月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「迷宮の女」

2008年12月28日 | ◆マ行

2005年 フランス映画
監督:ルネ・マンゾール

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=5932



(多重人格の殺人犯を演じてみせたシルヴィー・テスチュ)

パリで起こった無差別連続大量殺人事件。
殺人現場にはサイコロが転がっており、幾つかの死体は何故かその場から消え去っていた。犯人として逮捕されたのは、クロードと名乗る若い女だった。本作は、クロードが逮捕されて病院での現在進行形での取調べと彼女の逮捕に至るまでの1週間が交互に展開されるサイコサスペンス風ミステリー。
秀悦な作品に仕上がっているので驚きです。

クロードと名乗る犯人は少年といってもいい風貌の中性的なシルヴィー・テスチュが好演。彼女は自分をクロードという男だとおもっいる精神病患者なのか、あるいは若い男のフリをしている知能犯なのか。精神疾患なら罪は問えず治療の対象となるが、知能犯なら死刑が予測される重罪犯。
ところが、その見定めが出来ない・・・・・

容疑者クロードに翻弄される関係者。
以下のようにいろいろの人格が入れ替わるのだから、無理もありません。



「わたしは、アリアンヌよ」
「何も話すことなんかないわ」

「ぼくは、テゼだよ。」
「クロードのこと、何も話しちゃいけなんだ。怖いんだもん」
「でも・・・」

知能犯で仕切り屋のクロードにも出てこられるとマズイ存在や人格(人間)がいるらしい。それがミノトールという人格。



無邪気な少年テゼになったり、大人の女性マリアンヌになったり、知能犯的なクロードになったりするが、全部で7人という多重人格が疑われる容疑者に翻弄される中、
担当がブレナックという医師に新しく変わったところから、
本作は、ブレナックVSクロードという構図で
織り込まれた糸を辿りほぐしていくように展開されていきます。
が、ブレナックに部が悪いように見えるのは、情報のなさ。


(精神分析医ブレナックを好演したランベール・ウィルソン)

それぞれ入れ替わり立ち代り現れる人間を相手に、それぞれの人間関係(力関係)を探ろうとするブレナックですが、微妙なところになると人格が変わって別の人格が現れるのだから、分が悪い。
焦燥感を強めるブレナック。
そんな彼を逆に分析していくクロード。

「あいつらは、何も知らない。全部で7人いるけど、皆別の人格じゃない。皆別々の人間なんだ。あんた、誰?僕の担当医になるの?あ、そう。僕は構わないよ。あんたが耐えられるならね。」という風に、クロードは煙草を吸い足を組み、相手を挑発する。

こうした多重人格が疑われる容疑者に対して、ブレナックは、全ての人格は演技だと思うようになるのですが、多重人格を産んだ元の人格に迫ろうとすると、細腕の少年のような女が突如凶暴な人格となり彼を襲うのですから、たまらない。
自分の二倍以上もあるようなブレナックを持ち上げて首をしめようとするクロード、いやそれはミノトールか。
クロードは拘束されます。



演技か、多重人格か。
他の人格を生み出した元の人格に迫ろうとすると、クロードはパニックを起し別の凶悪な人格に入れ替わることに気づくブレナック。
子供のときのクロードに何が起こったのか。

この後、ブレナックは縛られた腕が痛いと泣いて懇願する人格にほだされて手錠を外し、まんまとクロードに逃げられてしまいますが、画面は逮捕前の時間軸に切り替わる。起承転結的予定調和のミステリーだと思っていると訳が分からなくなってしまいそうですが、丹念にキーパーソンの言動を抑えていくと、構図が見えてくる仕掛けになっている気がしました。

病院の窓を体当たりして割って逃走するクロードは、まさに凶暴さを秘めた知能犯そのものですが、そのクロードを執拗に追ってきた刑事マチアス・・・・すさまじいエネルギーです。
「あいつは、毎回7人殺す。今週の被害者は6人だ。だから、今週あと1人殺すはずだ!」という感じで、マチアスの精神状態はクロードとシンクロ状態。


(刑事マチアスを熱演するフレデリック・ディーファンタール)

この刑事マチアスを熱演しているのはフレデリック・ディーファンタールという俳優ですが、油絵の具をキャンバスに描き殴っているときの狂気は見ごたえ十分でした。

映画は、現在とクロード逮捕の1週間前から逮捕当日までの時間軸が入れ替わり、さらに現在の心理分析と診察のためのクロードの過去の追跡がめまぐるしく交差していきますが、映画半ばでこの刑事マチアスの時間軸だけがおかしい・・・・ということに気づかれた方は、ラストのどんでん返しに納得されると思います。

本作は、ギリシャ神話に馴染みのある方なら
謎解きを楽しめるかもしれません。が、
扱われている題材が決して明るいものではないので、
ちょっと沈鬱な気分になってしまうかも。

本作はミノタウロス(牛頭人身の獣人)の神話がキーですが、ご参考までに、以下に簡単にご紹介させていただきますね。
クレタ島のミノス王の妻がポセイドンから預かった雄牛と交わって産み落とした息子が、ミノタウロスです。そのミノタウロスを閉じ込めた迷宮を「ダイダロスの迷宮」といいますが、ミノタウロスは成長するにしたがい乱暴になり手に負えなくなったため、ミノス王はアテナイから追放されていた有名な職人ダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造させて、そこにミノタウロスをを閉じ込めるのです。
その迷宮と、

ミノタウロスの食料としてアテナイから9年ごとに少年と少女を7人ずつ生け贄とされた話と連続殺人事件を重ねているわけですが、
このミノタウロスを倒すのが、アテナイの英雄テセイウス。
彼はラビュリントスに侵入し脱出不可能と言われたラビュリントスから、ミノス王の娘アリアドネからもらった糸玉によって脱出します。
クロードの中で生まれた面々の中にその名の少年がいますが、そこは騙されました。彼が活躍するのか・・・と深読みしてしまったからですが、彼のように他の人物もこうしたギリシア神話からネーミングされているので、本作はこうしたギリシャ神話の悲劇をベースにし、現代のミノタウロスと化した人間の背景にある悲劇を重ね合わせた作品といえるでしょう。

時間軸を替えて重ね合わせることにより、
映像そのものを「迷宮」にしたルネ・マンゾール監督に脱帽ですね。
ラストのどんでん返しをお楽しみください。

 


「ママが泣いた日」(原題「 The Upside Of Anger 」)

2008年10月27日 | ◆マ行

●「ママが泣いた日」(「The Upside of Anger」)

あの『ボーン アルティメイタム』でシャープな存在感を示していた彼女が、他の女性と駆け落ちした夫の行動のせいで人生最大の危機を迎えてしまった主婦を、気難しくかつコミカルに演じているジョーン・アレンの演技が見所かもしれませんね。映画冒頭の住居と家並みの映像でアメリカ人好みの良質のホームドラマかな、と分かりますが、母親業と主婦業をほとんど放棄して朝からお酒を飲んでいるジョーン・アレンの姿は、部分的には深刻なドラマになってもおかしくない表情と状態ながら、思わず笑ってしまうコメディタッチの展開でつなげていく演出は、監督のマイク・バインダーのセンスでしょうか。


(この、おちゃめな笑顔を見せているのがマイク・バインダー監督)

(ジョーン・アレン)
(夫の行動に歯軋りして悔しがり怒りまくり、母親業と主婦業をすっかり放棄してアルコール中毒まっしぐら・・・・・のときに、頭に血が上ってケビン・コスナーとHしようと彼の家に押しかけるときの台詞が笑えます)

そんな彼女の相手役に、ケビン・コスナーというのが意外性がありました。昼間からビール片手に悪ふざけしそうな、正統派の硬派イメージのあるケビン・コスナーですが、ここでは『ロビン・フッド』のノリ。元大リーガーの人気選手だったらしいデリーという中年男。


(ケビン・コスナー。これ、数年前の画像ですが・・・お気に入りなので)

野球で燃え尽きてしまったのか、昼間からビールばかり飲んでぶらぶらしているようなイメージで、地元のラジオ局で自分の番組を持ち、いろいろなイヴェントに顔出しを求められる以外に、これといって何もしていない様子。まあ、引退しても経済的に心配のない身分で、飄々としてユーモラス。ゆとりといってもいいでしょうか。
いまや野球以外に何もまじめにやる気もその必要もない暮らしゆえ、暇な時は朝からビールばかり飲んでいるデリー。根はまじめで誠実でシャイな性格といったあたりは、ケビン・コスナーの持ち味ながら、ちょっとだらしのない独身男という設定で、瀟洒な家屋なのに、中は蛆が湧きそうな感じ。(笑)

そんな彼が登場する最初の場面、昼間からカーテンを閉め怒りが収まらないとでもいった感じでお酒を飲んでいるジョーン・アレンの家にビール片手に訪ねてくる映画冒頭は、正直あまりのだらしなさに「あれ?」という違和感を持ったものでしたが、そこはケビン・コスナー。徐々に本領発揮で、主婦であるママと娘4人の女ばかりになったこの一家に自然体で寄り添っていくところは、年の功でしょうか。
ジョーン・アレン(テリーという憎めないママ役)の一家とは子供たちが小さかった頃から家族ぐるみのお付き合いながら、娘たちはいまやお年頃・・・・・


左から、長女→四女
◆アリシア・ウィット、
◆エリカ・クリステンセン、
◆ケリー・ラッセル、
◆エヴァン・レイチェルフッド

父親との関係が最も難しくなる時期に、そのパパが妻と娘に何も言わずにいきなりいなくなるのですから、どんな家庭でも複雑系になってしまう。しかも会社の秘書譲と外国に駆け落ちしてしまったとあっては、妻だけではなく娘たちも≪見捨てられた≫という衝撃に加えて、男性観にも悪影響を与えかねません。問題が生じて当然。

こんな状態ゆえに煮詰まった母親一人では、いつ家庭崩壊してもおかしくないですよね。このキャスティングだったら、度シリアスなホームドラマでも良かったかもしれないほど。
そんなときに、「そばにいてくれたら最高の男性」を登場させたのですから、家庭崩壊が珍しくないアメリカの中流家庭にとって、そして年頃の子供を持つ中高年女性のママにとって、そして、年頃の娘たちのとっても、これは、ファンタジーかもしれませんね。

アップしようと思っていた写真画像が操作ミスで消えてしまったので、画像はネット上から拝借しました。ご紹介できなくてごめんなさい。

★ご参考までに。
http://www.upsideofanger.com/
http://www.annieplanet.co.jp/mama/

 


「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」

2008年10月13日 | ◆マ行

マルチェロ・マストロヤンニを追悼するドキュメンタリー映画「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」を観ました。
こうしたドキュメンタリー映画を観ると、一人の名優の生涯というものがいかに多くの人たちに愛されてこそのものだったかが、わかりますね。

★「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」
http://www.crest-inter.co.jp/marcello/cast.html

それにしても、カトリーヌ・ドヌーヴが未婚の母となったマルチェロとの間の娘のキアラ・マストロヤンニの、何て両親に似てきたことでしょう。親子の絆というものを通してのマルチェロ像が見えてくるようで何ともいえない思いになりました。

彼は生涯に150本もの作品に出演しているということも、このドキュメンタリー映画で初めて知りましたが、そういう意味で、彼はずっと現役の俳優であり続けた名優だったのだと改めて感じ入った次第です。

その名優マルチェロ・マストロヤンニといえば、一般的に、
やはり、この映画かなと。

★『ひまわり』 (1970年制作 監督ヴィットリオ・デ・シーカ )

この映画の製作を担当にしたカルロ・ポンティ は、後年ソフィア・ローレンと再婚していますが、この映画では、マルチェロよりも、ソフィア・ローレンが圧巻でした。

生きていると知り、イタリアから夫を探しにロシアまでやってきて、ついにイタリア人が住んでいる家を教えられてその家を訪ねたときのソフィア・ローレンの、一連の表情・・・・
ここの場面で、凄い女優だと思ったものです。

映画『ひまわり』といえば、その映画音楽も圧巻ですね。彼女のラストの姿とひまわり畑が、ヘンリー・マンシーニ の音楽で劇的な感動を観客にもたらしているという意味でも、当時の映画における音楽の大きさ、凄さというものに感じ入ってしまいます。今回久しぶりに観て、これでもかというくらいにオーケストラが映画を盛りたてているのを観て、映画音楽の位置づけというものを改めて考えさせられました。

マルチェロの映画で個人的に記憶に残っている一本は、『黒い瞳』(1987年制作 ニキータ・ミハルコフ監督)という映画ですが、こちらは『ひまわり』ほどには映画音楽として鮮明に記憶されていないように思われるのは、ひとえに映画の結末ゆえでしょうか。フランシス・レイ は、そういう意味ではソンな映画を担当したかもしれませんね。
この映画『黒い瞳』も、『ひまわり』のような悲劇にしたならば、反戦映画という側面を切った恋愛映画の悲劇作品として記憶される作品になったのではないでしょうか。
よく知られたロシア民謡の「黒い瞳」が映画のタイトルになっているように、こちらの映画にもロシアの女性が登場し、まるで『ひまわり』のイタリア妻とロシア女性を逆転させたような展開で、どきりとさせられますけれど・・・・・、ラヴストーリーが人々の記憶に残るかどうかは特にラストに象徴されるので、悲劇じゃない映画は人の記憶に残りにくい。人は悲劇に接するとハッピィエンドを望むけれど、その実、ハッピィエンドの物語は記憶に残らないという習性ですもんね。ハッピエンドにするにしても、もうちょっとマルチェロの情熱と純情と哀感が印象に残るようなラストにしてもよかったかなと。

★ロシア民謡「黒い瞳」はこちらでお聞きになれます。
 

そして、こちら。
★映画『8 1/2』 (1963年制作 F・フェリーニ監督)

 

フェデリコ・フェリーニ監督ファンにとっては、映画『甘い生活』(1962年制作)よりも忘れられないマルチェロ主演作品なのではないでしょうか。


 


「ミッドナイト イーグル」

2008年09月25日 | ◆マ行

先日書いている途中で船酔い気分になったため、書くのをやめてしまった映画鑑賞(3)の続編ですが、それぞれ別立てで感想を書いていくことにしました。

●「ミッドナイト イーグル

別にパニック映画にしろと言いたいわけではないけれど、非核三原則という理念が建前でしかないという日本の安全保障政策のファジーな部分に切り込むような題材を扱いながら、どうして日本映画というのはこうも情緒に流れる映画しか作れないのかと落胆してしまいますね・・・・「日本滅亡まで48時間」などというキャッチコピーがトンでもなく空虚に響いてしまう駄作。



駐留米軍基地から飛び立ったステルスが北アルプスに墜落。それが何故日本滅亡の危機になったのかといえば、そのステルスに核が搭載されていたせいであり、
そのステルスが墜落したのはアジアのどこかの国の工作員が、米軍基地に潜入して破壊工作を行ったからという設定。映画なのにどうして国名を出せないのかと不可解。映画でも近隣諸国への配慮が必須なのだろうか。

そして日本語も話せない工作員というのも不可解。日本の米軍基地に武装して侵入するくらいなのだから、それが可能だと仮定するとそのアジア系工作員たちは相当日本社会に馴染んでいたに違いない。そう思うしかないのだけれど・・・

彼らは米軍基地で射殺されたらしいのだが、そうした場面は一切ないので、すべて秘密主義かァと突っ込みを入れたくなる。
そして負傷した工作員が新宿に潜伏しているらしいという情報を得た一介の雑誌記者が彼らとコンタクトを取る。この国の公安は一体何をしているのかしらんと鼻白むような思いになる。
そうしてまだまだいるらしいアジアのどこぞの国の工作員たちが、ステルス墜落現場に向かっているらしい。ステルスに搭載されている核を爆破させるためにです。その破壊工作を防止すべく自衛隊の精鋭部隊が北アルプスの墜落現場に向かうのですが、雪山で彼らと遭遇して銃撃戦になります。


(生き残った自衛隊員は、この吉田栄作だけ。)

北アルプスでの銃撃戦といっても、双方共に顔も分からない(映されない)。ただ雪山で一列縦隊に並んだ白の防寒服の連中がいきなり現れて一方的に自衛隊員の側がバンバン、ダダダッとやられてしまって終わり。あっという間で本作の見せ場にもなってはいません。アクション映画らしいのに、一体どこにアクションが・・・・・・おまけに、敵も味方も同じ服装なので笑えました。
こんなことなら、自衛隊員のクーデターという方が分かりやすかったのではないかと。あ、それだと『亡国のイージス』になってしまいますね。

頼みの自衛隊の精鋭部隊が「全滅しました」という無線が入る首相官邸地下の危機管理センター。茫然自失するだけの総理と表情が一切映らず台詞もなくただそこに居並んでいるだけの閣僚たち。
う~ん・・・・
どうしてこういう静止場面しか想定できないのかと驚愕させられるほど。監督が誰なのか知りたくもないけれど、政治サイドの状況を描くとき、総理官邸を映せばいいという感覚どうにかならないものか。映画『13days』くらいは観てお勉強していただきたいものです。

★映画『THIRTEEN DAYS』aedafamily.com/kanren/13days/index.htm

まさに本日、新内閣が発足する日本ですが、


(ここに並んで記念撮影する閣僚たちは、まったく無能なのだろうか)

ここに並んで記念撮影する閣僚たちは、国家的危機に遭遇した場合、本作のようにまったく無能だったら大変ですよねっ。

ゴジラ出現時の方がまだしも危機感がある。チャチであっても危機感をちゃんと演出しようとしている形跡が『ゴジラ』にはあります。そして、いまや多くの国民が馴染んだあのゴジラ出現の音楽、ダダダ、ダダダ、ダダダダダダダ♪も緊迫感があってよろしい。

本作では、首都圏および日本の太平洋側の諸都市が壊滅するか!?というときに、涙を誘うメロディがピアノで奏でられる。
そして、危機管理意識のない浪花節の男が総理。
総理に藤竜也というのは、明らかにミスキャストですね。

遺族となった7歳の子供に、「悪いのはぜ~んぶ、このおじちゃんだからね」「自分の顔を覚えておきなさい」と言うくだり、もうサイコ総理になったかと思われたほどで、唖然としちゃいました。



国家的危機に直面してテーブルを囲んでいるはずの面々ですが、台詞もなく表情すら映されないというのも、あMM、ありですよね。総理とその秘書官らしい若い男だけが真剣そうな顔をして現場の状況の報告を受け取るだけの危機管理では、もう呆れ果ててしまいます。いくら映画だからって、これ、あまりに酷すぎないか。リアリティも何もないのだから、いっそのことSFにすればよかったのに。

★ご参考までに→http://www.midnighteagle.jp/

あ、そうそう、主役はこちらです。
   ↓

こういう映画に出るようでは・・・・・
大沢たかおファンはさぞかし落胆したのではないでしょうか。

 

 


「マッチスティック メン」

2008年09月07日 | ◆マ行

以前観たことをすっかり忘れて観始めた映画。
なれど、途中から、「ああ、これは・・・・」とラストを推理しているうちに、「これ、前に観たわ」と。確か以前も感じたことながら、リドリー・スコット監督がコメディを作ろうとするとこうなるのね・・・と。
あるいはニコラス・ケイジというキャラクターが作品を中途半端なコメディにしてしまったのか・・・・
どちらにしても、中途半端な映画だという印象を抱いたものでした。
なぜって、サスペンス風クライムコメディというラインを狙っているのかもしれませんが、それにしては重いのです。ホームドラマ風の重さといえばいいでしょうか。が、ホームドラマ的なノリで見ていると、つまらなくなるからです。

映画の冒頭ではスリリリングな予感を抱かされます。光を抑えたブルーフィルターがかったフィルムのせいか、はたまたで生活臭のない整然と片付けられたモデルルームみたいな家の中のせいか。あるいは音楽のせいか。

誰かなーと思ったら、この映画の音楽を担当しているのは『グラディエーター』や『ハンニバル』や『愛の悪魔 フランシス・ベーコンの歪んだ肖像』の音楽も担当しているジョン・マシーソンという人で、それを聞いただけで、ご存知の方は何となく彼のテイストというか得意とする音楽が合う映画のイメージは湧きそうですよね。

神経症でチック症状を薬で抑制している主人公ロイをニコラス・ケイジが演じているのですが、詐欺師がこれほど似合わない俳優というのも珍しい・・・・

冒頭からして詐欺の連続なのですが、この映画をコメディタッチのヒューマンドラマか、はたまたクライムサスペンスかと気を揉んでしまう方は、ニコラス・ケイジの相棒役のこちら、サム・ロックウェルのキャラクターで、前者だと気づかれることでしょう。


(相棒のフランク役のサム・ロックウェルがいい味を出しています)

シリアスラインじゃないのは、このサム・ロックウェルが実に軽妙ないい味を出しているからです。
ニコラス・ケイジは、この映画で『アダプテーション』同様に、
「オレにもコメディがやれる」というところを見せたかったのかもしれませんが、やっぱり彼がコミカルな演技をすると、どうしても「クサイ」くなるのは、この顔のせいでしょうか。



自分には似合わないけれど、好きなモノってあるでしょう?
彼の場合、監督や仲間とコミカルな作品で遊びたい、そういう作品が意外と好き!という思いがあるのかもしれませんね。残念ながらそういった役は似合わないのに、彼自身がエンジョイして演じたい作品は喜劇だったりするニコラス・ケイジもそういう感じがしてなりません。

詐欺商売は順調でも、神経症がますますひどくなっていくロイ。やがて、紹介された精神科医とのやり取りで、自分に子どもがいたことを知る羽目になり、意を決して会いに行くあたりから、どうもホームドラマになってしまいます。

我が子と初めて会うドキドキ感のあまり、車の窓を閉め切って煙草スパスパだったニコラス・ケイジですが、いつしか潔癖症も外出恐怖症も光嫌悪症を伴う神経症が改善されていく過程で、


(生まれて初めて会いたかった父親に会い、その父親と友情と親子の情をかわす娘の役を、見事に演じてみせたアリス・ローマン)

思春期のティーンエイジャーにすっかり手玉に取られていく様子は、まさに娘が可愛くて仕方がない娘に甘い父親たちとそっくり。
その年頃の娘を持つ父親たちの多くは、半ば照れ半ば苦い思いで共感されることでしょう。
彼が娘にせがまれて詐欺師の心得を教えるところは、まさにハートフルコメディです。

最初の詐欺修行で見事に成功しますが、この場面笑えます。
詐欺というのは、殺しや暴力なしを身上とする頭脳的詐欺師からすると、その技は芸術らしいけれど、詐欺に遭う側はどういう存在、位置づけになるのか。それを考えさせてくれるシーンです。

詐欺の心得の3番目だったかに、「詐欺はこちらが相手をカモにするのであって、絶対相手にカモられてはいけない」というのがありましたが・・・・

ラストの再会は、やはりアリス・ローマンのまさに魅せ場。 

『秘密のかけら』(2005年)や『べオウルフ』で魅力的だったアリソン・ローマン若い女性を演じたアリス・ローマンですが、

★『べオウルフ』→http://wwws.warnerbros.co.jp/beowulf/
★アリソン・ローマン→http://csx.jp/~piki/lohman.html

この映画のときには、14歳。下の画像の女の子が、1年後(映画の中でですが)上の画像の少女に変貌することになりますが、

ここから、映画はサスペンス。


(アットホームな包容力を感じさせながらも怪しげな精神科医を演じているのが、ブルース・アルトマンです。どっちに転ぶか分からないスリリングな彼の持ち味は、たまらないですね。)

何度も出てくるので、いい加減勘のいい人は映画の中ほどで「何かコイツ、ヘンだぞ・・・」と気づいてしまうところですが、何と天才的詐欺師のロイである二コラス・ケイジだけが全く気づかない。(苦笑)

そして、この仕事を最後に足を洗おうと思う二コラス・ケイジとサム・ロックウェルですが・・・・ロイはすでに瀟洒な持ち家があり、家の隠し金庫に数千万円以上の現金、そして銀行の貸し金庫に億という蓄えてきたお金がありますが、相棒のフランクは稼いだお金は皆使ってしまってバラック小屋暮らしで無一文。おまけに車のローンだったか借金の返済を迫られている。

こんな正反対の二人が最後にカモにする相手が、こちら。


(どんな役でもやれる俳優ブルース・マッギル。この映画ではカモとして狙われる大金持ちの役でしたが、怖かったですね~笑)

監督リドリー・スコット&製作がロバート・ゼメキスですもんね。ここからがお二人の本領発揮となった映画だったなァという印象でした。まさにホームドラマ粉砕のサスペンスフルなアクションありで、わお~っという展開ながら、ラストは静かな結末。

総じての印象は、二コラス・ケイジが似合わない役柄を一生懸命演じて一人で愉しんでいたのではないかという疑惑。(苦笑)

ちなみに、
二コラス・ケイジが神経症を患う原因となった元妻との離婚。その元妻がやっと出てきたのは映画ラスト数分前でしたが・・・娘から聞かされていた暮らしとはまるで違っていました。そんな元妻の前で絶句する二コラス・ケイジ。もう一人は、ラスト、何もかも失った彼の人生に、光明を与えてくれることになる女性です。




さて、下の画像の二人の女性、出番はホンのちょっとでしたが、どちらがどちらの役を演じているでしょう。(笑)
こういったことでも愉しまないと、「クサイ」演技が鼻についてたまらない映画でした。脚本は最高に面白いのに、残念!





 

 


「Mother of tears」

2008年06月24日 | ◆マ行

2007年制作のイタリア映画。オカルトスプラッター&ホラー映画。
主演は、この手の映画ではお馴染みのイタリアのアーシア・アルジェントという女優です。

黙っていると雰囲気のある女優なのですが、台詞を言わせるとダメなタイプというのが残念。でも、その雰囲気はホラー系映画では貴重で、だから、つい騙されて最後まで観てしまう・・・・

監督は、この手の映画では鬼才と呼ばれるかもしれないダリオ・アルジェントという監督で、ホラー系映画をご覧にならない方達のためにちょっとご紹介すると、昔のホラー映画としてタイトルくらいは記憶になるかもしれない「サスペリア」というホラー映画を作った監督です。「マスターズ・オブ・ホラー/悪夢の狂宴」「フェノミナ」というのは、わたくしも結構好んで観たものですが、ホラーがダメという方にはおススメしません。それでもこの監督の「オペラ座の怪人」は良かったですよ!「オペラ座の怪人」のお好きな方はいくつもの「オペラ座の怪人」映画があるので、見比べてご覧になるのも一興かもしれませんが・・・・・残虐シーンはダメという方には、ちょっとおススメできないかも。クリスティーヌ役は、やはり同じくアーシア・アルジェントでした。ここで同じアジェントという姓に気が付かれた方もおられるでしょう。そう、監督と彼女は親子です。

このデヴィ夫人に似た女優は、ヴァレリア・カヴァッリというイタリアの女優です。ああ、見たことある!と思われる方も多いのではないでしょうか。よくいろんな映画に出ていますよね~

この映画では、主人公サラの亡き母エリーザの友人として登場。白魔女として戦って殺された母親のことをサラに知らせ彼女の導き役として登場しますが、殺され方が凄まじい。女性にとっては実におぞましい死に方をさせられますが・・・・史実として魔女狩りの時代、魔女として殺された女性の多くがそういう殺され方をしたようで、つくづく今の時代に生まれてよかったとわたくしなどは安堵してしまう次第です。

ウド・キアーというドイツの俳優で、ホラー映画には欠かせない俳優ですが、変わった映画にはよく出演していて、二コール・キッドマン主演の「ドッグヴィル」のような映画にも出ていたり、ビョーク主演の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のようなカトリーヌ・ド・ヌーヴなども出ている、国際色豊かなキャスティングの映画にお呼びがかかるのでしょう。ホラー映画の俳優や女優って存在感が独特なものがありますからね。本当にいろいろなところでお見かけします。
ウド・キアーといえば、「サスペリア」にも出ていますが、やっぱり「悪魔のはらわた」や「ドイツチェーンソー」などが印象的。
この映画では、神父だったか司祭だったか。

さて、この映画、

冒頭はあたかも、トム・ハンクス主演のハリウッド映画「ダ・ヴィンチ・コード」のイタリア版か!?と思ってしまうような導入と映像で始まるので、ついつい期待してしまいますけれど、ファンの方は別の見方をされるかもしれませんが、一般的には内容的にはどうということのないB級オカルト映画です。黒魔術と白魔術のいわば魔女同士の対決・・・・。主人公が白魔術の戦士だった亡き母親の霊に守られながらこの世に道徳の退廃と悪行と死をもたらす「涙の母」と戦うという内容ながら、イマイチ尻切れトンボで、アーシア・アルジェントは中途半端。

ただ、イタリアのモダンな駅なども出てはくるけれど、こうした古い石畳の街並みやローマ近郊でしょうか、こうした建造物などが出てくるたび、わくわくさせられました。

そう、この映画の楽しみ方は、いろいろ。
こちら(↓)のような絵画のようなイタリアの家屋の窓辺や、

イタリアのアンティークファンには嬉しくなるような、
以下のようなアパート内のインテリアや、
いい味わいの出ているイタリア家具が見られるので、
それが楽しみと言えば楽しみ。



このテーブル、素敵ですよね。

書斎にこうしたブロンズが置かれている!
この映画には、いくつかの書斎の場面が出てきますが、それぞれになかなか味わいがありました。



古代美術が専門だったか美術館に研究員として勤務しているという役柄上、アパート住まいでも本がなければ格好付かない。とはいえ、こうした書棚の設定が心憎いですね。
ドアの作りや、廊下や壁に掛けられている図柄も、「もっとゆっくり拡大して見せてっ!」と言いたいほど。



この図書館の書棚の無垢材や床の素晴らしさはどうでしょう!
思わず目がいってしまいました。

ところで、
ダリオ・アルジェントという監督は
私的関係にある女優を使いたがるクセがあるのか、
この映画でも、娘のアーシア・アルジェントだけじゃなく、

内縁関係だったダリア・二コラディをサラの亡くなった母親役として出演させています。が、霊なので写真に収めている暇がなく、ネットから彼女の画像を拝借。アルジェントの実の母親ですが、往年の彼女、存在感がありましたね~
この作品では、それほどではなかったです。

何といっても、存在感があったというか印象的だったのはこちら。
      ↓

JUN ICHIKAWAという日系の女優。(国籍がどうなっているのかが不明なので、そのようにご紹介させていただきます)バイオグラフィーによれば、日本生まれながら7歳以降はローマ在住。日本語もイタリア語もどちらも堪能らしいけれど、映画の中でいきなり語られる日本語はちょっとヘンでした。
彼女の画像(こんな化粧なしのお顔)を眺めていて、どこかで見た様な顔だなあと思ったら、ハリーポッターの中に出てくる「チョウ・チャン」という東洋人の女の子役で出演していました。
同じ魔女ながら随分違うので驚き!ですね。(苦笑)
http://www.imdb.com/name/nm1536634/

 


 

★ご参考までに。
http://movies.nytimes.com/2008/06/06/movies/06arge.html


「松川裁判」

2008年05月08日 | ◆マ行

1961年日本映画。
監督:山本薩夫
脚本:新藤兼人と山形雄策が共同で執筆
撮影:「眠れる美女」の佐藤昌道

★映画「松川事件」⇒http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20104/index.html

松川事件という戦後の日本社会を揺るがした事件は、
平成生まれが国民の半分以上になった今日、
すでに過去のもの、歴史になってしまった事件かもしれない。
その世間を騒がせた裁判を再現した映画だが、

★松川事件というのは、昭和24年東北本線金谷川駅と松川駅間で上り旅客列車が、何者かによって線路が外され列車が脱線転覆した事件。

松川事件

この事件の犯人として取調べを受けた赤間勝美の自白供述書によって、
多くの労働組合員が逮捕検挙され、被告20人が
死刑及び無期懲役となった裁判の一審から、二審、
そして最高裁による差し戻し審で全員無罪となるまでの裁判を
松川裁判という。

当時の時代事情を考慮しないと、
とても信じられないような事件と裁判だけれど・・・・
裁判員制度がスタートするいま、
★冤罪⇒http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/saics/matukawa_jiken.html
の恐ろしさにかんがみて考えさせられるところが多かった。

この事件、犯人にとってはすでに時効が成立しているけれども、
とうとう真犯人は検挙されないまま、
歴史の闇の中に留まっている。



警察での取調べがいかに過酷なものだったか。
無論、江戸時代とは違うので、
縄で吊るし上げて竹で打つなどという拷問はないけれど、
精神的には飴と鞭が加えられ続けたことに変わりはない。
取調べの様子が淡々と、けれど、緊迫感をもって再現される。
その赤間勝美を冒頭の画像の小沢弘治が演じ、

社会派ドラマでは常に正義の側に立つご両人、
宇野重吉と津井健が弁護団側の、
岡林、岡本両弁護士を演じ、

自白強要で嘘の供述を引き出した警察側、
その組織を代表する人間、吉田部長役に西村晃、
法廷で顔色一つ変えず、嘘の証言をするその強面ぶりを、
後の水戸黄門が見事に演じている。
組織というものがその組織で責任ある立場にある人間に
何を強要するか、その非人間的な強大なものを
いやでも感じさせられましたね・・・・

検察の威信をかけて
被告らを有罪にもっていく検事に多々良純。

好紳士然とした彼もまた検察という組織を代表し、
いかに新たな証言が得られても検察に不利なものには、
見ざる言わざる聞かざるという人間を演じて見事。

仙台高等裁判所での第二審、
被告側にとって有利な証言のみが展開されたにも関わらず、
「裁判所に提出された物証のみを精査」した結果、
全員を有罪とした仙台高等裁判所の寺尾裁判長に、
鶴丸睦彦(「砂の器」のお父さん役が印象的ですが・・・)、

という風に、
要所要所のキャスティングが見事なせいか、
被告20名とその家族や友人知人らがまさに一般人と見まごう程で、
映画を見ているうちに、あたかも裁判の傍聴席にいるかのような、
そんな錯覚を抱かされる。

映画は、検察の論告求刑どおりの判決が下った第二審で終わるが、
仙台の高等裁判所前に終結している多くの支援団体の中の、
東北大学の学生たちの一人が山本学に似ているなあと。
良く見たら、やはり山本学で、随分若い・・・そう思ったとき、


この事件は、それほど昔の事件なのだという思いと、
いまだご存命のご年配者の方たちの若い頃の事件なのだという、
複雑な思いになった。

判決が下されたとき、法廷に衝撃が走り、被告人たちやその家族が次々と立ち上がって裁判長に直接、「こんなバカな判決ってあるか」「裁判長様、ちゃんと真実を見てください」「真実を見たなら、どうしてこんな判決になるのか」と詰め寄り訴えるシーンと、裁判官の一人がにたにた笑っていたことで、法廷内が騒然とするラストのシーンには、正直かなり驚かされたけれども・・・・


実際の裁判でもそうだったのかどうか、
これから調べたいと思っている。