むらぎものロココ

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ニコラ・プッサン

2005-07-18 13:52:16 | アート・文化
poussin

  
 
 
 
Nicolas Poussin
「ニンフとサテュロス」1627
Nymphe endormie surprise par des satyres



バロック。規範からの逸脱。境界線の横断。それは絵画空間と現実空間を区別しない。
ベラスケスの「侍女たち」を見てみよう。それは、ゴダールの映画「勝手にしやがれ」でジャン=ポール・べルモンドがふいに観客の方に向かって語りかけたように見る者を巻き込むだろう。

ニコラ・プッサンは、1624年にイタリアに渡った。最初はバロック風の絵画を描いていたが、古代の彫刻や建築、あるいはレオナルドの「絵画論」やラファエロの絵画に学び、色彩やタッチといった感覚的なものよりも正確なデッサンと明快で秩序だった構図といった理知的なものを重視した厳格な古典様式を完成に導いた。
その過程は、ラシーヌが言葉によって身体を抑圧したように、自らの狂おしい欲望を古典的な描線と構図によって封じ込めたかのようだ。カオスの秩序化によって永遠の真理を見い出す?しかし、それがすでに手なずけたものとの戯れでしかないとしたら?あるいは、プッサンに隠されたバロック性をこそ、彼の本質であるとすること。これは?

たとえばニンフの下腹部に当てられている薄い布をめくり、にんまりとした表情を浮かべているサチュロスを見てみよう。
しかし、ニンフの無防備な肢体は、そうされることをあらかじめ知っていたかのようだ。そこでは侵犯は擬態でしかなく、隠されたものにこそ真理を見い出そうとするドラマは、あらかじめ決定された戯れでしかなくなっている。どこまで引き剥がされようが、表層でしかないことを知っているニンフ。サチュロスは自分の見たものが、隠された真理であると思い、喜んでいるのだろうか?だとしたら彼はこんな言葉を吐くだろう。

「宇宙のとざされた本質は、認識の勇気に抵抗しうるほどの力を持っていない。それは認識の勇気のまえに自己をひらき、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにせざるをえないのである」(ヘーゲル「小論理学 聴講者にたいするヘーゲルの挨拶」)

しかし、そこには閉ざされたものなど最初からなかったのだと言っていい。そしてサチュロスもそれを承知で戯れているのだとしたら?


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