LISZT
Complete Tone Poems Volume 1
Bernard Haitink
London Philharmonic Orchestra
フランツ・リスト(1811-1886)は長く生きた。同世代のメンデルスゾーンやショパンが40歳前、シューマンも50歳前に生涯を終えたのに対し、リストは80歳近くまで生きた。彼の生涯は西洋音楽がめまぐるしく発展した19世紀全体に及び、彼の音楽もこうした時代性を反映しながら大きく変わっていった。
リストの生涯はおおよそ次の三つに分けられる。
1.ピアニスト時代(1830-1850)
2.ワイマール時代(1850-1860)
3.晩年(1870-1886)
リストは当時ハンガリー西部にあったドイツ語圏の地域に生まれた。彼の父親はエステルハージ家に仕えていて、チェロを弾くアマチュア音楽家でもあった。この父親にリストは6歳から音楽の手ほどきを受けた。家族はウィーンに移り住んだが、そこでリストはピアノをツェルニーに、音楽理論や対位法をサリエリに学び、11歳の頃にはすでに公の場で演奏をするようになっていた。ウィーンの次にはパリへ行き、そこでもリストは音楽理論と作曲の勉強を続け、1824年にはパリの音楽界にデビューした。リストの父親は1827年に死去したが、その頃のリストは子どもたちにピアノを教えることで定期的な収入を得ることができるようになっていた。
リストの最初の転機は1831年にパリでパガニーニの演奏を聴いたことによってもたらされた。彼はピアノのパガニーニとなることを決意し、それまで獲得していたツェルニー流の演奏技法を捨て去り、ピアノの新しい可能性を切り開くべく研鑽を重ねた。その努力の結果、およそあらゆる曲を初見で弾きこなすことができるようになり、楽譜に記されていない音を自由に加えたりしながら、オペラのアリアや管弦楽曲をパラフレーズし、より複雑で、即興性を重視した演奏をくりひろげた。大きな手から紡ぎだされるアルペッジョや力強いオクターヴ、そして怒涛のようなトレモロは聴く者を圧倒した。当時ライバルと目されていたタールベルクと競い合い、聴衆を驚嘆させる超絶技巧を次々と開発し、衣裳や身振りなどが与える視覚的効果にも配慮したパフォーマンスによって、リストはコンサートピアニストとして時代の寵児となった。演奏中は聴衆が静かに音楽に耳を傾けるというコンサートの習慣はリストから始まったとされ、彼のコンサートには多くの女性ファンがつめかけ、彼の演奏とパフォーマンスをじっと見つめていた。
コンサートピアニストとして華々しく活動していた頃のリストについてシューマンは次のように書いている。
「この聴衆をことごとく足下にふまえて、それを持ち上げたり、運んだり、落としたりする力量に関しては、パガニーニのほかには、どんな芸術家も彼ほど高度にそなえているものはあるまい」
このように、シューマンはリストの演奏家としての卓越した能力については絶賛を惜しまなかったが、作曲家としての力量についてはあまり評価していなかった。
例えばシューマンは次のように書いた。
「元来、活発な音楽的素質を持ったものは、無味乾燥な紙の上の研究よりも、手っとりばやい音の方にひかれるものであるが、彼もまた作曲の勉強に落ちついていられなかっただけに、一層演奏の名人としての練磨を怠らなかった。その結果、彼は演奏家として驚異的な高所に達したのに対して、作曲家としては取り残されてしまった」
あるいは次のように書いた。
「もしリストがその卓越した音楽的素養をもって、楽器やほかの巨匠に捧げた時間を、作曲と自分のために捧げていたならば、重要な作曲家になっていたにちがいない」
しかし、リストは1848年にコンサート活動から突然リタイアし、作曲に専念するようになる。彼の二度目の転機はこのときにもたらされた。
リストは1848年にワイマールの宮廷楽長に就任した。ゲーテ以来、文化的に成熟した都市であったワイマールには数多くの音楽家や文化人が集まっていた。その中でリストは指揮者としてバッハからベートーヴェンにいたる古典を指揮するとともに、ベルリオーズやワーグナーなど、当時の新しい音楽を積極的に紹介していった。このワイマール時代にベートーヴェンやベルリオーズの影響のもと、交響詩を創始するとともに、ピアノ曲も高度な演奏技術に裏打ちされた、より深みのあるものになっていった。
リストの交響詩を擁護したのは、シューマンの後を継いで「音楽新報」の編集に携わったフランツ・ブレンデルであった。
「詩的なものと音楽的なものとの結合、そしてこの結合を新たに意識する過程こそが目下論じられている諸々の芸術的創作(リストの交響詩)における真の新しさと呼ぶに値するものなのだ」
ブレンデルは、交響詩を交響曲の到達点であり、より高度な段階であると主張した。そこにはヘーゲルの美学と弁証法的歴史観の影響が見られる。ヘーゲルによれば、音楽は詩の前段階として現れ、音楽自身を超えていこうとするものであった。ヘーゲルにとって器楽はそれ自体では不完全なものであり、言葉による補足を必要とする。器楽は無意識的で未発達な表現形式であり、曖昧で混乱したものでしかない。しかし、言葉によって補足されることで音楽に明確な概念が提供され、何の表象も持たないような感情の中にある夢想的な要素から意識を守ってくれるというのである。それはベートーヴェンの「交響曲第9番」が示すように、「音楽がもはや前進することができないところに言葉が始まる」ということである。
ヘーゲルはそれゆえに、従来の音楽観に従って声楽の優位を主張したのだったが、ブレンデルは標題を持った器楽である交響詩を、詩的なものと文学的なものが結合した、より高次の段階に至ったものとして歴史的必然としてとらえた。リストによれば、標題は器楽の尊厳を確立し、器楽を単なる手慰みや娯楽から文化へと高めるものであり、文学や哲学などの文化的伝統をもたずに音楽を聴くことはもはや考えられないことであった。確かに標題は器楽に明確な意味づけをするが、逆に器楽は標題に潜在化している言葉を超えた理念やポエジーを表現する。リストは言う、「音楽は偉大な作品においてますます文学の傑作を自らのうちに併合している」と。
矛盾をはらみつつ、それを弁証法的に総合しようとした交響詩の支持者はベートーヴェンの交響曲に匹敵するような傑作を未来に残そうと考えていた。こうした未来志向の音楽家たちをブレンデルは「新ドイツ楽派」と呼んだ。
その一方で、こうした標題の存在は当時の一般的な聴衆にとっては、音楽を理解しやすいものにするという側面もあった。このように、リストの音楽は交響詩や「ピアノ・ソナタロ短調」に示されたように、ソナタ形式と多楽章構造の一体化や主題変容と呼ばれる単一の楽想の展開する技巧を駆使した新しい形式をつくりだすための実験であると同時に、単一の楽想を反復し、変奏していくことは初めて聴く者にも主題を強く印象づけることにもなり、このこともまた音楽を理解しやすいものにするのであり、こうした芸術性と大衆性の共存を特徴としている。
器楽の解放の歴史において交響詩が果たした役割についてダールハウスは次のように書いた。
「リストが、ベートーヴェンの器楽作品と自分の作品を推賞したような強調的な意味での芸術として標題音楽を位置づけようと主張したことは進歩的であった。しかし一方、彼が自らの主張を確立しようとして用いたその方法――つまり、「文学の傑作」を音へ変形することが音楽を軽視されることのない一つの芸術へと高めることになる、と彼は考えたのだが――は退行的であったのだ」
1860年にリストはローマに行き、修道院に入った。この頃は宗教合唱曲を手がけるなどしていたが、1870年頃には再びワイマールに戻り、翌年にはブダペスト音楽院の院長になり、毎週日曜日に演奏会を開くようになった。この頃、リストにとって最後の転機が訪れた。すでに交響詩においても半音階的和音を用いていたが、1870年代のリストの音楽にはますます調性感が希薄になっていき、1877年の「エステ荘の噴水」はドビュッシーなどの印象派を思わせるようなものであった。そして、リストの死後、1958年になって発見された晩年のピアノ作品は、まるで未来を先取りしたかのような無調音楽となっていた。
→シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→ダールハウス「ダールハウスの音楽美学」(音楽之友社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→田村和紀夫/鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
Complete Tone Poems Volume 1
Bernard Haitink
London Philharmonic Orchestra
フランツ・リスト(1811-1886)は長く生きた。同世代のメンデルスゾーンやショパンが40歳前、シューマンも50歳前に生涯を終えたのに対し、リストは80歳近くまで生きた。彼の生涯は西洋音楽がめまぐるしく発展した19世紀全体に及び、彼の音楽もこうした時代性を反映しながら大きく変わっていった。
リストの生涯はおおよそ次の三つに分けられる。
1.ピアニスト時代(1830-1850)
2.ワイマール時代(1850-1860)
3.晩年(1870-1886)
リストは当時ハンガリー西部にあったドイツ語圏の地域に生まれた。彼の父親はエステルハージ家に仕えていて、チェロを弾くアマチュア音楽家でもあった。この父親にリストは6歳から音楽の手ほどきを受けた。家族はウィーンに移り住んだが、そこでリストはピアノをツェルニーに、音楽理論や対位法をサリエリに学び、11歳の頃にはすでに公の場で演奏をするようになっていた。ウィーンの次にはパリへ行き、そこでもリストは音楽理論と作曲の勉強を続け、1824年にはパリの音楽界にデビューした。リストの父親は1827年に死去したが、その頃のリストは子どもたちにピアノを教えることで定期的な収入を得ることができるようになっていた。
リストの最初の転機は1831年にパリでパガニーニの演奏を聴いたことによってもたらされた。彼はピアノのパガニーニとなることを決意し、それまで獲得していたツェルニー流の演奏技法を捨て去り、ピアノの新しい可能性を切り開くべく研鑽を重ねた。その努力の結果、およそあらゆる曲を初見で弾きこなすことができるようになり、楽譜に記されていない音を自由に加えたりしながら、オペラのアリアや管弦楽曲をパラフレーズし、より複雑で、即興性を重視した演奏をくりひろげた。大きな手から紡ぎだされるアルペッジョや力強いオクターヴ、そして怒涛のようなトレモロは聴く者を圧倒した。当時ライバルと目されていたタールベルクと競い合い、聴衆を驚嘆させる超絶技巧を次々と開発し、衣裳や身振りなどが与える視覚的効果にも配慮したパフォーマンスによって、リストはコンサートピアニストとして時代の寵児となった。演奏中は聴衆が静かに音楽に耳を傾けるというコンサートの習慣はリストから始まったとされ、彼のコンサートには多くの女性ファンがつめかけ、彼の演奏とパフォーマンスをじっと見つめていた。
コンサートピアニストとして華々しく活動していた頃のリストについてシューマンは次のように書いている。
「この聴衆をことごとく足下にふまえて、それを持ち上げたり、運んだり、落としたりする力量に関しては、パガニーニのほかには、どんな芸術家も彼ほど高度にそなえているものはあるまい」
このように、シューマンはリストの演奏家としての卓越した能力については絶賛を惜しまなかったが、作曲家としての力量についてはあまり評価していなかった。
例えばシューマンは次のように書いた。
「元来、活発な音楽的素質を持ったものは、無味乾燥な紙の上の研究よりも、手っとりばやい音の方にひかれるものであるが、彼もまた作曲の勉強に落ちついていられなかっただけに、一層演奏の名人としての練磨を怠らなかった。その結果、彼は演奏家として驚異的な高所に達したのに対して、作曲家としては取り残されてしまった」
あるいは次のように書いた。
「もしリストがその卓越した音楽的素養をもって、楽器やほかの巨匠に捧げた時間を、作曲と自分のために捧げていたならば、重要な作曲家になっていたにちがいない」
しかし、リストは1848年にコンサート活動から突然リタイアし、作曲に専念するようになる。彼の二度目の転機はこのときにもたらされた。
リストは1848年にワイマールの宮廷楽長に就任した。ゲーテ以来、文化的に成熟した都市であったワイマールには数多くの音楽家や文化人が集まっていた。その中でリストは指揮者としてバッハからベートーヴェンにいたる古典を指揮するとともに、ベルリオーズやワーグナーなど、当時の新しい音楽を積極的に紹介していった。このワイマール時代にベートーヴェンやベルリオーズの影響のもと、交響詩を創始するとともに、ピアノ曲も高度な演奏技術に裏打ちされた、より深みのあるものになっていった。
リストの交響詩を擁護したのは、シューマンの後を継いで「音楽新報」の編集に携わったフランツ・ブレンデルであった。
「詩的なものと音楽的なものとの結合、そしてこの結合を新たに意識する過程こそが目下論じられている諸々の芸術的創作(リストの交響詩)における真の新しさと呼ぶに値するものなのだ」
ブレンデルは、交響詩を交響曲の到達点であり、より高度な段階であると主張した。そこにはヘーゲルの美学と弁証法的歴史観の影響が見られる。ヘーゲルによれば、音楽は詩の前段階として現れ、音楽自身を超えていこうとするものであった。ヘーゲルにとって器楽はそれ自体では不完全なものであり、言葉による補足を必要とする。器楽は無意識的で未発達な表現形式であり、曖昧で混乱したものでしかない。しかし、言葉によって補足されることで音楽に明確な概念が提供され、何の表象も持たないような感情の中にある夢想的な要素から意識を守ってくれるというのである。それはベートーヴェンの「交響曲第9番」が示すように、「音楽がもはや前進することができないところに言葉が始まる」ということである。
ヘーゲルはそれゆえに、従来の音楽観に従って声楽の優位を主張したのだったが、ブレンデルは標題を持った器楽である交響詩を、詩的なものと文学的なものが結合した、より高次の段階に至ったものとして歴史的必然としてとらえた。リストによれば、標題は器楽の尊厳を確立し、器楽を単なる手慰みや娯楽から文化へと高めるものであり、文学や哲学などの文化的伝統をもたずに音楽を聴くことはもはや考えられないことであった。確かに標題は器楽に明確な意味づけをするが、逆に器楽は標題に潜在化している言葉を超えた理念やポエジーを表現する。リストは言う、「音楽は偉大な作品においてますます文学の傑作を自らのうちに併合している」と。
矛盾をはらみつつ、それを弁証法的に総合しようとした交響詩の支持者はベートーヴェンの交響曲に匹敵するような傑作を未来に残そうと考えていた。こうした未来志向の音楽家たちをブレンデルは「新ドイツ楽派」と呼んだ。
その一方で、こうした標題の存在は当時の一般的な聴衆にとっては、音楽を理解しやすいものにするという側面もあった。このように、リストの音楽は交響詩や「ピアノ・ソナタロ短調」に示されたように、ソナタ形式と多楽章構造の一体化や主題変容と呼ばれる単一の楽想の展開する技巧を駆使した新しい形式をつくりだすための実験であると同時に、単一の楽想を反復し、変奏していくことは初めて聴く者にも主題を強く印象づけることにもなり、このこともまた音楽を理解しやすいものにするのであり、こうした芸術性と大衆性の共存を特徴としている。
器楽の解放の歴史において交響詩が果たした役割についてダールハウスは次のように書いた。
「リストが、ベートーヴェンの器楽作品と自分の作品を推賞したような強調的な意味での芸術として標題音楽を位置づけようと主張したことは進歩的であった。しかし一方、彼が自らの主張を確立しようとして用いたその方法――つまり、「文学の傑作」を音へ変形することが音楽を軽視されることのない一つの芸術へと高めることになる、と彼は考えたのだが――は退行的であったのだ」
1860年にリストはローマに行き、修道院に入った。この頃は宗教合唱曲を手がけるなどしていたが、1870年頃には再びワイマールに戻り、翌年にはブダペスト音楽院の院長になり、毎週日曜日に演奏会を開くようになった。この頃、リストにとって最後の転機が訪れた。すでに交響詩においても半音階的和音を用いていたが、1870年代のリストの音楽にはますます調性感が希薄になっていき、1877年の「エステ荘の噴水」はドビュッシーなどの印象派を思わせるようなものであった。そして、リストの死後、1958年になって発見された晩年のピアノ作品は、まるで未来を先取りしたかのような無調音楽となっていた。
→シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)
→ダールハウス「ダールハウスの音楽美学」(音楽之友社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→田村和紀夫/鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
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