月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「パーフェクトゲーム/究極の選択」--- (後編)

2008年09月28日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

犯人は、わざわざこうした設定をして何をもくろんだのか。犠牲者は、それは無残な殺され方をしますが・・・・このあたり、一見『SAW』のような印象を抱かされる方も多いかもしれません。
この映画は、犯罪の連鎖、被害者となった人間が自分が味わったことを加害者にも味あわせるという、いわば、復讐劇という見方も成立しますけれど、それほど単純ではありません。

なぜ、復讐するのか。
なぜ、加害者を許せないのか。

「想像を絶する暴力」など考えたくもないし、想像しただけで身震いさせられるけれど、そうしたものが、自分だけじゃなく、自分の愛する人に対しある日突如として加えられ、愛する人がその惨い暴力によって死んでしまう状況など、考えただけでも臓腑がえぐられるような思いを抱かされますが・・・・この映画は、それを、これでもかとこれでもかと見せてくれます。加害者の肉体と精神に加えられる痛みに喘ぐ姿を通して。

記憶の片隅に眠らせておくつもりだった罪、
自分が実際の加害者ではなくとも、
その犯罪を見てみぬ振りをした罪・・・・
その罪を問われる状態になったとしたら・・・・
人はどう抗弁するか。
怒り叫びののしり抗っても、相手は神のごときまったく動じない。

自分の犯した行為とその罪のために、
あなたの愛する大事な人が同じように惨い目に遭う。

この犯人は、『フェロン』でのヴァル・キルマーのように、「想像を絶する」体験をさせられ、加害者たちにも「想像を絶するということを体験させたい」のだと思って見ていると、そんな単純なものではないという展開になります。ヴァル・キルマーが語った言葉、なぜ(殺害する対象が)犯人だけではすまなかったのかという質問への答えとして、「想像を絶することを相手にも体験させることで、相手の罪を焼き払ったのだ」というような台詞がありました。
まさに、その台詞を思い起こさせるシーンです。

爪をはがされ性器を破壊される!
やめてくれ!許してくれ!と叫んで抗っても無駄だと悟ったとき、
そうしたことをされるだけのことをしまったのだという悔恨の思いにやがて身が焼かれる。そうなって初めて、犯人の意図することが被害者の中で展開される。このラストの拷問シーンは、映画『パッション』のそれだといえばいいでしょうか。

この映画、惨い復讐をされる側が「許してくれ」と語るのではなく、その拷問に耐えることで相手を「許す」ことを選択する、いえ、させられるんです。愛するもののために。

ラスト数分の、どんでん返しに唸らされました。 

 

 


追悼 ポール・ニューマン

2008年09月28日 | ★俳優&他人の空似

好きだった映画。

★「明日に向かって撃て」
(1969年制作 ジョージ・ロイ・ヒル監督)

      

 

★「スティング」(1973年制作 ジョージ・ロイ・ヒル監督)

        

 

★「傷だらけの栄光」(1956年制作 ロバート・ワイズ監督)

         

 

★「評決」(1983年制作 シドニー・ルメット監督)

           

 

9月27日、ガンとの闘病に終止符が打たれました。
享年83歳。

ポール・ニューマンが83歳になっていたなんて、
最初、正直なところ驚いてしまいました。
よく考えてみれば、そろそろそうした年齢になっているということは分かるのに、闘病中だったことを思えば、お疲れさまでしたという思いもあるのに、なぜか、私の中ではいつまでもブッチのイメージが鮮烈です。

思えば、そのイメージを覆してくれたのは、映画『傷だらけの栄光』におけるロッキーでのポール・ニューマン。
とてもいい映画でした。

『評決』のとき、ブッチは50代後半になっていました。
どこで猛勉強したのか弁護士になっていて驚いたものですが、
・・・・・、なのに、やっぱりブッチは変わっていないなあと。あの頃のブッチのままです。ああ、こんな歳になっても全然変わらないじゃない!だめだなあ・・・・と、あれからどこかで生きていてくれた彼を叱責するような気持ちに、一人苦笑。

でも、あのとき、あの後、
やっぱり死なないで助かったんだ・・・・と安堵する不思議。
弁護士として闘う姿に、何より自分自身と闘う姿に、
ブッチ、負けるんじゃない!と手に汗握る思いで応援したものでした。ああ、もうすっかり一人前になり、いまや円熟した男の魅力を放つようになったわね、もう大丈夫かなとヘンな感情もまた生まれたり。

私の中のポール・ニューマンはそのときの姿のまま、
どこかでゆっくり歳を重ねて生きいて・・・・・
映画『ハスラー』は、だから
受け入れがたい映画になっています。
おかしなものですね・・・

祖父のような年齢のポール・ニューマンですが、
ブッチは不滅。

 

俳優ポール・ニューマンの訃報に接し、
思い出された映画は上記の4作。
感謝を込めてご冥福をお祈りしたいと思います。


 

 

 


「パーフェクト ゲーム/究極の選択」--- (前編)

2008年09月28日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

   
   (犯人逮捕のため聞き込みに動き回る刑事役のステラン)

ステラン・スカルスガルド主演のサイコスリラー。というか、サスペンスフルな問題作です。
彼の主演する『宮廷画家ゴヤは見た』(2006年制作)はまだ見ていないのですが、アメリカ映画にありがちのサイコキラーの連続殺人を追う刑事主役のサスペンス(あるいはサイコスリラー)映画と違って、犯人は誰か!?という犯人逮捕に主眼が置かれているわけではなく、そういう意味では『羊たちの沈黙』的な要素の一つ、人間の「行為の理由」と「行為の意味」、「その行為によって変わる精神的な時間軸の変異」そして「なぜ」で導かれる「人間の不条理な存在理由」を問う要素が大きいともいえるでしょうか。

本作ではステラン・スカルスガルドの持ち味が全開となっていて、他のキャスティングも、作品をありきたりのもの、つまりは予定調和的な展開を裏切るに十分な意外性を担保していたように思いましたが、何と言ってもわくわくさせられたのは、フォルムの色調とカメラのアングルです。

この画像をご覧いただくとアメリカ映画の刑事者を見慣れた方は、「おや・・・」と思われるはず。一番明るい彩度の高いシーンでさえこんな感じでいかにもイギリス好みにはたまらない色調で統一されています。撮影監督が誰か知りたいのですが、まだチェックしていません。ごめんなさい。

さて、国際的に活躍しているスエーデンの個性派実力俳優ステラン・スカルスガルは、本作では猟奇的な連続殺人という事件を追う刑事です。

その相棒役の警官にはメリッサ・ジョージ。

ところが、このメリッサ・ジョージ、どうも従来の女刑事からはかなりイメージが外れています。そこでメリッサ・ジョージの別の画像をネットで探してみたところ、

ありました!メリッサ・ジョージといえば、一義的にはこんなイメージかなと。それが、長い髪を束ねて化粧ッ気なしの女性警官。父親のような年齢のキャリアのある男と相棒を組まされながら、軽口もたたかない無口さ。無愛想というよりはクールで、まっすぐな視線が印象的。犯人逮捕へのアプローチにおける直感も彼女の身上です。どうしてこの女優を起用したのかなァ・・・と思いながら観ていたのですが、映画『悪魔の棲む家』のイメージからかしらと思っていたのですが、観終えて「はっ」とさせられました。

彼女のそうした資質や姿は、まさに犯人と対極のものを象徴しているということに気づいたからです。

事件は、次々と起こります。こうした表現は不謹慎ですけれど、実に手際がよくと言ってもいいほどで、これほどの事件を次々と起していながら、犯人は自分の痕跡を残さない。
遺体に共通しているのは、

このW△Zという記号。(最初、WAZだと見違えました)何だか『ZODIAC』の冒頭みたいな設定ですが・・・・



凄まじく残虐な殺され方で亡くなったと思われるどの遺体にも、この謎の記号がナイフで刻まれている以外に手がかりはなく、捜査は難航します。

不可解なのは、惨殺された人間の最も身近な人間もまた死体で発見されていくこと。犯人は実に用意周到で、計画通りに犯行を行っている可能性が高いという可能盛大です。

ところが、さらに不可解なことに検死解剖の結果、遺体の損傷にも関わらず一方は自殺だということが判明。

捜査は身辺調査に力を入れることになり、殺された人間たちの交友関係を洗う聞き込みが展開されていきますが、ステラン・スカルスガルドの様子がどうもおかしい・・・・・



車から自分だけ降りて何やらこそこそと情報を収集するステラン・スカルスガルド。その情報を相棒のメリッサ・ジョージに話そうとはせず、一人で勝手にどんどん聞き込みに動いていきますが、どうも秘密主義濃厚・・・・・



アシュリー・ウォルターズ、映画に出演するラッパーは多いですが、彼もまたその一人ですね。名前を使い分けているのか、アシュリー・ウォルターズは俳優名。音楽の方ではアッシャーD。
本作では、他の犠牲者同様にステラン・スカルスガルドの周囲によく現れます。ラストでは、彼の姿に胸を打たれましたが、そこにたどり着けるよう話を進めますね。

捜査の突破口がなかなか開けぬまま、何かひっかかるものを感じるメリッサ。

まずは、唯一の手がかりであるW△Zが何を意味した記号か。
それを探らなければならない・・・・
台詞がほとんどないのですが、それがとてもいい。映画『悪魔の棲む家』のイメージがあるせいか、メリッサ・ジョージはホラー向きかもしれません。つまりは、台詞なしで表情や雰囲気、何より目で演技できる女優ということですが、こういう女優がラインの違う作品でどういう演技に開眼していくのか・・・楽しみでもあります。

さて、



ここでやっと、W△Zというのは数式で使われる記号だと判明したものの、この数式から何が導き出されるのか分からない。
そう思っていたら、それは、

      PROOF OF EQUATION

方程式の証明のための数式だということがわかります。つまり、
W△Zという記号は、ネットの絵文字などではなく方程式そのものの証明を意味する記号ということになる。
これが事件の鍵だというのなら、何と何が等式ということなのか。

一連の殺人と自殺が方程式で結ばれるのか。
あるいはその両方が何かと等しいというメッセージなのか。
だとすれば、何と等しいのか・・・・

もう少しでヒントがつかめるときに、
またしても手がかりがそこで潰えてしまう・・・

そうこうしているとき、またしても事件が発生します。

「この男、どこかで見たような・・・」と思うメリッサ・ジョージの脳裏に浮かんできたのは、ステラン・スカルスガルドと聞き込みで歩いたときに彼がこそこそ話をしていた連中の中の一人。「そう、あの顔だ」

犠牲者を見たステラン・スカルスガルドの表情には、思いつめた様子と疲労の色が濃厚になっていきます。一人で事件を追うステランですが、

訪ねていったアパートはも抜けの殻で、そこのテーブルに置いてあったものは一枚の図面でした。ステラン・スカルスガルドはある名を叫び形相を変えて飛び出していきます。


その頃、まるで、映画『SAW』のような場面が展開されようとしていました。どこかの工場跡か廃屋かそれともビルの地下室か。まさにステラン・スカルスガルドが目にした図面通りに向かい合った椅子に縛られている二人の人間・・・・・

いよいよ犯人登場です。



暗闇から現れたのは、一人の女性。


(やっと現れたのは、何とセレマ・ブレア)

彼女が犯人なのか?
少なくとも、こうした場面に登場してくる以上、ここにいるのは犯人かその関係者と言うことになります。彼女は一連の事件とどう関わっているのか。犯人だとしたら、なぜこんな事件を起したのか?
ひょっとしてサイコキラー?

ここで驚くのはまだ早い。拘束されている二人を見たら、もっと驚きます。この二人は、いったいどういう二人なのかと。





この画像でどのような想像が可能でしょうか。

その頃、聞き込みをしに行ったきり戻らないステラン・スカルスガルドに何か秘密があるに違いないと踏んだメリッサ・ジョージは、連続殺人および自殺死した人間とステラン・スカルスガルドとを繋ぐ糸を捜すべく、彼が過去に逮捕した相手のリストと調書を調べ始めます。そして、とうとうその糸を発見します。



そう、これまでの犠牲者は皆過去に彼に逮捕されたことがあり、しかも彼らと刑事との関係は現在も続いており、そこに秘匿されている何かがあるに違いない・・・・らしいという推理。

ドラマはここでやっと前段が終わり、登場人物が全部出揃ったところで、いよいよ後半に突入する本作は、あっという間にクライマックスに向けて疾走します。
その鍵を握るのは、このステラン・スカルスガルド。 

 

ラストの宗教的哲学的なテーマ性には思わず唸らされてしまいますが、続きは次回に。前のブログ『フェロン』と見比べるという試みもあって、今般も二部構成でブログを書かせていただいていますが、もともとホラー系やスリラーが大好きなので、本人が書きながら一番愉しませてもらっているかもしれませんね。


★ご参考までに。
気分を変えていただくためにこちらをどうぞ。



「フェロン」(後編) --- スティーヴン・ドーフ迫真の演技

2008年09月26日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

   

映画『フェロン』のご紹介の、いよいよ後編です。後半、いよいよ二人を取り囲む状況に異変が起こりシューの中は緊張感が増していきますが、そんな中でS・ドーフとヴァル・キルマーの間には不思議な信頼関係が育まれていきます。

事後従犯でさらに刑期が延びてしまったS・ドーフ。(この映画をご覧になっていらっしゃらない方達のために役名ではなく俳優名でご紹介しています)果たして刑務所の中の特別監房シューの中庭で生き残っていけるのか・・・・・

彼女に生活の安定の保証を与えたいと思い、たった一人で一から起業して9年間一所懸命働いてきた男。そんな男を誇りに思ってきた女。愛し合い助け合い子供も慈しんで育ててきた二人がやっと挙式しようという矢先に人生が全て狂ってしまった。受刑囚となった夫。受刑囚の妻となっても社会の中で戦い続け刑務所まで通い続けてきた女。

そんな彼女と子供が自分の全てだったウェイド・ポーターという男をスティーヴン・ドーフが演じているわけですが、唯一の支えだった妻子に捨てられいまや絶望の淵に立たされてしまったわけです。

ここの囚人たちの世界は派閥均衡の緊張がいつ崩れるか分からない。

どこかのグループに所属し仲間を持つことで自分を守ってもらえる程、そこは甘い世界ではありません。グループの上方からヤレと言われたことは絶対やらなければならず、やらなければ自分がヤラレる。いかに理不尽でも命がけで命令されたことをやった者は生存率が高くなるが、裏切り者は容赦なくヤラレてしまう。そういう忠義も仁義もないサヴァイヴァル・・・・・

護送車で囚人をメッタ刺しにした犯人は刑務所内で絶大な力を持つ男。「白人が正義」と称される世界でその男の命令に背いてズルをやった男はヤラレ、

最後まで密告しなかったS・ドーフは株を上げた。
刑務所内の最大派閥を仕切っている男からグループに入れば守ってやると誘われるS・ドーフ。が、そもそも護送車で囚人をメッタ刺しにしたのはこの男だ。この男を追い詰めようとする看守長との取引に応じなかったばかりに監監視たちに睨まれ事後従犯の濡れ衣を着せられて刑期がさらに延びたのだ。



この看守長のやっていることは違法で出鱈目なものだが・・・・どうしてそうまでしてシューの囚人たちを虐待するのか。
実はこの看守長、刑務所の外でも力を持っている。なぜなら、ここの刑務所のある街の半分が刑務所で働く人間だで、看守長は彼らを「家族と変わらない」と思っている・・・・・困ったことがあれば、何でも言ってくれと言う親分肌。



離婚して引き取った息子を愛し一生懸命主夫もこなしている。その息子もまた、なかなか素直に育ったまじめな孝行息子です。

こんな家族思いの男がなぜ、刑務所の中で違法なリンチを囚人に行い、執拗にシューのリーダーを目の敵にして狙っているのか。良心の呵責と発覚を恐れる仲間や部下を説得し脅してまで。

そんな看守長の息子が交通事故で搬送先の救急病院に重体となり、「どうしてこんなことに・・・」と事情を聞けば、

飲酒運転で3度も人身事故を起している男に轢かれたという。男は無事だが、ノーブレーキで轢いたのだと。警官が加害者を守っているので近づけないと聞き看守長の顔が変わります。

加害者は涙を流して詫びますが・・・・・

顔色一つ変えず、加害者を震え上がらせてしまう。お前の車体番号を調べれば住所も分かる。お前が刑務所で生き地獄を味わっている間にお前の家族にも同じ思いをさせてやろうかと。

駐車場で、息子のもしもの事があったら「耐えられない!」と泣き崩れる看守長の姿と鬼の看守姿は重ならない。我が子の無事を神に祈る父親の姿がそこにあるのみです。

同じ頃、監房の中でS・ドーフは悪夢にうなされるようになります。事故だったとはいえ、人を一人殺してしまった・・・・その相手のことが忘れられないと。家を出た時点で逃がしてやれば良かったのだと。

悔悟の心・・・・、過失とはいえ人の命を奪ってしまったことの罪の重さを初めてS・ドーフは身にしみて思うようになる。
けれど、ヴァル・キルマーは、



「重要なことは、家族を守ったということだ」と言います。
そして、S・ドーフに問われ、なぜ妻子を殺した相手を殺すだけではすまなかったのか、初めて語るヴァル・キルマー・・・・

この場面、ぐさりときました。先日見た『パーフェクトゲーム』の犯人さながらの狂気による罪と悲しみの浄化です。「想像を絶するということ」の衝撃と絶望で、感情が凍りつき心も破壊されてしまったのですね・・・・

人間というのは、壊れ物なのです。

そんなヴァル・キルマーの元に、いまでも面会にくる男が一人。

刑務所の看守として20年、ヴァル・キルマーと付き合ってきた男です。いまは退官していますが、家族よりも長い付き合いの中で17人もの人間を殺して終身刑となったヴァル・キルマーと深いところで繋がっていると思われる人物・・・ヴァル・キルマーは「もうここには来るな」とそっけないのですが、いったい二人の間にどんな絆があるのか。

そう、この『フェロン』という映画には、さまざまな絆が描かれていましたね。

母子家庭で苦労して育ててきた母の娘への愛・・・
娘を愛していればこそ、その娘に愛している男と別れるように説得しようとする心情が痛くないはずはありません。



必ず帰ってくるという言葉を信じて待ち続ける小さな子供。
息子と父親との絆・・・・

そして、自分の弱い心と戦って本当に求めていること、本当に大事にしたいことのために「いつまでも待っている」と言いにきた妻。
男と女の、夫と妻との絆は愛と信頼あってこそでしょう。


そしてここにも絆によって生かされ生きてきた男が一人。
看守として囚人に対して人間的に接していた「甘さ」のために大事なものを失ってしまったという過去を持つ男は、自分に残された最後の絆である息子をまさに失おうとしていたのです。



刑務所内の異様な空気・・・・を察したヴァル・キルマー

そしてこの二人の間の絆はどうなるのか・・・

緊張のクライマックスと深く染入る絆、
友情に誠を尽くす人間の心・・・・

 

ラスト近くのこの若い看守の言葉は、
看守長の言葉と表裏一体でした。

「甘っちょろい考えでいると、どうなるか。一緒の車に乗っているか、乗っていないか。それが、大事なんだっ」というような台詞でしたが、この若い看守が赴任してきたときに看守長が叱責した言葉も実に印象的でしたが、この若い看守の言葉はとても心に迫ってきます。

そして、この初老の男の表情・・・・

絆の中でも得がたいもの、それが友情であるならば、≪本当の友達≫を失った人間の言葉にならない思いが、そこには余すことなく表れていたように思われてなりませんでした。
胸に込み上げてくるものがありましたね・・・そうした友を持つことができた人間の喜びと感謝の思いは、深い絆から生まれる祈りに通じるものかもしれません。

この映画、是非じっくりご覧になっていただきたい1本です。ヴァル・キルマーが出ている映画だとつい力が入ってしまいますね。ちなみに2008年制作アメリカ映画。リック・ロマン・ウォー監督。
次回は、この映画感想の中で挙げた『パーフェクトゲーム/究極の選択』のご紹介をしたいと思います。

★ご参考までに。→スティーヴン・ドーフ(Stephen Dorff)

http://www.starpulse.com/Actors/Dorff,_Stephen/Videos/?vxChannel=Movie+Trailers+-+VD+-+On+DVD&vxClipId=2430_997152

★ご参考までに。→ヴァル・キルマー(Val Edward Kilmer)
http://csx.jp/~piki/val-p.html

 


「フェロン」(前編)--- ヴァル・キルマーの迫力

2008年09月25日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

 

この映画『フェロン』を見始めるまで、ヴァル・キルマーが出ていることを知らなかったので出てきたときには「おおっ!」と観始めてびっくり、それも≪嬉しいびっくり≫でした。


 

それにしても怖い映画でしたね・・・・

スティーヴン・ドーフ 主演のまたぞろ一味違う映画かと思っていると、がが~んと臓腑をえぐられてしまうかもしれません。先日見た映画『パーフェクト ゲーム 究極の選択』の犯人の復讐劇と相通じるものがありますが、表現は正反対で、こちらにはグロい描写はなくテーマもはるかに≪究極の選択≫を問う映画になっていると思います。
刑務所の中がほとんどの映画ですが、アクション映画ではありません。そして受刑者(たち)の映画ですが、スティーヴン・ドーフもヴァル・キルマーも無実の罪で刑務所に入っているわけでも冤罪で上告中というのでもありません。かといって死刑制度の是非を問うような重苦しいだけの映画でもない。
スティーヴン・ドーフ演じる男もヴァル・キルマー演じる男も殺人罪で有罪判決となっての受刑。S・ドーフは1人、ヴァル・キルマーにいたっては17人を殺している。それでも死刑ではなく終身刑というところに彼の秘密がある・・・・

以下、この映画を覧になっていらっしゃらない方達のためにいつものように、映画の中の役名ではなくご俳優名でご紹介していきたいと思います。



「オレはこんなところに入るような人間じゃないんだっ!」
「どうしてこんなことになってしまったんだ!」

あれよあれよという間に刑務所に送られ訳のわからない処遇を受けたなら、フツーの感覚なら同じように泣きたくなるはず。

「どうしてこんなことに・・・」

そう、マフィアでもヤクザでも汚職警官でもない一般人の普通の暮らしをしている男、愛する妻と可愛い息子がいて起業して頑張っていた男、起業した会社もだんだんと力をつけてきて家族のために家も買いやっと入籍して結婚式を挙げるという矢先に、家の中に侵入してきた正体不明の男から愛する家族を守ろうとしたばかりに、こういうことになってしまったのです。
そう、家族を不審者から守ろうとして野球のバットを振り上げたばかりに・・・・

なぜなら、玄関から逃亡した相手に「待てっ」と叫んで追いかけたとき、ポケットから何かを出すしぐさをした・・・当然状況から銃だと思い込んでしまっで・・・・咄嗟に手にしたバットを振り上げただけ。
なのに、その瞬間振り向いた相手の頭部をバットが直撃することになり、運悪く相手は即死。すぐに警察に通報し「これは事故だ」と訴えるも、「犯人は何の武器も所持しておらず家の中でではなく外で死亡。金を盗んだだけだった。残念だが、君を殺人罪で逮捕しなけれなならない」ということになり拘置所へ。

殺人罪での逮捕された容疑者の保釈金は1億円。そんなお金はない。そんなお金が出せる連帯保証人もいない。親は既に亡くなっている。ないないづくしで数十日間の拘留の後、保釈も申請できず、予備審問は1年半も先になるという。さすがに犯罪件数の多い国アメリカだ。そこで出てきたのがお馴染みの司法取引。

 

罪を認めれば殺人罪ではなく過失致死に減刑され、刑期は3年。すでに拘留分を計算に入れ、まじめに努めれば刑期は半分になる。裁判で争えば、下手をすれば第二級殺人罪で刑期は15年。
さてどうする・・・・

取引に応じ裁判で有罪が確定したS・ドーフは、茫然自失のまま刑務所へ護送されるのだが、その護送車の中で発生したトラブルに巻き込まれてしまう・・・・そう、重犯罪者たちと同じ護送車に乗った瞬間からもはや社会のルールの通じない世界にまっしぐら。



誰が車内で殺傷事件を起したのか。言わないと大変なことになるよとここでも取引の要求。言えば、刑務所内で無事でいられる保証はないという予感に震えながらも、言わないとどうなるのか、そのときには知る由もないS・ドーフ。まずは独居拘置房に放り込まれ、そのときの泣き顔が前掲の画像。やがて、刑務所内でも重犯罪者や終身刑囚たちのいる厳重な監房に入れられてしまう。

そこは看守に服従しないと囚人はすぐに懲罰され勧告なしで発砲されるシューという区画の監房・・・面会者への対応もご覧の通りで、全身くまなく調べられる・・・・
さらに衝撃的なのは、運動時間と称して入れられる中庭で囚人同士が致命傷を負う寸前まで戦わされること。

戦わないと看守たちから模擬銃を発砲され、従わないと実弾で手足を撃ち抜かれる・・・・そこは古代ローマの円形闘技場と同じで囚人は剣闘士(ここでは拳闘士)となって戦わないと命の保証がないのだ。なぜなら、看守が観衆の代わりで勝敗に賭けているからだ。

看守たちは罪の意識を持っていても看守長には逆らえない。看守長は囚人を社会の敵社会のゴミだと思っており、ゴミが傷を負おうが死のうが誰も気にしないと本気で思っている。自分たちは社会からゴミを完全に隔離することが最大の責任を負っているのだと。これは正義だと信じて疑わない・・・・。
自分が賭けた相手が負けると、見せしめのためにリンチを行い、手当てもせずにシューの監房に放り込む。要は死なない程度に懲罰をし、時にはやりすぎて死なせてしまう。

他の囚人のせいにするだけで、看守たちは全員見て見ぬ振りをするか口裏を合わせる慣習になっている。
相手はゴミだから構わない。

ここはいったいどうなっているんだ・・・不意打ちを喰らって伸されても誰も何も言わない。そんなシューという監房に刑務所は初めての男S・ドーフは不安と怒りと恐れに混乱する。

そう、いったいこの刑務所はどうなっているんだと誰もが思うのではないか。一応法治国家だろうと。終身刑囚や刑期の長い重犯罪囚の人権には正直なところ、私は冷たいようだけれど興味はない。それだけの犯罪を犯したのだ。被害者や遺族のことを考えるなら、復讐法がない以上、殺人で奪った命に対しては己の命で購うしかないと思っている。一生刑務所で過ごさせることにどんな意味があるにせよそこに被害者の税金も使われることも正直賛同しかねる。
けれど、囚人を人間として処遇しないという思いにはもっと賛同しかねる。なぜ、ここの刑務所内でこうしたことがまかり通っているのかといえば、所長が自らの職務を責任を持って遂行するという意志も考えもなく、あるのは事なかれ主義の自己保身と面倒なことは全てやってくれる部下にお任せの怠慢役人だからです。

そんなシューに、
他の刑務所から移送されてきたのがこの男。

貫禄からくる威圧感は相当なもので、監房も静まり返る。ヴァル・キルマーはこの役のために体重を増やしたのか・・・・『ドアーズ』でジム・モリスンを演じたとき以来、ヴァル・キルマーには注目してきましたが、眼光同様、このお腹周りもかなりの貫禄です。

同じ監房になっても威圧感と寡黙さでとりつくしまもない。それどころか、監房中周囲は敵だらけで四面楚歌状態というのに、「中庭では俺の傍に近づくな」と言われるS・ドーフはまるで赤子同然。

そんな二人でしたが、S・ドーフが家族の写真を見せたのを契機に様子がだんだんと変化していきます。S・ドーフに面会に来た妻がナチのような坊主頭になっている夫に驚愕して理由を聞きますが、「ここでは生きていくことでいっぱいいっぱいなんだ」「聞かないでくれ」「俺を信じてくれ」としか言えないS・ドーフ・・・・


(夫の変わり果てた姿に不安が走る妻・・・・妻もまた夫が刑務所にいる妻として社会で戦っている。夫と別れるようにと泣き叫ぶ実母の声に耳を塞ぎ世間の噂話に耳を塞ぎ、実母の元に可愛い盛りの息子を預け派遣労働で毎日働いて・・・・それでも生活は苦しくなるばかり・・・なのに、夫は刑務所の中でナチもどきの囚人!?なのに聞いても何も話してくれない夫。彼女の心境は・・・)

妻から家計の苦境を知らされても、息子に会いたい気持ちが募っても何も出来ず苛立つばかり。刑務所の中の事を聞かれても何も話せないS・ドーフ・・・・ここは社会から閉ざされたサヴァヴァルを賭けて自分を自分で守るしかないところだと心配する妻にはとても言えない。イライラ・・・やり場のない思いが爆発するS・ドーフだったが戦った相手の息の根を留めないドーフ!それこそ看守の標的にされる態度だった。

ここでは自己をいかにコントロールするか・・・・看守のルールに従いルーティーンワークをこなし、四面楚歌にならないためにどこかのグループに所属したなら、グループから命じられたことは何でもやれ。やらなければ自分がやられる。
そう聞かされた話もどこかに吹っ飛んでしまったS・ドーフ。すべて家族を愛する思いの強さゆえの事だ。




そんなS・ドーフに対して、いつしかヴァル・キルマーはここから生きて出るためのルールを教えていく。刑務所の中では社会のルールは通じない。看守とヤクザのルールがルールだと。
刑務所の中での派閥抗争図についても指南していきます。
生きてここを出られるためにはどうするか・・・

あと数ヶ月なんだ!と歯をくいしばるS・ドーフにお前はここからは出られないと宣告する看守長。S・ドーフにまさかの実刑3年が追加される。刑務所に護送されてくる途中、車内で襲われた男が死んだ裁判で看守長の証言(無論、囚人たちへの見せしめのための偽証ですが・・・)が決め手となり刑が確定。




(もう家も車も売れるものは全て売り、サブプライムローンではないけれど、売却価格では購入時の借金も返済できない・・・・働いても働いても苦しい生活。派遣労働のために子供とも会えない。子供を託している母からは今度こそ分かれなさい、息子の父親は殺人の共謀罪なのよ、もう昔の彼ではないのよ、妻子を愛しているなら、刑期が加算される様なことをどうしてするのかと責め立てられる。妻も、もうぎりぎり・・・夫が刑期を終えて出所する頃には息子は中学生だ・・・・もうとてもこのままではやっていけない)

彼女の口から「もう面会に来ない」と伝えられ、

スティーヴン・ドーフは衝撃で体中の血液が逆流。絶望のがけっぷちに立ち冷静な思考ができなくなる。そんなS・ドーフにヴァル・キルマーは、「同じ状況の囚人を何人も見てきた」と語るのだが、
その瞬間、S・ドーフは叫ぶ。「妻と息子は俺の全てなんだ。二人を失ったら生きていけない」

ヴァル・キルマーの眼光が光る。

続きは(後編)で。

 


「ノエル 星の降る夜の奇跡」

2008年09月25日 | ◆ナ行

さまざまな理由からクリスマスを家族といっしょに過ごせない人や、クリスマスをいっしょに過ごす家族のいない人達は、クリスマスをどういう気持ちで迎え、どうやり過ごすのか。
クリスチャンじゃないとイマイチその気持ちは分からないないけれど、日本人ならさしずめ年越しと元旦を不本意にたった一人で過ごす人たちの状況と相通じるものがあるのではないでしょうか。
この映画は、家族と共に過ごせないさまざまな理由を抱える人々の苦悩と孤独に光が射す物語。いわゆるニューヨークを舞台にした現代版クリスマルキャロル。



親子関係がすこぶる良好な母娘にとって、体が弱って一人では暮らせなくなった老母を娘が世話をしたいと思うのは洋の東西を問わず自然の情愛でしょう。けれど、この娘の半生はちょっと複雑系。母親と同居したことで夫は家を出ていき離婚。以来、母の介護と児童書出版社の編集長という仕事に明け暮れて20年・・・・。40歳を過ぎて子供もなく婚期も逃してしまい家族は母だけと自分で思っている。認知症が進み今では娘の自分の事も分からなくなっている母親が、クリスマスを迎えて食べ物を口にしなくなった。何とか一口だけでも食べて欲しいと焦りを募らせていくけれど・・・・
このバツ一の中年独身女性を演じているのは、スーザン・サランドン。

隣の病室では重症患者が意識不明で眠り続けています。エンジェルの飾り物をその病室の窓に吊るしに行った彼女は患者を見舞う先客と出会いますが、これが何とロビン・ウィリアムズ。

 

ロビン・ウィリアムズ主演映画ではありません。念のため。

街では結婚を前にした恋人同士ペネロペ・クルスとポール・ウォーカーがラヴラヴ。数年前の映画ですが、いま観ても何とも新鮮な取り合わせだと思いました。二人は結婚間近なのに、彼は心配性で独占欲も旺盛。新手のストーカーみたいですけれど・・・

            
 
そんな彼との結婚にペネロペは不安と迷いを感じ始め気持ちが落ち着かない。ちょっとしたことで、イライラしてけんかになります。ペネロペの出演作にははこうした諍いのシーンが多いですけれど・・・・言い争うときの表情にどこか無理が感じられてあまり似合わないなァと思うのは、私だけかしら。
                   

そんなペネロペとスーザン・サランドンが妙な偶然と成り行きからイヴの夜のひと時をバーでいっしょに過ごすことになります。                                                                                                                                                                                 


これ、めずらしいツーショットでは?

彼女たちが愛に満たされない思いに揺れていた頃、一人アパートに残されたポール・ウォーカーの元にやってきた老人。雪の降る中、アパートの下で待ち続けていた彼はレストランでウェイターをしていた彼・・・・     このアラン・ アーキンの何ともいえない存在感の魅力はどうでしょう!もう目が離せなかったですね。   

                                    

                                    

何とも熱っぽい視線でポール・ウォーカーのことを見つめ、「自分の妻の生まれ変わりだ」と言って譲らないアラン・アーキン。物静かで穏やかな人物ですが、目は確信に充ちているのだから、実にミステリアス。ポール・ウォーカーの反応が面白い。

同じ頃、 一人の若者が病院に「今年もクリスマスイヴのパーティはやるの?」と問い合わせにやってきます。

 

 何としても入院して「それ」を再び体験したい青年はトンでもないことを思いつきます。もう心が壊れれかけている証ですが・・・


(この俳優の名前が分からないけれど、どこかで見た顔・・)

かくして三者(三組)三様のアンサンブルで映画は淡々と流れていきますが、それぞれ問題を抱える彼彼女らの周囲に配された人物たちが絶妙でこの映画に広さと厚みと深みと軽妙さと笑いをもたらしているように思われました。

  スーザン・サランドンを「あなたと寝たがっているいい男がいるわよ~」とたきつけ、「母親と同居したばっかりに夫に逃げられ離婚して10年。その母親の介護に10年。男の愛なんて面倒なだけだけど、セックスは必要よ」とのたまう同僚。

   念願かなって母親のような年齢差のスーザン・サランドンをデートに誘いつつ、結局、その気になれない彼女を前にしての態度は不快さも嫌味もないもので、いい子だな~と感じちゃいました。ダニエル・サニャータ、マイタイプではないけれど、今後チェックしていたい俳優かも。

 「私がクリスマスを嫌いな理由スピーチコンテスト」でスピーチする羽目になったスーザン。この場面、涙あり笑いあり。

話しかけても呼びかけても無反応で、せめて一口食べさせようとしても拒まれてしまい、その瞬間、いきなり手にしていたコンテストの景品のミニツリーを床に投げつけ座り込んで泣き出してしまう。

                                

介護疲れと疎外感と孤独感がはちきれた瞬間でしたね。
気がつけば、冬の夜の川面を見つめて立ったまま目には涙。このシーン、笑いに隠れつつも実に胸に迫るものがあります。いまにも飛び込もうとするかのような彼女に、同じような佇まいの男の声・・・母親の病室の隣会った彼でした。

さて、ポール・ウォーカーとアラン・アーキーの方はどうなったでしょうか。 
容態が気になり忍び込んだ病室で息子だという男と出会うポール、このときの二人のシーン・・・・
                                      

                                                                                                   

以下、心に染みた場面をアップしますので、どんな状況で彼らはこうした行為にたどり着いていくのか・・・今年のクリスマスもあと3ヶ月、是非ご覧になっていただきたいですね。 

                                                                           

                                     

                                   青年は病院側の計らいで精神科の女医と話をすることに。青年の話を黙って聞く彼女の表情がとても素敵でした。 

 

      

多くの場面で出てくるこの手を取り合うシーン、
じっくりご覧いただきたいと思います。

本作のチャズ・パルミンテリ監督は、衝撃のラストで心を打った『ブロンクス物語 愛につつまれた街』のときとは違って、生きることの意味を問うべく観るものの心を抉ってくるような切れ味を、この作品ではペーソスで隠し演出の冴えを見せています。一歩踏み間違えれば自殺や殺人と隣り合わせの切実な人生を生きている、そんな人々の心を他者との触れ合いによって生まれる温もりで温めようとした監督の思い、まさに聖夜に相応しいものでした。

 


「ナンバー23」

2008年09月25日 | ◆ナ行

いかに駄作かが気になり、「ミッドナイトイーグル」を取り上げましたが、映画館でご覧になられた方達は「チケット代返せー」と言いたかったこととお察しします。以下のジム・キャリーの主演映画『ナンバー23』で気分を変えていただきたいと思います。


あのジム・キャリーが、あの顔で、この役!?

まずは、そう言いたくなる映画です。同時に、この映画は2度観ないと観たことにはならない、そう言うしかない映画だろうと思いますよ。一度観ただけでは本作のサスペンスの完成度がうまく伝わらない。つまりは愉しめないままに終わってしまうから、拍子抜けさせられて腹が立つかも知れません。
 
動物管理の仕事中に犬に腕を噛まれて仕事を休むことになったジム・キャリー、これでも読んだら?というノリで妻から一冊の本を手渡され、何だか不思議な感覚に襲われていきます。


動物管理局の職員でまじめな愛妻家の主人公役のジム・キャリー。本を読め進めていくうちに、小説に書かれた主人公の話をまるで自分のことのようだと思い始めていくのですが、
 
(この本に書かれている作者の子供時代って、まるで僕と同じなんだっ!すっかり作中の話に嵌っていくジム・キャリー。まるで子供のように興奮してあれもこれもと共通項をあげつらっていきます。そのときの妻に話す姿は、笑っていいのかヤバいと思うべきか・・・・)

(興奮して話す夫に対し、すでに読み終えている妻は可笑しさをこらえながら、「最後まで読めば、あなたとは違うということがわかるはずよ」と余裕であしらいます。観ているこちらも、いつしか妻の目線でジム・キャリーを眺めてしまいます)

観始めてしばらくはジム・キャリーの様子がおかしくて、いつもの(他作品での)ジム・キャリーだと思って思わず笑ってしまいます。妻から相手にしてもらえなくて子供のようにムキになる姿も、おお、ジム・キャリーと言いたくなるほど。
そして・・


(23という数字を何から何まで身の回りの事象と関連付けないではいられなくなってくるジム・キャリー。関連付けを探すことができるたび目を輝かせ、ゲームに夢中の子供のようにすっかりわくわくドキドキ。)

読書の進行につれて出てきたのが、23という数字。
自分の誕生日も23日、
免許証も社会保障番号の数字を足すと23、
アル・カポネの囚人番号も23、
連邦ビルの爆破事件が起こった日も23、
連続殺人犯の処刑日も23、
駐車場のナンバーも23、というように、

何から何まで23という数字に関連付け、23という数字と自分には関連性があるのだと思い込んでいく様は、笑っていいのか、ヤバイと思う局面か。まさに神経症そのもので、とうとうカウンセリングを受ける羽目になります。


(精神科医を演じたダニー・ヒューストンのせいで、リアルワールドでジミー・キャリーが疾走を始めてからというもの、どんなラストになるのか、その謎解きで最後まで騙されてしまいました。さすがに食えない俳優です。)

ところが、主治医にこう諭されても聞く耳持たず、さらに、
ユークリッド幾何学の定義も23、
広島の原爆投下は8月15日だから、8+15=23、
彼女の靴の数も23足、
マヤ暦で予言された世界の終わりも2012年の12月23日

ジム・キャリーは、数字を足したり引いたり割ったり掛けたりしながら23探しに夢中になっていきます。その姿が滑稽なのでここまでは本作をジム・キャリーのサイコ的な姿で笑わせてくれる映画なのかと思ってしまうのですけれど・・・・


(最初、誰だか分からなかった彼女、リン・コリンズだったんですね・・・)

読み進めるうちに本の中の登場人物と自分が一体化。
地味で家庭的で妻に子供のようにあやされている大人しい現実の自分と違って、スタイリッシュでクール、スリリングで冷酷な男のイリュージョンがそのままセルフイメージとなって、愛する女性とも危険な遊びを楽しむ男に変貌する幻想を持つようになるジム・キャリー。この、本に誘導されたセルフイメージの転移映像は、「シン・シティ」の映像のノリといえばいいでしょうか。



やがて、23という数字に取り付かれ、寝ても覚めても23という数字の発見に全神経を集中していくリアルワールドの自分が、23という数字への異様な執着に導かれるようにして、小説の中の人物の行動意識=イリュージョンの中の自分となり、イリュージョンの中でやがてトンでもない行為に及んでいくまで、本作をジム・キャリーのサイコ的な姿で笑わせてくれる映画なのかと思って観ているんですよね。

ところが、この殺人シーンの前後から、リアルワールドのジム・キャリーは、脂汗を流しながら、「この本は僕のことを書いている!自分が書いたんじゃなければ、自分のことをよく知っている人間が書いたに違いない!」と覚醒して、書いたのは君か~と妻を殺さんばかりの精神状態になり、家から疾走。

そこから以降はリアルワールドでの展開となり、あっという間に映画はどんでん返しのラストを迎えてしまい、観客は、そのときになって見事に読みがハズレてやっと、「ああ、こういう映画だったのか・・・」という≪遅い気づき≫を与えられて放り投げられてしまいます。そういう意味で、恐らく一度観てそれっきりという多くの方にとっては、本作『ナンバー23』はジム・キャリーの喜劇俳優としてのイメージが先入観となって本作を愉しむどころではないだろうなァと。

これ、実に出来のいいサスペンス映画だと思います。恐らく監督のジョエル・シューマカーは、ジム・キャリーの持つ特性、笑いと恐怖と狂気の表情を紙一重にする顔の表情を評価して彼を起用したのではないかと思われるほど、演出も見事。23という数字の≪謎解き≫を本作への誘導として使い観客を引き込みながら、後半見事にハズスという手腕は、映画の面白さを熟知した監督ならではの手法だと思います。



夫を思う平衡感覚抜群の愛妻を演じたヴァージ二ア・マドセンも、「ひょっとしたら、彼女が犯人(この異様な世界、現実と幻想、意識と無意識の世界の交錯をジム・キャリーに仕組んだ犯人)なのではないか・・・」「彼女が種明かし的存在になるのでは」と思わせる何とも不気味な表情があり、どこまで誰を信じたらいいのか分からなくなるクライマックスとラストの演技、なかなか唸らされました。
こういう女優を見ると、いろいろな作品で思いがけない役で使ってみたくなるのではないでしょうか。

ジム・キャリーのイリュージョンの世界で出てきた二人の女性、一人は、「23という数字が私を支配する」という言って自殺する幻想的な女性を演じていたのは、前掲のリン・コリンズですが、ジム・キャリーを23という数字に嵌って神経症全開にしていく誘導の役目を担う存在です。

ブロンドのカツラと化粧ですっかり別人になっていて、こちらにも騙されちゃいましたね。

そして、もう一人、幻想の世界でジム・キャリーが愛し殺した相手の女性を演じていたのは、こちら。

最初ヴァージ二ア・マドセンの一人二役かと思ったのですが、ローナ・ミトラでした。この彼女もジム・キャリーの夢と現の両世界の女性を演じています。ジム・キャリー演じるところのウォルターにとって避けては通れない重要なキーパーソンながら、作品の本筋を邪魔しないなかなかの存在だったと思います。

このようにサスペンス映画として面白いキャスティングになっていて、手垢のついていない女優陣を配したことが成功の鍵のように思われました。ジム・キャリーの熱演も、本作を観た二度目になら、堪能できるのではないでしょうか。また忘れた頃の観てみたいなあと思う1本ですね。

2007年制作のアメリカ映画。コメディではなく、コメディタッチのスリラーでもなく、よく出来たサスペンスです。脚本は、ファーンリー・フィリップス。ジョエル・シューマカー監督の他の作品はこちらでご覧ください。★ご参考までに。http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=851

 


「ミッドナイト イーグル」

2008年09月25日 | ◆マ行

先日書いている途中で船酔い気分になったため、書くのをやめてしまった映画鑑賞(3)の続編ですが、それぞれ別立てで感想を書いていくことにしました。

●「ミッドナイト イーグル

別にパニック映画にしろと言いたいわけではないけれど、非核三原則という理念が建前でしかないという日本の安全保障政策のファジーな部分に切り込むような題材を扱いながら、どうして日本映画というのはこうも情緒に流れる映画しか作れないのかと落胆してしまいますね・・・・「日本滅亡まで48時間」などというキャッチコピーがトンでもなく空虚に響いてしまう駄作。



駐留米軍基地から飛び立ったステルスが北アルプスに墜落。それが何故日本滅亡の危機になったのかといえば、そのステルスに核が搭載されていたせいであり、
そのステルスが墜落したのはアジアのどこかの国の工作員が、米軍基地に潜入して破壊工作を行ったからという設定。映画なのにどうして国名を出せないのかと不可解。映画でも近隣諸国への配慮が必須なのだろうか。

そして日本語も話せない工作員というのも不可解。日本の米軍基地に武装して侵入するくらいなのだから、それが可能だと仮定するとそのアジア系工作員たちは相当日本社会に馴染んでいたに違いない。そう思うしかないのだけれど・・・

彼らは米軍基地で射殺されたらしいのだが、そうした場面は一切ないので、すべて秘密主義かァと突っ込みを入れたくなる。
そして負傷した工作員が新宿に潜伏しているらしいという情報を得た一介の雑誌記者が彼らとコンタクトを取る。この国の公安は一体何をしているのかしらんと鼻白むような思いになる。
そうしてまだまだいるらしいアジアのどこぞの国の工作員たちが、ステルス墜落現場に向かっているらしい。ステルスに搭載されている核を爆破させるためにです。その破壊工作を防止すべく自衛隊の精鋭部隊が北アルプスの墜落現場に向かうのですが、雪山で彼らと遭遇して銃撃戦になります。


(生き残った自衛隊員は、この吉田栄作だけ。)

北アルプスでの銃撃戦といっても、双方共に顔も分からない(映されない)。ただ雪山で一列縦隊に並んだ白の防寒服の連中がいきなり現れて一方的に自衛隊員の側がバンバン、ダダダッとやられてしまって終わり。あっという間で本作の見せ場にもなってはいません。アクション映画らしいのに、一体どこにアクションが・・・・・・おまけに、敵も味方も同じ服装なので笑えました。
こんなことなら、自衛隊員のクーデターという方が分かりやすかったのではないかと。あ、それだと『亡国のイージス』になってしまいますね。

頼みの自衛隊の精鋭部隊が「全滅しました」という無線が入る首相官邸地下の危機管理センター。茫然自失するだけの総理と表情が一切映らず台詞もなくただそこに居並んでいるだけの閣僚たち。
う~ん・・・・
どうしてこういう静止場面しか想定できないのかと驚愕させられるほど。監督が誰なのか知りたくもないけれど、政治サイドの状況を描くとき、総理官邸を映せばいいという感覚どうにかならないものか。映画『13days』くらいは観てお勉強していただきたいものです。

★映画『THIRTEEN DAYS』aedafamily.com/kanren/13days/index.htm

まさに本日、新内閣が発足する日本ですが、


(ここに並んで記念撮影する閣僚たちは、まったく無能なのだろうか)

ここに並んで記念撮影する閣僚たちは、国家的危機に遭遇した場合、本作のようにまったく無能だったら大変ですよねっ。

ゴジラ出現時の方がまだしも危機感がある。チャチであっても危機感をちゃんと演出しようとしている形跡が『ゴジラ』にはあります。そして、いまや多くの国民が馴染んだあのゴジラ出現の音楽、ダダダ、ダダダ、ダダダダダダダ♪も緊迫感があってよろしい。

本作では、首都圏および日本の太平洋側の諸都市が壊滅するか!?というときに、涙を誘うメロディがピアノで奏でられる。
そして、危機管理意識のない浪花節の男が総理。
総理に藤竜也というのは、明らかにミスキャストですね。

遺族となった7歳の子供に、「悪いのはぜ~んぶ、このおじちゃんだからね」「自分の顔を覚えておきなさい」と言うくだり、もうサイコ総理になったかと思われたほどで、唖然としちゃいました。



国家的危機に直面してテーブルを囲んでいるはずの面々ですが、台詞もなく表情すら映されないというのも、あMM、ありですよね。総理とその秘書官らしい若い男だけが真剣そうな顔をして現場の状況の報告を受け取るだけの危機管理では、もう呆れ果ててしまいます。いくら映画だからって、これ、あまりに酷すぎないか。リアリティも何もないのだから、いっそのことSFにすればよかったのに。

★ご参考までに→http://www.midnighteagle.jp/

あ、そうそう、主役はこちらです。
   ↓

こういう映画に出るようでは・・・・・
大沢たかおファンはさぞかし落胆したのではないでしょうか。

 

 


☆9月の映画鑑賞 (3) 感想付記

2008年09月23日 | ■2008年 9月の映画鑑賞
●「NAVY SEALS
ネイビー・シールズ

チャーリー・シーンはいまどうしているのでしょう。最近トンと見かけなくなりました。この映画はそのチャーリー・シーンとマイケル・ビーンが若い頃に共演したミリタリーアクション映画ですが、「タイトルで観て失敗した駄作」の典型的な映画でした。間延びしたテレビドラマのような作りの映画という意味です。もう、途中で観るのをやめたくなりましたが、それでは映画に対して失礼だと頑なに思っているフシがある私ゆえ、先送りもせずにとうとうラストまで忍耐して観て後悔した次第。
このB級映画の監督は誰かと思ったら、B級映画の帝王の一人、ルイス・ティーグ監督でした。道理で・・・・というのは、この監督、人気のある俳優や女優を起用しながら、なぜか見事にB級レベルの映画になる作品ばかり。アドヴェンチャーであれホラーであれ、どれもこれも「どうしてこういう俳優と女優を起用してこんな映画しか作れないのか」と言いたくなる典型的な監督だからです。
1990年の制作なのでチャーリー・シーンは20代半ばですが、タイムマシーンに乗って作品と監督は選びなさいと言いに行きたくなりました。
 
●「お姉チャンバラ


途中まで爆笑の連続でしたが、低予算でもこれだけナンセンスで笑える日本映画って嬉しいです。
あんまり笑えたので、後で別立てでご紹介しますね。
★ご参考までに→http://www.onechanbara-movie.com/
 

★「ホームレス中学生
 
また観てしまいました。TVドラマの方の「ホームレス中学生」です。主人公の中学生、田村裕を演じていた黒木辰哉くんの表情、ホント見飽きないですね。ついつい惹かれてまた観たくなるお顔です。http://wwwz.fujitv.co.jp/homeless/index.html
ホント、見れば見るほど、この黒木辰哉くん、
東北楽天イーグルスの田中将大投手に似てるなあ・・・・。
 


ちなみに、この秋に上映されるのはこちらの映画です。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13299/index.html

●「パプリカ
 
マッドハウスのファンです。(笑)
アニメ映画は見ないという人でも、マッドハウスはご存知なのでは?いまや世界に輸出される日本アニメ映画、マッドハウスはまさにそのけん引役ですね。そして、キャラクターデザインの安藤雅司。ファンも多いだろうなあと。私もファンです。(笑)
ジブリ映画ではなくてはならないアニメーターでしたが、今敏とのコンビでの作品が今後も楽しみですね。


●「コワイ女
 
もう可笑しくて大爆笑。コワイというタイトル、漢字の「怖い」じゃなくカタカナなのは、まさにソレだったかと!もう、のけぞってしまうほど笑いました。
「鋼」「カタカタ」「うけつぐもの」という三つのホラー短編で、なかなかユニークな監督たちだと思いました。オムニバス形式になっていますが、私は「鋼」が一番面白かった!低予算で登場人物もたったの三人ながら、怖かったのは香川照之でしたね。それも笑えましたけれど・・・(笑)
 
 
★委細はこちら(↓)で。ご参考までに。。。。
 
 
●「ダヴィンチ・トレジャー

冒険サスペンスが観たいなあと思い、前に観たことも忘れて観始めて、「これ、前にも観たかも」と気づいたときには映画は終わっていました。(汗)
正直、駄作ですね~。2006年制作のアメリカ映画ですが、冒頭からして「えっ」とげんなりさせられるシーンがあります。
ドラマとしてクライマックスに上り詰めるような緊張感もなく、どのシーンも皆どこかでみたようなものばかり。たとえB級でもこういう映画は作って欲しくないなァと。ただ、発想が「ダヴィンチ・コード」のモナリザ解釈より面白かったかも。

何より主役の彼より、この人、
ランス・ヘンリクセン
 
ランス・ヘンクリンって、
サイボーグよりも悪役に向いてるなあというのは発見でした。

●「ピッチ・ブラック
 
見逃していた映画でしたが、う~ん・・・リディックがイマイチだったかも。「エイリアン」の焼き直しのような映画だったという印象です。こちらが「エイリアン」よりも最初に作られていたら、印象は逆になったでしょう。
 

SFアクション映画と言うべきか、SFスリラーと言うべきか。
ま、久しぶりにヴィン・ディーゼルの若かった頃を愉しめましたので、よしとしましょう。気が向いたら、別立てでアップして「エイリアン」との比較をしてみるのも面白いかも・・・しれないですね。

●「フォレスト ガンプ


長編だということ以上に、映画の中で流れる時間の感覚がこちらの日常の中でのそれと違うせいか、観るのには体力が要る映画です。これで4、5回目でしょうか。
自然描写がとても美しいと再認識。フォレスト・ガンプと重なって胸に迫りました・・・・ブログを書くのにも体力が要る映画です。

最初に観たとき、母親役を見事に好演していたサリー・フィールドに対する違和感も今回はなくなっていて、息子役で出ていたのがハーレイ・ジョエル・オスメントとトム・ハンクスって似ていると思ったものですが、そうではなくトム・ハンクス演じるフォレスト・ガンプとオスメントが似ているのですね。
ダン中尉、今回も変わらず緊張感がありました。
映画『フォレスト・ガンプ』は間違いなくトム・ハンクスの代表作ですが、ゲイリー・シニーズ、さすがですね。
 

★ご参考までに→http://www.garysinise.com/

ところで、オスメント君はいま、何歳になったのでしょう。
もう子役で出演することはないでしょうが、
最近見かけませんね・・・
持ち味で素晴らしい子役でしたが、
そういう子役はかならずしもいい俳優になるとは限らない。
俳優、止めたのかも。
 

●「ロッキー ファイナル
 
改めて見てみると、やはり本作がロッキーシリーズの中で一番よくできているなあと思います。
シルベスター・スタローンにとって、ロッキーはまさに俳優として会心の作品であり、この映画だけで俳優としては本懐だろうと思いますね。
ここまで書いてきたら、何だか船酔いのような気分に。
以下の映画については、後ほど書きます。


●「ミッドナイト イーグル
●「ナンバー23
●「ノエル 星の降る夜の奇跡
 
★TVドラマ「シリウスへの道
★TVドラマ「ルパンの消息

それと、
●「フェロン

☆9月の映画鑑賞 (3)

2008年09月23日 | ■2008年 9月の映画鑑賞
画像の整理がたまってしまって、ついついこちらのブログの更新が滞ってしまい反省していたら、コメント欄を拝見してびっくり!わたくしの更新スピードって速いのでしょうか。 だとしたら、反省しなくちゃいけませんね。
ごめんなさい。書かないと観た先から忘れていくんですよね。
・・・やはり、健忘症じゃなくて別の症状かも・・・(汗)

ということで、
今月の映画鑑賞第三弾。
なかなか映画を観る時間がとれなくてきた前半でしたので酸欠状態になり、先週末時間を縫うようにしてしっかり映画三昧しちゃいました。

は今回初めて観た映画、 はまた観ちゃったという以前も観ている映画です。やはり、酸欠状態は、土日に8本くらいは観ないと治らないですね。
以下は、先行上映会で観たり、WOWOWで観たり、DVDで観たりした映画ですが、今回は、TVドラマも見て面白かったのでアップしておきたいと思います。

●「NAVY
●「お姉チャンバラ
●「ホームレス中学生
●「パプリカ
●「コワイ女
●「ダヴィンチ・トレジャー
●「ピッチ・ブラック
●「フォレスト ガンプ
●「ロッキー ファイナル
●「ミッドナイト イーグル
●「ナンバー23
●「ノエル 星の降る夜の奇跡
 
★TVドラマ「シリウスへの道

それと、
●「フェロン
 
それと、・・・・何だったか・・
 
まずは忘れないうちにタイトルだけ列挙しますね。
次回のブログで簡単な感想を付記したブログをアップしたいと思います。