月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「愛を読むひと」(「The Reader」)

2009年03月23日 | ◆ア行

スティーヴン・ダルドリー監督。なので、あのキラリと光る映画、『リトル ダンサー』の映像と、映画『めぐり合う時間たち』のテイストが合わさったような印象の映画でしたが、扱われている内容が重いこともあり、実に心揺さぶられる映画でした。

時は1958年。
街で具合を悪くして嘔吐していた少年に声をかけ、その嘔吐物を片付け介抱する女性。


(マイケル15歳=演じるのは、新人デヴィッド・クロス)


(ハンナ36歳=演じているのは本作でアカデミー賞主演女優賞を撮ったケイト・ウィスレット)

少年は猩紅熱にかかっていました。自宅療養の数ヶ月を経て回復した少年は助けてくれたその女性のアパートに花を持って尋ねます。

ハンナに助けられたことから彼女に恋愛感情を抱く少年マイケル。まさに、ツルゲーネフの「初恋」を思い起こさせられる場面。



少年の年上の美しい女性に憧れる思いや直情、そして戸惑い、その視線が捕らえた女性の肢体の美しさとそこから立ち上ってくる色香が、粗末なアパートの一室に差し込む光の柔らかさと相俟って、この辺りの映像がとても美しかった。

少年は、家族に心を見せない厳格な父親と夫に従順で息子を溺愛する母親という家庭の長男だった男の子から、いま、大きな一歩を踏み出そうという年齢に差し掛かっていたとはいえ、思春期の”春の目覚め”をまさに迎えたわけです。

この意外な展開に驚きますが、少年の”春の目覚め”に対して惜しみなく我が身を与える年上の女性というのではなく、粗末なアパートに住み暮らしながら30台半ばの独身女性が一人で働いて生きている・・・・1958年に30台半ばなら終戦の1945年には20歳ころで、戦争中はまさにこの少年と同じ15歳だったことになります。



この女性は終戦後の焼け跡と化したドイツ、あるいは他のどこかであれ物資もなく混乱期の中をどうやって一人で生きてきたのか・・・・それを思わざるを得なかったですね。家族や恋人は戦争で亡くなったのか、あるいは収容所で亡くなったのかと。いま、電車の車掌という仕事について一人で必死に生きている・・・
戦争中何も失うことなく生きていられた人間はいないはず。そうした時代を生きてきた女性だから、まるで余裕はない。少年のまっすぐな視線を浴びて何かが緩んだのでしょうか。相手が少年だからこそ緩んだのかもしれない。

ほどなく二人は年齢差を越えて恋愛関係になるのですが、セックスの前になぜかマイケルに本を朗読してもらいたがる女。朗読してもらうといかにも幸せそう。もしかしたら、文字が読めない?と観客は思いますが、彼女に嫌われたくなくて何も聞かないマイケル・・・
マイケルを演じている若手は、デヴィッド・クロスという俳優ですが、とても良い。

名前も知らないまま逢瀬を繰り返す二人。ある日、マイケルは彼女の名前を尋ねます。名前を聞かれて驚きながらも、彼女は「ハンナ」と答える。そして、母親のように年上の彼女は、マイケルを”ボク”と呼ぶ・・・・こうして二人の奇妙な関係が続いていきます。



過去に何か大きな傷を持つらしいハンナは、自分のことを何も語らず、マイケルは彼女を一度怒らせてしまったことで、以後、二度と彼女が望まないことはしない。彼女を失ったらもう生きていけないと思えばこそ怖くて出来ないのです。
彼女が喜ぶ朗読に自分の務めでもあるかのように実直に行っていく・・・ある日、「チヤタレー夫人の恋人」を朗読したとき、「その本はいや」と朗読をやめるよう語るハンナ。顔を上げると、「その本は下品だわ」と答えるシーンが印象的。それからというもの、マイケルはハンナが喜びそうな本を賢明に探しては彼女にそれらの本を朗読していきます。そんなマイケルの表情は喜びであふれ、他の少年たちとはかなり違うけれど、まさに甘酸っぱくて夢のような青春。そして、ハンナにとっても初めての青春時代・・・であるかのようで、二人のショットはみずみずしい。
1958年という画面に出た年代とハンナというドイツ名からしてナチスやユダヤ人収容所での体験を持った女性だろうかと直感しますけれど、彼女は何も語りません。
いつも部屋の中での逢瀬ですが、マイケルは彼女をピクニックに誘い出します。躊躇しつつも出かけるハンナ・・・・立ち寄ったレストランで「お母様と一緒にピクニックだなんていいわね」と言われるマイケルは、「はい」と答えた後、その店員の見ている前でハンナに恋人としてのキスをするシーン、ここも印象的でしたね。

このピクニックに二人で出かけるシーン、二人の人生の中で一番幸せで輝いていた日だったかもしれないですね。

いつもいっしょに過ごしていた二人でしたが、マイケルに新しい季節がやってきます。新しいクラスメイトたち、同年齢の女の子、友人たちが祝う彼のバースディ・・・・けれど、マイケルはハンナのアパートに駆けつけます。けれど、朗読の声の調子で彼の心がそこにないことを悟ったハンナ。「今日は、僕のバースディなんだ」と泣きそうな顔をして語るマイケルに、毅然とした声で「友人たちの祝うパーティに戻りなさい」と語るハンナ。
若いマイケルの今後・・・・彼の将来を考えハンナは彼の元から姿を消します。マイケルは衝撃を受けますが、探す術はありませんでした。



やがて大学生となり法学部に進んだマイケルは、少人数しか受講しない教授の講義を受講することに。その教授を演じているのは、なんとブルーノ・ガンツ!ドイツの誇る名優ですね。



彼は、教室で講義する代わりに学生たちを引き連れて戦後に長年続けられたナチスドイツの戦犯裁判に出かけます。

そこで、マイケルは思いもかけないハンナの名を耳にし衝撃を受け体が動かせなくなる。法廷に立たされていたのは、ナチスの収容所で監視員をしていたがためにその罪を告発されている女性たちでした。法廷で、収容所のことが次々に告発されていく中で、罪を否定し収容所での罪を擦り付け合う女性監視員たち。そんな中にあって、ただ一人良心の苦悩を抱え良心に基づいて正直に過去と向き合おうとして法廷に立っているのがハンナでした。

収容所で生き残った証人が女性監視員たちを告発を続ける中、あるユダヤ人の女性は、ハンナだけは他の監視員たちとは違ったと語ります。


(裁判で原告側の生き証人となる女=演じるのはレナ・オリン。彼女は、母娘の親子二世代を演じていますので、それも見ものですね)

けれど、この証言でハンナは他の元女性監視員たちから憎まれる。彼女たちは殺人共謀罪として裁かれようとしますが、ハンナこそが一番の責任者だったと罪をなすり付けられ、ハンナは窮地に立たされます。事実をありのままに語ってきたハンナはもとより自分の罪を認めています。ほかにどうしようもなかったとはいえ、囚人たちの”選別”をし、”選別された囚人たちはアウシュビッツに送られたのだ”から。けれども、”選別”の責任がハンナにあったと叫ぶ元同僚たちの挙げた証拠の文書と署名を見て、なぜかハンナは彼女たちの言い分を認めることを選びます。それは、死刑かよくて終身刑を意味する選択でした。

傍聴していたマイケルはハンナの状況を直感します。その書類は偽造だと。なぜならハンナは文字が読めず書けないからだと。マイケルは教授に、「被告の一人のことで有利な新証拠があります。彼女の減刑につながるような新証拠です」と相談すると、「君はその被告を知っているのか」と訊ねられ、思わず、「知らない人ですが」と答えるマイケルに教授の言葉は意味深でした。
やがて、マイケルはハンナの減刑をかけて証人として立とうとしますが、直前になって一人裁判所を後にします。



僕の行為を誇り高い彼女は喜ばない・・・・・それどころか、彼女は僕を憎むだろう。彼女は良心の声に従い他の人間はどうであろうと自分の犯した罪に対して贖罪の人生を送ることを選んだのだから。やがて、判決が言い渡される日がやってきます。傍聴席で見守っていたマイケル=デヴィッド・クロスの表情には、心が揺さぶられました。クラスメートや教授がいることも忘れて涙を流すシーン・・・・ヒース・レジャーに似ていると感じたのは私だけでしょうか。
そこのシーンは、是非映画をご覧いただきたいと思います。判決のその日、ハンナはかつての収容所での仕事だった囚人たちの監視員の服を来て法廷に立ちます。ナチめ!という罵声の中、判決が言い渡され、ハンナだけが殺人罪で裁かれるのです。

それから月日は流れ・・・



大人になったマイケルを演じているのがレイン・ファインズですが、はまり役のように見えて、実はハンナのような女性を愛した男性としてはイマイチ違和感が残りました。あまりに繊細すぎるせいかもしれません。


(大人になってからのマイケル=演じるのは、レイフ・ファインズ

輝かしい人生を送るはずだったマイケルの人生・・・・法学部でいっしょだった女子学生と結婚し娘をもうけていました。

けれど、結婚生活を破綻させ離婚し、誰にも心を開けないまま人生の時を重ねていたのです。

そんなマイケルが海外に留学していた成人した娘と再会し、両親の離婚と母親の生き方に否定的なために心を開けないままだった娘の苦しみを前にして、自分こそが心を誰にも開かずにきたのだと悟るのです。


(後年のマイケルの娘を演じているのは=ハンナー・ヘルツシュプルング)以前ここのブログでもご紹介しましたが、あの映画『4分間のピアニスト』の主演女優です)

「パパがずっと私と向きあってくれないのは、わたしのせい」と語り、愛を得られないできたのは自分が悪いからだと自分を責め続けてきた娘の孤独。だからこそ親から離れたところに行きたかったと語る娘を前にして、「悪いのは私の方だ。これまで自分の心を誰にも開かないできたパパの方だよ」と。数十年経って、初めてマイケルは自分の父親のように家族に心を開かなかった父親と自分が同じであったことに気づくのです。そして、どんなに娘を愛していたか。そして、ずっとずっと忘れられないでいた女性を思う自分の心を、マイケルは解き放っていく・・・・そうして、マイケルはあることを決心します。

それは、監獄の中にいるハンナに向かって本を朗読したテープを送ることでした。

彼は失った人生を取り戻すかのようにハンナにテープを送り続けます。何年も何年も・・・・・



刑務所の中のハンナはそのテープが誰から送られてきたものかを察し、何度も何度も聴きながら年を重ねていきます。そして、ある日、刑務所の中の図書室から借り出し、テープの音を聞き取りながら一音一音指で数え、本の単語の文字と照らし合わせ、これが文字なのだと発見していく・・・・



文盲(もんもう)だったハンナの世界に光明が差してきた瞬間でした。

この場面、胸が熱くなりました。文字が読めるということが人間にとってどんなに大きな意味をもつか思い起こさせられる場面です。三重苦のヘレン・ケラーが、water という言葉を発見した瞬間を思い出させられますね・・・・

そうして月日は流れ、ある日、テープに日々本を朗読し録音していたマイケルの元に一通の手紙がきます。



それは、たどたどしい文字で書かれたハンナから”ボク”へのお礼の手紙でした。
さらに驚くべき電話がマイケルの元にかかってきます。
その電話はハンナの釈放の知らせでした。

原作を読んでいないので、この映画のテーマをどう考えていいのか悩んだのは、本作のこの後の展開に違和感を感じさせられたからかもしれません。なので、本作のご紹介はここでやめておきます。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2009-05-24 09:26:48
「愛を読むひと」、この映画は観てませんが、
原作となっている「朗読者」なら、ずいぶん前に読んだ覚えがあります。
僕にとってそれは、考え深い作品というより、
身近な日常にみられる、充実感を共なった、
ひとときだったようにおもう。
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