水と緑の街の勝手書き

多摩川の河川敷をうろついてその時の季節を感じたことや登戸の町の動きを勝手に書きます。

勝手に休んですみませんでした。

2012-10-27 10:58:43 | 日記
10月23日朝4時5分に父を亡くしました。
昨年10月におなかが痛いと言って入院したときにがんがわかっていました。その時お医者さんに「余命3か月から長くて1年」 と言われていました。

その時点で89歳でしたの体に負担をかける手術や対処療法はしない。 と家族で決めていました。

退院後ももう一人暮らしはできないでしょう。とお医者さんに言われましたが、さすが親父です11月に退院して正月は自分の家で生活すると言って見事その通りにしました。その後今年の9月23日までしっかり一人暮らしをしました。もちろん自炊で自分で食事を作って食べていました。大した親父です。
10月5日にいったん退院したのですが食事が食べられない、水も飲めないで8日に病院に連れて行ったら、そのまま帰れない人になってしまいました。

後半はどうも飯がうまくない、酒が飲めない とこぼすことはありましたが、月一回行く程度では対して愚痴や泣き言も言わない父でした。

腰が痛いからもう一度新潟の上野鉱泉に湯治に行きたいなあ。温泉に行きたいなあ  と言っていたのにかなえられなかったことが心残りです。

親父がいない親父の家に泊まって、荷物が結構あったはずだったのが押入れがカランとなり、自炊していた父が里芋が2個、ジャガイモが1個、毎日好きで1日一杯飲んでいたコーヒーのドリップフィルターがあと1枚、コーヒーが飲みきってなくなっている。いったいどこまで覚悟をしていたんだ!
薬を飲む水がなくなりそうになると自分が行ったときに「修、水買って来てくれ」と重たいものは予定して買い物を頼まれていたのに・・・フィルターだって前は買ってきたのに…今回は何にも云わなかった。

付き添いをした時も自分にも兄にも「どこが悪いんだ?」「何の病気だ?」と聞くことは一切ありませんでした。

認知症で何もわからなくなった母を残していくことも気にかけて「婆さんがあんなになったのに俺の方が先に行くなあ」と言っていました。

もう長く生き過ぎたから早く迎えが来てほしい と言って返事に困らせてことはありました田舎の土地の事、親父が植えた杉の木の事、戦争に行ったときのつらい体験、戦争から帰ってきておじいさんと二人暮らしはいやだと思ったこと、父の兄弟の事、庭に植えた柿の木が実をつけなくて気にしていること、いっぱい、一杯話したつもりだったのに・・・・  ぜんぜん足りない!

親父一生懸命生きたよね!ガンバッタ挑戦し続けた、子供に、孫に親父の生き方をしっかり見せてくれた。親父ありがとう。大好きだ。
親父が生きているときに親父に言うべきだったね!合掌

すみません、ここは親父がなくなったので今までブログを更新できていなかったとさらっと流すつもりでした・・・・つい・・・


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