月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

『この道は母へと続く道』

2009年03月13日 | ◆カ行&ガ行
★長らく放置状態だったブログですが、
やっとログインできました。
未投稿だった記事をアップしておきますね。


2005年 ロシア映画
監督:アンドレイ・クラフチューク


 


ワーニャ役の男の子、コーリャ・スピリドノフは多くの子役の中から選ばれたそうですが、1995年生まれとあるので、本作成作時には9歳ということになります。それにしては幼すぎる気がしますが、映画の中の幼いワーニャにはぴったりだったかも。


孤児との養子縁組を世話することで成功報酬手数料を貰っているマダムと呼ばれる女性は、本作では憎まれ役ですが、それをマリーヤ・クズネツォークが実に堂々と演じていて存在感がありました。


孤児院長/ユーリイ・イツコーフ:YURI ITSKOV


ムーヒンの母/ダーリヤ・レスニコーワ:DARYA LESNIKOVA


グリーシャ/ニコライ・レウトフ:NIKOLAI REUTOV


デニス・モイセンコ/長兄的存在の青年役


サシャ・シロトキン



'05年ベルリン国際映画祭少年映画部門でグランプリを受賞


「消えた天使」(原題「The Flock」)

2008年12月12日 | ◆カ行&ガ行

2007年 
監督アンドリュー・ラウ

 

これを観るのは三度目です。先行上映で一度、二度目は英語版。今回が字幕付きで三度目。

見れば見るほどやりきれなさ以上に怖さを感じるのは、こうした映画が製作される背景に、映画以上におぞましい現実があるせいかもしれません。

原題の「The Flock」というのは、性犯罪者として登録されている人たちの事を指す言葉だと知ったとき、思わず唸らされたものです。
flockというと、通常は「群れ」といった訳語に出会います。羊の群れ、渡り鳥などの群れ、そこから群集なども意味しますが、牧師さんに対置させてキリスト教信者の団体を指したり。
それが、なぜ「性犯罪者のリスト」になるのかと。

言葉はいろいろなイメージを喚起するので、隠語や俗語もそのイメージから発展したものが多いけれど、さすがにこのflockには唸らされました。

本作の監督は、さすがに映像にはこだわりがある監督だと映像を眺めながら思いましたが、風景一つとっても、繰り返されるそれらの風景も実に重苦しくてやりきれなかったですね。

リチャード・ギア扮する性犯罪保護監察官の心象風景であり、こうした犯罪のやるせなさを象徴する風景でもあるからですが、たまらない映像でした。ラブロマンスの中で映し出されるなら、また違った意味合いを持たされ、場合によっては「美しい」とさえ感じるかもしれない風景かもしれない。けれど、本作の文脈の中で切り取られた風景というのは、登場人物の心を映し観客の心を映すものとなったとき、実に怖いものでもあるということを痛感させられます。

さて、本作では、
冒頭のリチャード・ギアの心象、その闇と光が病的なまでの切迫感でドラマに併走します。そんな彼を現実に引き戻し、映画の中でも「現実」という次元を担保しているのが、彼の部下でもあるこちらの女性捜査員。

彼女の存在は観客の目線を安定させる唯一の存在。
彼女なくしては、わたしたちはリチャード・ギアの心の闇、葛藤、その苦しさに飲み込まれていってしまう・・・・
クレア・キャサリン・デーンズ(Claire Catherine Danes)という女優ですが、ビレ・アウグスト監督の地味な映画『レ・ミゼラブル』(「Les Misérables」)が彼女を最初に見た映画で、印象に残っているのは、『めぐりあう時間たち』(「The Hours」)です。

本作に出演している俳優たちの多くは若いのですが、彼らの熱演と脇を固めている俳優たちが皆、目立たないけれど硬派なイメージの俳優や女優だったので、リチャード・ギアが浮かないで済んでいるかもしれません。それほど、リチャード・ギアは難しい役柄だったのではないかと。



マット・シュルツ(Matt Schulze)は、
やはり血が似合いますね・・・・・



ラッセル・サムズ(Russell Sams )は、
こういう映画にぴったりの俳優で・・・・

特筆したいのは、こちら。
ケイディ・ストリックランド(KaDee Strickland)。
凄みがありました・・・・・

映画としてはキャスティングが良かったと言えますが、
本作が、暗くて重いアメリカの現実を現した問題作であるという、その内容を問題にすべき映画だと第一義的には思います。

性犯罪の現実と、その背景と対策を、
対岸の火事と思っているフシがある日本・・・・・
アメリカの実態は驚くべきものですが、
加害者の人権が偏重され、子供や未成年者に対する暴力的性犯罪を犯した者に対してプライバシー保護が優先されているような日本でも、こうした性犯罪は増えているわけです。
犠牲者のことを思うと、
鉛を呑み込んだような思いになります。

性犯罪者は「集団強姦」「単独強姦」「わいせつ」「小児強姦」「小児わいせつ」の5つの類型に分類され、同一罪状と他の罪状についての再犯率の調査の結果、同一罪状の再犯では、強姦・わいせつ共に、成人対象の性犯罪より小児対象の性犯罪の再犯率が高いことが分かっているそうです。
「集団強姦」は再犯率が低く、他の罪状の再犯率については、「わいせつ」の再犯率がもっとも高くその他類型の再犯率はほぼ同程度とのこと。(保護観察者等等に対する平成15年までの追跡調査)

子供を持つ一人の親として、
こうした犯罪がなくなることを祈念してやみません。

監督のアンドリュー・ラウが切り取ったアメリカ・・・・
本作は、そうした映画でありながら、同時に、人間がいかに壊れやすいものであるかということをわたしたちに投げかけているように思われました。他人事ではないということです。映画で描かれたような暴力的性犯罪を憎むのなら、家庭をしっかり守ることですね。

夫婦相和し、子供たちが安心して暮らせる家庭にする。数分に一組が離婚する時代ですが、そんな脆弱な家庭から暴力をなくすには、もう少し隣人に対しての配慮が求められるのでは・・・・
暴力といかに向き合うかという自衛の精神を育んでいくことも、
いまや親の努めだろうと思います。

 

 


「コクーン」に出演している往年の俳優&女優たち

2008年12月08日 | ◆カ行&ガ行

どうしてこの映画を見損ねていたかといえば、当時流行りだった単なるSF映画だとばかり思っていたからでしょうか。
内容的には、どうということのないSF映画の一つながら、他のSF映画と違うのは、主役が老人たちだということです。

以下のお三方、どうです!
何かやらかしそうな老齢ヤンチャ紳士ではありませんか。



なので、当然本作に出演している俳優&女優は、高齢となっても映画に出演できるほどお元気だった俳優&女優たち。それだけ長年活躍してこられた俳優&女優たちということで、見ていてとても懐かしさがありました。


(左からドン・アメチー、ヒューム・クローニン、ウィルフォード・ブリムリー)

そこで、ここのブログでは、ストーリーではなく、半世紀以上にわたって映画に出演してきた彼らのお顔をアップしてみたいと思います。まずは、ヒューム・クローニン(Hume Cronyn)。


(ヒューム・クローニン、このとき73歳。2003年91歳で死去)

さすがに往年のスターです。高齢となっても存在感が凄い。
このヒューム・クローニン、愛妻のジェシカ・ダンディが亡くなったあと、再婚。これも凄いなァと!実生活のことは分からないけれど、多分人生をとことん前向きに愉しんでいたのだなあと。
その感性、意識、決断に感服させられます。


(若かりし頃のヒューム・クローニン)

宇宙人の生命力が注ぎ込まれたプールで遊んだら、エネルギーが満ちてきて、三人組の老紳士は若かりし頃のように夜遊び三昧できるくらいに若返ってしまうのですが、ヒュームは何と浮気してしまい、以下は妻に詫びを入れるシーン。



何だか実にリアルです。というのも、その妻役が実生活でも妻であるジェシカ・タンディ(Jessica Tandy)だからでしょうか。老いてなお気品を失わないこの美しさ・・・・
何だかここのシーンだけ観ると、とてもSF映画とは思えません。映画『旅愁』の数十年後・・・という錯覚を持ってしまいます。


(ジェシカ・タンディ、このとき75歳)

ジェシカ・ダンディというと、私の中では1940年代、50年代の映画に出ていた美女でしたが、彼女は、この映画の10年後、1994年に亡くなるまで映画に出演していました。まさに往年の名女優、80歳を過ぎて『ミス デイジー(Miss Daisy)』でアカデミー賞主演女優賞でした。享年85歳。実に半世紀以上も映画に出演していたのですから、やっぱり只者ではありません・・・・

二つ目のカップルはこちら。老いらくの恋というけれど、ちょっと嫌な言葉です。恋に老いも若きも関係ないぞと。



ドン・アメチー(Don Ameche )は本作のとき、76歳でしたが、1993年に亡くなりました。享年85歳。
若い頃はこんなお顔。
  ↓


個人的には、晩年のお顔の方が好きですね。
実に、好々爺然とした晩年でした。

本作では、唯一夫婦役じゃない二人ですが、

 
(グエン・バードンとドン・アメチー)

このお二人の恋を素敵だなと思ったのは、ドン・アメチーの純愛もさることながら、やはり、グエン・バードン(Gwen Verdon)のこの笑顔のせいでしょう。

いくつになっても女性らしい華のある笑顔ですね。
ドン・アメチが恋を告白したくなるのも分かるなァ。
若い頃から、笑顔が素敵な女優です。
 ↓


(これって、お宝映像ですね)


(本当に、笑顔がいいですね~)

三組目はこちらのお二人。
   ↓

(ウィルフォード・ブリムリーとモーリス・ステイプルトン)

このお二人、実に、共に老け顔なんですね。本作のときは、それぞれまだ若くて、ウィルフォード・ブリムリー(Wilford Brimley)は50歳、モーリス・ステイプルトン(Maureen Stapleton)は59歳!
なので、ちょっとびっくりしました。老人ホームに入居する年齢じゃないですよね。(苦笑)

モーリス・ステイプルトンは主役を演じる女優タイプではないけれど、まさに名脇役というタイプで、アカデミー賞でも助演女優賞をゲットしています。


(2006年、80歳で亡くなっています)

改めて彼女の経歴を見ると、ジェシカ・タンディ同様に舞台出身と言ってもいい女優さんですが、トニー賞やエミー賞などを多々受賞しているので、舞台、テレビドラマ、映画と幅広く活躍した名女優だと再認識させられます。
若い頃はこんな感じで、
  ↓

受ける印象はあまり変わっていませんね・・・
脂肪が付いておばさん化しただけという感じです。
ウィルフォード・ブリムリー(Wilford Brimley)は、
さすがに高齢となったいまはは、
こんな感じ。
  ↓



現在74歳ですが、お元気なのでしょうか。

他に、私がウディ・アレンと見間違えたのが、こちら。



若返りのプールにいくら誘っても来なかった老夫婦。三人組は、友達のバーニー(ジャック・ギルフォード)の病妻を何とかプールに入れようと誘うのですが・・・・・とうとう愛妻が亡くなってしまう。
すると、泣きながら愛妻の遺体を抱えてプールに入り、彼女の体にプールの水をかけながら「死なないでくれ、死なないでくれ」と泣くシーンですが・・・・染み入るものがありました。

この夫の役を演じていたのは、
ジャック・ギルフォード(Jack Gilford )でした。
いかにウディ・アレンのような眼鏡をかけ、彼のようなしゃべりをしていたとはいえ、ホント、見間違えてしまいました。



ジャック・ギルフォード(Jack Gilford )

本作のときは、76歳。
この5年後に亡くなっています。享年81歳。

以上の面々を中心とした老人ホームで暮らすご高齢者たちが、ひょんなことから地球外生物たる宇宙人と出会ってしまう本作。



展開の冗長さが気になりますが、ご老人が主役とあれば、無理のない速さの展開なのかなあという思いも。



宇宙人の目的がなかなか分からない時点で本作がSFファンタジーだと分からないのは、ひとえに宇宙人のリーダーを演じているのが、ブライアン・デネヒー(Brian Dennehy)だったからですね。悪役でも何でもこなせる存在感のある俳優ですから、分からないで見始めたら、ホラー映画かと思ってしまう場面も。


(宇宙人役の4人組)

本作は、心優しい宇宙人との交流を描いたSFファンタジー。
なのに、妙にリアルに感じたのが不思議です。
それは、

 

老齢となり、同年代の老人たちとホームで何の希望もないままに死を待つ生活ではなく「いくつになっても心躍る冒険にチャレンジして」「生きているいまを実感する」人生に希望を託す姿に共感を覚えたからかもしれません。

ただ、若返りの秘密が老人ホームのお隣の家のプールにあると分かったときのご老人たちの行動には少なからず心寂しくなるものを感じさせられましたけれど、老齢になったときの人間の「生きたい」「死にたくない」「若返りたい」という気持ち・・・・そういうものなんでしょうか。いわゆる≪不老不死≫への欲望・・・・

それより、私は、
このシーン、いいなあと。

相手に触れることなく愛し合うという宇宙人の愛情表現。
これ、良かったです。
そういう星なら・・・・私も行きたい。(笑)


 


「ケイブマン(洞窟男)」(原題「THE CAVEMAN'S VALENTINE」)

2008年12月03日 | ◆カ行&ガ行

●「ケイブマン(洞窟男)」(原題「THE CAVEMAN'S VALENTINE」)
2000年 監督キャシー・レモン(Kassi Lemmons)

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1810/index.html  

NYの郊外の洞穴で、ホームレスとして暮らすサミュエル・L・ジャクソン(Samuel・L・Jackson)扮するロミュラスが、凍死体の青年が実は殺されたのだと考え犯人を暴き出そうと孤軍奮闘します。
そのとき、いつも妄想の中で出てきては彼を苦しめる魔王的存在のの敵とその事件の犯人が重なり合う。けれど、この映画の見どころは、そうしたミステリー小説を原作としているからといってミステリアスな展開や彼の探偵ぶりにあると思って見ると、おいしいところを見逃してしまう。

昔観たとき、本作がここまで綿密に音楽を選んでいるとは気づかなかったですね。テレンス・ブランチャード(Terence Blanchard )に脱帽です。
本作は、天才音楽家の精神的な病やおかしな言動を生む自閉的苦悩は半ば煙幕で、人間の≪勇気というもの≫を静かに問う映画。

ジュリアード音楽院を中途でやめてしまった天才ピアニストであり作曲家であるロミュラス、将来を嘱望されながら成功することへの恐怖から逃避し、精神の病すなわち「狂気」というものに捉えられホームレス生活をするまで落ちぶれてしまった彼が、ニセモノの芸術や芸術家が跋扈する世界の放つ腐臭に対し憎悪と恐怖を抱きつつ、その実、自分が芸術と向き合う勇気を持てないでいる。そんな姿を軸にし自閉した世界の住人となっている人間がその運命を乗り越えていくまでを描いています。
真犯人を探す道程は、いわば、自らの運命を受け入れ向き合っていく勇気を持つに至るまでの道で、それを探偵業に仮託しているということで、スクリャービンが本作を読み解くキーかなと。

サミュエル・L・ジャクソンを起用したことで映像的な面白さが突出してはいるけれど、他のキャスティングを見ても分かるように、本作はどこまでも硬派な作品(のはず)である。
さすがに女性監督。キャシー・レモンの繊細な演出が冴えた映画だと再認識。撮影を担当したアメリア・ヴィンセント(Amelia Vincent )も要チェックです。

 


「消えたフェルメールを探して」

2008年10月07日 | ◆カ行&ガ行

東京都立美術館で開催中の展示会に合わせての、
映画上映ですね。
東京から戻ったばかりですが、
今回は、渋谷で映画を観る時間は作れませんでした。

この『消えたフェルメールを探して』という映画は、『ダ・ヴィンチ・コード』のようなエンターテイメントのサスペンスと違って、ドキュメンタリー映画です。
なので、
ある程度そこで描かれる内容について
予備知識があった方がいいように思いますね。
個人的には、田中純さんが書かれたフェルメールのミステリ小説『フェルメールの闇』のようなものの映画化を期待しているのですけれど・・・・。こちらは、繰り返しますが、
ドキュメンタリー映画です。

さて、どんな推測を観られるのでしょう。
楽しみですね。

 


映画「君の名は」

2008年10月01日 | ◆カ行&ガ行

映画『君の名は』は、主題歌のメロディを、当時生まれていなかった私でも口ずさめるほど。
戦後最大のメロドラマとして名高いこのドラマは、「君の名は」というTVドラマの映画化かと思っていたら、ラジオドラマの映画化だったのですね。考えてみれば、この映画は1953年に制作されているので、それ以前にテレビが全国的に普及しているはずがないのですから、TVドラマのわけはないのです。
テレビドラマの「君の名は」は、新旧両方見てはいるのですけれど、映画は断片的にしか記憶がなくて、迂闊でした。
原作が菊田一夫だというのも今回初めて知りました。

★菊田一夫
http://movie.goo.ne.jp/cast/109485/index.html

そして、実は、
音楽が古関裕二だということも今回初めて知りました。
古関裕二といえば、生家のある福島県に当地から転居していった歌手のこういうのも、迂闊、というのでしょう。

★古関裕二(が音楽を担当している映画)
http://movie.goo.ne.jp/cast/108169/index.html

さらに驚愕したのは、映画の中で使われている伴奏や効果音が、何と怪獣映画での効果音と同じ!ハモンドオルガン!



お化けでも出てきそうな・・・・(汗)
メロドラマで主人公男女二人の心細さや切なさという気持ち、そして障害があまりにあるので、今後どうなっちゃうんだろうという二人の行方を案じる観客の気持ちに添うための音楽なのでしょうが。。。。何だか怪獣映画のイメージと重なり、「ハラハラして不安になる」という状況でハモンドオルガンを使うという感覚に、「古さ」と「違和感」と「懐かしさ」を感じつつも、一人「新鮮さ」(←、く、くるしい・・・・)もまた感じた次第です。(汗)

そして、映画『君の名は』が、第一部から第三部まであったなんて、それも今回初めて知って驚きました。

★第一部・・・http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23812/story.html
★第二部・・・http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23873/story.html
★第三部・・・
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24009/story.html

とまあ、何もかも新発見でした。そして、発見したというよりは、再認識させられたのは、この映画が制作された当時の日本人と、それからおよそ半世紀を経た現代の日本人は、「別人」じゃないかというもの。

             
(単に≪純愛≫なのではありません。「抑制」は男の美学。「忍耐」は女の美学になっていくので、彼らの恋愛は人生を賭けた哲学的な求道になります。どこまでも「清く」「正しく」「美しく」まっしぐらの二人)

男女六歳にして席を同じうせず、ではないけれど・・・・、男女の性差への認識をベースにした男女別の教育ならではの恋愛の作法とでもいうのでしょうか。当時大人だった日本人の言葉遣いは実に美しい。いまでは、80歳、90歳を過ぎた方達からしか聞けない日本語となりましたけれど。それが全編オンパレードです。

     

韓国ドラマの「冬のソナタ」に涙する感覚や感性が育まれていないと、いまやこの「君の名は」がどうしてあれほどまでに全国的にヒットし当時の日本人に愛されたのか・・・・、理解できない部分があるかもしれません。

けれど、この「君の名は」は、メロドラマの大きな要素

1.障壁があること
2.すれ違い

これらは「冬のソナタ」同様にてんこ盛りですが、
これら二つのドラマは明らかに違うことも発見しました。

日本の昭和三十年代のドラマを踏襲したかのようなドラマだと称される『冬のソナタ』ですが、もう笑ってしまうしかないほど人工的な(つまりは、あり得ない、わざとらしいという意味の)障害が二人の恋路を邪魔すべく次から次と発生する『冬のソナタ』と違って、『君の名は』は、当時の日本社会にまだ普通にあった社会的倫理、結婚における倫理というれっきとした障害だということであり、その価値観を映画の登場人物達も皆共有していることです。

    (淡島千景)

真知子と後宮の二人の共通の友人、ひさご屋の綾は、戦後の困難な時代でも自立してやっていけた旅館経営者。かなりさばさばした性格の戦後女性の先取り的存在ながら、真知子の境遇にいっしょに涙します。ストイックで誠実なロマンチストの後宮に彼女も引かれていながら片思いにじっと耐える女性です。

    (月丘夢路)

後宮の姉を演じた月丘夢路。敗戦後の混乱期に仕事を求めて上京したものの、女衒に騙されて売春をして生きていた時期を隠しながら、戦後正業に就いて一生懸命生きる女性。けれど、妻を亡くして子持ちの男性に見初められ、妻にと請われ苦悩します。

このように、彼女たちもまた、「結婚して家庭婦人となる女性は商売女と称される女性とは違って貞淑であるべき女性」という価値観、つまり「貞淑は女性の美徳」という価値観を共有しているわけです。ゆえに、「嫁は我慢するもの」「夫は妻をいたわり妻は夫に従う」「嫁してはその家の家風に従いながら夫婦で新しい家風を作っていく」「長男は親の面倒をみるべきもの」「不倫は恥ずべきこと、家名の泥を塗るトンでもない行為」「既婚者が他の異性を好きになるなど許されない」という価値観をも皆共有しています。
そうした中で、運命的な出会いをしてしまった(と双方が思っている)真知子と春樹のまじめな二人がいっしょになるためにはどうすればいいのか。言い方を変えるなら、どうあれば、周囲の共感を得ていけるか。

     
(数寄屋橋で初めて会ったときから何年経った後なのか・・・・忍耐づくめで戦前の山の手言葉で泣いて詫びてばかりいる真知子さんですが、こうしてみると凄みがあります。「わたくしも苦労して参りましたもの」と言うだけのことはありました))

『君の名は』には≪個人の恋愛(感情)≫と≪社会道徳や一般的に共有されている倫理≫との葛藤という正統派の恋愛ドラマの構図がちゃんとあるんですね。
主人公の二人は戦前教育で育てられた若い男女。こうした社会倫理との葛藤は大きかったことでしょう。男性は、女性の夫から裁判で訴えられたりというリアルな社会的葛藤にも晒されます。

   
(嫁である真知子に対して懺悔して許しを請いつつ涙する姑と姑の期待に答えられないどうしようもない後宮への思いを語り、許しを請う嫁。この姑役を演じていたのは市川春代という女優さんでしたが・・・この最後の場面では当時の観客は感涙されたことと思いますが、私は思わず笑ってしまいました)

さらに加えて、社会との対立や対峙というだけではなく、主人公たちの自己抑制、内的にも倫理的に葛藤するところは、もう失われた戦前の日本の美学と呼んでもいいほど。
相手を大事に思えばこそ、安易に性行為をしない。なぜなら、不倫の関係にある性行為はエゴイスティックな行為であり、肉体的な欲望に負けて相手を軽んじることと変わらないからだという、武士道的なストイックな美学。もうたまりませんね。(笑)

1980年代の「金妻」以降、日本は不倫ではなくフリンが大隆盛になってしまっているので、この内的な自己抑制に美学を感じることなどもう理解してはもらえないかもしれませんね・・・

      
愛する女性に、苦しんでいるのは僕たちだけじゃなく、君のご主人も君への愛で苦しんでいるんだ。だから、彼からの許しがなかったなら、一生君と肉体的に結ばれなくても僕はいいんだ。そんなことがなくても僕のこころは一生君を愛するのだからと言う男性(後宮春樹くん)

ということで、
監督大庭秀雄。主役の男女後宮春樹と氏家真知子に中井貴一のお父様佐田啓二、70歳を過ぎてなお妖艶な岸恵子が配されている昭和を代表するメロドラマとして横綱級だと言えると思います。
ちなみに、ラストの画像は、トニー・レオンではありません。
佐田啓二です。二人がこんなに似ているなんて、これも大発見でした。(笑)

 


「キャデラック 俺たちの1000マイル」(「Coupe de Ville」)

2008年08月28日 | ◆カ行&ガ行

●「キャデラック 俺たちの1000マイル」(「Coupe de Ville」)
1990年アメリカ映画 監督ジョー・ロス

こういう家族愛を描かせたら、アメリカ映画はぴか一だ。そう思わせるほど、コメディタッチながらほろっと泣かせるようなロードムーヴィのホームドラマ。過日観たジュリア・ロバーツとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ共演の映画『アメリカン・スウィートハート』と同じ監督なだけあって、似たテイストのコメディタッチながら、こちらの映画の方がずっと良質。



原題のCoupe de Villeは、このCadillac Coupe de Ville 1954というキャデラックからきている。映画では車体の色はきれいなブルー。映画の中で54年型と言っていたので、画像を探してみたけれど、ブルーの54年型を見つけかねた。

男の子の3人兄弟は、とかく仲が悪いと言われるけれど、男二人の兄弟となるとカインとアベルのように殺し合うかもしれない愛憎が生まれるケースもあるから、3人というのは殺し合わない分、愛憎が内面化してお互いに距離を置くのかもしれない。
この映画でも、子ども時代からケンカが絶えなかった3人兄弟の11年後の再会からドラマは始まる。


海軍に入隊していた長男マービンは、生真面目で責任感が強い分キレやすく、何かというと父親のように弟たちに命令する堅物で、大学を終えたらしい次男バディは、争いごとが苦手な調整型だが、純情一途なロマンティスト。この長男を何と『ホームアローン』で間抜けな泥棒を演じたダニエル・スターンが演じ、次男をアリー・グロスという俳優が演じている。いろいろな映画に出ているので、見た顔だなあという印象ながら、名前は今回初めて記憶した。
坊主頭のダニエル・スターンはなかなか様になっている!


坊主頭の画像がなくて残念!

Arye Gross
若い頃の画像がなくて残念なアリー・グロス

二人はキャデラックの鍵を持って現れるのだが、どうやら父親の指示でそのキャデラックをデトロイトからマイアミまで無傷で運ばねばならないらしい。ただし、更生施設に入所中の末の弟の弟ボビーを伴うことが条件だ。この三男を演じているのが、誰かに似てるなあと思ったら、パトリック・デンプシー。この映画のときは24歳!



この末っ子は何かというと長男に反抗的で、気性も激しいが、実は陽気でシャイな性格でもある。
こうした三兄弟の珍道中が始まるのだが、案の定、カーラジオで流す音楽一つをとっても趣味が正反対。何かと対立する長男と三男に挟まれて次男は車酔いして吐いてばかり。思うのは恋人のタミーの事。純朴なキャラ全開。(タミー役はリタ・タガート)

道中、この三兄弟はカーラジオから流れる曲を聴いても、三者三様の解釈で言い争い。まさに三者のキャラが反映された解釈!

これらの三人のそれぞれの性格は、実は父親の性格を三分割したようなもので笑えるのだが、そんな父親を演じているのが、アラン・アーキンだ。アラン・アーキンは、過日、映画『ガタカ』の紹介の折にも紹介した記憶があるけれど、存在感のある味わいのある役者。
この映画でも、味のある父親として最後を締めていた。

最後はほろりとさせるエンディングで、兄弟のいる人たちにおススメの映画ですね。


「項羽と劉邦 その愛と興亡」

2008年08月22日 | ◆カ行&ガ行

●「項羽と劉邦 その愛と興亡」

北京オリンピックの開会式のパフォーマンスをプロデュースしたチャン・イーモウ監督が総監修していたんですね。監督はスティーヴン・シン。1990年制作の中国映画。

中国の歴史の中でも高い人気を誇る史劇といえば、三国志か秦が滅びた後の項羽と劉邦の戦い。物語は両雄の愛と覇権の興亡史なので、武人として優れていた項羽や劉邦軍の英布や韓信(「韓信の又くぐり」で有名ですが)や張良といった著名な武将や軍師の活躍よりも、≪四面楚歌≫や「虞よ、虞よ、汝を如何せん」で涙を誘う項羽と愛妃虞美人とのロマンス、そして、中国版マクベス夫人といったイメージで描かれた呂雉にコン・リーを配することで、劉邦の妻となりやがては皇妃として権勢を振るっていく呂雉の秘められた恋心に華を持たせる物語になっていました。

 
劉邦=チャン・フォンイー(張豊毅)で、『赤壁』では曹操役。

項羽にレイ・ ロイ(呂良偉)、虞美人役にロザムンド・クァンという清純派代表を配してのロマンスが悲劇のせいか、チャン・フォンイーの劉邦は部が悪かったですね。

     
虞美人=ロザムンド・クァンと呂雉コン・リー

項羽の最期は判官びいきの日本人にも涙を誘うものですが、わたしは馬が好きなせいか、名馬として名高い騅(すい)の最期に目頭が熱くなっちゃいました。

さて、中国の歴史上、有名な美妃といえば、この虞美人の他にも何人かいますけれど、傾国の美女とならずに済んだのは、何といっても今度公開されるジョン・ウー監督の『赤壁』に出てきます。この映画は三国志の中でも名高い戦闘ですが、魏の曹操軍を迎え撃つことになる楚の孫権配下の総司令長官となるのが、周瑜というイケメンさんですが、その周瑜の愛妃小喬(しょうきょう)もまた、絶世の美女と称された美妃ですね。
映画では、リン・チーリンという花のようなロザムンド・クァン系の華のある新進女優が演じています。
こちらでご覧になれますので、どうぞ。


★ご参考までに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C

 


「クライマーズ・ハイ」と新聞(報道)

2008年07月23日 | ◆カ行&ガ行

事前情報なしで観ることになった。



1985年夏、羽田発日本航空ボーイング747、いわゆる日航ジャンボ機の墜落事故に遭遇した地方新聞社を舞台とした社会派ドラマ。北関東新聞社という新聞社が実際にあるかのような錯覚を抱いてしまうのも、原作のリアリティに支えられているのだろう。推理小説作家横山秀夫が新聞記者時代(上毛新聞)にこの墜落事故と遭遇している自身の実体験だ。
この墜落事故は、日航機の御巣鷹山墜落事故として記憶されたものだったけれど、事故調査に時間がかかったことと事故原因を巡ってさまざまな風説が飛び交い、多くの推理や陰謀説まで生んできたせいか、事故に関して何が真実なのか、いまだに暗雲がかかっている。

あの夏、事故直後に発売され早々に回収された写真週刊誌があった。写真週刊誌というのを普段見ない一人だったけれど、たまたま発売されたばかりだったその写真週刊誌を、駅のキオスクで買うことになった一人としてこの事故現場の凄まじさは記憶から消せないでいる。ホラーやアクション、スプラッター映画も含めて壮絶な映像を山ほど見ている私ながら、事故の様子を知りたいと思って購入したその薄い週刊誌によもやあのような写真が掲載されているとはまったく思ってもいなかったので、開いた瞬間の衝撃は忘れられない。回収されるというニュースを耳にし、わたしもその週刊誌は処分した。

この映画の「クライマーズ・ハイ」というタイトルは、登山用語からの援用。登山家にとって難しい山とされる山に登るとき、調子が良くてイケイケどんどんという心理状態になったときが一番危険なのに、普段冷静に見えるタイプの山男でも、そういった興奮状態に陥って危険を顧みなくなる心理状態を意味する。
スクープを競う新聞記者たちも、足が震えるほどの興奮と恐怖感を抱くといわれるスクープに王手をかけた瞬間の心理と良く似ているということで、このタイトルは絶妙だと思う。

この墜落事故に遭遇した新聞社内での様子は、遺族から見たら正視しかねる場面ではないかと思われるシーンもあるほどながら、報道する側が抱えるさまざまな事情というものが炙り出される仕掛けになっている。報道側にとっては、≪滅多にない事故≫であり、≪取材と記事に事欠かないネタ≫ということになるが、全国紙と称される大手新聞との競争を抱える一方で、社内にもさまざまな対立や競争がある新聞社というもの。



編集を巡る世代間での対立、管理職と現場の人間との対立、編集部と販売部の人間の対立などの社内戦争も抱え、どういうスタンスで新聞を作るのか、どういうスタンスで報道するのかという姿勢を巡って編集部の人間同士にも戦いがある。
そしてその編集部にから新聞社のブラックホールと称されようと深夜から戦争状態になる販売の現場にいる人間たちの本音の言い分など、まさに社内での人間模様は実にスリリングといえる。



そうした新聞社という職場にあって、この墜落事故に遭遇した地元新聞の事故取材と編集の全権を任された遊軍記者の主人公悠木(堤真一)をはじめ、



彼を慕う若手記者佐山(NHK大河ドラマ篤姫が嫁いだ将軍を演じている堺雅人)、主人公の登山仲間の友人で販売部に所属する安西(高嶋政宏)、局内で対立する局長に遠藤憲一、その新聞社の癖のあるワンマン社長に山崎努、(この役、津川雅彦じゃなくて良かった!と勝手に安堵)

その他クセのある俳優たちを配して地味ながら見ごたえのある映画になっている。



まさに静かなクライマックス。
情報のダブルチェック!100%裏が取れた情報じゃなければダメだという思いと、見切り発車でスクープを飛ばすかという場面。ここで、もうちょっと堤真一には迫真の演技を見せて欲しかったけれど、まあ、現実はこういう感じなのかもしれない。

監督、原田眞人。残念なのは、ちょっと台詞が聞き取りにくいところが多かったところ。

印象深かったのは、新聞社まで新聞を子供連れの女性が買いに来た場面。社内で雑事に追われている記者は、「そんなものは一階のフロアーに並べてあるから、そっちに行って」と応対するが、主人公はその親子の後を追いかけて数日分の新聞を手渡す。

果たして、現在、新聞社まで新聞を買いに行くほど読みたい記事というものがあるだろうか。あるいは、そこの新聞社の新聞でなければ、と思い新聞を買いに行くような購読者などいるだろうか。

当時から、ガセネタやヤラセ記事を書いて平気な大手新聞もあったし、天下国家を大上段に構えて論じるのが好きな官僚体質の新聞なくせに官僚や政治家の批判が大好きという大手新聞。そのくせ、自分の非は絶対認めない体質で、誤報を認めながらも絶対訂正も謝罪もしない大手新聞もあった。今でもその体質は変わっていないようだが、部数が激減しないのが不思議でならない。ブロック紙では地元の政党や政治家と懇意で特定政党を支持していながら、建前として公平な紙面づくりをしているような新聞社もある。

「新聞は広告が取れて初めて出せるんだよッ」「記事なんてものは編集部のマスターベーションに過ぎない」という言葉、加えて、自前の印刷工場を持たない新聞社で、いったいどういう新聞が出せるんだ~とも言いたいが、こうした考え、今日では新聞社では常識になっているのではないか。いまや斜陽産業と化してきた新聞社だが、新聞報道の原点はナンなのか、関係者は考えるいい機会かもしれない。


「ガタカ」

2008年07月05日 | ◆カ行&ガ行

1997年制作の映画なので、もう10年になるのかと主演の3人、イーサン・ホーク、ユマ・サーマン、ジュード・ロウのこの10年の仕事を俯瞰すると、この取り合わせはユニークだなあと再認識。
監督は、アンドリュー・二コル。ニュージーランド出身の監督です。この監督の名前は覚えておきたい一人ですが、映画全体の印象を決めたのは、何といっても映像(青いフィルム)と音楽のコラボですね。音楽は、マイケル・ナイマンでした。


(出来るだけ、この映画製作当時の映像をと思ったら、こんなツーショットの画像が出てきました。この映画の共演が元で結婚したそうですが、その後離婚。ユマ・サーマンは先ごろ3度目の結婚を発表したばかり)

原作は「Gattaca」なので「ガタカ」と読んだ方がいいのではないかと思うのですが、なぜかCSでは「カダカ」になっていました。
ガタカというのは、映画の中に出てくる未来の超エリートである宇宙飛行士の訓練施設の名称ですが、どういう意味なんだろうとその由来を調べてみたら、DNAの基本分子であるguanine(グアニン)、adenine(アデ二ン)、thymine(チミン)、cytosine(シトシン)の頭文字を組み合わせた造語。何だか高校の生物の授業を思い出させられそうですが、

(ラスト、70年に一度の飛行となるロケットが宇宙に向けて飛び立つとき、イーサン・ホークの船内での動きとまったく相関比例となる動きをする彼ですが・・・この映画のときのジュード・ロウ、若いなあと思ったら、25歳!)

映画は、そう、DNA操作によって生まれた次世代の人間社会における人間的なものを問うというドラマ。内容的にはよくある話で盆百のSF映画と変わらない。DNA操作によって心身ともに健康で知能が格別に高い人間を作り出す。そうして生み出され育成された次世代エリートたる宇宙飛行士が登録される施設がガタカ。
適格者と不適格者に選別され、不適格と判定された人間は、どんなに努力して有能になっても選抜されたエリートにはなれない。選別=差別に挑み拒まれ翻弄される人間の姿、差別の壁に対して憤りや悔しさや無念さ、悲しみ、諦念といったものを抱く人間の心。

こうした差別性を扱うのに、驚くのは差別に置いてもっとも原始的な「出自による差別」というものを1990年代でも選んでいること。

認識する、仕分けする、分類する、区別するという能力を磨いてきた人間は、必然的に差別と共存する宿命を負うわけで、差別をなくしたいと本当に思うなら、未来の宗教や教育において矯正していくしかない。けれど、それをDNA操作で行えば、ロボット人間というSFになる。


(主役の3人ばかりが取り上げられがちの映画なれど、忘れてはいけない役者サンダー・バークレイ)

何といってもこの「ガタカ」の雰囲気は、スタイリッシュなアクションを決められる若手の俳優&女優を揃えたことで決まった感がしますが、ラストのサンダー・バークレー(ラストの宇宙船の搭乗口で主人公を助ける医師)の静かな存在感、それがまさしくこの映画全体の印象そのものでした。

イーサン・ホーク、ユマ・サーマン、ジュード・ロウが若手の主役3人組とするなら、もう3人忘れてならない役者が出ています。
このサンダー・バークレイと


(誰かと思えば、アラン・バーキンでした。犯人捜査の執拗さ・・・実に怖い捜査官でしたね)

往年の名優たるアラン・バーキンが出ていました。ガタカで起こった殺人事件の犯人を追い詰めていく捜査官役。存在感ありましたね・・・そして、もう一人、

ゴア・ヴィダル
(ちょっと変わった映画にばかり出ているゴア・ヴィダルまで出ていましたよ。)

若手三人組の人生の舞台となるガタカの局長には、この人。
ちょっと変わった映画にばかり出ているゴア・ヴィダル。

この3人、ゴア・ヴィダル、アラン・バーキン、そして私の好きなサンダー・バークレイという大人の3人組の存在なくしては、この映画いかに人気の若手を3人も登用した映画だったとはいえ、ただの近未来SFで終わっていたでしょう。
キャスティングの功績は大きいですね。