今回は、音楽記事です。
先日このブログで、音楽批評記事として、美空ひばりの「一本の鉛筆」という歌を紹介しました。
これと似たようなタイトルで、坂本九の「エンピツが一本」という歌があるんですが……これは浜口庫之助による曲です。
浜口庫之助――
戦後の昭和歌謡を代表するコンポーザーの一人といえるでしょう。
最近このブログの音楽カテゴリー記事では、古関裕而、服部良一、古賀政男と、昭和前半に活躍した作曲家について書いてきました。
ここで時代をほんの少し進めて、浜口庫之助の曲について書いてみようと思います。
紹介するのは、守屋浩の「僕は泣いちっち」という歌です。
浜口庫之助が、作詞・作曲家として活躍する第一歩となった曲といえるでしょう。
浜口は、自分自身も演奏し歌うアーティストで、プレイヤーとして紅白に出場したこともある人ですが、いまではコンポーザーとして広く認知されています。その出発点に位置するのが、「僕は泣いちっち」でした。
「泣いちっち」「行っちっち」という“ちっち言葉”の斬新さは、作詞・作曲を一人でやっているからこその発想。
その斬新さもあって、この曲は50年代末における大ヒットとなったのでした。
また、この曲に関しては、歌っている守屋浩という人も日本歌謡史における重要人物です。
じつはこの方はつい二か月ほど前に亡くなってるんですが、その追悼記事などに、すごい経歴が紹介されています。
そもそもの出発点は、ロカビリー歌手。
50年代半ば、アメリカでエルヴィス・プレスリーが現れたのに呼応して、日本でもロカビリーブームが巻き起こります。それが頂点に達したのが、58年に始まった日劇ウェスタン・カーニバルで、守屋浩もそこでデビューを果たしました。
そして、この人は、ホリプロのタレント一号でもあります。
日劇ウェスタン・カーニバルを取り仕切っていたのが堀威夫で、この人は同じころに堀プロダクション(現・ホリプロ)を創設。守屋浩は、その最初のタレントとなったのです。
その後ホリプロの社員となり、タレントスカウトキャラバンのスタートにも関与。
ホリプロタレントスカウトキャラバンといえば、第一回の榊原郁恵にはじまり、井森美幸、深田恭子、平山あや、石原さとみ、足立梨花、小島瑠璃子……と、名だたる女性タレントを輩出してきたオーディション。その創設に、守屋浩もかかわっていたのです。
また、その後も、ホリプロの新人指導に長くあたっていたといいます。
こうしてみてくると、守屋浩は日本の戦後大衆歌謡において、陰日向で活躍してきたといえるでしょう。
浜口庫之助と、守屋浩――日本歌謡史における二人の重要人物が交わる地点にある「僕は泣いちっち」。これは、見過ごすことのできない重要な一曲なのです。