Honore de Balzac(1799-1850)
オノレ・ド・バルザック「知られざる傑作」(岩波文庫)
バルザックの「人間喜劇」は「風俗研究」と「哲学的研究」そして「分析的研究」の3部からなり、「知られざる傑作」は「哲学的研究」に属する。ここに分類される小説では、「セラフィタ」を除き、絶対の探求にエネルギーを蕩尽し、やがて崩壊するに至る人間が描かれている。
「知られざる傑作」は、まだ何者にもなっていないみすぼらしい身なりの青年ニコラ・プッサンが、アンリ4世に仕える宮廷画家だったポルビュスの家の前で、ためらいながら行きつ戻りつしているところから始まる。するとそこに一人の老人が現れる。この老人がフレンホーフェルであるが、彼はそのひしゃげた鼻によって、ラブレー的な巨人的知性とソクラテス的なイロニーを併せ持つ悪魔的な人物として提示される。
小説はこの謎めいたフレンホーフェルの偏執的な絵画への情熱とその情熱が生み出した「知られざる傑作」をめぐって展開する。
画家志望の芸術に対する若々しい情熱はしばしば恋心に例えられる。この小説は「ジレット」と「カトリーヌ・レスコー」の2つに分かれているが、ジレットは青年プッサンの美しい恋人の名前であり、カトリーヌ・レスコーは「美しき諍い女」と呼ばれた有名な娼婦の名前であり、フレンホーフェルが10年の歳月をかけて取り組んでいる作品のことである。
自然がもたらした美と烏有に帰した都市の廃墟、あるいは青春期の恋愛とピグマリオン的に倒錯した愛。この2つは強いコントラストを形づくっている。
絵画の極北を垣間見ようとした青年プッサンの若気の至り。結局のところ、彼は神の領域に足を踏み入れることはできなかったし、同時に美しい恋人ジレットも失うことになった。そして彼はローマに向けて旅立ち、そこで古典主義的な技法を確立し、理知的な構成と描線によってフレンホーフェル的な絵画の噴出を抑圧する。
「アルカディアの牧人たち」と題されたプッサンの代表作がある。中央に描かれた石碑には ET IN ARCADIA EGO と記されているが、これらの文字は I TEGO ARCANA DEI と並べ替えることができ、これは「立ち去れ、私は神の秘密を隠した」という意味になる。フレンホーフェルによる「美しき諍い女」は地上の芸術の終わりを示し、天上に消えた。プッサンはそこに何も見出すことができなかったゆえに、彼はその手前で踏みとどまらなければならなかった。古典主義者プッサンは暴く者から隠す者、抑圧する者となったが、それによって彼の作品はあらゆる絵画の規範となった。
フレンホーフェルはマビューズのただ一人の弟子であったかもしれないが、同時に17世紀初頭に現れた19世紀の画家でもあり、彼はセザンヌにも通じる絵画論を展開する(実際はバルザックがゴーティエから聞き知ったドラクロワのものであるといわれている)。人間がフレンホーフェル的な絵画に新たな美を見出すにはセザンヌの登場を待たねばならなかったのである。