むらぎものロココ

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正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(1)

2019-10-30 18:36:18 | 道元論
 道元が「仏性」巻を書いた動機は、大乗仏教において、仏性が重要な問題となり、中国の禅宗においても盛んに論じられるところとなっていたにもかかわらず、仏性についての正しい解釈が必ずしもなされていなかったという、当時の仏教界の状況において、真の仏教の立場から正しい仏性を説いておく必要があると考えたことによる。

 ここでいう誤解というのは、仏性をバラモン教のアートマンのような究極の実体と考えてしまったり、まったくの無としてとらえてしまったりすることであり、そのどちらも超越的な観念として仏性をとらえていることで同様の誤解に陥っている。

 それは仏教がバラモン教の実体論を否定し、無我を説いて出発しつつも、無常や無我といった、規定することのできないことを言語によって表現しなければならなかったことから超越的な実体としてとらえられてしまったり、無常なる存在を無常ならしめる、より高い次元の根本原理を想定せしめることとなってしまったりしたことにあると思われる。説一切有部が法の体系の基礎づけを縁起に求めず、「有」に求めたのは存在を可能にしているありかた(ものの本質)が超時間的に実在するとみたからであった。このような形而上学的実在論を否定したのがナーガールジュナであり、その否定の根拠として「空」や「縁起」を強調した。そうすることによって、実体論が陥る「常住」や「断滅」という、仏教では認められない欠陥を排した。つまり、法には実体がない(無自性)からこそ「不常不断」といえるのであり、一切の事物が相関関係をなして成立することができる(縁起)のであるとした。しかし、「空」を虚無としてとらえてしまう誤解を生むことにもなった。そこでナーガールジュナは「空見」の否定を言い、空を「有」とみることも「無」とみることもともに否定した。空というのは規定的な概念ではなく、従って有や無という規定的な概念でとらえることができないからである。空とは不変の実体として「ある」ものでもなければ、単なる否定でも「ない」ということでもない。つまり、実体論も虚無主義もともに否定しているのである。

 有と無といった概念は互いに対立しているということにおいて相互に関係しあっているのであり、それぞれ独立して実在しているわけではない。この相関関係が成り立つためには一切の事物が絶対不変化の本質をそなえていてははならない。本質がない、すなわち無自性であればこそ事物が相互に関連し、また現象界の変化も成り立つのである。だからこそ無常のということも成り立つのである。無自性といい、無常といい、空といい、それらはすべて縁起から導き出され、基礎づけられていてそれゆえに同じ意味であると考えられている。

 以上が大乗仏教における存在認識のありかたなのであるが、このことはつまり、仏教は現象界以外の何か超越的な絶対的存在を認めないということなのである。このような考え方は、存在論的な面においてだけでなく、実践面において特に重要な基盤となる。すべての事物がとどまることなく生滅変化しているからこそ実践が可能になるということができるだろう。すべての事物が固定化しており、絶対的で不変のものであるならば、一切のはたらきかけは無意味となるであろうからだ。例えばここで、仏と凡夫をそれぞれ実体として固定化されたものとして考えてみると、いくら修行をいくら修行を積んだところで凡夫と仏の間の深淵は埋めようがないということになってしまう。無常観、あるいは縁起説は、発心し修行すれば誰もがさとることができるということにおいてそのことの基礎となっているのである。そしてまた、そうであるがゆえに、さとるということも固定化されないのである。

 仏教はこのように、存在論と実践とがともに無常や縁起によって基礎づけられており、そのことが理論と実践を直接に結びつけている。そしてこの無常や縁起はスタティックなものではなく、きわめてダイナミックなものである。

 実体論と虚無主義を否定すること、そして存在論と実践の基礎に無常と縁起があること、以上が仏教の基本的な考え方といっていいと思われるが、以上のことは当然、道元によっても踏まえられている。これから道元の「仏性」巻を中心に論じていくことにするが、その際に問題とすることは。「有無」の問題である。道元は有と無をそれぞれいくつかの意味で使用している。もちろん恣意的な使用ではなく、コンテクストに応じてではあるが、おそらく、実体論と虚無主義としてとらえられてしまうことを極力回避しようとしたうえでのことと思われる。このような有と無の諸相・非相をみてみることにしたい。

アルチュール・オネゲル

2008-02-10 15:22:50 | 音楽史
HoneHonegger
Symphonies1-5 Pacific231 Rugby
 
Charles Dutoit
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks


アルチュール・オネゲル(1892-1955)はル・アーヴルに生まれた。両親はスイス人で、オネゲルはフランスとスイス、二つの文化から影響を受けていて、そのことを「二重国籍」と表現していた。オネゲルにとって、スイスに負うものはプロテスタントの伝統であり、ル・アーヴルに負うものは海、帆船への偏愛、そしてスポーツであった。オネゲルの家庭は音楽的に恵まれた環境というわけではなかったが、リセに通う少年の頃から作曲に興味を持つようになり、独学でいくつかのオペラやソナタを書いた。同じ頃にヴァイオリンも始めた。それからチューリッヒの音楽院に入り、2年間音楽を学び、そこでR・シュトラウスやレーガーの音楽を知る。そして1911年、19歳でパリ音楽院に入学、そこでフォーレやダンディ、ドビュッシーなどのフランス音楽を知るとともに、ミヨーやタイユフェールと出会い、友情を育むこととなった。オネゲルはパリ音楽院で学ぶ間に、ヴァーグナーなどの後期ロマン派の音楽とフランスの音楽との二重性を自らに引き受けることとなっていった。1918年にパリ音楽院を終え、この頃からサティやコクトー、パリ音楽院の仲間たちとコンサート活動をするようになり、「フランス六人組」として知られるようになったが、オネゲルは「エッフェル塔の花婿花嫁」のあと、代表作でもある「ダヴィデ王」など作曲し、六人組とは独立した評価を得るようになった。
もともとオネゲルは他の六人組のメンバーとは音楽的な志向性に違いがあり、例えば彼はヴァーグナーの音楽を決して否定しなかったし、サティの音楽をことさらに賛美することもなかった。

エリック・サティはオネゲルについて次のように言っている。ここからオネゲルとサティや他の六人組のメンバーとの間の微妙な距離感が垣間見られる。

「今、私の友人たちからなる《六人組》ははなはだ評判がよろしくない。ふつう批評家と呼ばれる音楽評論家たち、能書家たち、その他もろもろの筆跡学者たちの意見の前で、なんらかの寛大さを得ているのは、若い友人のオネゲルだけである。人びとも彼には才能を認める。しかも豊かな才能を。彼は《六人組》の唯一の貴重な飾りなのだが、このグループから身を引けばその才能はいっそう豊かになるだろう――いうまでもなく」

オネゲルはその後も作曲家として5つの交響曲や「火刑台のジャンヌ・ダルク」に代表されるようなオペラ作品を生み出していったが、アベル・ガンスの映画「ナポレオン」や「鉄路の白薔薇」などの映画音楽も手がけた。「鉄路の白薔薇」での機関車の動きを模した音楽は、その後「パシフィック231」へつながっていく。
映画音楽の作曲についてオネゲルは次のように言っている。

「わたしがあれに熱を入れるのは、いろんな理由からです。あすこだと、わたしはかなりらくにやれる。オーケストラのスコアをはやく書くのに必要な技術をもっているものだから。それから、主題は画面が供給してくれるし、それの音楽への転位は、そくざにわたしの頭に浮かんでくる」

オネゲルには「わたしは作曲家である」というベルナール・ガヴォティとの対談をまとめた著書がある。これはフランスの出版社コンキスタドールの「わが職業」という叢書のなかのひとつで、様々な職業についてその第一人者に「自分の仕事や方法や考えかたや趣味などをつっこんだところまできかせてもらう」ことを目的に企画されたものであるが、この著書の中でオネゲルは音楽芸術あるいは作曲家の将来について、かなり悲観的であり、それは以下に揚げるいくつかの発言に端的に示されている。

「わたしは本気で信じているのだが、われわれがいま考えているような音楽芸術というものは、こんごそう長くないうちに、存在しなくなるでしょう。これはかつてのほかの芸術と同様なくなってしまう。しかも、ほかのよりいっそうはやく姿を消してしまうことはまちがいない。今日の事態はすでにわれわれの現にみているごとくです。その真相を真正面からみてみましょう。もうみんなは《音楽》をきいてはいない。有名な指揮者や名高いピアニストの演奏に立ちあいにくるのです。これが芸術の領域よりもスポーツのそれに属することは、われわれの知るとおりです」

「諸君はどうしても作曲家になられたいのですか? 諸君の道にまちかまえているものをとくと考えてみられたことがおありですか? たとえ音楽を書いても演奏はされないだろうし、生活の道はたちますまい。諸君のお父さんが仕送りをしてくださるのなら、紙をよごしておられてもいっこう差しつかえない。紙はいくらでもみつかるだろうし、そのうえになにを書こうと他人には二義的な重要性しかない。諸君を、つまり諸君と諸君のソナタを発見しようといっしょうけんめいになってる人なんか一人もいない。……諸君の唯一のいいわけは、ただ自分が表現しようと思った音楽を正直に書くことです、一人の人間が自分の存在の重大な行動にかんして払うべきあらゆる注意とあらゆる良心を注ぎ込んで」

「騒音がわれわれの耳を硬化させてしまっている。わたしはここ何年かすれば、ひじょうに広い音程でないともう区別できなくなるのじゃないかと思っています。半音なんかわからなくなり、そのうち三度がききわけられなくなり、それから四度が、最後には五度が……今日以後、主役を演ずるのはリズムによる興奮であって旋律的意欲じゃない」

「音楽は貧血からじゃなくて、充血で死ぬのです。需要の僅少にたいして、生産の過剰、提供の過剰がある」

そしてオネゲルはサティに音楽について次のような発言をしているのだが、オネゲルの悲観論からすれば必然的に導き出される見方であろう。

「エリック・サティの音楽を考えてみたまえ。ある種の音楽家たちは天才的だとみているが、あれはだんだんに原始的な単純さに逆もどりしつつある音楽的言語による曲です。和声の豊かさの欠如、対位法の豊かさの欠如…… こんな調子でゆくと、この世紀のおわるまえに、ひじょうに簡略な野蛮な音楽が生まれるだろう、ごく初歩的な旋律とまったく野獣的に刻まれたリズムをつなぎ合わせたような。紀元二〇〇〇年の音楽ファンのやつれはてた耳には、それが申し分なくぴったりくるだろう」

「一九一九年、サティは《家具の音楽》ということをさかんに吹聴していた――これは壁のうえにはられた絵紙みたいな、だれも耳をかたむけないでも、演奏されているべき音楽のことです。いまでは、まさにロ短調ミサや作品一三二の四重奏がこの水準までひきずりおろされてしまった」

さらに、シェーンベルクが創始し、ウェーベルンによって徹底され、第二次大戦後から現代音楽の大きな潮流となった十二音技法について次のような発言もしている。

「十二音主義は、なにか苦役人みたいに思われる。彼らは、いったん鎖を切断しておいてから、また自分から進んで千キログラムもある弾丸を足にむすびつけ、それでまえよりもはやく走る気になっている…… 彼らのドグマは学校対位法のそれとぴったり照合する。ただちがうところは、対位法のほうはその目的がたんに筆づかいを柔軟にし、練習によって創意を刺激するにあるだけなのに、セリーの原理は、手段としてでなく、終局の目標として提出されているのだ!」

オネゲルはこの悲観的な著書を次のような言葉で結ぶ。

「《作曲家の職業》には諸君の生活の糧になるようなものは、ほとんどなにも与えられないということを覚悟しておいてほしい。もし諸君の作品が何人かの友人か同時代人に味わってもらえたら、それで諸君の報酬と諸君の内心のよろこびは十分だとすべきです。それが創作するもののうばわれることのない唯一の特権です……」

オネゲルは1955年パリで死去した。


→A.オネゲル「わたしは作曲家である」(音楽之友社)
→O.ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)


フランス六人組

2008-01-16 01:57:07 | 音楽史
Eiffel1Hommage a Cocteau
Les Maries de la Tour Eiffel
 
 
 
 
CslCOCTEAU, SATIE AND LES SIX
 
 
 
 

「私の年齢になりますと……若い人たちの友情は大きな支えになるのです。それは、この年齢の人間の習慣の石化……ミイラ化……骨化を防いでくれます……」(エリック・サティ)

ジャン・コクトーの台本とエリック・サティの音楽、パブロ・ピカソが舞台美術と衣裳を担当し、レオニード・マシーンが振り付け、ロシア・バレエ団によって上演されたバレエ「パラード」がすさまじいスキャンダルを巻き起こし、大評判となったのは1917年のこと。その頃からサティの周囲には若い音楽家たちが集まるようになり、「新しき若者たち」とか「若い新人たち」などと呼ばれるようになる。「パラード」上演の翌日、ルイ・デュレ(1888-1979)、アルチュール・オネゲル(1892-1955)、ジョルジュ・オーリック(1899-1983)は最初のコンサートを開いた。まもなくそこにジェルメーヌ・タイユフェール(1892-1983)が加わり、「若い新人たち」が形成されていく。当初はサティ自身もそのなかに加わっていたのだが、例によってすぐに脱会してしまう。しばらくしてダリウス・ミヨー(1892-1974)とフランシス・プーランク(1899-1963)が加わり、後に六人組と呼ばれる音楽家たちが揃った。こうした若い音楽家たちの活動をコクトーも支援し、1918年にコクトーは音楽に関するアフォリズムを散りばめた「雄鶏とアルルカン」を発表した。この書はオーリックに捧げられた。

「雄鶏とアルルカン」でコクトーはワーグナーのロマン主義、ドビュッシーの印象主義、そしてドイツとロシアからの影響で伝統を見失っていたフランス音楽の現状を否定し、サティの音楽を称揚した。コクトーは次のように書いた。

「ロシア音楽は、ロシアの音楽であるから賞賛に価する。ロシア式のフランス音楽とか、ドイツ式のフランス音楽は、たとえムソルグスキーから、ストラヴィンスキーから、ワーグナーから、シェーンベルクから霊感を受けていても、私生児たらざるを得ない。僕はフランスのフランス音楽を要求する」

「フランス趣味とエグゾティズムの混乱の只中にあって、キャフェ・コンセールは、英米の影響にかかわらず、かなり昔の面影を残している。そこに、放埓だが、やはり民族的な、ある伝統が保たれている。若い音楽家が失われた糸を再びとらえるのは、疑いもなくそこだ」

「サティは現代における最大の大胆、すなわち簡潔を教える。彼は誰よりも洗練することができる証拠を与えなかったであろうか。そこで彼はリズムを掃除し、自由にし、裸にする。これもまた、ニーチェのいったように、《そのなかで精神が泳ぐ》音楽に比べて、その上で《精神が踊る》音楽ではなかろうか」

「雲や、波や、水族館や、水の精や、夜の香などは、もう沢山だ。僕たちには地上の音楽、「日常の音楽」が必要なのだ」

「キャフェ・コンセールはしばしば純粋であり、劇場はいつも腐っている」

Les_six_2サティのもとに集まった若い音楽家たちはヴィユ=コロンビエ座などでコンサート活動を続けていたが、1920年1月、「コメディア」紙上に掲載された「リムスキーの本とコクトーのそれ。ロシアの五人組、フランスの六人組とエリック・サティ」と題された記事によって、彼らは「フランス六人組」と名づけられた。この記事を書いたのは作曲家であり、批評活動も積極的におこなっていたアンリ・コレであった。しかし、ここで「六人組」として紹介されたことはまったくの偶然であったという。彼らは音楽院の同級生であったり、親しい友人同士ではあったが、必ずしも共通した音楽的な主義を持っていたわけではなく、グループで活動しようという意識も希薄であり、いずれにせよ彼ら6人である必然性はなかった。実際、彼らのグループでの活動と呼べるものは、1920年にそれぞれがピアノ曲を持ち寄っての「六人組のアルバム」出版と、1921年にコクトーのバレエ「エッフェル塔の花嫁花婿」の音楽を共同で担当した程度であった。
その「エッフェル塔の花嫁花婿」の共同作業にしても、コクトーから音楽の依頼を受けたオーリックが単独では間に合わなかったため、六人組での共同作業となったというのが真相で、しかもその作業にはデュレは参加していなかった。1922年にジャック=エミール・ブランシュが描いた六人組のグループ・ポートレイトにもデュレの姿はなく、この絵が描かれた頃にはすでに六人組を離脱していた。

エリック・サティは六人組について次のように言った。

「《六人組》は、その美学からいって、……「エスプリ・ヌーヴォー」に属しています……
 私にとっては、……「エスプリ・ヌーヴォー」というのは、なによりもまず、――近代的感受性をもって――古典形式に回帰することを意味します……
 《六人組》のなかの何人かにおいてみなさんが出会うのは、そういう近代的感受性なのです……」

いわゆる「エスプリ・ヌーヴォー」は、アポリネールからル・コルビュジエへと引き継がれていったことで、キュビスムから派生した建築理論として一般的であるが、単純化された個々の構成要素の組み合わせが美と豊かさを生み出すといったことは、サティの音楽のように、要するに簡潔であれ、ということであろう。

もとより友情でのみつながっていた六人組にグループとしての終焉を定めることに意味があるのかは疑問であるが、サティとコクトーが書いた文章により、1923年とされる。

1923年にサティは次のように書いた。
「《六人組》といえば――その失墜、死にいたる失墜は何度か予告されたが――グループとしてはすでに存在しないことを私は認めざるをえない。要するに《六人組》はもはや存在しないのだ。
 しかし……六人の音楽家は存在する――単純に、六人の才能ある音楽家、独立した音楽家が存在するということだ。人がなにを言い、なにをなそうと(顔)、六人の個別的存在に異論をはさむ余地はない。
 この分離は当然のものであり、私の願望をあますところなく満たす。私はこれを予言していたのではなかろうか? いずれにせよ、グループとしての《六人組》の消滅は、現在の状況を明らかにする。それは「若い音楽」の精神的「態度」の等質性を回復させる。そして私がこれまでつねに言いつづけてきたことを、ほとんど勝ち誇ったようにくり返すことを可能にしてくれる――「《六人組》とはオーリックとミヨーとプーランクのことだ、と」」

そして同じく1923年12月12日、コクトーはラディゲの死に激しく衝撃を受け、阿片に溺れていく。コクトーに阿片中毒を治療するよう勧めたのがジャック・マリタンであり、コクトーはマリタンに宛てて手紙を書いた。「この手紙は「雄鶏とアルルカン」で始められた一つの環を閉ざす」と記されているが、その手紙には次のように記されている。

「この不幸(※ラディゲの死のこと)は、若い作曲家たちと一緒になって、エリック・サティを統領に、僕がフランス音楽を、その迷妄から救い出そうと努力していた永い一時期の終りになった。それまでフランス音楽は、自分の美しさの下に埋もれていた。そこへサティが現われて、音楽の世界の聖者としての生きた実例を示してくれた。(マリタンよ、君のおかげで、彼はキリスト教徒として死ぬことが出来た)。この筆舌に尽しようのない人物は、わざと自分自身にしかめ面をして見せていた。彼は、こうすることで、自分をいい男だと思いこんで、見惚れたりする大家先生の通弊から逃れようとしていたのだ。僕らは、彼が、形式の影の代りに、真の形式を置き代えるのを見た。彼はまた僕らに教えた、真に偉大なものは、偉大らしい様子を持ち得ないこと、真に新しいものは、新しい様子を持ち得ないこと、真に淡泊なものは、淡泊らしい様子を持ち得ないということを。彼はまた僕らに真の芸術家とは、アマチュア――即ち、辞書ラルースの完全な定義によれば、「職業にしないで詩を愛する人」だと教えてくれた。彼は指示した、老練な案内人がアルプスの峰々を指さすようにして、プロフェッショナルの大混雑の中に交って、お互いに手をつなぎ合うアマチュアの一列を。彼は僕らに夢解きと僕らの仕事のプログラムを与えてくれた」

六人組と呼ばれた若い音楽家たちは、無調から十二音技法へと向う音楽の潮流のなかで、大衆的な音楽を取り入れ、わかりやすく親しみやすい簡潔な音楽を作った。彼らはまた、当時の新しいメディアである映画とも結びつき、数多くの映画音楽を作った。

→O.ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→「ジャン・コクトー全集4」(東京創元社)



アルバン・ベルク

2008-01-13 14:51:42 | 音楽史
Wozzeck_2Berg WOZZECK
Anja Silja(S)
Eberhard Waechter(B)
Christoph von Dohnanyi
Wiener Philharmoniker

アルバン・ベルク(1885-1935)はウィーンで生まれた。裕福で文化的な環境で育ち、幼少の頃から音楽や文学に親しんだ。ベルクは歌が好きな兄のために伴奏をし、妹とは古典派やロマン派の交響曲を一緒に演奏した。14歳の頃からは独学で作曲を始め、100を超えるほどの歌曲を作り、それらを兄妹で演奏しては楽しんだ。しかし、ベルクの少年時代は幸福なことばかりではなく、15歳で父親を亡くし、17歳のときにはベルク家で働いていた女中マリーを妊娠させ、18歳のときにはギムナジウムの卒業試験に失敗してしまった。これらの出来事は繊細で内向的であったベルクを追い詰めることとなり、彼は18歳のときに自殺を図った。

その翌年、1904年にシェーンベルクが出した生徒募集の新聞広告を見たベルクの兄がベルクの歌曲をシェーンベルクに見せたことがきっかけで、ベルクはシェーンベルクに師事することとなり、ベルクはシェーンベルクの下で6年間、対位法や和声などの音楽理論や作曲を学んだ。そこでウェーベルンと知り合い、また、ウィーンの文化人とも交流をするようになった。
1908年、ベルクは喘息を患った。23歳のことであり、その日が7月23日だったため、23という数字が自分の運命の数字だと思うようになる。このようなベルクの数字へのこだわりにはフロイトの精神分析学の誕生に影響を与えたといわれるヴィルヘルム・フリースの数秘学への関心があり、ベルクはこのフリースの数秘学を「観念的な音楽の哲学的な基盤」とする旨を記した手紙をシェーンベルクに宛てて書いたこともある(シェーンベルクも13という数字にこだわっていたことが知られていて、彼は7月13日の金曜日、それも翌日になる13分前に死去した)。

1911年にベルクはヘレーネ・ナホヴスキーと結婚した。この結婚はヘレーネの両親からの強い反対やベルクが敬愛し交流もあった詩人、ペーター・アルテンベルクもまたヘレーネとの結婚を望んでいたなど様々な障害があったが、それを押し切ってのことであった。ベルクの「弦楽四重奏曲」にはこれらのことが色濃く反映しているといわれている。
そして1914年、ベルクはビュヒナーの戯曲「ヴォイツェック」の上演を見たことで、この作品に基づいたオペラ「ヴォツェック」を作曲することを決意するが、1915年から1917年の間、第1次世界大戦のため兵役に就くことになり、作曲は戦後、1917年から1922年の間になされた。このオペラにはベルクの軍隊での経験が反映されている。ベルクは「ヴォツェック」について次のように言っている。

「良い音楽を作ろうという願望、即ちビュヒナーの不朽の戯曲の精神的な内容に、音楽的内容を与え、その詩的な言語を移しかえようという願望は別として、私がオペラを書こうと決心した時、私にとって演劇に属するものを演劇として与えることだけが気がかりであった。――作曲技法に関してさえも。言いかえれば、私にとって音楽を次のように構成していくことだけが気がかりであったのだ。つまり、戯曲に奉仕する義務を音楽が常に意識し――さらにその戯曲を舞台の上での現実性に置きかえていくのに必要な一切を、音楽だけから導き出すことができるように、そして、理想的な監督の本質的な責任をすべて作曲家がもつように――音楽を構成していくこと。しかもこれらすべてが、音楽のそれ以外の絶対的な(純粋に音楽的な)存在権を損なわず、音楽外的な何者によっても妨害されることのない、その独自の生命を損なうことのないように。」(ベルク「オペラの問題」)

オペラ「ヴォツェック」は1925年にエーリッヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)によってベルリン国立歌劇場で初演された。それ以降、ヨーロッパ各地の歌劇場で上演され成功をおさめ、このことによってベルクは国際的な名声を獲得した。そしてこの年、ハンナ・フックス=ロベッティンとの不倫関係が始まった。彼女との関係は「抒情組曲」に反映している。さらにこの年、十二音技法を用いたオペラとして、ヴェーデキントの戯曲に基づく「ルル」の作曲を開始した。このオペラは未完に終わったが、ツェルハにより補筆され、ブーレーズの指揮により1979年に初演された。ベルクは「ルル」の作曲を中断し、1929年にボードレールの詩に基づく演奏会用アリア「ワイン」と1935年にルイス・クラスナーから委嘱された「ヴァイオリン協奏曲」を作曲した。「ヴァイオリン協奏曲」は、アルマ・マーラーが二番目の夫であったグロピウスとの間にもうけた娘マノンの死を悼むレクイエムとして作曲された。ベルクにとってこれが遺作となり、ベルクはこの年、虫刺されが原因の敗血症によって死去した。

ベルクの音楽はブラームスやR.シュトラウス、マーラーといった後期ロマン派の影響から出発し、シェーンベルクと出会ってからは師にならい、無調や十二音技法を取り入れていった。
しかし、そのやり方はグールドが「一般大衆が聴いて即座にわかる唯一の十二音作曲家」と評したように、従来の調性を完全に排除してしまうのではなく、伝統的な音階や調性を十二音技法に結びつけるといったかたちでなされた。ベルクは伝統的な調性音楽とシェーンベルクが創始した新しい音楽様式との間に断絶があることを強調せず、むしろ自分の音楽が長調や短調を除けば「それ以外の真性かつ正当な音楽的な構成条件をすべて備えている」とし、「もしお望みなら私としては自分の音楽が優れた他のすべての音楽と同じように動機・主題・主要声部要するに旋律に基づくことを証明することもできるだろう」とさえ言っている。ベルクは十二音技法を汎調性的な原理に変えることによって、十二音音楽に調性を取り戻そうとし、そのために調性和声的な組み合わせが出てくるような形で原音列を作っている。こうしたベルクのやり方は音楽に自身の体験が色濃く反映されていることも含め、ロマン主義の感傷性をひきずった音楽として批判されることもあったが、1970年代以降、様々な角度からの研究が進み、今では多層的な構造を備えた音楽としてその独自性が明らかにされた。

→E.ロックスパイザー「絵画と音楽」(白水社)
→C.ダールハウス「ダールハウスの音楽美学」(音楽之友社)
→G.グールド「グールドのシェーンベルク」(筑摩書房)
→J-J.ナティエ「音楽記号学」(春秋社)


シェーンベルク

2007-12-24 01:55:50 | 音楽史
Schoenarnold schoenberg
Streichquartette Ⅰ-Ⅳ
 
Dawn Upshaw(s)
Arditti String Quartet

アーノルト・シェーンベルク(1874-1951)はウィーンに生まれた。正式な音楽教育は受けずに独学ではあったが、8歳からヴァイオリンを始め、10歳で初めて作曲を試みた。15歳のときに父を亡くしたため、シェーンベルクは銀行に勤務するようになったが、音楽への情熱は途絶えることはなかった。19歳のときにアマチュアの楽団である「ポリヒュムニア」にチェロ奏者として参加し、そこで楽団の指揮をしにやってきたツェムリンスキーと出会い、シェーンベルクはツェムリンスキーから音楽理論を学んだ。21歳になったシェーンベルクは音楽の道に進むことを決意し、銀行を退職、労働者の合唱団を指揮するなどの仕事を始め、1898年には最初の作品である歌曲がウィーンで初演される機会を得たが、これが大きなスキャンダルを巻き起こした。後年、シェーンベルクは「そしてその日以来、スキャンダルが決してなくなることがなかった」と語った。
1901年、シェーンベルクはツェムリンスキーの妹マチルデと結婚、ベルリンに移り、生活の安定のためにヴォルツォーゲンの「ブンテス劇場」やキャバレー「ユーバー・ブレットル座」の座付作曲家として活動した。
20世紀初頭のベルリンでは、パリのモンマルトルにあるようなカフェ文化を持ち込もうと、いくつかの文芸キャバレーが誕生し、ヴェーデキントやビーアバウム、ヴォルツォーゲンといった作家たちがそこで活躍した。この頃に作曲されたシェーンベルクのキャバレー音楽「ブレットルリーダー」は、ビーアバウムが編纂した「ドイツ・シャンソン集」のなかから歌詞が選ばれている。シェーンベルクにとってはキャバレー音楽も芸術音楽も本質的な違いはなく、同じ方法論で作曲されており、「ブレットルリーダー」に収められた楽曲も、リズム・和声・対位法の綿密な構造体となっている。シェーンベルクの文芸キャバレーでの「道化」や「エロス」の経験は「月に憑かれたピエロ」や「期待」といった作品へ実を結ぶことになる。
1902年、シェーンベルクはリヒャルト・シュトラウスと出会い、彼の紹介によりシュテルン音楽院の教授職を得たが、一年ほどでウィーンに戻り、1904年、30歳のとき、ツェムリンスキーとともに「創造的演奏家協会」を設立した。この協会の名誉会長はグスタフ・マーラーであった。シェーンベルクはこの頃から個人的に音楽を教えるようになり、ウェーベルンやベルクといった弟子を持った。
1907年にシェーンベルクはリヒャルト・ゲルシュトルから絵を学び、表現主義的な作風の絵画を制作するようになり、生計を立てるために画家に転向しようと思ったほど熱中した。ゲルシュトルを介して表現主義者との交流も生まれるが、妻のマチルデがゲルシュトルと関係を持ち、家を出てしまう。翌年、マチルデは家に戻るが、ゲルシュトルは自殺してしまうという、悲劇的な結末を迎えることとなった。「弦楽四重奏曲第二番」には、この痛ましい事件が暗い影を落としていると言われる。
1910年、シェーンベルクはウィーン王立音楽演劇アカデミーの非常勤講師となったが、生活は良くならず、翌年再びベルリンへ向った。その途中に立ち寄ったミュンヘンでカンディンスキーと出会った。ベルリンに着いたシェーンベルクは再びシュテルン音楽院で教えた。

<ahref="http://muragimo.blogzine.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2007/12/24/gpc_work_midsize_495.jpg" onclick="window.open(this.href, '_blank', 'width=224,height=157,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">Gpc_work_midsize_495シェーンベルクと出会ったカンディンスキーはその著書「芸術における精神的なもの」においてシェーンベルクについて言及し、シェーンベルクは1911年のカンディンスキーが主催した「青騎士展」に絵画を出展した。また1912年に刊行された「青騎士」にはシェーンベルクの論考「歌詞との関係」とシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクそれぞれの歌曲の楽譜が掲載された。カンディンスキーは遠近法といった従来の技法にとらわれず、また具象的な外界の対象を描くことなく、いかに「内的必然性」から美や形態を生み出し得るかを模索し、色彩とフォルムだけの純粋絵画に到達した。シェーンベルクは調性を離れ、調性なしでいかに形式的な統一性を得られるかを模索し、十二音技法に到達した。シェーンベルクとカンディンスキーの出会いは絵画と音楽で同時並行的に起こった、新しく創造的な芸術運動の出会いであった。

1913年、ウィーンで初演された「グレの歌」でシェーンベルクはようやく大成功を収めることができたが、翌年、第1次世界大戦が勃発し、シェーンベルクも兵役にとられることとなった。第1次大戦後の1918年、シェーンベルクは同時代の音楽を良質な演奏で提供することを目的とした「私的演奏協会」を設立、この演奏会では批評家の入場は禁止され、ブーイングはおろか拍手さえも禁じられた。
1923年にシェーンベルクは数年前から具現化しつつあった十二音技法による作品を完成し、弟子たちにこの新しい音楽技法を説明した。この年、妻マチルデが肝臓癌で死去、翌年再婚したシェーンベルクはベルリンに行き、1925年にブゾーニの後任としてベルリン芸術アカデミーの教授となった。
1933年にナチが台頭するとユダヤ人教職排除宣言がなされ、シェーンベルクはベルリン芸術アカデミーをやめ、ベルリンを出てパリを経由し、ニューヨークへ渡った。翌年、健康上の理由からロサンゼルスに移り、そこでジョン・ケージと出会い、音楽の個人教授をするようになった。1936年からはUCLAの教授となり1944年まで教えたが、1951年に死去した。

シェーンベルクの音楽的発展は一般的に次のような三つの段階に区分される。

1.ロマン主義の時代(1896-1908)
シェーンベルクは最初はヴァーグナーやリスト、マーラーやR.シュトラウスのような後期ロマン派の様式で作曲した。それらは文学的素材にインスパイアされ、官能的で情緒的な主題を持ち、半音階を多用した大規模な音楽であったが、すぐに後期ロマン派的な大規模な音楽から室内楽に転じた。

2.自由な無調時代(1908-1912)
1908年からシェーンベルクは主調音を避けるようになった。ひとはこれを無調と呼んだが、無調は非=音楽を意味することから、シェーンベルクはそう呼ばれることを拒否した。無調の探求は調性の危機から生じたが、それはカデンツ(不安定から安定を導く運動の図式)からの解放によって、不協和音程を協和音程から解き放つ。このことによって調性に基づく和声のシステムは崩壊した。
不協和の解放には次のような2つのタイプがある。

1.不協和音を不協和音として認識し活用する(R.シュトラウスやストラヴィンスキーによる)
2.協和音・不協和音の区別をなくしてしまう(シェーンベルクによる)

シェーンベルクは主題や動機を調性的な求心性を持たないように構成しただけでなく、主題に基く形式それ自体を放棄した。この時期のシェーンベルクは絵画に強い関心を持ち、表現主義の影響を受け、作者の内面の震動というべきものを既成の法則や形式や理論を一切介在させず、直接響きにしようとした。深い絶望や恐れ、不安といった心理的感情や緊張に満ちた内的葛藤などを音の強弱のコントラストや極端な高音、あるいは音色の変化によって表現した。
シェーンベルクは次のように言っている。

「音楽家が彼の思想を表現するために、調性を用いねばならないという理由は、物理的にも美学的にも存在しない。唯一の問題は、調性を用いることなしにどうやって形式的統一性と自己完結性を得ることが出来るかである」(シェーンベルク「信念と洞察」)

従来のソナタ形式においては、主調での主題の回帰には必然性があった。主題の回帰を促進するのはトニックの安定性によるものであったが、無調ではトニックに代わるものが見つからない限り、主題に回帰する必然性はない。トニックのない状態の中で、音楽は支えを得ることが難しくなり、そこでは調性に代わるような求心性を見出すことはできなかった。シェーンベルクは調性から解き放たれたときに「小品」や「「テキスト」といった限定的な要素によって作品の統一性をかろうじて維持した。

3.十二音技法時代(1923-1951)
調性を用いることなしにどうやって形式的統一性と自己完結性を得ることができるかという問いに対する答として、1912年から1923年の間にシェーンベルクは十二音技法を完成させた。
十二音技法の原理とは次のようなものである。

1.半音階の12の音を任意の順序に並べて音列を作る
2.音列の12の音は同等に扱われる。調性の場合のように主音に関係づけられるのではない
3.協和音と不協和音の原理は放棄される 不協和音は解決や予備が不要となり、完全に解放される
4.統一は水平と垂直という2つの面に織り込まれる12音によるセットあるいは音列によって行なわれる
5.ひとつの12音音列から48通りの形が得られる。基本形、反行形、逆行形、逆行の反行形の4つの形態があり、4つをそれぞれに半音ずつずらして移調した11の移置形がある

これらは12の音を垂直面でも水平面でもあらゆる形で平等に使うルールであり、十二音技法の音楽において、音列を選択するためのルール群は全面的に操作可能なものとして形式化されている。これらのルール群は人工的なものであり、任意に変更可能なものである。シェーンベルクはこの十二音技法によって、古典的な調性の成功を支えていた原理を新しいやり方で再発見し、従来の調性を新しい調性に鍛え直そうとしたのであったが、これにはいくつかの問題点があった。まず、音列概念が曖昧であること、次に音列が音高の組織化しかしないこと、そして作曲者たちによって十二音技法についての考え方が違うことである。こうした問題点を踏まえ、十二音技法のルール群が、後年の作曲家たちによってさらに整備されていった結果、音高、音価、音の強さ、音色をセリー化するトータル・セリエリズムの音楽が生み出された。これは音列より高次の構造である群や集合へ向かうが、形式的合理化が進めば進むほど感覚的な整合性はおきざりにされる結果となった。

シェーンベルクの音楽について、アドルノは次のように書いている。

「シェーンベルクの音楽は、最初から能動的かつ集中的な共同遂行を要求する。すなわち、同時的進行の多重性に対するもっとも鋭い注意、次に何が来るかいつもすでに分っている聴き方というありきたりの補助物の概念、一回的な、特殊なものを捉える張りつめた知覚、そしてしばしばごく僅かの間に入れ換わるさまざまな性格と二度と繰り返されないそれらの歴史を正確につかむ能力などを、それは要求する」

グレン・グールドはシェーンベルクの和声的発展には本質的に三つの段階があるとしながらも、それは、調性、無調、十二音といった区分ではないとして、一般的な区分をしりぞけた。
グールドによれば第一段階のシェーンベルクは、どんなに近接していようと離れていようとふたつの和音があればそれらを関係づけることのできる仲介役としてのリンクを準備しており、
第二段階のシェーンベルクは、接続リンクとしてのこのリンクの役割を放棄してしまって、リンクの持つ、たっぷりと緊張を孕んだありようの方をそれ自体として利用しようとする。サスペンスを孕んだ仲介役はついに自律性を獲得してソレ自身ヲ目的トシテ活動するに至る。この自律性の方が、仲介役の潜在的解決能力より優先してしまうという。そして第三段階のシェーンベルクは、不協和な掛留音の役割を最小限に抑える。このような最小限の結合構造を使って、新しい三和音に相互関係が生まれているような印象を与えるように不協和音を配置することをグールドは「低出力不協和音結合」と呼び、シェーンベルク晩年の調性回帰について次のような見解を示す。

「アメリカ時代に顕著なと言われるシェーンベルクの保守主義とは、実は調性的技法の革新的な使用法だったということになるんだ。まさしく十二音技法を追求したがために調性的技法に行き着いた。つまり、それがあったからこそ準調性的体制の範囲内で調性的語法を再使用することになったわけだ」

→グレン・グールド「グールドのシェーンベルク」(筑摩書房)
→船山隆「シェーンベルクのキャバレー音楽」(ユリイカ1984年6月号「特集=表現主義」所収)
→佐野光司「表現主義の日々」(ユリイカ1984年6月号「特集=表現主義」所収)
→カンディンスキー/マルク「青騎士」(白水社)
→ジャン=ジャック・ナティエ「音楽記号学」(春秋社)
→矢向正人「言語ゲームとしての音楽」(勁草書房)
→テオドール・W・アドルノ「アルノルト・シェーンベルク」(ちくま学芸文庫「プリズメン」所収)


ストラヴィンスキー

2007-09-25 21:52:47 | 音楽史
AgonSTRAVINSKY
Three Greek Ballets Apollo Agon Orpheus
Robert Craft
London Symphony Orchestra
Orchestra of St Luke's


「彼はN.A.リムスキー=コルサコフから秩序の方法を受け継いで、それを自分用に変形する。リムスキーのテーブルの上では、インク瓶やペン軸や定規が官僚臭を現している。ストラヴィンスキーでは、秩序が人をおどかす。それは外科医の道具箱だ。
仕事と一しょくたになり、仕事を着込んで、老ぼれのちんどん屋のように作品を身に飾ったこの作曲家は、身の周りに音楽の皮を厚くして行くので、彼と部屋とはもはやひとつにすぎない。モルジュにおける、レイザンにおける、パリの彼の住居のプレイエルにおける、ストラヴィンスキーを見ることは、殻の中の動物を見るようなものだ。ピアノ、太鼓、メトロノーム、シンバル、五線引き、アメリカ式鉛筆削り、譜面台、平太鼓、大太鼓などが、彼を引き延ばす。それらはパイロットの座席であり、映画が千倍にも拡大して見せてくれる時の、交尾期の昆虫を蔽うている武器だ」(ジャン・コクトー「雄鶏とアルルカン」)

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)はペテルブルク近郊のオラニエンバウムに生まれた。9歳からピアノを学び、十代後半からは音楽理論も学んだが、音楽院には入学せず、大学では法律を学んだ。22歳のときにリムスキー=コルサコフと出会い、彼のもとで作曲と管弦楽法を学び、ストラヴィンスキーは音楽の道に進むことになった。1908年に作曲した「花火」がロシア・バレエ団のディアギレフに認められたことがきっかけで、ロシア・バレエ団の音楽を担当するようになると、1910年に「火の鳥」、その翌年に「ペトルーシュカ」、そして1913年に初演がスキャンダルを巻き起こした「春の祭典」をあいついで作曲し、ストラヴィンスキーは前衛的な作曲家として注目されることとなった。しかし、ロシア・バレエ団の天才舞踊家ニジンスキーとの関係はうまくいかなかったようで、ニジンスキーはその手記のなかでストラヴィンスキーのことをずるがしこく、冷たい男であるとし、「ストラヴィンスキーはよい作曲家だが、人生について考えない。彼の作曲は目的を持っていない」と書き記している。

エリック・サティはストラヴィンスキーについて「こと音楽に関する限り、かつて存在したなかで最も傑出した天才のひとりである」と絶賛し、パレストリーナやモーツァルトにも比肩し得るとして、その音楽の特徴について次のように書いている。

「ストラヴィンスキーの音楽の特徴のひとつは、音の響きの「透明さ」にある。純粋な巨匠たちの作品につねに見出されるあの特徴である。巨匠たちは自作の響きのなかにけっして「残り滓」を残さない」 

「ストラヴィンスキーがその音楽的能力の豊かさをあますところなく私たちに見せてくれるのは、「不協和音」の使い方においてである。そこでこそ彼は真に本領を発揮し、私たちを広大な知的陶酔におとし入れる」

「彼の作曲法は新しく&大胆である。オーケストラの使い方が「ぼやけている」ことはけっしてない。「オーケストラの穴」と「もや」を避けながら――後者は船乗りに負けないほど多くの音楽家を破滅におとし入れる――彼は自分の望む方向に突き進む」

「ストラヴィンスキーのオーケストレーションが、深く的確な楽器編成から生み出されるということである。彼の「オーケストラ曲」はあげて、楽器の音色を基盤に構築されている」

ストラヴィンスキーの創作活動はそのスタイルの変化において次の3つの時期に区分される。
1.ロシア時代(1910-1918)
2.新古典主義時代(1918-1950)
3.セリー時代(1951-1971)

ロシア時代においては、リムスキー=コルサコフ的なエキゾティズムと色彩感あふれる管弦楽、幾つかのブロックを組み合わせたキュビスム的な構造、鋭い輪郭を持った旋律、二つの調を重ね合わせる複調、不協和音、絶え間なく変化し続ける拍子、原始主義的な荒々しさなどを特徴とし、ロシア・バレエ団のために書いた「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」といったいわゆる三大バレエ音楽が代表的な作品である。この頃の作品を通じてロシア音楽の諸要素は多くのモダニストの共有するところとなっていった。
20世紀の音楽はそれまでの音楽の既成概念を覆す試みがなされたが、シェーンベルクによる「調性」の破壊と未来派による「楽音」の破壊と並んで特筆されるのはストラヴィンスキーによる「拍子の一定性」の破壊である。

そして1918年からストラヴィンスキーは新古典主義に転向した。この新古典主義は、ロマン派以前の音楽が備えていた客観性や明晰さに回帰するもので、音楽からロマン主義的な主観性や感情を排し、均整の取れた形式や合理的な手法を重視する。そしてこの年、ジャン・コクトーは「雄鶏とアルルカン」を書いた。
ストラヴィンスキーの新古典主義は「兵士の物語」やペルゴレージの作品をアレンジした「プルチネルラ」から始まる。これらの作品は様々な音楽様式がコラージュのように引用され、並列され、耳慣れた素材を用い、引用とアレンジだけで作曲する試みであった。しかし、そこには巧妙なパロディ化がなされてもいる。ストラヴィンスキーの新古典主義は単なる懐古趣味ではなく、音楽史の終焉を見つめながら、進歩的歴史観と独創性を否定し、既知のものを微妙な文脈のずらし方によって換骨奪胎することで独自性を生み出そうとするものであった。
ストラヴィンスキーは、古典主義とロマン主義に結びつけて秩序と無秩序、普遍主義と個人主義、服従と不服従といった対立概念を論じた。「普遍主義は必然的に既成の秩序への服従を定める。その理由は十分納得のいくものである」とストラヴィンスキーは言い、あるひとつの様式、個々人の表現を総括する時代の集団的な表現を通してのみ、芸術家は、「ひとつの文化を構成しているこの伝統の束」に参与することができると考えた。ロシア時代に自らも破壊に加担した秩序を再構築するためにストラヴィンスキーは古典主義を見い出したのである。

ジャンケレヴィッチはストラヴィンスキーの新古典主義への転向について次のように書いた。

「のちにストラヴィンスキーが『春の祭典』のアジア趣向、『ペトルーシュカ』のロシア主義、『結婚』の民俗調を否認するとき、それはムーサたちを支配するアポロに到達するためだった。ギリシアには、たしかに、この音楽家は民族舞踊のリズムあるいは民謡を認めず、遍在と理想境とから成り立っている現状離脱を求める」

しかし、このようなストラヴィンスキーの新古典主義はアドルノによって批判されることになる。「シェーンベルクの進歩」そして「ストラヴィンスキーの復古」は、19世紀のヴァーグナー派とブラームス派の論争さながらに展開されていくことになる。

「彼らはかつて彼らの青春を充たし、彼らの魅力の種であったものに、多少とも公然と背を向けてしまったのであった。彼らの復古主義的な試みは、二三の改宗したシュールレアリスムの画家たちのそれと同じように、文化哲学的な思惑から新音楽の概念そのものと手を切ってしまっている。彼らは永遠の音楽という幻を追っているのである」

シェーンベルクの死後1951年からストラヴィンスキーは音列(セリー)技法を用いた作品を書くようになり、ウェーベルンを「音楽的対象と我々自身の間の新しい距離の発見者 音楽的時間に対する新しい尺度の発見者」として賞賛するようになった。この転向については1948年にシェーンベルクやウェーベルンの信奉者でもあったロバート・クラフトと出会い、彼をアシスタントにしたことも影響したかもしれないが、シェーンベルクの十二音技法がウェーベルンや彼の後継者たちによって、ひとつの集団的な音楽現象となり、様式の普遍主義を備えていたことが認められたということがあった。

ブークールシュリエフは次のように書いている。彼はストラヴィンスキーの変化の中に様式上の秩序を求める根源的な要求があるとし、そこにストラヴィンスキーの統一性を見い出した。

「ストラヴィンスキーが音列の原理の中に、彼自身の相変わらぬ要求にも開かれた、新しい領野を認識していたということである。その要求とは、様式上の秩序を求める根源的な要求であり、彼にとっては作曲ということであるこの想像力の力を自由に行使することのできる、厳密な約定の網の目を設定する――あるいはあらかじめ設定しておく――必要である」

ストラヴィンスキーの音楽はしばしばピカソの絵画との類縁性について語られる。例えばブーレーズは次のように言っている。

333_1939_cccr「画家たちと音楽家たちの照応関係は、20世紀においていっそう顕著であるように思われる。
ストラヴィンスキーとピカソとの並行関係はひとつの典型である。彼らは緊密なやり方で一緒に仕事をしはしなかったが、『プルチネルラ』は舞台における共同作業の一例としてあらゆる人々の記憶に刻み込まれている。まったく同様に『ラグタイム』の表紙は完全な共生のモデル例である。ロシア・バレエ団の残したイメージがあまりにも強烈であり、あまりにも強力だったので、彼ら二人の名は、いわば接合されてしまっている。それも、ストラヴィンスキーの有名なバレエ音楽『狐』、『春の祭典』、『花火』、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『夜うぐいすの歌』、『結婚』が、他の画家たち、ラリオーノフ、リョーリフ、バルラ、ゴロヴィーン、ブノワ、マティス、ゴンチャローヴァとの共同作業で実現されたにもかかわらず、である。ストラヴィンスキーとピカソにおいては、同じ時期における彼らの軌道の根本的な類似性を否定することが不可能だからだ。『春の祭典』と『アヴィニョンの娘たち』の間には、同じ態度、同じ視点が観察される。もっと後になって、『プルチネルラ』は新古典主義の始まりを画しているが、そうした新古典主義はストラヴィンスキーにもピカソにも同じようにはっきりと認められる。もっと以前では音楽史や絵画史から「引用された」モデルの同じような扱い方が見い出される。明らかにドラクロワから出発したピカソは、『放蕩児の遍歴』の作曲に際して『ドン・ジョヴァンニ』を念頭に置いていたストラヴィンスキーと比べられる」

それでは、ストラヴィンスキーの音楽と文学の類縁性はどこに見い出せるか。例えばエズラ・パウンドは「ストラヴィンスキーは、ぼく自身の仕事の面でいろいろと学び取ることができる唯一の現存する音楽家である」と言い、T.S.エリオットは「春の祭典」を聴きに行き、それについて次のように書いている。

「ストラヴィンスキーの音楽が永続的なものか短命なのかどうか、ぼくにはわからない。しかし、その音楽は、踊りのステップのリズムを、自動車の警笛のけたたましい音や、機械類の騒々しい音や、車輪のきしる音や、鉄や鋼を打ちつける音や、地下鉄の轟音や、さらには現代生活の他の野蛮な叫び声と化しているように思われる。しかもこれらのどう仕様もない騒音が音楽と化しているのである」

エリオットのストラヴィンスキー体験は彼が「荒地」に着手する直前のできごとであった。「過去と現在、古代と現代とを重置する方法、つまり神話や伝説や古典からの断片的な引用や引喩のコラージュによって構成され」た「荒地」はキュビズムや映画のモンタージュ技法との類縁性が指摘されることが多いが、ストラヴィンスキーの音楽からも深い影響を受けたと見ることもできる。

 四月は残酷きわまる月だ
 リラの花を死んだ土から生み出し
 追憶に欲情をかきまぜたり
 春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。
 (T.S.エリオット「荒地」西脇順三郎訳)

エリオットが「伝統と個人の才能」を書いたのは1919年のことであった。

「祖先から後世へ伝えるという伝統のただ一つの形式が、すぐ前の世代に属する人たちの残した成果をめくらめっぽうにさもなければおそるおそる守ってそのしきたりに追従することだとすれば、「伝統」はきっと力を失ってしまう。こういうたくさんの単純な流れがほんのしばらくのあいだに砂の中に埋もれてしまうのをわれわれは実際に見てきたが、新しい変わったものはくりかえしよりもましである。伝統というものはこれよりはるかに広い意義を持つものだ。伝統を相続することはできない、それを望むならば、たいへんな労力を払って手に入れなければならない。伝統はまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることを続けたい人なら誰にでもまあ欠くべからざるものであるといってよい歴史的意識を含んでいる。この歴史的意識は過去が過去としてあるばかりでなく、それが現在にもあるという感じ方を含んでいて、作家がものを書く場合には、自分の世代が自分の骨髄の中にあるというだけでなく、ホーマー以来のヨーロッパ文学全体とその中にある自分の国の文学全体が同時に存在し、同時的な秩序をつくっているということを強く感じさせるのである。この歴史的意識は一時的なものに対する意識でもあり、永続的なものに対する意識であり、また一時的なものと永続的なものとをいっしょに意識するもので、そのために作家が伝統的になれるのだ。またその歴史的意識によって作家は時代の中にある自分の位置、自分の現代性をきわめて鋭敏に感じることができるのである」

ストラヴィンスキーは1939年からアメリカに渡り、大学で教鞭を取りながら、機会があれば自作の指揮や演奏をしていた。1969年にはニューヨークに移り、その2年後の1971年に死去、ヴェネチアに葬られた。

「「イゴール・ストラヴィンスキー」彼はゆっくりと読んだ。「確かに、そうだ」同じようにゆっくり読んで、サクソン人が言った。「彼は、この墓地に葬られることを望んだらしい」アントニオが応じて、「優れた音楽家だが、時折、その楽想に非常に古めかしいものが感じられる。彼は有りふれた題材に想を求めた。たとえばアポローン、オルペウス、ペルセポネー、……。こんなことが、いつまで続くのだ?」「彼の『オイディプース王』を知っている」とサクソン人が言った。「第一幕の終わりの、グローリア、グローリア、グローリア、オイディプース・ウクソル! という個所はわたしの音楽にそっくりだと聞いた」「それにしても、ラテン語のテキストに基づいて異教的なカンタータを作るという妙なことを、なぜ思いついたのだろう?」とアントニオが言った。ゲオルク・フリードリッヒが、「当地のサン・マルコ寺院でも彼の『聖歌』が歌われたとか。つまり、われわれがとっくに捨てた中世風のメロディーが、いまだに聞かれているわけだ」「前衛と呼ばれている音楽家が、過去の楽匠たちがやったことに強い関心を示しているということだな。時にはそのスタイルを蘇らせようとさえしている。そういう意味では、われわれのほうがモダンでもある。わたし自身は、百年前のオペラや協奏曲がどんなものだったか、そんなことは、これっぽちも気にならない。自分の才能と感覚にしたがって、わたし自身の音楽を作る。これで十分だと思っている」(アレッホ・カルペンティエール「バロック協奏曲」)

→ジャン・コクトー「雄鶏とアルルカン」(「ジャン・コクトー全集4」東京創元社所収)
→「ニジンスキーの手記」(現代思潮社)
→「エリック・サティ文集」(白水社)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)
→Th.W.アドルノ「不協和音」(平凡社ライブラリー)
→ブークールシュリエフ「ストラヴィンスキーの統一性」
 (ユリイカ1978年8月号特集=現代音楽)
→ピエール・ブーレーズ「クレーの絵と音楽」(筑摩書房)
→富士川義之「音楽と神話 パウンドとエリオット」
 (現代思想臨時増刊総特集=1920年代の光と影)
→T.S.エリオット「伝統と個人の才能」(「文芸批評論」岩波文庫所収)
→T.S.エリオット「荒地」(「世界文学全集48世界近代詩十人集」河出書房新社所収)
→アレッホ・カルペンティエール「バロック協奏曲」(サンリオSF文庫)


ヴィシネグラツキー

2007-09-15 13:38:22 | 音楽史
WyschIvan WYSCHNEGRADSKY
24 PRELUDES Op.22 INTEGRATIONS Op.49
 
Henriette PUIG-ROGET(P)
藤井一興(P)

20世紀初頭のロシアの前衛的な音楽家たちは調性音楽からの脱却と新たな音素材の確立をめざしてさまざまな実験をおこなった。スクリャービンの音楽を広く知らしめることに功績のあった当時の音楽学者レオニード・サバネーエフも「音楽が独自の音楽素材を刷新して初めて、新しいイデオロギーを表現することができる」と主張していた。騒音の導入や新しい記譜法、合成和音などによるシステマティックな作曲法などとともに、半音のさらに半分の音程である四分音などの微分音を用いることによって和声を拡大する音楽的実験もマチューシンやルリエーなど、当時の前衛的な音楽家たちが深い関心を寄せたものであり、1923年にはゲオルギイ・リムスキー=コルサコフによって「ペトログラード四分音音楽協会」が組織された。

ニコライ・クリビーンは1908年に「生の基盤としての自由芸術―調和と不調和」を書いた。彼は1908年に印象派グループを組織し、翌年解散した後に1910年に発足する「青年同盟」の結成に貢献、以降は「青年同盟」の周辺で活動した。1914年にイタリア未来派のマリネッティをロシアに招いたのはクリビーンであった。
クリビーンは神智学やスクリャービン、あるいはカンディンスキーが主張していた音と色彩の関係論に関心を抱いていた。彼は人間の生は「調和と不調和の相互関係の戯れおよび両者の闘争によって条件づけられている」とし、次のように書いた。

「私は自分の研究にもとづいて、音楽の音階におけるのと全く同様に、スペクトルにおける、色階における協和性と不協和性を決定することが可能だと確信した。
こうしたことを前提として、私はスペクトルにおける隣接色の結合と、音階における隣接音の結合が、生および芸術に対して持つきわめて特殊な意味に注意を促してきた。ちなみに私が階調というのは、間隔のせまい階調のことである……
そこで次のように言えるだろう。つまり、私が「密接な結合」と呼ぶこうした現象、およびそうした密接な結合の操作によって、あらゆる種類の自然像および主観的経験の像を、絵画や音楽や他のあらゆる芸術部門において描き出すことが可能である、と」

またクリビーンは「自由な音楽」と題された論考も書いた(これは1912年に発行された「青騎士」にも掲載された)。そのなかでクリビーンは従来の全音階や半音階よりもさらに感覚の狭い階調である微分音の使用によって、着想に完全な自由が与えられ、音楽の描写力が拡大し、自然の音を真似たり、人間の心の動きを描写することがより完全にできると主張した。

「自然の音楽――光、雷、風のざわめき、水のたてる音、鳥達の歌――は、どんな音を選ぼうと自由だ。ナイチンゲールは、現在の音楽の楽譜どおりに啼くばかりでなく、自分に心地よいあらゆる啼き方をする。
自由な音楽は、自然の音楽や自由の芸術すべてと同じく自然の法則にしたがう。
自由な音楽の芸術家は、ナイチンゲールと同じく、全音と半音に限定されることはない。1/4音や1/8音もつかい、音を自由に選択して音楽にする」

「狭い結びつきの振動、その進行、そのさまざまな演奏によって、光や色や生きとし生けるものの描写が、通常の音楽の場合よりはるかに容易に可能となる。抒情的気分の獲得も、もっと簡単になる。
狭い結びつきによって、さまざまな特別の色彩面から成る音楽的な形象も創造され、これらの色彩面は、新しい絵画に似て、流れゆく和声とひとつに溶け合う」

こうした微分音を用いた音楽を生涯をかけて追求したのがイヴァン・ヴィシネグラツキー(1893-1979)であった。
ヴィシネグラツキーはペテルブルクに生まれた。彼が音楽に関心を抱いたのは17歳の頃で、大学では数学や法学を学びながら、銀行家でアマチュア音楽家でもあった父親から手ほどきを受けた後、1911年にペテルブルク音楽院に入学し、ニコラス・ソコロフの下で、和声学と作曲、管弦楽法を学んだ。ソコロフを通じてスクリャービンの音楽を知り、それに深く影響を受けたヴィシネグラツキーは、「宇宙の意識」に表現を与えようと試みた。1916年から1917年にかけて作曲されたオラトリオ「存在の一日」は「人間の意識ががもっとも原始的な形式から宇宙の意識という最終段階へと成長することの反映を意図」したものであった。ヴィシネグラツキーにとって、このような意識の発展を音楽的にとらえるために和声を拡大することが必要となり、四分音や十二分音といった微分音を用いた作曲を試みることになった。1918年の「四つの断片」作品5はその最初の作品である。
ロシア革命後の混乱を避けるため、ヴィシネグラツキーは1920年にパリに亡命した。1922年から1923年の間はベルリンに滞在し、数人の仲間と共同研究を進めながら四分音ピアノの試作をおこなったりもした。この共同研究は1926年に中断され、ヴィシネグラツキーはパリに戻ったが、四分音ピアノの開発には引き続き取り組んで1929年に完成した。1934年には1オクターヴ内にある24の音を体系的に使用した「24の前奏曲」作品22を作曲し、1967年にはトーン・クラスターを多用した「アンテグラシオン」作品49が作曲された。
ヴィシネグラツキーにはメシアンのような支持者もいたが、彼の作品が演奏される機会も生前は少なかった。

→J.E.ボウルト編著「ロシア・アヴァンギャルド芸術」(岩波書店)
→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社) 
→カンディンスキー/マルク編「青騎士」(白水社)


ロスラヴェッツ

2007-09-14 16:21:39 | 音楽史
HamelinRoslavets Piano Music
 
 
 
Marc-Andre Hamelin(P)

RosceROSLAVETS
Complete Music for Cello and Piano
 
Alexander Ivashkin(Vc)
Tatyana Lazareva(P)

ニコライ・ロスラヴェッツ(1881-1944)はウクライナに生まれた。1886年からクルスクの音楽学校で音楽の勉強を始め、幼い頃から地元のローカルバンドでヴァイオリンを演奏していた。1902年からモスクワ音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、バイロンの詩劇に基くカンタータ「天国と地獄」で銀メダルを獲得した。1912年に音楽院を卒業してからロスラヴェッツはロシアの前衛芸術家たちと交流するようになり、マレーヴィチとも親交を結ぶ。1915年と1916年にはロシア未来派の雑誌に楽曲が掲載され、ロスラヴェッツはモソロフやルリエーとともに、前衛的な音楽家として知られるようになった。1917年のロシア革命後はウクライナの音楽院で指導的な役割を果たし、1924年にモスクワに戻ってからは国立出版局で「音楽文化」という雑誌の編集に携わり、ACM(現代音楽協会)の中心的な存在の一人としても活動した。
1927年の革命10周年を記念するセレモニーではカンタータ「十月」が演奏されるなど、ロシア革命を歓迎し、革命とともに歩んでいたはずのロスラヴェッツであったが、スターリンの台頭以降はRAPM(ロシア・プロレタリア音楽家協会)からブルジョワ的であるとか、反革命的であるとか、あるいは人民の敵であるとして攻撃されるようになった。1930年にそれまでの芸術活動を自己批判するよう強要され、モスクワを追われたロスラヴェッツは、タシケントでウズベク国立劇場の指揮者兼作曲家やウズベク放送局のディレクターを勤めた。1933年にモスクワに戻ってからも放送局のプロデューサーや軍楽隊やジプシー・アンサンブルの指導者といった重要でないポストをあてがわれ、不遇のままその生涯を終えた。

ロスラヴェッツはスクリャービンの後期様式の影響を受けながら独自の音体系を確立するに至った。それは「合成和音」と呼ばれ、十二音技法に類似していることからロスラヴェッツは「ロシアのシェーンベルク」と呼ばれたこともあった。この合成和音について高橋悠治は次のように書く。

「かれの命名した合成和音(Synthetakkord)とは、平均律の十二半音についての二進法的(イエスかノーの)決定である。唯一の十二音和音の部分集合として、八音以上から成る合成和音の表が作成され、選ばれた和音は移置によって変型される。後には移置される音度の集合が、合成和音自体と対応するという方法がとられる」

また、高橋悠治はロスラヴェッツについて、スクリャービンと対比させながら次のように書く。

「作曲家ではなくて音響組織家と自称したロスラヴェッツは、スクリャービンのように神秘主義イデオロギーや、特定の和音への偏愛を持たなかった。一見スクリャービンと区別しにくいピアノ曲でも、音響に対してはより客観的であり、多彩である」

ロスラヴェッツはこの合成和音に作品の全和声構造を決定させた。この新しい音体系は明晰で合理的なものであり、ロスラヴェッツはこの音体系によって音楽の源泉をインスピレーションに求める観念主義をのりこえようとした。ロスラヴェッツは「創造行為とは、何か神秘的な『トランス』でも『神からの』『啓示』でもなく、『無意識のもの』(意識下にあるもの)を意識した形にするために、人間の知性を最大限に集中させた瞬間である」と考えていた。

→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社)
→高橋悠治「ことばをもって音をたちきれ」(晶文社)



アルトゥール・ルリエー

2007-09-11 17:32:18 | 音楽史
LourieARTHUR LOURIE
STRING QUARTETS/DUO
 
 
UTRECHT STRING QUARTET

アルトゥール・ルリエー(1892-1966)はペテルブルクに生まれた。ペテルブルク音楽院でピアノと作曲を学んだ。旧弊なアカデミズムに飽き足らず、ドビュッシーやスクリャービンの音楽に影響を受けつつ、実験的な音楽をつくるようになった。ルリエーは前衛的な芸術家たちと密接な交流を持ち、アレクサンドル・ブロークの友人としてアクメイズムにも通じていたし、ロシア未来派のグループにも加わり、彼らの雑誌に寄稿したり、マヤコフスキーやアフマートヴァの詩に音楽を付けたり、フレーブニコフの舞台のための音楽を担当したりした。
Figlou 
ルリエーは1914年にピアノ曲「ジンテーゼ」を作曲した。この曲は高度な半音階的作品で、十二音それぞれに体系的な同等性を与えるまでには至っていないものの、十二音技法の初期の例とされている。その翌年には「大気のかたち」を作曲した。この曲は、ピカソに献呈されたことからも示されるようにキュビズムの影響を受け、その楽譜はページ全体にテンポの示されていない断片をいくつか配置したもので、図形楽譜を用いた最初の例とされている。

ロシア革命後、ルリエーは教育人民委員会の音楽部門の責任者となったが、ベルリンを訪問した1921年にそのままロシアへ帰らずに亡命した。翌年からパリに移り、そこでストラヴィンスキーと交流するようになった。この時期からルリエーはロシア音楽のルーツをさかのぼるなど、次第に前衛的な作風から新古典主義的なものへと音楽のスタイルを変化させていった。ユダヤ人であったルリエーはナチの台頭を機に、1941年からアメリカ合衆国に渡り、1966年プリンストンで死去した。

→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社)



ロシア未来派の音楽

2007-09-09 21:27:23 | 音楽史
FutuRussian Futurism
 
 
 
 
 
Photo_3SOVIET AVANT-GARDE 1
 
 
 
Steffen Schleiermacher(P)

「後進国は先進諸国の跡を追わざるをえないが、しかし事物を同一順序にしたがってうけとりはしない。歴史的立ちおくれの特権は――かかる特権が事実存在する――一連の中間的段階全体を飛びこえ、すでに用意されているものはすべて特定の日付に先んじて採用することをゆるし、それどころか、むしろそうすることを余儀なくさせる。蛮人たちは、とつぜん彼らの弓と矢をすてて銃をとる」(トロツキー「ロシア革命史」)

トロツキーはこのような発展の諸段階の集合、個々の段階の結合、古い形態とより現代的な形態とのアマルガムのことを「複合的発展の法則」と呼んだ。19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシアでは、ネオナショナリズム、象徴主義、原始主義、アクメイズム、未来派など、様々な芸術運動が興り、1917年のロシア革命に先駆けて、それまでの芸術を覆していく芸術革命が急速に進み、様々な実験が試みられたことによって、ロシア芸術は一挙に前衛に躍り出ることになった。

こうした芸術運動の思想的背景にはソロヴィヨフの哲学がある。彼は対立するものを総合していくことで、その先にユートピア的な理念を見、芸術を、物質界を精神界の不滅の世界に参加させることのできるものととらえた。芸術家たちはそれを受け、芸術は生活と対立するものではなく、生活そのものを創造するものであると主張するようになった。そして、このような芸術観は社会主義リアリズムにおいても受け継がれていくのである。

それでは、この19世紀末から20世紀初頭にかけての芸術運動にあって、音楽はどのような位置づけがなされてきたのであろうか。象徴主義においては、音楽はすべての芸術の最終目標とされていた。しかしながら、この場合の音楽は極めて理念的なものであり、芸術の一形式としての音楽のことでは必ずしもないのであって、このことは象徴主義の理念を音楽で表現しようとしたスクリャービンに対し、象徴主義の文学者ベールイがむしろ嫌悪の念を抱いていたということからも示される。そして象徴主義から未来派へという流れの中で、音楽はその位置を視覚芸術へ譲り渡すことになった。ロシアの芸術革命は絵画芸術の革新から始まり、未来派の詩人フレーブニコフは「言葉が絵画のあとを追って大胆に歩み始めることを望んでいる」と言った。

ロシア未来派が「社会の趣味への平手打」と題された宣言とともに活動を開始したのは1912年。この宣言に署名したのはブルリューク、クルチョーヌイフ、マヤコフスキー、フレーブニコフの4人であった。過去を拒否し、アカデミーやプーシキンを象形文字よりもわかりにくいとして顧みず、自由に派生した言葉で辞書の語彙を拡大させ、言葉の新しい未来の美を見つけ出そうとしたロシア未来派は、「理論的深化という抽象的で内面的な面と、アクションという具体的で外向的な面とを合せもっており、この二面性はそのまま無意識とテクノロジーの二極性に通じていく」。「現在」の即興性と同時性に依拠しながら、異質なマチエールを組み合わせ、衝突させることで新しい芸術を志向した。そして1913年にオペラ「太陽の征服」が生み出されたのであった。
このオペラは、クルチョーヌイフが台本を担当し、マチューシンが音楽を担当し、マレーヴィチが舞台装置と衣裳を担当し、ペテルブルクの前衛的な画家集団である「青年同盟」とモスクワの「ギレヤ」グループの合同により、ペテルブルクのルナ・パルク劇場で上演され、無調音楽と不条理な詩と立体未来主義のアマルガムとして重要な作品である。マチューシンはこのオペラの中心主題を「飛行機を含むテクノロジーの擁護」であり、「古いロマン主義と饒舌を嘲笑する深い内的な内容を持っており……美としての太陽についての古くさい常識にたいする勝利である」と述べた。そして、マレーヴィチはこの仕事を通じて、対象を持たない自立した芸術としてのシュプレマティズムへと歩を進めることとなった。
ロシア未来派は「技術の完成が人間のすべての欠陥を取り除いてくれると信じた。この運動は主としてその極端な激しさによって騒ぎを引き起こした。物体を破壊したり歪曲することによって、彼らはそれに新しい完成された形式を与えようとした」のである。ロシア未来派が与えようとした新しい形式とは、大石雅彦によれば「既成の秩序を否定しそれに等価物として自らを対置するもの」である。

「等価物は既成の秩序にはノイズや無規律なものとみえ、秩序の外部と映る。しかし、等価物は独自の表現秩序を持っており、ふつうそれは既成の秩序よりも未整序で広範なものである。既成の秩序を限定エコノミーとするなら、等価物のそれは一般エコノミーということになる。たとえば、ロスラヴェッツ、オブーホフ、ゴリシェフ、ヴィシネグラツキイの実験音楽は調性音楽に慣らされた当時の人々の耳には連続した雑音としか聞えなかったものの、それらにしても、十二音技法、絶対和声、四分音システムといった分節体系を備えていたのである」(大石雅彦「ロシア・アヴァンギャルド遊泳」)

1915年のスクリャービンの死に前後して、スクリャービンの音楽に影響を受けながら、新しい音楽を生み出そうとする音楽家が現れた。代表的な音楽家にルリエー、ロスラヴェッツ、モソロフ、ヴィシネグラツキー、オブーホフ、ゴリシェフらがいるが、彼らはスクリャービンの「神秘和音」を旋法的にも扱うところから十二音技法的な音体系を作りあげたり、音体系を微分音の領域にまで拡大したり(ゲオルギー・リムスキー=コルサコフによって四分音音楽協会が1923年に設立された)、電子音を用いたり、図形楽譜を試みたりした。また、イタリア未来派のような騒音芸術も実践され、1922年の10月革命5周年を祝う演奏会では、カスピ海艦隊から霧笛や大砲、機関銃や飛行機などが「楽器」として供給されたという。

しかし、こうした前衛的な芸術は1924年に革命の指導者レーニンが死去し、1927年にスターリンが台頭するに至って、前衛的な音楽家が属するASM(現代音楽協会)がRAPM(ロシア・プロレタリア音楽家協会)からブルジョワ的であると非難され、次第に攻撃と抑圧の対象となっていった。そして1934年に開かれた第1回全ソ作家大会で「形式において民族的、内容において社会主義的」という、いわゆる社会主義リアリズムが義務的規範であるとされるに至り、ロシアの前衛芸術は闇に葬られることとなった。

「一九三〇年頃から、ソ連音楽ではモダニズムの源泉が枯渇し始めていた。ロースラヴェッツやモソローフのような作曲家が、RAPMの攻撃を受けていた。ロースラヴェッツは扇動宣伝の歌曲を書いて身を守ろうと試みたが、一九三一年から三三年にかけてレニングラードやモスクワの音楽界から姿を消し、タシケントでウズベク国立劇場の指揮者兼作曲家やウズベク放送局のディレクターとして年月を過ごした。一九三三年にモスクワに戻ったが、放送プロデューサーや、軍楽隊講師、ジプシー・アンサンブル指揮者といった重要でない仕事に就いた。モソローフの場合はもっと悪かった。彼は一九三七年と三八年に強制労働の宣告を受けたが、結局流刑に減刑された。彼はモスクワやレニングラード、キエフなど大都市に住むことを禁じられ、民謡研究に専念した。
 民謡研究や重要でない官僚ポストは、一九二〇年代に活発だったモダニスト作曲家たちの典型的な転出先だった」(F.マース「ロシア音楽史」)

→L.トロツキー「ロシア革命史」(角川文庫)
→F.マース「ロシア音楽史」(春秋社)
→大石雅彦「ロシア・アヴァンギャルド遊泳」(水声社)
→水野忠夫「ロシア・アヴァンギャルド未完の芸術革命」(PARCO出版)
→ユリイカ1983年1月号「特集=ロシア・アヴァンギャルド」(青土社)