬぐえません。あくまでイメージ的な言葉なんだと思います。




1952年に起きた、村八分にまつわる事件。「静岡県上野村村八分事件」と呼ばれるもので、調べていただければ概要はつかめるかと思います。詳細についてはここでは控えます。

一人の勇気ある少女が、自村で平然と行われている不正選挙を告発したことで、村八分にされてしまいます。

すべて事実。

「なんだ昔の話じゃないか」と一笑に付すには、あまりにも生々しく看過できない事件です。小さな村での不正選挙を発端として、真相は深く広くあらゆるものを巻き込んでいきます。世の闇を読みとく気分です。


「”長いものに巻かれろ”という事なかれ主義の冷たい態度に囲まれ”正しい孤立”を守る石川さん(本書より抜粋)」は当時まだ高校生。新聞社に宛てた手紙や、中学当時の学校新聞に掲載した記事などは、大人が読んでも舌を巻くでしょう。こんなすげぇ学生が当時ゴロゴロいたのか、それとも石川さんが飛びぬけていたのかわかりませんが、若い力が世を動かしていく、その原動力の強さを再認識するには十分すぎる人です。


読んでいく内に、様々なカテゴリの今昔を感じます。

ジャーナリズムの今と昔。
農村の今と昔。
学校の今と昔。
選挙の今と昔。
警察の今と昔。

しかし、時代は違えど、その本質に違いはないかと。いくら技術が進もうと、真実を見抜くための目を養おうと、長いものに巻かれろ主義に傾く性質は変わらないかもしれません。信念や勇気を持ち、孤であっても戦い抜くのは、大変なことですね。


「これまで終始一貫してこの事件をつらぬいているものは、もっと深いものであるような気がします。そうなるとそれは上野村事件にかぎられたことではないでしょう。世の中の深いしくみです。そのいちばん大切なところを、たいへんまちがったものがおさえているような気がするのです。そのものの正体を、ほんとうに明らかにしたいと思うのです。わたしひとりではなく、すべての若いものの努力が、そこへそそがれなければいけないと思うのです。(本書より抜粋)」


今年は例年よりもあまり本を読めませんでした。たくさんの人に読んで欲しいとか、感想を書かずにはいられないとか、お勧めしたいとか、そんな気持ちにさせてくれる本にもあまり出遭えませんでしたね。唯一この一冊くらいかもしれません。ちょっと物足りない一年だったかなあ。

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