ロック探偵のMY GENERATION

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古井由吉『夜明けの家』

2017-11-19 17:31:17 | 小説
先日『アメトーーク』が読書芸人の回で、古井由吉さんの著書が取り上げられていました。

私の作風からすると意外に思われるかもしれませんが、実は私は、小川国男さんや古井由吉さんの作品が結構好きだったりします。

で、調べてみると、古井さんは今日が誕生日だそうなんですね。

そこで、たまには小説のことも書いたほうがいいんじゃないかということで、今回は古井さんの『夜明けの家』という短編集を取り上げたいと思います。

 

古井由吉さんといえば、なんといってもあの印象的な文章ですね。

たとえば、「通夜坂」という短編は、こんなふうに始まります。


 自分から見ようとすべきことではないのだ、と道原は話を切り上げた。見ようとしてもまた、見えないことだから、と私はその意に添った。いや、見てしまうことはある、としかし道原は答えた。あるはずなのだ、あったはずなのだ、と繰返して黙った。
  何を話していたのか、道原にたずねて確かめるすべもなくなった。格別の話ではなかった。暮れ方に駅前で落合って通夜の寺まで歩いて向かう十五分ばかりの道のことで、それまでに二年近く顔を合わせていなかったので、仔細な話にもなりようがない。故人の噂はすぐに尽きた。その夏、私は喪服をしまう間もないほど不祝儀が続いた。同じくだと道原も苦笑していた。お互いに五十代のなかばにかかっていた。


途中「ない」という形が一回ある以外は、すべての文が「~た」という言い切りになっています。これは、きちんと文章として成立させるのは難しいけれど、うまくできれば絶妙な文章になる高等テク。この高等テクが、きっちりきまってます。
そしてもう一つ気づくのは、書かれている内容が追想の流れに沿っているらしいこと。
書く内容をリストアップして整理して書いたら、情報を提示する順番はもっと違ったものになるでしょうし、もう少し詳しく説明したり、文の間につなぎが入ったりするでしょう。そこをあえて、こういうふうに書くわけです。
そもそもこの箇所、話の冒頭部分としてはなんだか唐突なようにも思えますが、こんなふうにはじまるところもまた、独特な文学世界を構築する要素でしょう。
で、その後でもう少し詳しく説明してくれるのかというとそうでもありません。作品全体を通しても、筋道だった構成はありません。過去のいろんなできごとが断片的に描かれています。
表現を研ぎ澄ましていくと、構成を放棄せざるを得ないという例でしょう。
こういうスタイルを、石川達三は“朦朧派”と評したそうですが、言葉で表現できないものを表現するためには、そういうふうにならざるをえないのだと思います。そこに迫っていくがために、古井由吉さんの文章は、言葉ではうまく言い表せない印象を残すのでしょう。

その鋭い筆致は、時代にもむけられます。

たとえば「道草」では、こんな一節があります。

――おそれも知らぬくせに、追いつめられると、もろい。年々、人がもろくなっていく。苦しむ力から、まず失せる。ただ騒ぐ。それから、昨日までは騒いでいたのが、物を言わなくなる。
――大勢、死んだのか。
――物を言わなくなるのも一時だ。たいてい、まだ生きている。気もつかずに。

これは、バブルで浮かれる世相のことを書いたものかと思われます。

この作品集は1998年に発表されたもので、バブル崩壊の残響が聞こえるようです。

時代におもねらず、流されず、透徹した目で世の中を見る……そういう仙人的というか、文学職人的なたたずまいが見えてきます。


古井由吉さんは、今日で80歳になられるそうですが、先日の『アメトーーク』に新刊が取り上げられていたとおり、いまでも現役で活動しておられます。また、世代的にかなり離れた後輩の作家たちとコラボったりもしてこられました。どこまでも追求をやめない、孤高の求道者……文学界のヴァン・モリスンというか、そういうレジェンド的存在なのです。