月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「ディファイアンス」(「Defiance」)

2009年02月13日 | ◆タ行&ダ行

監督は、エドワード・ズウィック監督
日本人から観るとちょっと時代考証がヘンだった「ラスト・サムライ」でも、ディカプリオを死なせる「ブラッド・ダイヤモンド」でも、ラストの緊張感ある場面で静かに感動を呼び込むズウィック監督。
その仕上げまでの撮影を担当しているのは、ユダヤ人たちの森での暮らしの映像を戦闘シーンに負けない映像美で映し出したエドゥアルド・セラ・・・「真珠の耳飾の少女」は忘れがたい映像でしたね。そして、本作で重厚な交響詩のような音楽を担当していたのは、ジェームズ・ニュートン・ハワード
こうしてみると何と言っても硬派なスタッフという印象です。



1941年、ナチ政権下のユダヤ人強制収容所から脱出したユダヤ人たちがレジスタンスに合流したという話は聞き知ってはいたが、これほど多くのユダヤ人が脱出し隠れ住んだ森があり、そこで終戦までそして終戦後も生き続けた人々の物語があったなど信じられない思いで観ました。



本作は、親衛隊SSによるユダヤ人狩りがドイツ国外にも及び始めた時期、彼らが銃を手に自らの生存と自由を賭して戦ったという史実を忠実に再現したものだというだけあって、007のイメージとは程遠いダニエル・グレイブを始め皆かなり地味です。(もっとも、ダニエル・グライブ自身、もともとがアクション俳優ではなかっただろうと思いますが、007での魅力を本作でも発揮しているといえるかもしれませんね。)
アクションや戦闘シーンを期待していい映画ではないけれども、そうしたシーンが淡々と撮られているだけに実にリアリスティックな印象で、そこが共感を呼ぶエンターテイメントに仕上げているのかなと感じました。



そこで、銃を持って戦うことを決意した男たちは、普通の男たちでした。



このハレッツという人物を演じているのは、アラン・コーデュナー。森での暮らし・・・・、神への祈りや射撃訓練のシーンなど、さながらケビン・コスナーの「ロビンフッド」を思い起してしまったくらいで、特に射撃の訓練シーンには共通するものがあるように思いました。

デファイアンス・・・プロテストとは違う意味での「抵抗」という意味。人間の自由や尊厳を抑圧し奪うものに対して危険を無視して挑むほどの抵抗を意味する言葉です。

こちらが、妻子もナチに殺害された弟のズシュ・ビエルスキ。
リーヴ・シュレイバーが好演しています。

いいキャスティングだと思いました。
兄のダニエル・グレイブと戦法に対する考え方の違いから反目し、喧嘩して森を去りソ連軍と行動を共にすることになるのですが・・・・当時のソ連の赤軍もドイツ軍と闘っているのであり、ユダヤ人を守るために闘ってくれているわけではありません。

誰もどこも守ってはくれないというユダヤ人の歴史を思うと、何だか現イスラエルの軍事行動の心理的背景と重なって感じられてしまいます。
この森でも、彼らは、自分たちの生存権を死守するために、つまり生きるため生きていくために戦う道を選んでいく。
けれど、森での厳しい暮らしは難題だらけ・・・・

トヴィア・ビエルスキ(兄)=ダニエル・クレイグはナチに妻を殺害され、森に逃げてきたユダヤ人たちのリーダー的存在。
両親のみならず愛する妻もナチに殺されているという人物。
しかしながら、007とちょっと重なる設定ですが、復讐心を抱きながら強い意志と戦闘力を持つ男などではなく、現実に存在した普通の男性・・・・。ゆえに、そこには多くの人間的な側面が見え隠れし、まさに普通の男としての迷いや苦悩や弱さが共感を呼ぶのではないでしょうか。
そんな彼がリーダー的存在となっていくときに、その能力や資質に不満や疑問を投げかけられ異議が出されたり・・・・
実にリアルな人間関係の襞というか綾というか、そういったものが描かれているために観ているこちらもその場にいる一人になったかのように感じられてきます。

ぎりぎりの中で生きて戦う彼が森の暮らしの中で出会い求め合う女性を演じているのはリルカという収容所から逃げてきた女性。
アレクサ・ダヴァロスという女優ですが、音楽を学んでいたという経歴の感受性の豊かな女性で、彼をまっすぐに見つめる青い目が印象的でした。

ただ・・・・、仮にそれが事実だったとしても、ダニエル・グレイブに白馬に乗って人々に演説させるのはやめて欲しかった。何だか北の将軍様を思い起こされてしまって。。。。

そして、
兄弟の中で一番下のこちらの弟。



どこかで見たような・・・・

誰だろう・・・・と見入ってしまうほど好印象だったこの俳優。
このビエルスキ兄弟の末の弟アザエルを演じている青年が、あの「リトル ダンサー」のジェイミー・ベルだとは気付きませんでした・・・

彼が森で挙式するカップルを演じるのですが、
相手の可憐な少女ハイア役を演じているのは、
ミア・ワシコウスカという若手の女優です。
これも違和感のないキャスティングだったなあと。

史実の重み、そして事実の忠実な再現に意を砕いたという制作姿勢が、本作を地味ながらいい意味でのエンターテイメント性のある戦争映画にしているのだろうと思います。

ラストに静かな感動を集積する仕掛けをするエドワード・ズウィック監督、本作でもその辺は踏襲されているように感じました。
これを機会に、この映画で描かれた3兄弟の史実について、
じっくり知りたいと思いました。

 


「誰も守ってくれない」

2009年01月31日 | ◆タ行&ダ行

今週封切られたばかりなので、あまり書けないですね。
本作は随分宣伝広報に力が入れられているので、リベラの歌う主題曲「あなたがいるから」とともに紹介された映画の中のいくつかのシーンは、すでに皆さんのイメージの中に叩き込まれてしまっているのではないでしょうか。ゆえに、もう多くの方がストーリーをご存知かなと。正直な感想として本作は徹頭徹尾、そのリベラの歌の世界、つまり、祈りに行き着くような流れになっているので、リベラの起用が功を制したと言っても過言ではない、そういう作品に仕上がっていると感じました。
なので、ここでは出演者と登場人物のことを書こうかと思います。

まずは、佐藤浩市。言わずとしれた名優三国連太郎のご子息。実にいい俳優になったと感動を覚えました。彼の背中が物語っている重さが、この作品のテーマと言えるほど、本当に良い俳優を起用したなあと感服。
人生において昨日までの暮らしがいきなり破綻するようなことが起こったとき、その衝撃の只中に立たされてしまった人間なら誰でも体験する思い、「誰も守ってなんかくれないんだよ」
佐藤浩市が演じる勝浦刑事、彼のこの言葉の重さは、勝浦自身がそうした思いを抱えた人間の一人だからです。


(勝浦刑事を演じる佐藤浩市 48歳)

仕事での使命と責任を果たすべく努めている人間なら皆、守るべき家族守りたいはずの家族を守れないような状況に置かれるといった状況に立たされることもままあるに違いない。そうしたときの胸が圧縮されるような焦り、苦しさ・・・・に、外で働く仕事を持つ親なら一度は背筋が凍るような体験をするのではないか。特に
仕事で家に帰れないということのある仕事を持つ親なら、そうした体験のない人はいないのではないでしょうか。
勝浦は、事件の加害者の家族を保護するという仕事を命じられた刑事ですが、そのせいで自分の家族を自分で守りたくとも守ってやれない。不本意ながらも、そうした不条理の中でかろうじてバランスを取りながら、勝浦刑事は任務に付くわけです。

映画の公開に先立ってTV放映された「誰も守ってくれない」をご覧になった方なら、勝浦刑事が抱える背景はご存知でしょうが、刑事として、守るべき市民を守れなかったという事件の責任をずっとひきずっているわけです。


(学校にいる志田未来演じる容疑者の妹に、先生から連絡が入るシーンですが、台詞は一切無し。リベラの音楽だけが流されるという冒頭は実に見事な演出でした)

あまりにも凄惨な事件が多いいまの日本社会の縮図として、本作は事件が起こった場合に発生するもろもろの事象を同時発生的にに取り上げていくので、社会派ドラマであると同時にサスペンス仕立てのエンターテイメントになっているけれでも、事件の加害者家族と被害者家族を取り上げている点で、家族のドラマともいえる作品になっています。猟奇的な殺人事件を起した犯人(裁判で有罪が確定しない段階ゆえに”容疑者”という法的な呼び方をしている)が逮捕された後、容疑者の家族がどういう状況に置かれるか。
ちょっと頭をかしげる場面ではあるけれど、押しかけるマスコミが容疑者の家を包囲する中、容疑者家族は別々に事情聴取を受けるために別々に保護される中、未成年の15歳の妹を勝浦刑事が担当することになる。


(このマスコミ報道陣に取り囲まれるシーンの臨場感、日本映画では久しぶりに観たような気がします)

その15歳の妹沙織を演じていた志田未来。役柄の中学三年生の女の子と同じ15歳ですが、実にそのままというか、誰も守ってはくれないのだという状況になったなら、自分はどうなるか。そういったことをしっかり考えての演技になっていたのではないでしょうか。
さすが、「女王の教室」もとい「14歳の母」の女の子。

カメラが彼女の目を捉えるとき、
その目が凄まじく良かった!
志田未来の目の力でもありますが、
撮影担当の栢野直樹の力量ですね。

本作で空振りだったのが、こちら。
勝浦刑事のカウンセラー役の木村佳乃です。


(最近いろいろの意欲作に出ているなアと思う木村佳乃 32歳)

こういうシチュエーションでそういう台詞はないだろうと思われた台詞の責任は彼女にはないけれど、勝浦と沙織が身を潜ませていた彼女のマンションをマスコミにかぎつけられたとき、他所に移動する二人を見送るときの表情は、ちょっと浮いていたように感じられて残念な気がしました。
ただ、彼女のマンションのダイニングキッチンに置かれていたエスプレッソマシンと電気ポット、リビングのインテリアなどで玲子さんというカウンセラーのタイプが分かるようになっているので、インテリアに関心のある方にとっては見所の一つですね。

木村佳乃はイマイチの役柄でしたが、
凄みのある表情を思いがけなく見せてくれていたのはこちら。


(こちらもいろいろの作品でいろいろの役を演じている佐々木蔵之介ですが、まだ40歳なんですね)

容疑者の妹を保護してマスコミから逃げる勝浦刑事の顔を見て、数年前の事件を思い起こし、容疑者の家族からではなく、犯人の家族を保護する刑事である勝浦からインタビューを取ろうとするマスコミの記者。その執拗な取材ぶりを凄みをもって演じる佐々木蔵之介の役どころもまた、「誰も守ってくれない」の体験者。

いじめが原因で学校に行けなくなった子供を持つ父親として、いじめた生徒ではなくいじめられた生徒を切り捨てた学校の姿勢に、「誰も(我が子を)守ってくれない」といういまの日本の教育という現実に怒りを溜めつつ、学校に行けなくなった我が子を家に残して仕事をしている。彼もまた、こうした不条理の中であがき苦しんでいる親の一人。

そうした「誰も守ってくれない」という思いを抱く登場人物たちの思いが重なり交差する本作の中で圧巻なのは、何といっても「室井さん」のイメージを残しながらも、殺傷事件でまだ幼かった一人息子を失った父親を演じている柳葉敏郎の演技。


(数年前の事件の被害者の遺族を演じている柳葉敏郎。本作が制作されたときは47歳で、佐藤浩市より一歳年下ながら、老け込んだ感じが被害者の遺族として生きる時間の重さを感じさせるものでした。)

この柳葉演じる父親と佐藤浩市が向き合うシーン、二人の台詞はそのままお互いの胸を抉るものですが、そういう台詞を口にしなければならない双方の思い、双方の立場、それらに思いを馳せるとたまらなかったですね・・・

そうした状況の勝浦刑事に娘から電話でSOSが入る・・・・犯罪者の家族を保護しているためにマスコミが自宅に押しかけ境遇が一変してしまった中で「お父さん、帰ってきて」と叫ぶ娘。勝浦刑事の胸中を推し量ることのできる観客は幸いです。離婚寸前で崩壊しそうな家庭で一生懸命な娘なのに、帰れない帰ることができない父親というものに思いを馳せるとき、家族としてわたしたちは成長できるかも。

ところで、志田未来が演じた沙織、そして彼女の兄の容疑者の少年にも父親がいます。映画では冒頭に出てくるだけで、本作が進行している間どこかで警察の事情聴取を受けているはずという設定ながら、あの父親ではパニックになり娘のことなど頭にないだろうなぁ・・・とぼんやり思ってしまいました。

殺人事件を我が子が起してしまった親の気持ち・・・・
想像するだけで卒倒しそうになりますけれど、
我が子を守りたいと思う気持ちは、
奮い立たせなければ、闘う気持ちを持たなければ、
きっと何かに負けて失ってしまう気がします。
人間って、セルフィッシュで弱くて、
いつだって壊れる壊れ物だから。


(石田ゆり子、39歳。今年40歳になるんですね・・・・)

柳葉の妻役、同じ可愛い盛りの息子を事件で失った母親役を演じていた石田ゆり子ですが、本作ではリベラの歌声が一番染み入る存在でした。彼女の声と話し方、台詞・・・・、柳葉敏郎同様に、大変な緊張感を覚えました。脚本の良さですね。

本作は、脚本担当の君塚良一と音楽担当の村松崇継、そして、撮影担当の栢野直樹といずれも記憶に留めたいスタッフです。

こうしたシリアスなテーマを持つ本作が、エンターテイメントになっているのは、やはり以下の個性派のお二人ゆえでしょうか。


(佐野史郎、53歳。個性派俳優ながらいい役者さんになりましたよね。晴彦さんだったか、あの異様なマザコンン息子の役が思い出されますが・・・)

自分の判断ミスを部下のせいにして平気でいる厚顔さに加えて、組織の非人間性といった部分を体現しているあたり、”はまり役”の佐野史郎で、エンターテイメントの定番としてのキャスティングという印象を受けました。気負わずにこういう役を見事に演ってみせるのですから、さすがといっていいかも。

そして、もう一人はこちら。本作ではカーチェイスのシーンとラストでの車でのシーンでいい味を出して見せてくれていましたが、佐藤演じる勝浦刑事との相棒ぶりが「セスジ ガ コオル」という繰り返される台詞で表現されているところ、唸らせられますね。


(松田龍平 25歳。デビューした「ご法度」当時の顔とは随分違ってきましたね。あれからいろいろな作品に出ていますが、NHKの大河ドラマでは今回、伊達政宗を演じるとか、楽しみです。10年後が楽しみな俳優になりましたね)

15歳の志田未来が15歳の中学三年生を演じる中、その同級生のボーイフレンドの男子生徒を演じたのは、この富浦智嗣(さとし)という若手ですが、


(沙織のボーイフレンド役の富浦智嗣 17歳)

高校2年の娘が言うには彼は17歳だとか。それにしては幼いというか、中坊に見えました。声変わりしていないせいでしょうか。
はたまた演技力のたまものか。
匿名性のネット世界のおぞましさを印象付ける役でしたが、糾弾というものが匿名でなされるときの怖さ、そして劇場型で展開される2チャンネル社会というものを、私たちはどう考えどう対応していけばいいのか、考えさせられます。

少年法は改正されたけれども、未成年の犯罪をなくしていくには家庭や学校を構成する大人たちがどう変わればいいのか。我が子が被害者にも加害者にもならない社会をどうすれば作っていけるのか。組織の歯車などという古い言葉を持ち出しても始まらないけれど、仕事をして生きていくときに私たちが直面する問題の中で最大の矛盾、「家族のために働いている、その仕事のせいで家族が崩壊する」「家族を守りたくて仕事をしている、その仕事のせいでその家族を守れず失ってしまう」という状況とどう向き合い家族を守っていくか・・・・
言うは易く行うのは難しいことばかりです。
まさに砂漠に如雨露で水を撒く様な感じを抱かされることばかりですが・・・・考え続けていかないと、失ってからでは遅すぎる。覆水盆に帰らずです。


それにしても、冒頭から前半、一こま2秒という「ボーン アルティメイタム」同様の切り替わりのスピード感、そしてシャブ漬けになったチョット前の過去が嘘みたいな清涼感ではあったけれども、その松田龍平と佐藤浩市の両刑事の相棒ぶりなど、シリアスさと両立するエンターテイメント性でしたが、映画全体の統一感が損なわれていないのは脚本が良かったからでしょうか。良く出来た脚本だと思いました。ただ、佐藤浩市の勝浦刑事に歩かせるラストの演出は、「ああ、こういったところ、やっぱり日本映画だなあ」とちょっと残念で、もうちょっとどうにかならなかったかなあと。

末尾ながら、実は、個人的に「〇〇してくれない」という発想が普段あまりないせいか、映画のタイトルには少なからず違和感がありました。こういう「〇〇してくれない」という発想って、世界に通じるのでしょうか。

 


「地球の静止する日」(1951年)

2008年11月23日 | ◆タ行&ダ行

この瞬間、ああ、いかにも1950年代のSFかも・・・という先入観を抱いてしまいます。音楽も、昔の日本のSF映画をご覧になっていらっしゃる方なら御馴染みだったテルミン(音楽は、バーナード・ハーマン)が使われている(日本映画の方がそれを真似したのでしょうね。)ので、何となく既視感を抱いて観始めたところ、それがどうでしょう。



世界を騒がした円盤がワシントンに降り立つときのシーンなど、まるで記録フィルムを見ているような錯覚を持ってしまうほど。



円盤をぐるりと囲んだ軍隊の様子、それをさらに取り巻く群衆のこのシーンが何と全国にTV放映されるのですが、1950年代前半って、日本にはTVはまだ無かったのではないでしょうか。



映画『マーズアタック』と違って、宇宙人はほどなく円盤から姿を現し、英語で地球に来た理由を話し始めます。ハリー・ベイツ原作のSFの映画化ということですが、原作とはだいぶ違うそうなので、私は原作を読んでいないのでコメントできないのですが、本作は原作とは切り離してご覧になられた方が面白いように思います。



ところが、彼が兵士たちに近づき、アメリカ大統領に手渡そうとした親書だかプレゼントだかを武器と見誤った兵士が発砲してしまいます。すると、円盤から、



鉄人28号のような宇宙人が現れて、
何と一瞬の内に目から放った光線で、
戦車をふにゃふにゃのシートに変えてしまいます。

騒然としますが、負傷した宇宙人の命令で、ロボットは静止。
怪我を負った宇宙人は軍の病院に収監されて、
やがて大統領補佐官が彼を見舞い。そこで、
話し合いを持つのですが・・・


(当時61歳のフランク・コンロイ、大統領補佐官として貫禄十分です。)

主役でも主役級でもないこうしたところに半端な俳優を使わないのがいいですね。フランク・コンロイという戦前から活躍した1930年代を代表する名優です。ご覧の風貌でもお分かりいただけるようにたいへん知的な教養人で後に作家となり大学教授を勤めたり、さらにジャズピアニストでもあります。こういう人物を大統領補佐官として配するところ、ニクイです。


(本作が映画デビューとなったマイケル・レニー)

ところが、クラトゥと名乗る宇宙人は、一国の代表とだけ話し合う気はないと宣言。地球を代表する人物と話したいと言う。補佐官は、世界の情勢を説明し、必ずしも期待には答えられないかもしれないと答えてその場をさりますが・・・・1950年代はまさに≪冷戦下≫で、案の定というか、ソ連側はモスクワで会議が開催されるなら出席するといい、反ソ連の国々は、モスクワで開催されるなら元首は欠席することになるいう返事。

クラトゥは、地球のことをどうするか決める前に、地球の一般人と接触して答えを見出すことにし、銃で撃たれた傷もたった一日で回復し、どこから出たのか厳重に監視された病院から姿を消します。
政府は、戒厳令を発し、彼の行方を探すことになるのですが、

クラトゥは、市民の中に入り込みながら、いろいろな人物と接触し交流していく中で、何とか地球全体を代表し得る人間たちが集まることができないかを模索。

街を歩いているときに下宿先を見つけそこに住み、下宿人たちと交流していくことになるクラトゥは、知的で温厚な紳士そのもの。


(名子役、かならずしもいい俳優になるわけではない一例でしょうか)

やがて父親のいない少年と友達になるクラトゥも、なかなか良かったです。この子役が実に子供子供した少年で、当時のアメリカの子供ってこんな感じだったのだろうなと。ビリー・グレイと言う子役の少年。

その彼を通じて、近所に住む世界的に高名な博士の存在を知ったクラトゥは、彼に会いに行きます。
この配役もまた心憎い・・・・



サム・ジャッフェという俳優です。フランク・コンロイとほぼ同じ頃の1891年生まれなので、本作ではちょうど60歳。実にいいお顔です。今年になって観たり観直したりした映画にも結構出演していました。味のある脇役で、いい映画にはこうした俳優が欠かせない。
そして、ヒロインというか主役の宇宙人に心引かれ彼を信じて助ける女性には、こちら。

前述した少年の母親役なので、若くはないけれど、十分に魅力的な地球の女性を好演した彼女は、パトリシア・ニール。知的で愛情深く意志が強い自立した女性というのは、まさにはまり役だったことでしょう。後年アカデミー賞を受賞する女優ですが、本作のときは、ゲーリー・クーパーとの不倫関係で悩んでいた頃かもしれません。数年後には彼との不倫という愛情を清算し結婚しますが・・・・、たおやかな女性らしさの中にある迫力が印象的。
が、そんな子連れのか彼女に求愛中だった男の嫉妬から、
クラトゥの居場所が知られ追われる身となります。

男性の嫉妬って、映画の中では結構甚大な影響を及ぼすけれど、
そういう役を振られる俳優ってキャラもそういうイメージじゃないと難しいですよね。ここでは、ヒュー・マーロウという俳優がピッタリでした。かくして、いつしかSF映画だということをすっかり忘れて見入ってしまう本作は、最初と最後を除くとSF映画とは思えない出来です。

すでに見つけた場合には射殺も止むを得ないという命令が下された中、彼を捉えるための包囲網のシーンもリアリティがあって、スリリングな展開にぞくぞくしましたね。ド派手なシーンがなくても十分面白い。



彼女の助けを受けて逃亡するクラトゥは、
博士が政界以外の各界の権威を世界中から呼び寄せて待つ会場へと急ぎますが・・・・
あと少しで会場に着くというところで、
軍隊の放った銃弾に倒れてしまいます。

クラトゥとの約束の会場は、宇宙船が止まっている場所・・・



約束通り、世界中から各界の権威に呼びかけて宇宙人であるクラトゥのメッセージを受け取ろうとする博士でしたが・・・



果たして、彼は、
どういうメッセージを持って地球にやってきたのか。
個人ではなく、また一国でもなく、地球全体を代表する人物か、それが無理なら世界中の人間を代表するような人間が集まったところでなければ話せないというメッセージ・・・・・


(ロボットの名前はゴート、演じていたのはロック・マーティン)

宇宙船に彼の遺体を運び入れたロボット・・・
さて、この後ロボットはどういう行動にでるのか。

もうじきリメイク版が上映されるので、
結果は、年末にでも書き足そうと思います。
ごめんなさい。

監督ロバート・ワイズ
1951年版の『地球の静止する日』のご紹介でした。

 


「The Day The Earth Stood Still」

2008年11月22日 | ◆タ行&ダ行

娘の学校で話題になったらしい。「地球から人間がいなくなったら、汚染された地球が元に戻るという宇宙人のメッセージを、今度、キァヌ・リーブスが出る映画でやるんだって。それでね、ホントかどうか趣味レーションしたら、地球から一気に人間がいなくなったと仮定すると、5年で地球は昔の地球に戻るという結果になったんだって。面白そうな映画だから、見ようね」と語るその映画、何かと思えば、あの『地球の静止する日』というSFの名作のリメイク版です。
1951年制作のロバート・ワイズ監督のSF!

それがキァヌ・リーブス主演映画でリメイクされる・・・・・
これって、どうなんでしょう。

あの白黒SF映画からおよそ半世紀・・・・・その間、多くのSF映画が作られて観て来た私たち。『E・T』のようなファンタジー、時のスター主演で続々と制作された宇宙パニックもの、ブルース・ウィリス主演の『アルマゲドン』、トム・クルーズも頑張って『宇宙戦争』(駄作に終わってしまったけれど・・・)、SFコメディだって『マーズアタック』があり、スペースモノになったら、それこそキリが無いくらいあります。

CGてんこ盛りの『チェーン リアクション』以来、『マトリックス』三部作、そして、『ディアボロス』から『コンスタンティン』まで、スペースモノと宗教的なテーマの作品に挑戦し続けているように思えるキァヌ・リーブスですが、この作品にも同様に思いを抱いたのでしょうか。

昔の方を観直してみましたが、断然面白い。
これだけ完成されている映画のリメイク・・・・の意図は、環境汚染や温暖化といった地球レベルの差し迫った課題に対して何かメッセージを映画でやろうと思ったのかもしれませんが、ド派手な破壊シーンなどいくら見せられても見慣れてしまっている感がする観客に、さて、どういう映画を提供しようとしているのか。ちょっと想像がつきません。
キァヌ・リーブス自身、もう新鮮味がない俳優の一人である以上、そんな彼がいまさら宇宙人に扮しても・・・・いや、宇宙人が地球人の姿に扮するとしても、何だか驚きにかけるような気がします。

次回、その前作の『地球の静止する日』を拙ブログでご紹介してみたいと思います。

 


 


「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」

2008年09月17日 | ◆タ行&ダ行

このベン・ステイラー(Ben Stiller)が監督・主演のアクションコメディ映画、『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(原題「Tropic Thunder」)が「作品中の表現が知的障害者を侮辱している」ということで米国障害者協会(American Assochiation of People with Disabilities AAPD)から批判されているそうです。




(これらの画像を見ただけで、何のパロディか想像がつきそうですよね)

AAPDは、全米の知的障害者支援団体にも映画のボイコットを訴えているそうですが、残念ながらまだ見てはいないので、何とも言いようがないけれど、どうもAAPDの代表は映画の中で使われる「言葉」を問題にしているようです。
同じ画像で同じ場面でも、ビジュアルオンリーだと拘らないのに、そこに「言語」が「言葉」として用いられるや、欧米人は敏感に難癖をつける傾向があるような・・・・・。

この映画ではロバート・ダウニー・Jrも出演しているようですが、彼が主演だというなら、またぞろ『アイアン マン』のような駄作かも!と思ってしまうところですが、ベン・ステイラーとなると観てみたくなります。タイトルからしてパロディでしょうし、近作の『ミート ザ ペアレンツ 2』では、1同様にかなり笑わせてもらえたので、期待してしまいます。
知的障害者の協会代表の人物がボイコットを呼びかけるというのは、ただ事ではないけれど・・・ボイコット運動を恐れていては、そもそも面白い映画など作れないでしょう。

日本ではこうした抗議が起こる以前に、そういう危惧がある脚本はそもそも企画の段階で没になるか内容(表現)を書き改めさせられるので、残念ながら映画になどなりようもないけれど、個人的に言葉狩りに反対の一人として、「言葉」狩的な発想の抗議には違和感を覚えますね。
ミスタービーンを笑えるタフなアングロサクソン文化なのだから、パロディ映画は笑い飛ばしてはどうかと思うのは、見ていないから言えるのか。

パロディ映画の中の「言葉」が問題になるなら、そもそも揶揄される元になっている映画の方に本来問うていいはずの問題があるのでは?などと勝手に思ってしまいますが・・・・、こうしたAAPDという団体からの抗議さえも、映画の広報に一役買う装置にしてしまうアメリカ映画のタフさは健在のようです。

 



 


「DOOMSDAY」

2008年07月27日 | ◆タ行&ダ行

近未来SFホラーアクション映画。
イギリスの監督、ニール・マーシャルというのは、イギリスの監督らしく、近未来やSF的なホラーアクション映画が得意らしく、B級でも面白い映画を作っている。『ディセント』(『The Descent』)や『ドッグソルジャー』の監督なので、ホラー&アクションをサスペンスフルに盛り上げるのが得意な監督という印象ですが、主演の女優、メイクとクール&無口な役柄の印象のせいか『NANA』での中島美嘉をちょっと思い出してしまった。ローナ・ミトラという女優ですが、無口ながら静かな情熱と闘争心を隠し持つ影のある役柄で雰囲気が良く出ていて魅せてくれたかなと。

映画は、近未来のイギリスにおいて殺人ウィルスが発生したという状況下、治療薬もなく感染したら死ぬしかない中世のペストみたいな伝染病で、政府は自分たち政府中枢のあるロンドンを守るため感染者を隔離閉鎖するため壁を作る。

その感染地域は食料その他の物資の輸送もなくなるため、感染地域の居住者は飢えて死ぬか殺人ウィルスに感染して死ぬかという究極の状況に追い込まれる。大勢の市民がそこから脱出すべく壁を乗り越えようとするが、かつてのベルリンの壁同様に居住区域からの脱出者は警告され、警告に従わない場合は問答無用で射殺される。湾岸区域も航空域も厳重に管理されて猫のコ一匹そこからは出られなくなる・・・・
映画冒頭、壁を乗り越えようと閉鎖区域から脱出しようとする市民の暴動と殺戮の場面。そんな終末論的近未来の殺戮の真っ最中に一人の母親の懸命な願いで子供が安全区域に飛び立つヘリコプターの軍人に託される。
物語は、成長したその子供が主人公。

特殊部隊の軍人として成長したその子供をローナ・ミトラが演じるのだが、どこかで見た顔だと思うはず。映画『インビジブル』とシルベスター・スタローン主演のクライムアクション映画『追撃者』にも出ていたようで、どういう役柄だったか記憶にないのが残念なれど、映画ではなかなか雰囲気のあるアクションを見せてくれています。


(凄腕の一匹狼的な特殊部隊兵士役のローナ・ミトラとその上司役のボブ・ホスキンス)

そんな彼女の上司役にボブ・ホスキンス。これがなかなかいい上司で、唯一終末的な時代にあって政治や政治家のあり方に批判の眼差しを向ける存在でしたね。(何も言わないけど・・・)

スコットランドを感染区域として隔離閉鎖して十数年後、物語はそこから改めて始まります。
ロンドン市内でも感染者が発生し、閉鎖区域に生存者を衛星で確認したことから、殺人ウィルスの治療薬があるのではないかということで軍の上層部は政府の特命でローナ・ミトラ大佐たちを閉鎖区域に潜入させることになるのですが・・・、

その区域はまさに末世的状況。潜入した仲間のほとんどがやられてしまう。スプラッターホラーの苦手な方にはおススメしませんが、平気な方なら、わ~~~っという感じでかなり楽しめます。

物心ついたときから「壁の向こうには何もない」と教えられて育った子供たちは、彼らの存在に衝撃を受けハイになる。パンクファッションの若者ばかりだが、彼らこそ都市部での唯一の生存者。
閉鎖以来、無法地帯と化した感染区域で棄民として生まれ育ってきたので無理もないが、弱肉強食の集団で・・・・



特殊部隊の潜入兵士たちは、つぎつぎにヤラレテしまうが、捕まってしまった兵士は無残なことになる・・・

パンク集団の若者たちは、実は人肉食で生き延びていたのだ。こうして兵士たちは一人、また一人と調理され彼らの食料にされてしまう。

「ひもじければ、仲間を食え」
これが彼らのディナーショーでの合言葉。

このイカレタパンクリーダーも強烈だが、
その彼女というのがなかなかで・・・・



ほとんど台詞がないにも関わらず、そのタトゥの絵柄とコスチューム、そしてその残忍さが不気味にキュート。残忍という感覚もなく弱者を狩る狩猟民族と化していて、実に魅せてくれる!この彼女、リー・アンネ・リーベンベルグという女優で、ミトラよりもずっと印象的で魅力的だったかも。


(リー・アンネ・リーベンベルク)

無法地帯の都市部の生存者たちは、まさに食料となる仲間を狩って生きてきた子供たちが成人した集団だったというわけで、法治社会の感覚からすればまさに無法地帯だが、集団としてそこにもそこなりの秩序がある。食べるときは、リーダーの号令の元、まさに祭りと化して皆いっしょに肉にありつける。古代における肉食時がハレのときだったように。

そこで捕らわれの身となっていた少女の手引きで、かろうじてミトラたちは人肉狩猟パンク集団の都市部から脱出するのだが・・・・、



この都市部からの脱出まで、映画はもうスプラッター映画と化してしまっているといえるのが、妙にスリリングで見てしまう。

面白いのは、そうした生存者たちの間でもタブーがあること。脱出したミトラたちを追いかけてくるシーンはまさにホラーだが、



汽車に乗り駅を出立した彼らに対して、パンク人肉集団は追跡をやめるのだ。いかなる集団にも縄張りがあり境界があるという辺り、その意味を考えさせられてしまいますが、この汽車の動力源は石炭らしい。感染して閉鎖された区域にあるグラスゴーは、かつて産業革命の頃石炭の産地で栄えた工業都市でもある。殺人ウィルス感染者の治療薬の存在を確認すべく次なる生存者の元へ向かう皆を乗せ、汽車はそうした歴史を遡るかのように進み・・・

野を超え山を越えて行ったとき、ミトラたちの前に現れたのは・・・・



何と中世の騎士然とした兵士。彼らの領域に入った途端、現れたところを見ると、辺境警備隊といったところだが、ミトラたちはあっという間に捕らわれの身となってしまう。

ロビン・フッドのような出で立ちの民と騎士で、まさに中世に先祖がえりしている集団のようだ。近未来から20世紀パンクファッションを経て、そして19世紀の産業革命を彷彿させる汽車に乗り、あたかも時代がどんどん逆行していくかのような錯覚になる。



隔離閉鎖されたスコットランドの中心地グラスゴーの山岳地方が、隔離後わずか十数年の間に「中世」になっていたということ。イギリス史を知っているイギリスの観客からすれば、パンク時代を汽車で過去に疾走すれば領主と聖職者が統治する時代に行き着くというのは、意外と納得できる展開なのかもしれないですね。
が、中世の領主と聖職者がどういうものだったかを思い出してみると、・・・・『時計仕掛けのオレンジ』ではありません。



政府に見捨てられた棄民として生きてきたこの人物、殺人ウィルスの抗ウィルス剤の研究をしていた医学博士だった。地域を隔離閉鎖された中で愛する者を失い、殺人ウィルスが蔓延する中で山に逃れ、文明生活を捨て中世時代の暮らしを築きながら、何とか生きてきたわけですが・・・・


(鬼気迫る狂人役・・・・マルコム・マクダウエルってはまり役)

「治療薬!?そんなものはない」と殺人ウィルスの抗ウィルス剤の存在を否定する。マルコム・マクダウェルが演じていてなかなか存在感がありましたが、その言葉には唸らされましたね。

「ウイルスに感染したところでは、感染しない人間が強者になるのだ」

そうすると、医学博士が辿りついたのは、適者生存の法則ということになる。もう目がイッチャッテるのも無理はないですね・・・



殺人ウィルスに感染した治療薬などないことが分かったローナ・ミトラですが、捕らわれの身の彼女たちを待っていたのは、映画『ロック ユー』の馬上槍試合ではなく、古代ローマの『グラディエーター』のごときもの。中世時代の山中に古代ローマの闘技場が現れたかのよう・・・・・1本の映画でこれだけさまざまな時代に連れて行かれるというのは得がたい楽しみでもあります。

しかし、映画はまだまだクライマックスではありません。治療薬がないと分かった以上、長居は無用。ここから中世集団からの脱出劇が始まるわけですが、これ以降はまさにノンストップアクション。救出のヘリを無線で要請し、一向はヘリが待つ場所に向かうため決死の脱出・・・・



ところで、途中から行動を共にすることになったこの少女。実は二つの生存者集団、都市部の人肉食パンク集団のリーダーは兄で、一方の山岳の中世領主と化した医学博士は父。

兄のテリトリーに行けば、捕らえられ、いずれリーダー(兄)が変われば食料にされるのは目に見えている。一方の山岳の中世領主(父)の統治に従わなければ、闘技場で惨殺されかねない。人間性を失わずにいる少女だが、力弱いゆえに生き場(行き場)がない。父も兄も完全にイッチャッテル以上、こうした少女のような人間は、どこに生き場を求めればいいのか・・・・

ウィルスに感染していなくても隔離閉鎖区域で生きていくことを強制され、狂人の領主に従うことも人肉食もできない人間ながら、あまりに弱弱しい。私も含めて多くの人間は本来こうした存在なのだ・・・
が、特殊部隊で訓練された猛者のローナ・ミトラ扮する女大佐は違う。森を抜け、車を盗んで疾走する。追っ手を蹴散らし山を降り近代文明の舗装道路まで辿り着く。ド派手なアクションはあまりないのですが、目が離せないのは、ローナ・ミトラの不可思議な魅力かなと。もうちょっとアイラインを強く引いても良かったなァと思いつつ、いよいよ映画は、クライマックス。



このカーチェイス、最初は「きゃ=『マッド・マックス』のパクリだわ」と思ったものの、メル・ギブソンには申し訳ないけど、『マッドマックス』以上に面白いと思ったのは、この人肉食パンク集団のリーダーを演じているクレイグ・コンウェイのキャラクターのせい。
もっと見たかったほど。



ちょっとイギリスSF映画らしくないと思いつつ、
まあ、何でもアリの方がこの映画らしい。



果たして一行は人肉食パンク集団を振り切って、無事ヘリに乗れるのか!ヘリは救出しこの隔離閉鎖エリアから脱出できるのか!



まさに見せ場で、なかなかに魅せてくれるクライマックスシーンでしたが、映画ラストを盛り上げる意味でも、このシーン、もうちょっと長くとも良かったのではないかと・・・・。


ところで、こうした末世のような近未来でも、政治の中枢にいるのは権力の保持と自己保身しか念頭にない政治家という構図は、SFの一つのお定まりだけれども、


(アレクサンダー・シディック。映画『パーティカル・リミット』にも出ていましたよね)

政治家=自己保身の塊=悪というのは世界共通のイメージかなと思いつつ、政治というのは所詮そうした位置づけなのかもしれないと改めて思いつつ、それが主人公の行き方を際立たせるための仕掛けでもあるんだなあと思いつつも、

この近未来SFホラーアクション映画が示唆するものは、かなりリアルだなあと。狂牛病、鳥インフルエンザを思えば、殺人ウィルスだっていつ生まれてもおかしくないし・・・

人間は弱肉強食の自然界で一人では生きていけないから集団で暮らし、皆で助け合い支えっていくより良い社会を作るべく人類はここまできたはずなのに、格差の広がりは能力主義と自己責任社会への転換の結果とされ、どんな独裁国であろうと核を保有した国はどんなごり押しも通るとなれば、核戦争だって局部的には起こりえるかもしれないですよね。
そうなったなら、近未来でまた穴倉生活に戻る可能性は大いにあるわけで・・・・そうした可能性がある現実というものに戦慄を覚える感覚を忘れてはいけないなあと。政治(家)の無能や怠惰に怒りや批判を忘れると、いつか棄民にされるかもしれない。
そう思うと、面白いB級映画ではあったけれど、同時に怖さを教えてくれる映画ですね。

ちなみに、タイトルの「Doomsday」 というのは、キリスト教圏での「最後の審判の日」という意味で、いうなれば「裁きの日」(無論裁かれるのは人間)という感じですが、映画では、「この世の終わり」というか、日本語での「末世」に近いのではないかと思います。
生きてそんな日を迎えたくないですね。


 


「ダーク・ナイト」(「The dark knight」)

2008年07月24日 | ◆タ行&ダ行

これは、バットマンの映画というより、ジョーカーのための映画、
すなわちヒース・レジャーの映画だと言っても過言じゃない。



確かに、バットマンのクリスチャン・ベールは映画『リベリオン』のときのイメージを彷彿させるストイックなブルース・ウェイン役で、かつ億万長者としてもミステリアスな魅力を放って、新たなバットマンイメージを作り出しているし、

執事のアルフレッドには彼以外にないというマイケル・ケインを配しているし、

フォックスにはモーガン・フリーマンというキャスティングで、バットマンサイドは文句のつけようがない。加えて、そのバットマンと手を組む二人の正義漢、

警部のジム・ゴードンにゲイリー・オールドマンという曲者を配し、

ハーベイ検事にアーロン・エッカートというキャスティング。何だかメンバーだけ見ると、バットマン映画じゃないみたいだ。

だいたい映画冒頭の銀行強盗からして、



メンバーと幾重にも秘密のプランを持ったに違いないリーダーのキャラクター作りには目を見張らされる展開。まさに『ダイ・ハード』の敵に欲しいキャラクターで、こんな銀行強盗のリーダーは見たことがない。1級のクライムサスペンスアクション顔負けの悪役だ。映画を見ている途中で何度眩惑させられたか分からない。

が、この映画は間違いなくバットマン映画なのである。バットマンが利用する新兵器も出てくるし、ド派手な爆発シーンもあれば、スリリングでこれまたド派手なカーチェイスもある。そうしたシーンが好きなファンにはたまらないことだろう。





けれど、完全にジョーカーの一人勝ちだ。
そういう出来になっていると思うのは私だけだろうか。悪役として登場するボスたちも悪役の常連として存在感を見せる俳優たちがオンパレードである。彼らが出てくる場面だけ見ると、間違ってもバットマン映画だとは思わないだろう。クライムアクション映画だと思ってしまうに違いない。そんな彼らがチョイ役にしか見えなくなるのだから、たまらない。まさにジョーカー一人が際立っている。

この完全にイッチャッテルジョーカーを演じているのが、ヒース・レジャーだと一体誰が事前情報なしで分かるだろう。
ジャック・ニコルソンのジョーカーも名優の誉れ高い俳優のジョーカーでイッチャッテル凄みはさすがというべきものだったけれど、そこには遊びもあった。けれど、このジョーカーにはそれがない。このジョーカーの存在はそれまでのジョーカー以上に哲学的だ。存在自体が問いになっている。

スーパーマン、スパイダーマン、バットマン・・・・etc.と。アメリカ=ヒーローを愛する文化と言ってもいいほどだが、そのヒーロー漫画、じゃなくてヒーロー映画で「ヒーローとは何か」を問う映画にするというのは相当大胆な試みに違いない。
悪と戦って必ず勝つ正義の味方、捕らわれた人をきっと救出してくれる存在、多くの市民の命を危機から救う英雄・・・・がヒーローならば、同時多発テロが発生したとき、あるいは同時テロが予告されたとき、一人しかいないヒーローはヒーローであり続けられるか。





ヒーローとは、何か・・・・・
社会のために失ってはならない人物と恋人が同時に捕らえられたとき、社会正義を体現するヒーローは、どちらを救出するのか。
そもそも、自由民主主義の法治国家において、
ヒーローとは、どういった存在か。
そうしたことをバットマン映画で問うくらいにアメリカも大人になったということだろうか。

★公式サイトのご案内http://wwws.warnerbros.co.jp/thedarkknight//

スタッフ&キャストの委細はこちら(↑)でご覧ください。

最後に、
28歳で急逝したヒース・レジャー。訃報を知ったときは、あまりに惜しい俳優を亡くしたと思い悔やまれてならなかったけれど、映画『ロック・ユー』以来のファンとして、

 

ヒース・レジャーを偲んで、
こちらをご紹介させていただいて終わりにしたいと思います。

 


「タイトロープ」

2008年07月17日 | ◆タ行&ダ行

いま見ると、「ちょっと古いィ」と評した娘の感覚も分かる中途半端な出来で、それは、クリント・イーストウッドの中途半端な若さと相俟っている気がします。
共演のジュヌヴィエーヴ・ビジョルド、若い頃は不思議な魅力を放っていた女優ですが、このとき40代。中年になって色香がなくなるようなタイプの女優なのかなあと。クリント・イーストウッドの好みとはどうも思われないけれど、自分の仕事に(それが主人公の追い込まれる状態に観客の目をフォーカスできるようにすることだとするなら、そのために色香のある女優では合わないとするなら)、こうした女優を選ぶのも無理はないと思いつつ、エンターテイメントとしてはイースト・クリントンの女優選びのセンスには時々ちょっと閉口。

主演の刑事役のクリントの娘役の少女が素敵だと思ったら、クリント・イーストウッドの実の娘だったとは・・・、今回初めて知りました。アリソン・イーストウッドという女優ですが、調べてみたら「真夜中のサバナ」という映画に端役で出演しています。
この映画もサスペンスですが、クリント・イーストウッドの監督作品(1997年)で、ジョン・キューザック とケヴィン・スペイシー他キャスティングの面白い映画でした。ジュード・ロウも出ていたなんてすっかり忘れていましたけど、また見てみようかな。