むらぎものロココ

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フランス六人組

2008-01-16 01:57:07 | 音楽史
Eiffel1Hommage a Cocteau
Les Maries de la Tour Eiffel
 
 
 
 
CslCOCTEAU, SATIE AND LES SIX
 
 
 
 

「私の年齢になりますと……若い人たちの友情は大きな支えになるのです。それは、この年齢の人間の習慣の石化……ミイラ化……骨化を防いでくれます……」(エリック・サティ)

ジャン・コクトーの台本とエリック・サティの音楽、パブロ・ピカソが舞台美術と衣裳を担当し、レオニード・マシーンが振り付け、ロシア・バレエ団によって上演されたバレエ「パラード」がすさまじいスキャンダルを巻き起こし、大評判となったのは1917年のこと。その頃からサティの周囲には若い音楽家たちが集まるようになり、「新しき若者たち」とか「若い新人たち」などと呼ばれるようになる。「パラード」上演の翌日、ルイ・デュレ(1888-1979)、アルチュール・オネゲル(1892-1955)、ジョルジュ・オーリック(1899-1983)は最初のコンサートを開いた。まもなくそこにジェルメーヌ・タイユフェール(1892-1983)が加わり、「若い新人たち」が形成されていく。当初はサティ自身もそのなかに加わっていたのだが、例によってすぐに脱会してしまう。しばらくしてダリウス・ミヨー(1892-1974)とフランシス・プーランク(1899-1963)が加わり、後に六人組と呼ばれる音楽家たちが揃った。こうした若い音楽家たちの活動をコクトーも支援し、1918年にコクトーは音楽に関するアフォリズムを散りばめた「雄鶏とアルルカン」を発表した。この書はオーリックに捧げられた。

「雄鶏とアルルカン」でコクトーはワーグナーのロマン主義、ドビュッシーの印象主義、そしてドイツとロシアからの影響で伝統を見失っていたフランス音楽の現状を否定し、サティの音楽を称揚した。コクトーは次のように書いた。

「ロシア音楽は、ロシアの音楽であるから賞賛に価する。ロシア式のフランス音楽とか、ドイツ式のフランス音楽は、たとえムソルグスキーから、ストラヴィンスキーから、ワーグナーから、シェーンベルクから霊感を受けていても、私生児たらざるを得ない。僕はフランスのフランス音楽を要求する」

「フランス趣味とエグゾティズムの混乱の只中にあって、キャフェ・コンセールは、英米の影響にかかわらず、かなり昔の面影を残している。そこに、放埓だが、やはり民族的な、ある伝統が保たれている。若い音楽家が失われた糸を再びとらえるのは、疑いもなくそこだ」

「サティは現代における最大の大胆、すなわち簡潔を教える。彼は誰よりも洗練することができる証拠を与えなかったであろうか。そこで彼はリズムを掃除し、自由にし、裸にする。これもまた、ニーチェのいったように、《そのなかで精神が泳ぐ》音楽に比べて、その上で《精神が踊る》音楽ではなかろうか」

「雲や、波や、水族館や、水の精や、夜の香などは、もう沢山だ。僕たちには地上の音楽、「日常の音楽」が必要なのだ」

「キャフェ・コンセールはしばしば純粋であり、劇場はいつも腐っている」

Les_six_2サティのもとに集まった若い音楽家たちはヴィユ=コロンビエ座などでコンサート活動を続けていたが、1920年1月、「コメディア」紙上に掲載された「リムスキーの本とコクトーのそれ。ロシアの五人組、フランスの六人組とエリック・サティ」と題された記事によって、彼らは「フランス六人組」と名づけられた。この記事を書いたのは作曲家であり、批評活動も積極的におこなっていたアンリ・コレであった。しかし、ここで「六人組」として紹介されたことはまったくの偶然であったという。彼らは音楽院の同級生であったり、親しい友人同士ではあったが、必ずしも共通した音楽的な主義を持っていたわけではなく、グループで活動しようという意識も希薄であり、いずれにせよ彼ら6人である必然性はなかった。実際、彼らのグループでの活動と呼べるものは、1920年にそれぞれがピアノ曲を持ち寄っての「六人組のアルバム」出版と、1921年にコクトーのバレエ「エッフェル塔の花嫁花婿」の音楽を共同で担当した程度であった。
その「エッフェル塔の花嫁花婿」の共同作業にしても、コクトーから音楽の依頼を受けたオーリックが単独では間に合わなかったため、六人組での共同作業となったというのが真相で、しかもその作業にはデュレは参加していなかった。1922年にジャック=エミール・ブランシュが描いた六人組のグループ・ポートレイトにもデュレの姿はなく、この絵が描かれた頃にはすでに六人組を離脱していた。

エリック・サティは六人組について次のように言った。

「《六人組》は、その美学からいって、……「エスプリ・ヌーヴォー」に属しています……
 私にとっては、……「エスプリ・ヌーヴォー」というのは、なによりもまず、――近代的感受性をもって――古典形式に回帰することを意味します……
 《六人組》のなかの何人かにおいてみなさんが出会うのは、そういう近代的感受性なのです……」

いわゆる「エスプリ・ヌーヴォー」は、アポリネールからル・コルビュジエへと引き継がれていったことで、キュビスムから派生した建築理論として一般的であるが、単純化された個々の構成要素の組み合わせが美と豊かさを生み出すといったことは、サティの音楽のように、要するに簡潔であれ、ということであろう。

もとより友情でのみつながっていた六人組にグループとしての終焉を定めることに意味があるのかは疑問であるが、サティとコクトーが書いた文章により、1923年とされる。

1923年にサティは次のように書いた。
「《六人組》といえば――その失墜、死にいたる失墜は何度か予告されたが――グループとしてはすでに存在しないことを私は認めざるをえない。要するに《六人組》はもはや存在しないのだ。
 しかし……六人の音楽家は存在する――単純に、六人の才能ある音楽家、独立した音楽家が存在するということだ。人がなにを言い、なにをなそうと(顔)、六人の個別的存在に異論をはさむ余地はない。
 この分離は当然のものであり、私の願望をあますところなく満たす。私はこれを予言していたのではなかろうか? いずれにせよ、グループとしての《六人組》の消滅は、現在の状況を明らかにする。それは「若い音楽」の精神的「態度」の等質性を回復させる。そして私がこれまでつねに言いつづけてきたことを、ほとんど勝ち誇ったようにくり返すことを可能にしてくれる――「《六人組》とはオーリックとミヨーとプーランクのことだ、と」」

そして同じく1923年12月12日、コクトーはラディゲの死に激しく衝撃を受け、阿片に溺れていく。コクトーに阿片中毒を治療するよう勧めたのがジャック・マリタンであり、コクトーはマリタンに宛てて手紙を書いた。「この手紙は「雄鶏とアルルカン」で始められた一つの環を閉ざす」と記されているが、その手紙には次のように記されている。

「この不幸(※ラディゲの死のこと)は、若い作曲家たちと一緒になって、エリック・サティを統領に、僕がフランス音楽を、その迷妄から救い出そうと努力していた永い一時期の終りになった。それまでフランス音楽は、自分の美しさの下に埋もれていた。そこへサティが現われて、音楽の世界の聖者としての生きた実例を示してくれた。(マリタンよ、君のおかげで、彼はキリスト教徒として死ぬことが出来た)。この筆舌に尽しようのない人物は、わざと自分自身にしかめ面をして見せていた。彼は、こうすることで、自分をいい男だと思いこんで、見惚れたりする大家先生の通弊から逃れようとしていたのだ。僕らは、彼が、形式の影の代りに、真の形式を置き代えるのを見た。彼はまた僕らに教えた、真に偉大なものは、偉大らしい様子を持ち得ないこと、真に新しいものは、新しい様子を持ち得ないこと、真に淡泊なものは、淡泊らしい様子を持ち得ないということを。彼はまた僕らに真の芸術家とは、アマチュア――即ち、辞書ラルースの完全な定義によれば、「職業にしないで詩を愛する人」だと教えてくれた。彼は指示した、老練な案内人がアルプスの峰々を指さすようにして、プロフェッショナルの大混雑の中に交って、お互いに手をつなぎ合うアマチュアの一列を。彼は僕らに夢解きと僕らの仕事のプログラムを与えてくれた」

六人組と呼ばれた若い音楽家たちは、無調から十二音技法へと向う音楽の潮流のなかで、大衆的な音楽を取り入れ、わかりやすく親しみやすい簡潔な音楽を作った。彼らはまた、当時の新しいメディアである映画とも結びつき、数多くの映画音楽を作った。

→O.ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→「ジャン・コクトー全集4」(東京創元社)



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