月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「キャデラック 俺たちの1000マイル」(「Coupe de Ville」)

2008年08月28日 | ◆カ行&ガ行

●「キャデラック 俺たちの1000マイル」(「Coupe de Ville」)
1990年アメリカ映画 監督ジョー・ロス

こういう家族愛を描かせたら、アメリカ映画はぴか一だ。そう思わせるほど、コメディタッチながらほろっと泣かせるようなロードムーヴィのホームドラマ。過日観たジュリア・ロバーツとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ共演の映画『アメリカン・スウィートハート』と同じ監督なだけあって、似たテイストのコメディタッチながら、こちらの映画の方がずっと良質。



原題のCoupe de Villeは、このCadillac Coupe de Ville 1954というキャデラックからきている。映画では車体の色はきれいなブルー。映画の中で54年型と言っていたので、画像を探してみたけれど、ブルーの54年型を見つけかねた。

男の子の3人兄弟は、とかく仲が悪いと言われるけれど、男二人の兄弟となるとカインとアベルのように殺し合うかもしれない愛憎が生まれるケースもあるから、3人というのは殺し合わない分、愛憎が内面化してお互いに距離を置くのかもしれない。
この映画でも、子ども時代からケンカが絶えなかった3人兄弟の11年後の再会からドラマは始まる。


海軍に入隊していた長男マービンは、生真面目で責任感が強い分キレやすく、何かというと父親のように弟たちに命令する堅物で、大学を終えたらしい次男バディは、争いごとが苦手な調整型だが、純情一途なロマンティスト。この長男を何と『ホームアローン』で間抜けな泥棒を演じたダニエル・スターンが演じ、次男をアリー・グロスという俳優が演じている。いろいろな映画に出ているので、見た顔だなあという印象ながら、名前は今回初めて記憶した。
坊主頭のダニエル・スターンはなかなか様になっている!


坊主頭の画像がなくて残念!

Arye Gross
若い頃の画像がなくて残念なアリー・グロス

二人はキャデラックの鍵を持って現れるのだが、どうやら父親の指示でそのキャデラックをデトロイトからマイアミまで無傷で運ばねばならないらしい。ただし、更生施設に入所中の末の弟の弟ボビーを伴うことが条件だ。この三男を演じているのが、誰かに似てるなあと思ったら、パトリック・デンプシー。この映画のときは24歳!



この末っ子は何かというと長男に反抗的で、気性も激しいが、実は陽気でシャイな性格でもある。
こうした三兄弟の珍道中が始まるのだが、案の定、カーラジオで流す音楽一つをとっても趣味が正反対。何かと対立する長男と三男に挟まれて次男は車酔いして吐いてばかり。思うのは恋人のタミーの事。純朴なキャラ全開。(タミー役はリタ・タガート)

道中、この三兄弟はカーラジオから流れる曲を聴いても、三者三様の解釈で言い争い。まさに三者のキャラが反映された解釈!

これらの三人のそれぞれの性格は、実は父親の性格を三分割したようなもので笑えるのだが、そんな父親を演じているのが、アラン・アーキンだ。アラン・アーキンは、過日、映画『ガタカ』の紹介の折にも紹介した記憶があるけれど、存在感のある味わいのある役者。
この映画でも、味のある父親として最後を締めていた。

最後はほろりとさせるエンディングで、兄弟のいる人たちにおススメの映画ですね。


★8月後半の映画鑑賞メモ(4)

2008年08月28日 | ■2008年 8月の映画鑑賞

●「拳銃無宿」
1947年(1946年?)アメリカ映画

ジョン・ウェイン40歳(1946年製作なら39歳)のときの映画だが、この映画のジョン・ウェインにも見られる彼のナイーヴな影、八の字眉毛で困ったような表情の、ナイーヴな無垢なるジョン・ウェインを見つめていたら、今春28歳で亡くなったヒース・レジャーを思い出した。『ブロークバック・マウンテン』でのヒースは、『ROCK YOU』のときとはまるで様子が違ったけれど、なぜか、この映画を観たとき思い出したのが、若い頃のジョン・ウェインだった。
同性愛者の苦悩を描いた『ブロークバック・マウンテン』の舞台が、1960年代の西部だったからなのか、もしかしたらヒース・レジャーは1960年代に製作された西部劇の映画をよく観たのかなあと。それらの西部劇で活躍していたジョン・ウェインの映画、まさにアメリカの父ともいうイメージのジョン・ウェインだが、アメリカの強い父親像を連想させるジョン・ウェインではなく、ナイーブで孤独なジョン・ウェインのイメージ・・・・・もしかしたら、ヒース・レジャーはそういうジョン・ウェインのイメージに似せて演じることで、同性愛者の苦悩と孤独な魂を描いた『ブロークバック・マウンテン』を演じたのかもしれないと思ったほど、この映画でのヒース・レジャーはジョン・ウェインをイメージしてしまったわたし。
もっとも、『拳銃無宿』は、ハッピーエンドの西部劇バージョンだけれど。

「キャデラック 俺たちの1000マイル」
1990年製作アメリカ映画 監督ジョー・ロス

今月はまだ終わっていないので、きっとこれからも観る映画はあると思うので、追加していきますね。

「イノセンス」 
http://www.gofishpictures.com/GITS2/intro.html

押井守監督の数年前の作品。無論、画像だけを眺めているだけでも刺激的な素晴らしいアニメ作品。『攻殻機動隊』よりも、こちらの作品がずっと魅力的だ。主人公のバトォのキャラも魅力的で、個人的にマイタイプ。(苦笑)
電脳と称される人口脳を持ったサイボーグとはいえ、虚虚実実の駆け引きが展開されるところは、何度見ても面白い。
人間であることの証明に拘るところは重いけれど古いテーマだと感じるけれど・・・・、この作品を哲学的思惟の面白さに昇華させているのは、まさにそこが作品の魂そのものとなっているからかな、と。「未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」という孔子の言葉や、「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落落磊磊」といった世阿弥の言葉を始め、どこかで聞いた言葉だと思う古今東西の格言がてんこ盛り。それらが画像と溶け合って作品の中で燻し銀のような輝きを放っている。球体関節人形も好きなので、見飽きないですね。
アランフェス協奏曲のメロディが何とも叙情的な香りを、ダメ押しのようにこの作品に付加されていて、大友克洋監督のアニメ映画『Memories』を思い出しちゃいました。
それにしても、日本のビジュアルアートの進化はますます深化していくと予感させる一作ですね。

「讃歌」(邦画)

1972年制作の新藤兼人監督作品。新藤監督って、こういう映画も作っていたのかと驚きました。同じATG作品の『北村透谷 わが冬の歌』について以前ブログで書きましたが、その作品でも出ていた河原崎次郎が、佐助役。
それにしても、乙羽信子という女優は面白いですね。
時間ができたときに、この映画の事もブログで取り上げたいと思います。昔の映画ですけれど・・・・

●「インタビュー ウィズ バンパイア」
●「ザ・ヤクザ」


「バンディダス」

2008年08月28日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

家と土地を雀の涙のような代金で徴用された小作人の娘。その父親を撃たれ、父親の復讐と土地を取り返すことを目論むけれど、田舎育ちの田舎娘で、反骨精神以外には何もないといってもいい純朴な娘で、晩生なのが玉に瑕。

銀行家の父を殺されたお嬢様。
高等教育を受けてはいるが、一人娘でわがままに育った早熟娘。
こちらには、『ブリーダ』のサルマ・ハエック。

金持ちと貧乏人、大銀行家と小作人の娘という相反する立場だった二人が手を組んで、何と銀行強盗をやらかすという痛快西部劇仕立てのコメディ。

銀行強盗をやるなら、いい師を紹介しようと一肌も二肌も脱いでくれる神父。

数十行の銀行を襲って一度も捕まらないまま、引退した大銀行強盗。彼の「銀行強盗の心得」と身の守り方を教わることになる。



1.ケンカしてなならない。
2.盗む金額は一度に一人で持ち運べる分量に限る。
3.ヒミツ



ということで、
キャラのまったく異なる二人の珍道中ならぬ銀行襲撃に備えての特訓が開始されるのだが、師の出番がここだけだったのは寂しいかも。
代わりに登場するのが、こちら。

アメリカから呼ばれてやってきた経理人のはずが、実は、潜伏刑事。銀行の頭取の死の真相を探りにきた男。
コミカルでハートフルなこの役を、スティーヴ・ザーンという俳優が演じている。マシュー・マコノヒー主演のサハラ砂漠の脱出劇『サハラ 死の砂漠を脱出せよ』でも、ペネロペ・クルスと共演していた俳優さんです。



この気のいい男を味方につけて、女二人と男一人が組んだ銀行強盗がスタートするのですが、無論お色気もあり。ビール片手に笑いながら見るのにちょうどいい痛快さ。  



こうした重鎮がチョイ役で出ていたり、



二人が倒すべく立ち向かう相手が、彼。
悪役として凄みを感じさせているのに、あっという間に決着がついてしまった!もったいない!(苦笑)

ラストにネクストを予感させる台詞で終わったけれど、なんだか、昔のブルジッド・バルドーとジャンヌ・モロー主演の西部劇『ビバ!マリア』を彷彿とさせる映画だなあと。

そのルイ・マル監督と同じノリなのか、脚本を書き製作を担当しているのがリュック・ベッソンと映画『YAMAKASI』の監督のアリエル・ゼトゥン。フランスとメキシコとアメリカの合作映画ということになりますね。監督に起用されたヨアキム・ローニングとエスペン・サンドバーグというのは、これが初監督作品のようですが、他のスタッフの名前を見ると、『レオン』や『二キータ』を始めとしたリュック・ベンソンの映画ではなくなてはならないエリック・セラが音楽担当で、もうこうなるとほとんど仲間内の映画という気もしてきますね。

こうしたスタッフが、人気のある女優たちに痛快アクションコメディをやらせてみたくなるのは、遊び心なのか・・・フランシス・レイの音楽でメキシコを舞台にした女盗賊モノの映画もあったように思うけれど、あれも『ビバ!マリア』のブリジッド・バルドーで、共演がイタリアの女優クラウディア・カルディナーレだったかなあと。セクシー女優として当時人気を二分していた二人の女優を組ませ競演させて作った殿方用のお楽しみ映画だったような・・・

マリア信仰の篤い中南米での正義の味方は男の盗賊よりも、女の盗賊の方が絵になると思われているのかもしれないですね。

イマイチだなあ・・というのは正直な感想です。

 


「二ムの島」(邦題「幸せの1ページ」)

2008年08月28日 | ◆ナ行

冒頭、美しいイラスト画像で始まる現代のメルヘン。インターネットのメールのやり取りで知り合った二人、一人は父親と二人きりで太平洋の孤島で暮らす少女二ム。


このニムを演じているのは、アビゲイル・ブレスリン。魅力的な子役の誕生ですね。



二ムの毎日は、学校はこの孤島の美しい自然。親友はイルカやアシカやペリカンやトカゲたち。彼らを友としてこの孤島の自然の中でいろいろなことをして遊んでいる。(学んでいる!?)

二ムの父ジャックは海洋生物学者。ジャックは、太平洋の孤島のパソコンからインターネットで世界に繋がっている。
研究熱心な学者で論文も発表し学者としての名声を得ている変り種。普段はとっても娘思いのパパなれど、仕事に熱中すると他のことが視界にはいらなくなるという天才肌。
なかなかキュートな設定です。

孤島に週一回届けられる生活物資の中には本も。そう、二ムは、冒険物語の主人公アレックス・ローパーに夢中の女の子。

そんな二ムがひょんなことからメールでやり取りすることになった相手のHNがナンとアレックス・ローパー!というのも、このジョディ・フォスター扮する小説家アレクサンドラこそ、アレックス・ローパーの産みの母の小説家だからです。

二人はメールを通して友達になっていくのだが、 二ムのパパジャックは、いつものように海洋生物の新種を採取しに海へ出たきり戻らない。ジャックの船は嵐で難破したのだ。



戻るはずの父親が海の彼方へ行ったきり・・・・、二ムはいつしか、父親も鯨のお腹の中にいるという母親のように、戻らなくなるのではないか?



不安が押し寄せる二ム!

けれど、嵐で停電しても自分で電気を復旧させ、怪我をした足もメールでのやり取りで自分で手当てしながら、イルカやアシカやトカゲを友として孤島でたった一人で奮闘する。窮地に立ったときには、きっとアレックス・ローパーが助けに来てくれると信じて疑わない。なぜなら、アレックス・ローパーはヒーローであるだけではなく、二ムにとってたった一人の心の友だから。

二ムのことをてっきり博士の助手かなんかだとばかり思っていたアレクサンドラは、メールでの会話で初めて相手がまだ11歳の女の子だということを知り、



太平洋の名もない孤島に、
いま、11歳の少女がたった一人でいる!?

動揺するアレクサンドラ!電話恐怖症もどこへやら、あちらこちらに電話をして二ムの救助を依頼するのですが・・・・・何せその島がどこにあるのかさえ分からない。



島の緯度と経度を知らせる二ムからのメール・・・



「わたしに出来ることは?」
というアレクサンドラのメールへの返信は、
たった一言、
「来て」

こういうメールをもらったら、
腰を上げないわけにはいかないのでは!?

ところが、問題が・・・・

 
インディ・ジョーンズみたいなアレックス・ローバー。
ジェラルド・バトラーは、この物語の空想上のヒーロー、アレックス・ローバーと二ムの父親のジャックを一人二役で演じ分けていますが、この一人二役、なかなか自然で魅力的でした。

アレクサンドラは、出版社からの電話にも脅える失語症寸前の作家だが、実は一日中パソコンの前にいて小説のネタも書くための資料も全部ネットから仕入れているという徹底したネットオタク。おまけに会話する相手は、何と自分の小説の主人公アレックス・ローパーただ一人・・・

二ムのところに行かなくちゃ!
太平洋の孤島でたった一人、
11歳の女お子が、わたしが行くのを待っている!

行かなくちゃ!

ところが、さらなる問題は・・・・


(全身から汗が噴き出し、脚ががくがく震えて動けないアレクサンドラ)

玄関のドアから外に出ることができない外出恐怖症!加えて、殺菌消毒スプレーを持ち歩かないとパニックを起こす潔癖症という重症な神経症患者!
アレックス・ローパーと散々会話の応酬をしながら、やっとの思いで外で待つタクシーに乗ったものの、さっそくげーげー吐いてしまうアレクサンドラ・・・



長い道のりを悪戦苦闘しながら、
やっとたどり着いた島で、
二人はリアルに会うわけですが・・・・
あなたは誰?
わたしが、アレックス・ローパーよ。

「違う!あなたは、女じゃない!アレックス・ローパーは男よ!あなたなんかアレックス・ローパーじゃない!」

と拒否されてしまうアレクサンドラ・・・
このときの泣きそうなジョディ・フォスターの表情が秀悦。
泣きたくなりますよね・・・・

30代半ばで子どもを生んだ女優ジョディ・フォスターにとって、我が子と同じ年頃の女の事の共演は、さぞかし楽しかったのではないでしょうか。


 


「アダプテーション」

2008年08月27日 | ◆ア行

映画『マルコヴィッチの穴』(監督は、スパイク・ジョーンズ)の脚本を書いたチャーリー・カウフマン。その映画で主演したジョン・マルコヴィッチやスタッフたちが冒頭いきなり出てくるので、これって、ハリウッドのドキュメンタリー映画かと勘違いしてしまいそうになる。

初めて見たときには、メリル・ストリープの演技に見事に騙されて最後まで笑えなかったけれど、あれはいつだったか。
今回でこの映画は2度目。

アクション映画のニコラス・ケイジが好きなのだが、ニコラス・ケイジはどうも、カウフマン映画が好きなのかもしれない。
この映画では、この映画の脚本と製作を指揮している実在の脚本家チャーリー・カウフマンに扮し、そのカウフマンの双子の弟で同じ映画脚本家という設定の人物を登場させニコラス・ケイジが一人二役で演じているカウフマン映画。 映画はニコラス・ケイジの独白のナレーションで始まるが、うっかりしていると騙される。



主人公のチャーリー・カウフマンは、コンプレックスの塊で女性をデートにも誘えない気弱な不安神経症的な脚本家だが、気に入った蘭のドキュメンタリー本を映画にするにはどういった脚本を書いたらいいのか悩んでいる。チャーリーは、花の蘭のことを描いた原作本の美しい文章に陶酔して妄想を膨らませている。

著者の行動をイメージし想像を膨らませながら妄想に陥り、映像が眼前に立ち現れるが脚本が仕上がらない。それほどチャーリーがほれ込んでしまった原作の文章を、劇中でその著者スーザン役のメリル・ストリープが音読し、これが第二のナレーションとして流される。

暴力、セックス、殺人、サイコパスという要素を盛り込んだ新しい心理サスペンスを順調に仕上げる弟は、チャーリーとは正反対で社交的で積極的。付き合う女性も毎回違うくらいの発展家。兄チャーリーを芸術的な天才だと呼ぶ弟は、新しいミステリーの脚本を職人技で仕上げようとしている。

美しく驚異に満ちている蘭の世界をどういう脚本にしたら映画でも描写できるのかと悩んでいるチャーリーだが、原作本を読みふける日々にあって脚本は仕上がらない。
口にするのは詩的な哲学的な話の断片ばかり・・・・。
自分の思いなら、自分のものとなった世界なら書けるのに!

ところが、そんな兄チャーリーの言葉に刺激されて脚本を書き上げたドナルド。その脚本はミステリーとして成功してしまう。

プレッシャーで押しつぶされそうになるチャーリー。
脚本を書き上げるには原作本を書いた著者に会いに行かなければ・・・と思うが、メリル・ストリープ扮する作者スーザンに勇気がなくて会えないまま戻ってくる。

チャーリーの想像や妄想と現実・・・・

蘭を題材にノンフィクションを書くべく取材に動き回るスーザンの物語は、チャーリーが読み進めている本の流れに添っている。 



スーザンは、蘭の貴種の採取と飼育に情熱を傾けているジョン・ラロッシュを追いかけていく。

ジョン・ラロッシュはなぜ、蘭の花を全てを投げ打つかのような情熱を傾けて追いかけるのか・・・・ 

双子の脚本家を一人二役で演じるニコラス・ケイジの映像出演と違って、チャーリーの妄想(あるいは空想)世界をチャーリー役のニコラス・ケイジの独白と、スーザン役のメリル・ストリープの著書の音読とがナレーションという形で「二つで一つ」、「二人で」「一つ」の世界を構成していくかのように映画が進んでいく・・・・

が、こうした映画前半は、あくまでもチャーリーの想像の世界のまま・・・・なのだが、そのことを忘れさここでは双子の脚本家を一人二役で演じるニコラス・ケイジの映像出演と違って、チャーリーの妄想(あるいは空想)世界をチャーリー役のニコラス・ケイジとスーザン役のメリル・ストリープがそれぞれナレーションという音声で二人で一つの世界を構成していく役割のようだ。

蘭の花の取材で動き回るうちに、著者は自分の中で生まれた変化を受け止められずに悩んでいる。
ジョン・ラロッシュが何かに衝かれたように蘭の貴種の採取に情熱を傾けるのは、何かからの逃避だと気づく。

多くの人間は「現実」の生活や人生に順応している。
そこには、多くの場合情熱はない。
人間のそうした順応や適応というのは、ある意味恥辱的な姿だ。なぜなら、内なる変化、心の変化、魂の変化と向き合うことから逃避しているから。

メリル・ストリープは、ベッドに横になって電話している。



相手は、取材で追いかけているジョン・ラロッシュだ。自分の運転していた車で事故を起こし、同乗していた家族を死なせてしまった人生。その後に財産と呼べるものも自然災害でダメになって、全てを失った男ジョン・ラロッシュを演じるクリス・クーパー。

全てを失った男も、そうした状況に適応して何かに順応して生きている。二人は、ドラッグを通して心を解放することで、互いに空虚さを埋めあう存在になっていく・・・・

映画での「リアリティ」として映像化される「現実」、暴力や戦争、セックスやドラッグ、殺人、レイプ、児童虐待という出来事は、確かに現実に起こっているものだ。だが、果たしてそうした「現実」は、誰にとっての「現実」なのか。自分の「現実」でないものに人はどうやって適応するのか。できるのか。
順応しなければ生きていけない「現実」、その「リアル」な事象は、自分自身が直面する「現実」じゃない場合、どうやって、そうした「現実」に適応するのか。しようがないではないか・・・・

映画の脚本に求められる「現実」「リアルさ」、「リアルに描くべき現実」とはナンなのかというチャーリーの問い。

この場面ではいきなり笑ってしまったけれど・・・
そう、NYの映画専門学校のノリだ。



ニコラス・ケイジのチャーリー・カウフマンは、ここで高名な映画評論家に質問する。「映画で求められるリアルというのは、どういうものか」と。
講師は、こともなく「そこらじゅうにある」と答える。暴力、戦争、虐殺、殺人、セックス、すべてが、現実だと。
講演の後で講師を捕まえてさらに脚本のことを相談するチャーリーに、講師は「物語」だと答えるブライアン・コックスがなかなかいい。

脚本で問われる「現実」というのは、「物語」か・・・・

蘭の本を執筆した著者スーザンの内面に入っていくチャーリーは、そこで、「物語」を「自分が参加することで」「自分の話」にすることで仕上げていこうとする・・・

ここからが、この映画はいきなりお笑い系になる。
原作者に実際に会おうとするチャーリーを応援すべく、双子の弟も同行するが、何と男との逢瀬で麻薬で飛んで場面を見られたスーザンは、そこに脚本家が現れたのに驚愕し、チャーリーを殺そうとする。社会的地位も家庭もあり、仕事も順調な作家の自分が、不倫して麻薬におぼれていると言うことを世間に知られたら、大変だ!ということで、戸惑うだけのラロッシュに、

「わたしたちを知っている人たちに知られたら、どうするの!」
「そうなったら終わりよ!」
「殺すしかないわ」

まるで、サイコサスペンスの終楽章かというノリだ。
これは「現実」への適応を誤った好例となるが、
銃を持って追うスーザンとジョン・ラロッシュ!
逃げる双子!

銃を持って追いかける人間が出てくれば、誰かが撃たれて殺されなければならない。それが「物語」だからだ。
ということで、何と弟のドナルドが死んでしまう。

逃げおおせたチャーリーは警察を呼び、スーザンとジョンの二人は逮捕され、知的な作家メリル・ストリープがあばずれ女となり、蘭の貴種を追いかけていた情熱のロマンティストジョン・ラロッシュは麻薬密売人となり果てて、ホラーアクション映画的な場面は終わる。

チャーリーは、こうした体験を「現実」に体験したことで、何と書けなかった脚本が完成する。そして、女性に積極的だった弟が死んだことで、まるで弟が乗り移ったかのように口説けなかった女性にデートを申し込めるようになり、映画はめでたしめでたしで終わる。 
そう、何も残らない映画の完成。

生き残ったのは、本当にチャーリーなのかしら。
というツッコミがしたくなるくらい、笑うしかないエンディングの映画だが、まさにカウフマンの狙い通りかなと。

 

 

 


★8月下旬の映画鑑賞メモ(3)

2008年08月26日 | ■2008年 8月の映画鑑賞

前回の「8月下旬の映画鑑賞メモ(2)」の映画を観終えてから今日で1週間経ったところですが、この間観ることになったのは、新作も含めて今回が初めてという作品がほとんどになりました。以前も観ている映画は、「アダプテーション」と「アポカリプト」の2本のみ。後者は夏休み最終日に娘に「いっしょに観て~」と言われて観ることになったものの、これでこのDVDを観るのは何度目かしらと呆れつつ、思いがけず新たな発見があり、

・・・・・・ああ、映画って、だからやめられないんだわ。

そう再認識した次第です。

「アダプテーション」

別立てでアップしました。


「幸せの1ページ」(「二ムの島」)

別立てでアップしました。

「バンディダス」


「Das Experiment」

「Juncture」
  ---http://www.juncturethemovie.com/

どこかで見た顔だと思ったら、「1300万ドルの女」の主演女優さんでした。B級映画というよりは、テレビドラマのようなノリだったので、見せ場が平準化されてしまって残念でした。あれもこれもと盛り込んでつまらなくしてしまうことに気づかないところがB級映画の宿命かも。

「マンデラの名もなき看守」
  ---http://mandela.gyao.jp/

別立てでアップしますね。

「赤壁 レッドクリフ」

中国人なら誰でも知っているだろう超有名な史劇。ジョン・ウー監督辺り、この三国志最大の見せ場を映画で撮らないかなあ・・・と思ったこともある私としては、この映画が製作されたことを知ったときには狂喜乱舞したくなったほど。けれど、トニー・レオンの周瑜が主役と知ったとき、諸葛孔明がトニー・レオンよりも格下の俳優が起用された時点で、この映画はこけるかもしれないと一抹の不安が生まれたが、案の定、思った通りの展開になっていたように思う。冒頭の場面、三国志を知っているものなら誰でも、「ああ、あの場面か」と分かるだろうけれど、そうじゃない観客にとっては、イマイチ意味不明の場面になったのではないか。あれじゃ~、子龍ファンは泣きますよね・・・・


「アプカリプト」

夏休みが終わる前日に、娘が一緒に見てというので、付き合って観る事になった。思いとしては、ああ、また観てしまった!という感じなれど、メル・ギブソンのディレールへのこだわりに改めて脱帽ですね。

「ストレンジャー コール」

サイコパスの父親と軽薄な女子高校生のお話でした。ホラー映画だと思ってご覧になると肩透かしを食らうB級映画。

「世にも不幸せな物語」(「The Littlest Elf」)

「About Love」 (邦画)

伊東美咲がとても爽やかでしたね。

それぞれの映画感想は、明日にでも書こうと思います。やっとそうした時間ができるので、楽しみです。

 


「項羽と劉邦 その愛と興亡」

2008年08月22日 | ◆カ行&ガ行

●「項羽と劉邦 その愛と興亡」

北京オリンピックの開会式のパフォーマンスをプロデュースしたチャン・イーモウ監督が総監修していたんですね。監督はスティーヴン・シン。1990年制作の中国映画。

中国の歴史の中でも高い人気を誇る史劇といえば、三国志か秦が滅びた後の項羽と劉邦の戦い。物語は両雄の愛と覇権の興亡史なので、武人として優れていた項羽や劉邦軍の英布や韓信(「韓信の又くぐり」で有名ですが)や張良といった著名な武将や軍師の活躍よりも、≪四面楚歌≫や「虞よ、虞よ、汝を如何せん」で涙を誘う項羽と愛妃虞美人とのロマンス、そして、中国版マクベス夫人といったイメージで描かれた呂雉にコン・リーを配することで、劉邦の妻となりやがては皇妃として権勢を振るっていく呂雉の秘められた恋心に華を持たせる物語になっていました。

 
劉邦=チャン・フォンイー(張豊毅)で、『赤壁』では曹操役。

項羽にレイ・ ロイ(呂良偉)、虞美人役にロザムンド・クァンという清純派代表を配してのロマンスが悲劇のせいか、チャン・フォンイーの劉邦は部が悪かったですね。

     
虞美人=ロザムンド・クァンと呂雉コン・リー

項羽の最期は判官びいきの日本人にも涙を誘うものですが、わたしは馬が好きなせいか、名馬として名高い騅(すい)の最期に目頭が熱くなっちゃいました。

さて、中国の歴史上、有名な美妃といえば、この虞美人の他にも何人かいますけれど、傾国の美女とならずに済んだのは、何といっても今度公開されるジョン・ウー監督の『赤壁』に出てきます。この映画は三国志の中でも名高い戦闘ですが、魏の曹操軍を迎え撃つことになる楚の孫権配下の総司令長官となるのが、周瑜というイケメンさんですが、その周瑜の愛妃小喬(しょうきょう)もまた、絶世の美女と称された美妃ですね。
映画では、リン・チーリンという花のようなロザムンド・クァン系の華のある新進女優が演じています。
こちらでご覧になれますので、どうぞ。


★ご参考までに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C

 


「ブラックメール」

2008年08月21日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

始まって早々に随分前の映画だなあと思いましたが、1996年の制作なんですね。制作年次以上に、いったいいつ頃のアメリカじゃ~と言いたくなるような、アメリカの田舎の物語で、1990年代のテキサスでも、まだこんな感じだったのかもと疑いたくなる映画。 

いかにリッチであろうとたかが石油成金一家。呆れるほど無教養な成金一家が一つの町を牛耳って警察も司法も関係なくやりたい放題できるほど、テキサス州の田舎町って西部劇時代のままなのかと訝ってしまうような内容で、いい年になっても自立せず親の財産に寄りかかって暮らすことが身についてしまった石油成金の子供たちのお話です。

 

州外の都会に出たもののぱっとせずに、成金未亡人のママのいる実家に戻ってくる主人公のぼんぼんぶり。親掛かりで就職したものの、仕事もせずに旧友たちとの付き合いに日々を終えてしまう優柔不断なぼんぼん息子を演じているのが、マイケル・J・フォックスかと見紛うエリック・ストルツという俳優。

この甘ちゃんの坊や、女性を口説くのに親の財産を当てにした暮らしをイメージして口説くのだから笑えるが、そんな暮らしにうっとりするガールフレンドにキャメロン・ディアス。当時はまだチャーリーエンジェルじゃなかったけれど、ここは笑えるが、主人公の坊やが再会する旧友たちというのも主人公と同類で、田舎の富裕層のお気楽なおバカ息子と娘ばかり。

颯爽と現れたかつての恋人は「おテニス三昧」の妖艶な美人奥様稼業。昔の恋人との夢をもう一度、といわんばかりに、ママに遺産の生前贈与を頼みに行くのだが、この未亡人ママ、老齢になってステイタスのあるリッチマンを再婚相手に決めるあたり、なかなかしたたかな女性。いかに息子とはいえ、バカ息子に渡せすお金はどぶに捨てるようなものと実に冷徹で毅然としている。これをいまや往年の大女優と呼んでも良いメアリー・タイラー・ムーアが演じているのだが、一歩間違えれば、この『ブラックメール』というタイトルを知らずに見ればコメディかと思ってしまいかねないほど、彼女はコメディタッチのお顔でもある女優。

サスペンスだと思って観ている身としては、この映画はシリアス路線のはずだとアプリオリに思っているので、ロバート・レッドフォードが初めて監督した映画だった『普通の人々』のときのように、意外と富裕層のシリアスな母親役で、きっと重要な役柄に違いないと信じてしまう。もしかしたら、この再婚する母親の相手の財産を狙うのかも・・・

と思いきや、メアリー・タイラー・ムーアの出番は前半だけで、主人公がいかに甘ちゃんの坊やか、母親にさえ親に無心するダメ男だということを知らしめるだけの役割。

出番が多いのはこちらのデボラ・アンガー
財産の無い男と恋愛結婚したため成金の親に勘当され、ひそかに兄の会社をのっとるべく画策する悪知恵も持ち主なために、いよいよサスペンス全開か!?と騙されてしまう一因は、このデボラ・アンガーのキャラクターにあるかもしれない。どんな悪女を演じて見せてくれるのかと。

そう思いきや、ミステリアスで妖艶な微笑とは無関係に、彼女もまた、実は母親になっても身についた成金暮らしがやめられない子供のままの女。現実はスーパーで安い食品しか買えない生活で郊外の低所得者住宅に住み、生活に疲れて子育てから逃避する母親ぶり。ベビーシッターを雇える身分じゃないはずなのだが、神出鬼没の彼女の行動は、不思議だが、

そんな彼女の夫がジェームス・スペイダーなのだが、


(『セックスと嘘とビデオテープ』の頃のジェームス・スペイダー)

クセのあるこうした映画に出たイメージが強いせいか、この『ブラックメール』での出演をどう考えたらいいのか唸ってしまった。当時二枚目俳優として旬だったアレック・ボールドウィン主演で制作された『ヘブンズ・プリズナー』(レスリー・グリーフ監督)の第二弾映画として受け止めたのだろうか。

本作ではみすぼらしい格好をして、いわくありげな暗い表情をしながら、これまた妻同様に主人公の周囲に神出鬼没。それでいて妻とのツーショットがない。そして主人公を脅迫をする。いよいよサスペンス全開か!?

と思いきや、石油成金の家の「お嬢様」に一目ぼれして電撃結婚した後も妻一筋に愛を抱いているという純朴な夫!?これでは、ピーターパン症候群の青春映画かと目が点になる。

マイケル・ルーカー

何といっても、このマイケル・ルーカーの存在が不気味。つい騙されてしまった。石油成金の親の財産を受け継いだテキサス男。彼もまた大きな邸宅で一人暮らしながら、会社の経営は敏腕弁護士にまかせっきりで遊び呆けている。

その敏腕弁護士役をピーター・ストラウスが演じているので、通常なら、このピーター・ストラウスがらみでサスペンスになるのかな!?と思ってしまいますが、信じがたいことに彼の出番はほとんどないんです。あ~、もったいない!

出番はマイケル・ルーカーが多いので、殺されるのは彼かな!?
と期待してしまうが、自分の留守の家に出入りする実の妹を出入り禁止にし、主人公に「あいつは経理士を抱きこんでここの財産を狙っているのさ」とちゃんと見抜いていてビジネスライクな冷徹ぶりを垣間見せつつ、銃をぶっ放し、「死んでやる」と叫ぶ自殺願望というキャラクター設定は意味不明。酒びたりのプレイボーイ三昧。

まあ、テキサス州の石油成金お家庭の子供たちというのは、現アメリカ大統領の青春時代もそうだったように、この映画に出てくるボンボンたちとそう変わらないものだったのかも・・・・と思い直してみると、このストーリーの背景ってそんな昔のお話じゃないのかもしれないと思われてきたものですが、タイトルが「脅迫」というくらいなのだから、サスペンスに違いないのでしょうが、いっこうにサスペンス全開とならない。まるで、マイケル・J・フォックスの映画みたいなノリが延々と続くのです。石油成金の町の支配者という役柄のジェームズ・コバーンのテキサスファッションも実はジョークだったりして・・・という不安が生まれた頃に、やっと映画は急展開。

このジョアンナ・ゴーングという酒場でアルバイトしている女の子役の女優が現れてから、一気にサスペンスになるという唐突さ!彼女は女友達が売春(買春)中に惨殺された場面を目撃し、犯人の顔を見ている唯一の目撃者。えっ、そんな事件あった?と言いたくなりますけれど、そこは我慢です。黒人の売春婦が惨殺されたからといって誰も騒がないという土地柄だと言いたいのかもしれないので。テキサスって開拓当時の昔からそういう土地柄なのかも・・・と思ったのは、たまたま過日、アンジェリー・ジョリーのテレビ映画『ロード トゥ へヴン(True Woman)』を観たせいかも。

話を本作に戻すと、黒人のストリッパーが惨殺されるのを窓から見ていたという話を当人から聞かされて知ったジェームス・スペイダーが、その犯人を脅迫し大金を手に入れるべく単独行動。が、相手は町の支配者たる石油成金だから、脅迫が失敗したらメディアに流すというものの本人は命がけ(のつもり)の計画を勝手に立てて主人公に協力を要請する。お粗末なのは、その犯人を妻の兄のマイケル・ルーカーだと思い違いをしたために、ラストがドタバタ喜劇になってしまうこと。

ジェームス・スペイダーの暗さは、愛する妻に成金暮らしをさせてやるために、妻の兄を脅迫することを思いついたものの、妻を愛するがゆえに一人悩んでいたという落ちまでついているので、いい年をしてまともに働いて収入を得ようという発想ゼロのピーターパン症候群の面々の、あたかも青春映画のようなナイーヴさ。主人公もホントに好きな女の子ができてめでたしめでたし。

この映画は、タイトルのように「脅迫」がテーマのサスペンスではなく、脅迫して大金を得る理由こそスリリングだといいたいのかも。

格差婚をしてしまった男が妻に以前どおりの成金生活をさせてやりたいと思う男と、その男の妻になっているかつての恋人とやり直すためにママに遺産をねだる男が、「脅迫」という柄にもないことを実践しようとし、その瀬戸際で求めていたものと出会う映画だといった方がわかりやすいかもしれないですね。



これだけ個性派を揃えて制作しても、脚本がダメだとこうもつまらない映画になるという好例のような映画だと思いましたが、サスペンスだと思って観ずに(そう思って観たら、あまりに冗長な出来にブーイングの嵐になるかもしれません)、テキサスの石油成金のボンボンたちの自立の助走映画としてご覧になることをおススメします。
深読みは無意味だと教えてくれる映画かも・・・・・

 

 


★8月下旬の映画鑑賞メモ (1)

2008年08月21日 | ■2008年 8月の映画鑑賞

早いものです。夏の風物詩の代表格の甲子園野球も終わり、夏季オリンピックも後半戦。お盆も終わってはや8月も下旬。
そろそろアップしようと思っていたのですけれど、あと数本がどうしても思い出せません。

以下は、8月15日の敗戦記念日以降の映画鑑賞。 
●は今回初めて観た(と思う)映画。

●「ブラックメール」
●「デッドリーフレンド」
●「沈黙の聖戦」
●「ストーカー」
●「ライセンス トゥ ウェディング」
●「アイスプラネット」
●「ロード トゥ へヴン」
●「ハムナプトラ 3 呪われた皇帝の秘宝」
●「ディック アンド ジェイン」


●「モンスター ボール」
●「オペレーション チェックメイト」