1993年 ドイツ、デンマーク、ポルトガル合作映画
監督:ビレ・アウグスト (脚本も兼ねている)
(未来を予知する不思議な能力のために婚期を逸していたクララにプロポーズするジェレミー・アインズ扮するエステバン。クララの両親がプロポーズに困惑し恐縮するとき、「健康で子供が産める(女性)なら問題ないです」とフツーに答える台詞には時代の隔たりを感じるはず)
タイトルだけが「見逃していた映画」の一つとして記憶されていた映画。内容については前情報ゼロで観ることになった。なぜ当時見逃したかというと、娘の出産と重なったからだけれど、それ以上にメリル・ストリープという女優が苦手だったからかもしれない。
映画を観始めて、ジェレミー・アインズとグレン・クロースが出てきた時点で、「これは(この映画は)◎だ」という予感。俳優への信頼とは恐ろしいものですね。
作品の舞台となっているのが、最初はメキシコだろうかと思い、次にはこれはスペイン内乱の頃だろうかと思ったりしたけれど、最終的にこの舞台がチリだと分かったとき、国書刊行会から出版されているイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」が原作となっていることを思い出した。(国書刊行会のファンなのであります)
それにしても、アーミン・ミューラー・スタールが父親で、ヴァネッサ・レッドグレイブを母親にもつ娘なんて、一体どんな娘なのよと言いたくなるが・・・・、そういう突っ込みはなしにして素直に観て行けば、その娘クララが成長してメリル・ストリープになり、
亡き姉の恋人だったジェレミー・アイアンズ演じるところの
エステバンと結婚し、
そこからこの一家の物語が始まる下りには
やはり驚愕させられます。
まさに名優たちの競演だから。
成人したクララを演じるメリル・ストリープとエステバンを演じるジェレミー・アイアンズの役作り・・・・
以下ちょっと眺めて見ましょう。
結婚後、エステバンが開拓し築いた邸宅にて新生活を送り始め、家族として同居していたエステバンの姉フェルラとクララは姉妹さながらの親愛と友情を育む中、やがて娘が生まれ、人生で一番平穏な季節を過ごすことになるが、
姉と妻の親和性に嫉妬したエステバンはクララを家からたたき出すした辺りから、二人の関係性は重く沈うつなものになっていく。
妻を愛しているのに、心が共有できない空しさと寂しさで心が荒れるエステバン。やがて大物政治家となっていく彼の自己中心的な頑迷な人生が誤算から軍事政権を惹起していく様は、まさに波乱万丈。
そんな夫の人生を愛ゆえにこそ受け入れず距離を置いて生きる妻クララ。まさに愛は慈しみと忍耐と苦悩の賜物か。
この二人が人生を終えるまでの役作りが実に見物(みもの)です。
以下、晩年の老齢となった二人の役作りをご覧あれ。
(自分の死期を悟り孫娘に語りかけるクララ、「死は怖いものではないのよ」と)
(何十年ぶりか......で心がぴったり寄り添う二人、このエステバンにはただ相手の存在に感謝し思いやる姿しかありません。台詞が一つもなく流れるひと時・・・・素晴らしい場面です。けれど、時代の変革のうねりがすぐ目前まで迫っていた)
メリル・ストリープとジェレミー・アイアンズの役作りは必見ですが、ちなみに、高級娼婦のトランジート役のマリア・コンチータ・アロンゾ
(野心家の娼婦。愛する妻との間で安らぎを求めて得られないエステバンは、なぜ安らぎが得られないのかを考えず、怒りと失意と空しさを抱えながら娼婦トランジートにそれを求めていく..彼女もまた、女性にとって行き難い時代と国の中で実にたくましく生きていく存在です。)
(軍部に連行された娘を助け出すために、いまや高級娼婦となったトランジートに
助力を頼み初めて他人に頭を下げるエステバン。そこに傲慢さは微塵もなくなっていた)
ご覧のように数十年経っても同じ顔同じ若さというのは・・・いかにアンチエイジングであってもちょっといただけなかったです。
この「精霊たちの家」・・・・では、まさに愛が鏡となる。その鏡に映し出されるものは、愛を求めながら愛を知らず愛ではないものに走る人間の愚かさと孤独であり、愛を求めているのに愛からもっとも遠い行いを選択する人間の愚かさと孤独であり、まさに「聞いているのに聞こえず、見ているのに見えず」という聖書の中の文言がそのまま想起されてくるわれわれ人間のどうしようもなく愚かな姿。怒りと復讐、自分の思い通りにならない相手に対して抱く怒りと非寛容さ、そして狭量さと頑迷さ・・・・
クララは再び口をきかなくなります。
少女時代の再来・・・・
未来を予見する不思議な能力を持った少女だったクララは、
(クララの少女時代。姉の死を契機に口をきかなくなることを自ら選ぶ。
それが「慈しみと罪の意識から沈黙」したという独白もまた、彼女の人生を予感させてあまりある)
姉の死を予見しながらそれを止める力がなかったという罪の意識から以後、口をきかなくなります。母親役のバネッサ・レッドクレイブがクララを抱きしめながら語る台詞は暗示的である。
「何が起こるかを視ただけで、あなたが起こしたわけじゃない。あなたにはそれを起こす力はないのよ」
(「愛には与えすぎるということはないの」と
成長した娘クララに語る母親役のヴァネッサ・レッドクライブ)
19世紀の終わりから20世紀初頭、この舞台となった国では、女性に求められる普通の生き方は、娘時代は父親への服従、結婚すれば夫に従順な妻、老いては夫の世話をし子や孫を愛する柔和な祖母になること。家族の世話や介護をするのは娘の義務というのは古今東西の文化で共通ながら、ここではさらに女性たちに自己犠牲と献身、忍耐を求める教会の指導する信仰がありました。
(介護の必要のある母を姉に任せて働きに出るエステバンを見送る姉フェルラ。「母さんを頼む」と言われ、いつか迎えに来てくれる日を待って頷く彼女だが、実に切ないシーン。この映画をご覧になる男性には、この時代の行き場のない女性の人生というものに思いをはせていただきたいですね)
不本意な生き方であっても、女性である限りは受け入れなければならない生き方。それは貧しい階層に限らず富裕層の女性でも同じで、結婚して妻となれば、いかなる妻となるかは夫が決めることであり、夫が愛ではないものを求めても、父親が愛ではない命令を下しても、それを妻や娘が拒むには毅然とした命がけの勇気と強さが必要だったのです。
そうした背景を考慮しなければ、親の介護のために恋もせず結婚もせずに半生を送り、親が死んだ後は男兄弟に頼らなければ住む場所さえもなくなるフェルラ(グレン・クロースが演じて凄みがありました)のような女性の気持ちは分からない。どこに住みどこでどのように暮らせるかは男兄弟とその妻になる女性次第。
(クララに一緒に暮らしましょうと言われ、初めて人にやさしくされたと涙し、以後は実の姉妹のような愛情を注ぎ、献身的にクララを世話することになる。「危険な情事」のイメージなど微塵も感じさせない実に見事な表情でした!)
弟の妻となったクララのやさしさに安堵と感謝の思いを抱き、その感謝の思いはクララに尽くす使命感となり喜びとなっていく。そんなフェルラの心をエゴイスティックな弟は理解できない。クララに対するフェルラの思いはやがて聖母への思慕にも似たものとなり、聖なるクララの存在はフェルラの生きる源、愛の源になっていきますが、傷ついたクララに心が傷むフェルラ・・・・・
(夫エステバンの頑なな生き方に悲しみを抱くクララ)
そんな二人の関係がエステバンには面白くない。いかに大富豪となっても、姉が疎ましい。母親の介護から逃げたという心の負い目が姉の存在を疎ましく感じさせ、妻と親愛感に嫉妬する始末。
そんな弟の怒りと苛立ちが頂点に達したとき、フェルラは家を追い出されます。以後、彼女を支えるのはカビの生えた教条主義的な教会の信仰ではなく、愛そのもののクララになっていくあたりは、実に胸に染入りました。
身分違いの小作人の男ペデロと恋仲となる娘ブランカ(ウィノナ・ライダー)に対しての対応も、「お前の事を思えばこそなのに、なぜオレに従わないのだ!」という怒りになり、恥さらしな未婚の母にするわけにはいかないと息巻き、胡散臭い男と財産をやる代わりに結婚させようとする。このあたり、いまでもよくある話。
(苦労して富と名声と身分を築き上げてきただけに驕りと強権と狭量さは見事なまでに強靭となっていくエステバン。愛しているのに心が通い合わない妻との関係への苛立ちをフェルラに向けるくだりは圧巻)
情熱があり意志が強固で頑張り屋であればこそ、社会的にビジネスで成功する公算も高い。けれど、闘争心があって意志が強固で頑張って成功した人間は、自分の非を認めず何でも自分の思い通りにならなければ気がすまないという傲慢さと紙一重。自己中心な思いは相手に対する思いやりや優しさを欠き、激情は時に残酷さを露呈し人の恨みを買ってしまう・・・・・
手痛い思いをしなければ、己の愚かさに気づかない。逆に言えば、われわれ人間は己の愚かさに気づくには、相当の時間と手痛い思いをしなければわからないように出来ているということかもしれません。(後編もご覧いただければ幸いです。)