月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「ウォッチマン」(「WATCHMAN」)

2009年03月24日 | ◆ア行

このところ、感動させたとはいえシリアスな映画ばかり続いたせいか、
肩が凝りました。なので、

 

こういう映画なら劇場で観てもいいなあという気分になりました。
アメリカのコミックにはまったく興味はありませんが、
「シンシティ」の映像が出たときにもそれなりに楽しめたことを思えば、
今度も面白いのではないかと期待してしまいます。

映画の楽しみの一つは、なんと言っても
異世界でひとときを過ごすということがあるので、
(少なくとも、私にとってはそうなので)
こうしたエンターテイメント映画も大歓迎です。
月末が楽しみ!

 

 


「愛を読むひと」(「The Reader」)

2009年03月23日 | ◆ア行

スティーヴン・ダルドリー監督。なので、あのキラリと光る映画、『リトル ダンサー』の映像と、映画『めぐり合う時間たち』のテイストが合わさったような印象の映画でしたが、扱われている内容が重いこともあり、実に心揺さぶられる映画でした。

時は1958年。
街で具合を悪くして嘔吐していた少年に声をかけ、その嘔吐物を片付け介抱する女性。


(マイケル15歳=演じるのは、新人デヴィッド・クロス)


(ハンナ36歳=演じているのは本作でアカデミー賞主演女優賞を撮ったケイト・ウィスレット)

少年は猩紅熱にかかっていました。自宅療養の数ヶ月を経て回復した少年は助けてくれたその女性のアパートに花を持って尋ねます。

ハンナに助けられたことから彼女に恋愛感情を抱く少年マイケル。まさに、ツルゲーネフの「初恋」を思い起こさせられる場面。



少年の年上の美しい女性に憧れる思いや直情、そして戸惑い、その視線が捕らえた女性の肢体の美しさとそこから立ち上ってくる色香が、粗末なアパートの一室に差し込む光の柔らかさと相俟って、この辺りの映像がとても美しかった。

少年は、家族に心を見せない厳格な父親と夫に従順で息子を溺愛する母親という家庭の長男だった男の子から、いま、大きな一歩を踏み出そうという年齢に差し掛かっていたとはいえ、思春期の”春の目覚め”をまさに迎えたわけです。

この意外な展開に驚きますが、少年の”春の目覚め”に対して惜しみなく我が身を与える年上の女性というのではなく、粗末なアパートに住み暮らしながら30台半ばの独身女性が一人で働いて生きている・・・・1958年に30台半ばなら終戦の1945年には20歳ころで、戦争中はまさにこの少年と同じ15歳だったことになります。



この女性は終戦後の焼け跡と化したドイツ、あるいは他のどこかであれ物資もなく混乱期の中をどうやって一人で生きてきたのか・・・・それを思わざるを得なかったですね。家族や恋人は戦争で亡くなったのか、あるいは収容所で亡くなったのかと。いま、電車の車掌という仕事について一人で必死に生きている・・・
戦争中何も失うことなく生きていられた人間はいないはず。そうした時代を生きてきた女性だから、まるで余裕はない。少年のまっすぐな視線を浴びて何かが緩んだのでしょうか。相手が少年だからこそ緩んだのかもしれない。

ほどなく二人は年齢差を越えて恋愛関係になるのですが、セックスの前になぜかマイケルに本を朗読してもらいたがる女。朗読してもらうといかにも幸せそう。もしかしたら、文字が読めない?と観客は思いますが、彼女に嫌われたくなくて何も聞かないマイケル・・・
マイケルを演じている若手は、デヴィッド・クロスという俳優ですが、とても良い。

名前も知らないまま逢瀬を繰り返す二人。ある日、マイケルは彼女の名前を尋ねます。名前を聞かれて驚きながらも、彼女は「ハンナ」と答える。そして、母親のように年上の彼女は、マイケルを”ボク”と呼ぶ・・・・こうして二人の奇妙な関係が続いていきます。



過去に何か大きな傷を持つらしいハンナは、自分のことを何も語らず、マイケルは彼女を一度怒らせてしまったことで、以後、二度と彼女が望まないことはしない。彼女を失ったらもう生きていけないと思えばこそ怖くて出来ないのです。
彼女が喜ぶ朗読に自分の務めでもあるかのように実直に行っていく・・・ある日、「チヤタレー夫人の恋人」を朗読したとき、「その本はいや」と朗読をやめるよう語るハンナ。顔を上げると、「その本は下品だわ」と答えるシーンが印象的。それからというもの、マイケルはハンナが喜びそうな本を賢明に探しては彼女にそれらの本を朗読していきます。そんなマイケルの表情は喜びであふれ、他の少年たちとはかなり違うけれど、まさに甘酸っぱくて夢のような青春。そして、ハンナにとっても初めての青春時代・・・であるかのようで、二人のショットはみずみずしい。
1958年という画面に出た年代とハンナというドイツ名からしてナチスやユダヤ人収容所での体験を持った女性だろうかと直感しますけれど、彼女は何も語りません。
いつも部屋の中での逢瀬ですが、マイケルは彼女をピクニックに誘い出します。躊躇しつつも出かけるハンナ・・・・立ち寄ったレストランで「お母様と一緒にピクニックだなんていいわね」と言われるマイケルは、「はい」と答えた後、その店員の見ている前でハンナに恋人としてのキスをするシーン、ここも印象的でしたね。

このピクニックに二人で出かけるシーン、二人の人生の中で一番幸せで輝いていた日だったかもしれないですね。

いつもいっしょに過ごしていた二人でしたが、マイケルに新しい季節がやってきます。新しいクラスメイトたち、同年齢の女の子、友人たちが祝う彼のバースディ・・・・けれど、マイケルはハンナのアパートに駆けつけます。けれど、朗読の声の調子で彼の心がそこにないことを悟ったハンナ。「今日は、僕のバースディなんだ」と泣きそうな顔をして語るマイケルに、毅然とした声で「友人たちの祝うパーティに戻りなさい」と語るハンナ。
若いマイケルの今後・・・・彼の将来を考えハンナは彼の元から姿を消します。マイケルは衝撃を受けますが、探す術はありませんでした。



やがて大学生となり法学部に進んだマイケルは、少人数しか受講しない教授の講義を受講することに。その教授を演じているのは、なんとブルーノ・ガンツ!ドイツの誇る名優ですね。



彼は、教室で講義する代わりに学生たちを引き連れて戦後に長年続けられたナチスドイツの戦犯裁判に出かけます。

そこで、マイケルは思いもかけないハンナの名を耳にし衝撃を受け体が動かせなくなる。法廷に立たされていたのは、ナチスの収容所で監視員をしていたがためにその罪を告発されている女性たちでした。法廷で、収容所のことが次々に告発されていく中で、罪を否定し収容所での罪を擦り付け合う女性監視員たち。そんな中にあって、ただ一人良心の苦悩を抱え良心に基づいて正直に過去と向き合おうとして法廷に立っているのがハンナでした。

収容所で生き残った証人が女性監視員たちを告発を続ける中、あるユダヤ人の女性は、ハンナだけは他の監視員たちとは違ったと語ります。


(裁判で原告側の生き証人となる女=演じるのはレナ・オリン。彼女は、母娘の親子二世代を演じていますので、それも見ものですね)

けれど、この証言でハンナは他の元女性監視員たちから憎まれる。彼女たちは殺人共謀罪として裁かれようとしますが、ハンナこそが一番の責任者だったと罪をなすり付けられ、ハンナは窮地に立たされます。事実をありのままに語ってきたハンナはもとより自分の罪を認めています。ほかにどうしようもなかったとはいえ、囚人たちの”選別”をし、”選別された囚人たちはアウシュビッツに送られたのだ”から。けれども、”選別”の責任がハンナにあったと叫ぶ元同僚たちの挙げた証拠の文書と署名を見て、なぜかハンナは彼女たちの言い分を認めることを選びます。それは、死刑かよくて終身刑を意味する選択でした。

傍聴していたマイケルはハンナの状況を直感します。その書類は偽造だと。なぜならハンナは文字が読めず書けないからだと。マイケルは教授に、「被告の一人のことで有利な新証拠があります。彼女の減刑につながるような新証拠です」と相談すると、「君はその被告を知っているのか」と訊ねられ、思わず、「知らない人ですが」と答えるマイケルに教授の言葉は意味深でした。
やがて、マイケルはハンナの減刑をかけて証人として立とうとしますが、直前になって一人裁判所を後にします。



僕の行為を誇り高い彼女は喜ばない・・・・・それどころか、彼女は僕を憎むだろう。彼女は良心の声に従い他の人間はどうであろうと自分の犯した罪に対して贖罪の人生を送ることを選んだのだから。やがて、判決が言い渡される日がやってきます。傍聴席で見守っていたマイケル=デヴィッド・クロスの表情には、心が揺さぶられました。クラスメートや教授がいることも忘れて涙を流すシーン・・・・ヒース・レジャーに似ていると感じたのは私だけでしょうか。
そこのシーンは、是非映画をご覧いただきたいと思います。判決のその日、ハンナはかつての収容所での仕事だった囚人たちの監視員の服を来て法廷に立ちます。ナチめ!という罵声の中、判決が言い渡され、ハンナだけが殺人罪で裁かれるのです。

それから月日は流れ・・・



大人になったマイケルを演じているのがレイン・ファインズですが、はまり役のように見えて、実はハンナのような女性を愛した男性としてはイマイチ違和感が残りました。あまりに繊細すぎるせいかもしれません。


(大人になってからのマイケル=演じるのは、レイフ・ファインズ

輝かしい人生を送るはずだったマイケルの人生・・・・法学部でいっしょだった女子学生と結婚し娘をもうけていました。

けれど、結婚生活を破綻させ離婚し、誰にも心を開けないまま人生の時を重ねていたのです。

そんなマイケルが海外に留学していた成人した娘と再会し、両親の離婚と母親の生き方に否定的なために心を開けないままだった娘の苦しみを前にして、自分こそが心を誰にも開かずにきたのだと悟るのです。


(後年のマイケルの娘を演じているのは=ハンナー・ヘルツシュプルング)以前ここのブログでもご紹介しましたが、あの映画『4分間のピアニスト』の主演女優です)

「パパがずっと私と向きあってくれないのは、わたしのせい」と語り、愛を得られないできたのは自分が悪いからだと自分を責め続けてきた娘の孤独。だからこそ親から離れたところに行きたかったと語る娘を前にして、「悪いのは私の方だ。これまで自分の心を誰にも開かないできたパパの方だよ」と。数十年経って、初めてマイケルは自分の父親のように家族に心を開かなかった父親と自分が同じであったことに気づくのです。そして、どんなに娘を愛していたか。そして、ずっとずっと忘れられないでいた女性を思う自分の心を、マイケルは解き放っていく・・・・そうして、マイケルはあることを決心します。

それは、監獄の中にいるハンナに向かって本を朗読したテープを送ることでした。

彼は失った人生を取り戻すかのようにハンナにテープを送り続けます。何年も何年も・・・・・



刑務所の中のハンナはそのテープが誰から送られてきたものかを察し、何度も何度も聴きながら年を重ねていきます。そして、ある日、刑務所の中の図書室から借り出し、テープの音を聞き取りながら一音一音指で数え、本の単語の文字と照らし合わせ、これが文字なのだと発見していく・・・・



文盲(もんもう)だったハンナの世界に光明が差してきた瞬間でした。

この場面、胸が熱くなりました。文字が読めるということが人間にとってどんなに大きな意味をもつか思い起こさせられる場面です。三重苦のヘレン・ケラーが、water という言葉を発見した瞬間を思い出させられますね・・・・

そうして月日は流れ、ある日、テープに日々本を朗読し録音していたマイケルの元に一通の手紙がきます。



それは、たどたどしい文字で書かれたハンナから”ボク”へのお礼の手紙でした。
さらに驚くべき電話がマイケルの元にかかってきます。
その電話はハンナの釈放の知らせでした。

原作を読んでいないので、この映画のテーマをどう考えていいのか悩んだのは、本作のこの後の展開に違和感を感じさせられたからかもしれません。なので、本作のご紹介はここでやめておきます。


「あなたに恋のリフレイン」(『The Marrying Man 』)

2009年03月08日 | ◆ア行
『あなたに恋のリフレイン』(『The Marrying Man 』)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD382/

ご機嫌な二人、キム・ベイシンガーとアレック・ボールドウィンの共演ラブコメですが、今回が初見。二人が共演したS・マクィーン主演の名作『ゲッタ・ウェイ』のリメイク版でがっかりしたのを覚えていますが、その前にこんな映画に出ていたんですね。本作の見所はキム・ベイシンガーはクラブ歌手として歌う姿。1940年代50年代の香り漂う彼女の魅力、『L.Aコンフィデンシャル』以降は決定的に彼女の持ちみたいになってしまいましたが、本作での歌手ぶりも同じですね。アメリカの夢なのかも。

いまや55歳のキム・ベイシンガー、当時とイメージが全然変わっていないのも驚きですが、もう少しふくよかになってもらいたいと思う一方で、最近は脇役でしか見かけないアレック・ボールドウィン、

本作でのスリムさを見ると。現在はやはりかなりの肥満ですね。シェイプアップして再度スクリーンに帰ってきてほしいものです。

本作の楽しさは、脇を固めているキャストたちの面白さでもありますので、その俳優&女優たちをご紹介したかったのですが、こんな感想に帰結しちゃいました。

 


「アンブレイカブル」(「Unbreakbale」)

2008年12月11日 | ◆ア行

●「アンブレイカブル」(「Unbreakbale」)

2000年
監督 M・ナイト・シャマラン(M. Night Shyamalan)

『シックス センス』(「The Sixth Sense」)『サイン』(「Signs」)『ハプニング』(「The Happenning」)と、正直どれも肩透かしを食らった感じのつまらなさを感じたこの監督の映画の中で、本作はサミュエル・L・ジャクソン(Samuel・ L ・Jackson)が良かったという記憶があった作品。


(列車の乗客の一人というチョイ役。期待させる出方でしたが、他の登場人物同様にほとんど意味を持たされていません。レズリー・ステファンソン。Leslie Stefanson)


(冒頭のこの列車内でのシーン、座席の隙間から人物を映すというアングルが続く、心憎いのですけれど・・・・・撮影を担当したエドゥアルド・セラのセンスでしょうか)

この監督作品の中でブルース・ウィリス(Bruce Willis) 主演でストーリー展開が良かったのは『シックス・センス』かなと。本作もラストのどんでん返しというストーリー展開は『シックス・センス』同じで、既視感さえ抱いたほどで、カメラワークはどきりとするほど面白いシーンがあったのに、内容的には正直イマイチなのが残念です。


(ブルース・ウィリスが演じるのは、ダンと言う男ですが、以下、ブルース名でご紹介します)

大惨事となった列車の脱線事故で唯一の生存者で、しかも無傷の主人公。これってホントにホラー映画なのかと思うのは、こうした役にタフガイのイメージのブルース・ウィリスを起用していることで、ちょっと笑えるシーンが本作ではてんこ盛りです。

唯一の生存者であるということ、しかも無傷であるということは、何らかの精神的な外傷を生むものなのか。家庭内別居の妻との暮らしで問題を抱えている中年男性ながら、奇跡ともいえる事が自分の身に起こったことに彼は釈然としないものを感じて悩み始めます。なぜなら、彼には病気になった記憶がないからです。

そんなとき、彼の心を読んでいるかのような手紙がきて、
ブルース・ウィリスは男に会いに行くのですが・・・・

その男がサミュエル・L・ジャクソン扮するイライジャ・プライスという男ですが、以下本部ログでは俳優名でご紹介していきます。



コミックを子供向けと思っている客を許さず、登場人物の原画を芸術だと語るサミュエル・ジャクソンの凄みは、現在よりもこの頃がなかなかです。


(彼のこの子供時代の映像にはぞくっとします。撮影のエドゥアルド・セラのセンスには感心。子供時代の母親役はシャーリー・ウッダード


(この漫画、後でまた出てきます)

骨の形成不全という難病の子供を持った母親が、家の中に引きこもってしまわないように外に出す工夫として与えた漫画。子供はやがてこの漫画の世界と現実の世界が実は繋がっているのだという哲学を持つ大人に成長していくわけですが、



漫画オタクを超えたコミック信仰者となったサミュエル・ジャクソンのこのヘアースタイルのアンバランスさ、考えさせられちゃいます。



コミックに描かれていることは誰かが体験した真実であり、コミックには人間の歴史が書かれていると語る。ブルース・ウィリスが朝、目覚めたときに感じる空しさや悲しさの感情は、本当に自分がすべきことをしていないからだと。自分が何者かを知らないのだと語る様子は、まるでカウンセラーのようですが、


(ここ、笑ってしまいました。やっぱりホラーサスペンスじゃないですよね、この映画)

正義のヒーローとなるべき人間は、乗客全員が死亡するような飛行機の墜落事故でも死なず、全員が死亡するようなホテルが全焼した火災でも生き残り、乗客全員が死亡した列車の脱線事故のような大惨事になった自己でも一人生き残るのだ。本人が無自覚なこともある。それがお前だと審判者のように語られても困りますよね。

けれど、彼の言葉はご宣託のようにブルース・ウィリス父子の心に入り込んでいきます。
強い父親に憧れる息子と自分の道が見えないでいる中年男の心にこうしたご宣託が入り込むのは分からないではないですが、そこが怖いといえば怖いけれど、それでホラーサスペンスになるなら世話はない。

体を鍛えなおそうかと思って始めた重量挙げが、
何とオリンピック選手も青ざめるような記録!

それでもまだ半信半疑・・・・心の空虚さを埋めるのは簡単ではないところ、まだ理性があるわけですが、戸惑い続けるブルース。

そんな優柔不断に思える父親の姿に業を煮やした息子は、


(「パパは不死身なんだ。だから銃で撃っても死なない」と叫ぶシーン)

ここで思わずオーム真理教の信者たちのことを思い出してしまいました。尊師は解脱したゆえに浮遊できると信じ、命じられるままに相手の今生の人生を終わらせてやることが功徳だと信じ多くの人たちを殺害した信者たち・・・・彼らとそっくり。

かつてフットボールのスター選手だったブルース・ウィリスは、若いときの交通事故を契機にフットボールを断念し恋人と結婚したという過去を持っていたのですが、彼には触れた人間が抱いているイメージを映像として読み取ってしまう能力があった。恋人が彼にフットボールを止めて欲しいと願っていることを読み取ってしまったせいで、その道を断念したのでしょう。
何だかホームドラマのノリですが・・・・再起不能という嘘でその後の人生を送ってきたブルースに、サミュエル・ジャクソンは、その能力を正義のヒーローとして使えと諭します。こうなると、ホームドラマとオカルトサスペンスの競合です。



ミスター・ガラスと称されるほど体が脆い男と大事故に遭っても無傷でいられる男・・・・

サミュエル・ジャクソンは、ブルース・ウィリスの能力を確かめるべく行動し全身ほぼ骨折状態となって病院に運ばれますが、体の痛みよりも確信できた喜びの方が大きい。あいつは、ヒーローとなるべき男だと。
そして、そこのリハビリで彼の妻ロビン・ライト・ペン(Robin Wright Penn )と遭遇。こうなると、たとえ偶然でも運命を感じるものなのでしょう。俺とあいつは繋がっているのだと確信するわけです。


(「あんたが、彼からフットボールを奪った女か」という台詞、いかにブルースにめり込み過ぎかを物語っています)


(意味不明の言葉に、???となりながら、なぜフットボールが嫌いかを語り始めまる妻)

ミスターガラスとタフガイは一本の線の両極なのだと言うサミュエル・ジャクソンの哲学に示唆されて、
とうとうブルース・ウィリスは、



タフガイに変貌します。弱点は水だという言葉、いかに子供の頃にプールでおぼれかけたからと言って、二人の共通の弱点だということにどんな意味があるのかイマイチ不明ですが、
その雨の日に悪を懲らしめ弱きを助けるヒーローになるべく出かけるブルース。

一般人でありながら、そんなことしちゃっていいのかなァ・・・・
という突っ込みはなしにして、
翌日の新聞では雨合羽姿のヒーローが。

ヒーローとなった父親に驚愕する息子。
スペンサー・トリート・クラーク(Spenser Treat Clark)という子役ですが、どこかで見た顔だと思ったら、スリラー向けの子役なのか、『隣人は静かに笑う』というスリラーにも出ていた子役です。

かくして、朝に悲しい気分を味わうこともなくなって、いまや「友人」として彼のパーティに出向くブルース。

ここでの母親の台詞が意味深です。
そして、
ラストのどんでん返し(と製作者側が意図している)・・・・


(このときのサミュエル・L・ジャクソンの表情は、必見ですね)

ということで、
これをサスペンスホラー映画とは、とても言えないわけです。
本作では力が抜けるほど全然良くないブルース・ウィリスに代わって、今回見てもサミュエル・L・ジャクソンが一人存在感を示していたように思えました。


52歳にもなった男(本作でサミュエル・L・ジャクソンは52歳)が、漫画のヒーローの存在をあんなふうに哲学したら、もう完全にイッチャッテルことになるけれど、そういう風に感じさせないでラストのどんでん返し(製作者側にとっては、どんでん返しのつもり・・・)まで引っ張っていく存在感は、サミュエル・L・ジャクソンくらいかも。

それにしても、ブルース・ウィリスとの俳優としての個性での相性がいいとはとても思えないのに、この二人、『パルプ・フィクション』(「Pulp Fiction 」)『ダイ・ハード3』(「Die Hard: With a Vengeance」)に引き続いての共演。そんなところに一人勝手に感心しながら観ちゃいましたが、精神疾患というのを落ちにしていいのだろうかとイマイチ、「そんなこと、途中で分かるだろうに」と、その手軽さにはやはり不満が残りました。


 


「イーグル・アイ」(「Eagle Eye」)

2008年11月15日 | ◆ア行

★2008年 監督 D・J・カルーソー

製作総指揮が スティーヴン・ スピルバーグ というだけあって、
主演のシャイア・ラブーフ は、スピルバーグが製作を指揮した映画『トランスフォーマー』(監督にはマイケル・ベイ)でブレイクし、超人気シリーズの完結編でも『インディ・ジョーンズ、クリスタル・スカルの王国』ではインディ・ジョーンズの息子としてハリソン・フォードやケイト・ブランシェットらに混じって奮闘。この一連の抜擢をモノにしていまやすっかりブレイクした感じがしますけれど、

スティーヴン・スピルバーグ監督はこの青年のどこにほれ込んだのでしょうね・・・・普通の青年ぽさ?頭の良さ?

若干22歳の若手ながら、本作は、D・J・カルーソーと組んで二作目のようで、『ディスタービア』は未見ですが、ここではシリアスな役をノンストップアクションにも関わらずとても伸び伸びと演じていたように思います。

さて、『イーグルス・アイ』・・・・

映画冒頭では、これって戦争映画?と思ってしまう場面が出てきますが、それはそこで終わって、場面は一転どこにでもいるような青年の勤務先のプレイルーム。ここはこの主人公シャイア・ラブーフは頭が良さそうだと推測させるカードゲームの場面らしく、シャイア・ラブーフはコピー機屋さんで働く青年。
アルバイトかパートタイマーか不明なれど、彼は「頭はいいのに大学には行かず自分探しをしている青年」らしいと葬儀での父親の言葉でさらに彼のキャラの説明が付加されます。この辺り、シャイア・ラブーフの経歴とだぶるかもしれませんね。

そんな彼の元に双子の兄の訃報が届きます。
国防総省(だったか・・)の管轄するさる研究所で天才的な頭脳を駆使して仕事をしていた双子の兄の突然の死・・・・葬儀で父親と口論して沈鬱な思いでアパートに帰った彼に「荷物が届いていますよ。部屋に運び入れてもらいましたからね」という大家の話。


(見知らぬ女性の声でいきなり、「今すぐそこから離れなさい。あと●●秒でFBIがそこに踏み込んできます」と告げられて、何のイタズラかと思う主人公ですが・・・・)

映画は、ここでドアを開けた次の瞬間から、ノンストップアクションというか、ジェットコースターに載せられて主人公同様に度肝を抜かれる唖然とし思考停止状態となるかもしれませんね。
な、なんなんだ、こ、これは!
おかしな電話の相手がカウントダウン始めるや、その部屋にまさかのFBIが踏み込んでくるで、まさに『トランスフォーマー』の来襲のような状態になりわけも分からず逃げ出す主人公ですが、指示通りに動かなかったためにFBIに捕まり何とテロリストにされてしまいます。無論、冤罪で、けれどその証明ができないことが怖ろしい・・・

そこに、「今度こそ私の命令に従いなさい」と女性からの指示の電話。「そうすれば、そこから逃がしてやります」次の瞬間、警察署をクレーン車(だったかな?)がいきなり襲撃!しかも無人のクレーン車!こうなると『トランスフォーマー』とかなりダブってしまいますが・・・



以後はもうほとんど走りっぱなしのような彼・・・・
どこに逃げてもどこに向かって走っても携帯が鳴り電光掲示板には次にどうしろと言う指示が流れるので、もうほとんど≪有り得な~い状況≫にシャイア・ラブーフは唖然&思考停止。
けれど、指示通りに動いたお陰で警察やFBIの追撃から逃げおおせてまずはここ地下鉄乗り場にいるわけで・・・



名乗らない相手の言うままに動いていいのか。
いったい何が起こっているんだ!?

彼じゃなくても普通は誰でも考えます。
でも、考えたところで分からない。
そういう普通の青年、一般の市民感覚をもった青年が主人公。
そういう意味では、シャイア・ラブーフは適役。

乗った地下鉄でも車窓の外に見える電光掲示板にも指示が彼宛に流れるという徹底振りに、疑心暗鬼と不安は最高潮に。そんな指示に従わず自分の意志で動こうとする主人公ですが、電話の主は何から何まで先を読み込んでいく、そんな存在。
車内の乗客の携帯電話が一斉に鳴り「シャイア・ラブーフはテロリストである」とのメッセージが流れる場面で、ネタが分かってしまいそうになりますが、もう指示に従うしかないと思って駅に飛び降りると、待っていた車に女性。



お互いに、「どういうつもりなんだ」と相手を責め立て合う二人ですが、彼女もまた彼と同じように有無を言わさず命じられた行動を取った結果、そこに来たわけで、彼女の方はさらに深刻。従わないと息子の命がないのだから。
ワシントンの議場コンサートで演奏するために乗った列車が爆破されるという脅しに彼女は慄いているわけです。
しかも、なぜか携帯電話は繋がらない・・・・


(母子家庭で息子に対して愛情深いキャリアガールながら、訳も分からないままに警察やFBIの追撃から逃げることになるレイチャルを演じているのはミッシェル・モナハン)

こうして次々に正体不明の相手から繰り出される指示通りに走り続け街中で凄まじいカーチェイスをする羽目になるレイチェルを演じているのが、ミシェル・モナハン。そんな彼らをテロリストとして指名手配を描け総動員でどこまでも追ってくるFBI捜査官!


(国家の安全保障のために命を賭ける捜査官をビリー・ボブ・ソーントンが好演)

危険なテロリストの計画を阻止すべく、彼も職務に必死。かくして、
どこまでもどこまでも逃亡するしかない二人・・・・

ここまでは、ホント、何だか『トランスフォーマー』の続きを観ているような妙な既視感がありましたね。ちょっと、いただけないなァと。

その頃、国家安全保障局だかの女性捜査官が、双子の兄のやっていた研究と仕事を洗い始めます。


(事件の真相への追求に信念を見せる捜査官を演じるロザリオ・ドーソン)

そして事件の核心に近づいていったとき、あるプロジェクトの部署に彼女は招かれます。その極秘プロジェクトこそ「イーグル・アイ」とネーミングされたもの。ここで茶々を入れるつもりはないのですが、アメリカって、こういうものにイーグルだのホークだのって名前を本気で付けたりするので、その感性には閉口させられますね。

現実は映画より奇なり・・・・そういう面がアメリカの政治や軍事作戦には多々ありそうで、何だかそれって漫画みたいな感性だと思ってしまう私。
話を戻すと、彼女の有能さを買い、問題の解決を図ろうとする国防総省だかの統括責任者を演じていたのがこちら。
マイケル・チクリス。


(軍人姿が様になっていたマイケル・チクリス、なかなか良かったですね。これは新発見でした!)

この画像と違って軍服姿できりりと引きしまった寡黙な上官役、
意外と良かったですね。映画『ファンタスティック フォー』で実直なベン役のイメージが大きいかもしれないマイケルですが、警察官や軍人といった役柄が似合う俳優だろうと思いますね。

こうして映画では皆がやがて思いがけないところで合流することになるのですが、



この場面になると、映画はすでにSFに突入か!?という印象が大きくなるのは、全ての情報を一元的に管理するマザーコンピューターと存在というテーマはSF近未来の定番の一つだからでしょうか。他の映画の二番煎じという感を否めなかったですし、ラスト10分くらいで映画がいきなりワシントンモノの映画が様変わりして、正直、違和感が拭えなかったですね。

アクション映画+SF映画+ワシントン物の映画+市民の個人的幸せ+そうした市民の自由と尊厳とプライバシーを破壊する権力の行使というものを問うSF映画・・・・まるで中華料理とフランス料理と日本料理とイタリア料理とメキシコ料理やインド料理を次々と食べたような感じ。こうした映画の作り方って、≪映画のテイスト≫としては如何なものかと思ってしまいました。
観終えて感じたことは、スティーヴン・スピルバーグ監督はそろそろクリエイターとしては隠居かもしれないぞと。

映画にいかなるテーマがあろうと、またそのテーマを、エンターテイメントのアクション映画というコスチュームでいかに華々しく包んで表現しようとしたとしても、その結果、映画全体として生じる≪テイスト≫というものが混合味の大味になってしまっては、やはりそのテーマは観客の心に響かない。つまり、映画の持つパワーは散漫となり、概してそういう映画はツマラナイものになる。
映画って、そういうものだと思うので、そういう意味で本作はイマイチだったなァと感じました。

★ご参考までに。
http://www.eagleeyemovie.com/intl/jp/




 


「In the Name of the King・A Dungeon Siege Tale」

2008年11月13日 | ◆ア行

2007年 ドイツ映画 監督はウーヴェ・ボルという監督です。

知らないなァ・・・という方でも、意外とご覧になっていらっしゃるかもしれません。私も最初、この監督、誰だっけと思って検索したら、何と『ザ ハウス オブ ザ デッド』も『アローン イン ザ ダーク』も見たし、『ポスタル』も見ているし、『SEED』も見ていました。

ゲームには全く関心がないせいか、前作同様に本作もゲームビデオの映画化作品だということには関心がないので、ゲームの「ダンジョン シージ」についてまるで知りません。あくまで、映画『イン ザ ネーム オブ ザ キング ダンジョン シージ テイル』についての備忘録です。



主演がジェイソン・ステイサム。
なので、間違いなく彼のアクションを楽しめる映画なのですが、
『トランスポーター』シリーズのようなスタイリッシュなアクションを期待してはいけない。何といっても古代ギリシャローマ時代にバーバリアンと称されたケルトやゲルマン民族の神話時代の延長の中世初期といったイメージの時代。
冒頭からして『ロード オブ ザ リング』風のまさに「王の帰還」となった内容のファンタジーだからです。

ジェイソン・ステイサムの役どころは痩せた土地で細々と農耕が始められた時代に農夫として生きる主人公ファーマー。
蛮族が王国に攻めてくるため王国を守る兵士が募集されるという場面で、『ヘル・ボーイ』のロン・パールマンがいきなりノリックという役柄で登場するので、アクション映画ファンは期待値が高くなりますよね。

何だかこの二人が並んだ時点で、現代からワープした中世に現代の特殊部隊の元仲間が訪ねてきたような錯覚を持ってしまいますが、ファーマーとは家族同様の間柄の男。
往々にしてこういう役柄の男は主人公の頼もしい味方なれど、戦いで死ぬか悪役に殺されてしまうと相場が決まっているので、「どっちかなァ」と思って見てしまいますが・・・・

順当な展開として早々と蛮族に襲撃される場面になり、ここでファーマーと名乗るジェイソン・ステイサムの農夫像、鋤を持っているが実は剣の腕前は相当なものなんだぞというキャラ紹介。そういう見せ場ですが、まあ、体つきと雰囲気からしてジェイソン・ステイサムは農夫というイメージではないので、ファンはここで「待ってました」と掛け声をしたくなるかもしれませんが、そんな腕前でもいざというときにそこにいなければどうしようもない。

市場に農作物を売りに出かけた先で蛮族に襲撃される妻子を救うことが出来ず、可愛い盛りの息子も妻の両親も皆殺され、愛する妻は奴隷として連れ去られてしまい後を追うことに。



妻を演じていたのは『ジョーブラックによろしく』で魅力全開だったクレア・フォラーニでしたが、農婦役で、しかも土にまみれるようなシーンが多かったせいか、小さな息子のいる女性としては皺がかなり目立っていて老け顔に見えました。

老け顔のステイサムと夫婦役ということで、
同年代の彼女が起用されたのかもしれませんが、
違和感があったのは彼女より10歳以上も若いリーリ・ソビエスキーの存在ゆえかもしれませんね。役柄ゆえか、リーリ・ソビエスキーの出番の多さは準主役級でした。監督の好みかなァ・・・

王国の司祭の娘で後に黒魔術と戦うことになる未来の女祭司。
剣術にも優れ王に仕え戦場にも出たいという願望を持った現代女性が共感するキャラクターのためか、妻役のクレア・フォラーニよりもずっと出番が多かったです。つりんつるんの美肌がとても目立っていました。

同じく、森に住む妖精、じゃなく、反戦平和主義者の女たちを代表してアップの出番が多かったのが、こちら、

ローアングルから撮影した森の高木からターザンのように降りてくる女の子たちのリーダー格です。このクリスタナ・ローケン、どこかで見た顔だわと思ったら、あの評判倒れとなった『ターミネーター3』で女ターミネーターをやった彼女です。
アクション映画に準主役級で出演出来るというのは、いまや若手女優の必須要件みたいになっていますけれど、この手の顔立ちはアクションでブレイクするタイプじゃないと思うので、もしかするとこういうアクション映画に出ることでソンをしているかも。

こうした若い子達の出番が多かった印象のせいか、妻役を演じたクレア・フォラーニが存在感を示すには、国王の妃役かうば役に年配の存在感のある女優さんを配しても良かったかも。何といっても、活劇ファンタジーなのだから。

本作を盛り上げたのは、
こうした女優陣以上に、男優たち。
その1と2は、前掲の主役とその相棒のロン・パールマンですが、家庭を持った以上国よりも個人の幸せが大事だと語るジェイソン・ステイサムと彼に従う友人と義弟=農夫という身分、
そういう彼らと違って、国のために国王に忠誠を誓う司祭や兵士たちの代表として、こちら。

国王の一番の理解者であり、ジェイソン・ステイサムが実は王の息子であることを見抜く千里眼の司祭を、



なかなかの存在感を見せてくれたいたのが、
このジョン・リス・デイヴィス。
★多くの画像がこちらでご覧になれます。
http://www.imdb.com/name/nm0722636/

映画では脇役ながら主人公の身近で存在感のある心憎い役を演じることが多い印象ですが、もっと活用してもらいたい俳優の一人ですね。

そして、兵士たちを束ねる勇敢で精悍な司令官に、



ブライアン・J・ホワイトという黒人俳優が起用されていて、
なかなかのはまり役でした。この画像だと温厚ですが、本作では戦闘シーンが多く蛮族との戦争シーンでは剣を振るう姿がなかなか様になっていました。

司祭の娘であり、将来この国を担っていくことになる女祭司のリーリ・ソビエスキーとなかなかいい感じでしたよ。この二人で「オセロ」をやったら面白いかもしれないなァと思えたほど。

こうした家来たちを持った国王が、
こちらのバート・レイノルズです。

なかなか味わいのある王様で人望もあるのですが、バカな甥っ子のバカさ加減に気づきながら、息子代わりに思って甘やかしてきたツケで、その甥っ子に射殺されてしまうのですよね。
けれど、やはり王様は王様ということで、
死の床で、何故か気になりながらも自分に反抗的な姿勢を示す生意気な農夫が、実は死んだとばかり思っていた息子だったことを知り、王としての心得を語って死んでいきます。

この王様殺しの甥が最高にイカレテいるので笑えます。



この笑顔で、ある時は卑屈なまでに王に媚びて許しを請い、ある時は王位継承を狙い続ける野心のあまり気が狂いそうになるおバカを演じているのですが、相手によってカメレオンのように態度を変えるこの男、司令官とは水と油。
その司令官との決戦では、なかなかの剣の腕前を見せてくれますので、楽しみに事欠かない活劇です。
何といっても、このおバカな男ではジェイソン・ステイサムの相手にはならないので、悪役の真打に登場してもらうと、

そう、B級映画の常連であり、サスペンスの帝王というお顔の彼、レイ・リオッタ。
国王のおバカな甥っ子と組んで権力奪取を狙う黒魔術の使い手に堕した元司祭という役柄で、画面いっぱいにアップで映し出される彼の青い瞳とニキビ痕だらけのお顔が微妙にマッチングしていて、何とも言い様がありません。レイ・リオッタのこのお顔は、ホント、サイコサスペンスの帝王と言っていい感じですね。
彼の魔術が泥まみれの蛮族を命知らずの兵士に変えるのですが、その威力たるや相当なもの、それに苦戦するジェイソン・ステイサムたちの戦いぶりが見所ですが、思えば、悪は強しですね。泥人形を最強の兵士にしてたった一人で正規軍と戦うのですもん。

ということで、以上、本作の面白さは、何といってもキャスティングの妙でした。その意外性、独創性のキャスティングで最後まで楽しませてくれた歴史ファンタジー風アクション映画でした。
(チャンバラ&忍者起用の活劇シーンの映像がフォルダから探せず、残念でした)

http://inthenameoftheking.com/


「イル・ポスティーノ」(後編)

2008年11月01日 | ◆ア行

こちらは、映画『イル・ポスティーノ』の鑑賞備忘録の後編です。


(手紙を配達するごとに、ネルーダに引かれていくマリオ・・・マリオにとって新たな人生の幕を開ける力を与えてくれる存在という予感でしょうか)

ネルーダとの出会いと交友によって、世界が開け人生が躍動し始めたマリオ(俳優はマッシモ・トロイージ)ですが、島の酒場と食堂をかねた店で働く娘に目が開きます。ここのシーン、とても印象的です。


(ベアトリーチェを演じている女優は、マリア・グラッツィア・クチノッタ という女優で、1969年生まれの今後の活躍が期待されているイタリアの若手代表の一人かもしれません。)

彼女が心の世界に映り始めた瞬間、マリオの心は波立ちます。
彼女は美そのもの・・・・


(彼女のことを詩に書いて欲しいと頼むマリオ・・・・「そんな知らない女性の事は書けないよ」と語るネルーダ)

ここの会話も印象的でした。「どうして先生は書けないんだ」とやるせなくなって語るマリオに「詩は自分で書くものだよ」というネルーダ。すると、マリオはこう言うのです。
「違う。詩は、それを必要とする人のものだ。どうして詩人なのに書けないんですか」と。
ネルーダは、ここで思わず唸らされてしまい、
明日までに考えて返事をすると答えるのです。マリオはいつしかネルーダのことを「先生」と呼ぶようになっていて、


(マリオの問いに答えるために浜辺を散策するネルーダも、なかなか良かったです・・・)

二人はこうして郵便を配達するポストマンと手紙を受け取る人といった関係の知人ではなく、心の通い合う存在になっていきます。



ベアトリーチェに対する思いを懸命に説明しようとするマリオに、
「恋に落ちたんだな」と語るネルーダ。



「彼女の事を思うと、そう、先生の詩を読んだときと同じ気持ちになるんです。何と言うか・・・」と懸命に何かを伝えようとするマリオ。かつて、「自分が感じていることを、こういうことなんだ」と詩と出会った時の感動を語ったマリオは、いま、もう一歩さらに進もうとしているのです。

「寄せては返す波のような・・・」
「それは詩のリズムだ」

マリオは、自分のベアトリーチェに対する思いを詩に書き上げていくことを決心します。

この浜辺でのシーンが、とても好きですね・・・
フィリップ・ノワレとマッシモ・トロイージの演技がとても良かった。

かつてのマリオは、もういません。毎日ただ起きてただ食べて、外に出て帰ってきたらまた食べてそして寝るだけだった空疎な暮らし・・・・漁師になれと言われてもどうしても漁師になる気持ちになれず仕事もせず卵の薄い膜で全てが覆われているような世界。その薄皮でぼんやりとしていた世界が、打ち破られたのでしょう。


(父親との二人暮らし。マリオがどういう育ち方をしてきたか、この父親とのいつもの食事のシーンでそれが分かる。これは実に凄い描写ですね・・・)

先生の元に飛んでいくようになったマリオですが、
やがて、マリオはネルーダ夫妻が立会人となってベアトリーチェと結婚し、ネルーダも祖国もチリに戻ることができるようになります。




これは、ファンタジーでもある物語ですが、
ネルーダは実在の人物。
彼がイタリアに政治亡命し名も知らない小さな島でその亡命中の数年間を過ごしたことは事実ですが、マリオは架空の人物。でも、マリオのような素朴でまっすぐな善人、そこに生まれ出た愛の心は、きっと真実だったのでしょう。





マイクを向けられて、先生からこの島のこと、この島で美しいものを紹介してくれとマイクを向けられて、「ベアトリーチェ」としか答えられなかったマリオ・・・・

やがて、こうした二人の交友も、
ネルーダが帰国してから途絶えてしまいますが、ネルーダも帰国後は相当に多事多用になったはず。何せノーベル賞を受賞するのだから・・・・

自分たちのことをもう忘れてしまったのだと残念がる島民たち。思い余って憎しみの言葉も聞こえ出す・・・
選挙前には散々いいコトを口にして住民に対しても一生懸命な議員が当選後には手のひらを返したように何もしない。それと同じだで「先生」も餌を貰って飛び立った小鳥と同じで、餌をくれた人間のことなど忘れちまうのさと。

人一倍「先生」のことを恋しく思っているマリオだけが、「先生」の悪口を言わないどころか感謝の思いを口にします。その思いと心が、周囲をも満たしていくのですが、そのシーン、実に深い感動を覚えました。

ここで、人一倍口の悪い登場人物のこともご紹介しておきたいと思います。ネルーダのことを恩も忘れて飛び立っていった小鳥と同じだと言い放つベアチリーチェの母親代わりのおばさんは相当に口が悪いです。
さすがに島に一つしかない酒場の女主人。最初、彼女の祖母かと勘違いしたほどイタリアの古い時代のたくましい女性像そのままで、大地に足を着いて日々の暮らしを担っているたくましさと口は悪いけど憎めない人の善さが、この映画に安定した落ち着きをもたらしてくれていたと思いますね。人生の酸いも甘いも体験してきたリアリストで、俗世の代表という感じですが、彼女の毒舌には時に苦笑し時に唸らされました。

「男が言葉で女を喜ばそうとしたときは、言葉だけじゃなく手も出してくる。それは神父も詩人も同じだよっ」という台詞や、姪である未婚のベアトリーチェへの愛を詩で表現したマリオの詩を読んでびっくり仰天したときの台詞。
「詩に裸のことが書いてあるから、きっと姪の裸を見たに違いない!」神父のところに駆け込んで行ったときの台詞。そしてネルーダのところに押しかけての堂々の問答。

「それは比喩というもので、詩の表現だから」
と説いても絶対そうじゃないと彼女は否定する。なぜなら、
「詩はウソをつかない」からだと。
そして、「姪の裸は、マリオの詩に書かれてある通りだ」と。

このベアトリーチェの伯母役を演じていたのは、リンダ・モレッティという女優さんですが、どこかで見た顔だなあと思って検索してみましたら、結構昔の映画に脇役で出演している女優で、今度見直す機会があったときに楽しみにチェックしてみたいなアと思います。

★リンダ・モレッティ⇒http://www.imdb.com/name/nm0604323/

敬慕するネルーダから頼り一つ来ないまま、月日は流れ、ある日ネルーダ夫妻が重数年ぶりに島を訪ねてきます。
マリオが島の美しさについて何も語れなかった、あのときの録音機器が映画ラストでは大きな役割を果たしていきます。

このラスト、泣かせる場面としてはある意味常套手段の展開ですが、それが過剰でもいやらしくもなかったのは、やはり音楽の力かもしれませんね。ルイス・エンリケ・バカロフ のピアノのお陰ですね。
思いつくままに、書いてきましたが、本作はイタリア映画としてのラインを外さない名画の1本と言えると思います。

末尾ながら、ネルーダの若い妻マチルデを演じていたのは、アンナ・ボナルートという女優ですが、プーピ・アヴァーティ監督の映画「兄弟姉妹」という作品に出ているようですが、未見なのでイマイチよく分かりません。

★プーピ・アヴァーティ監督の映画紹介
http://www.asahi.com/event/avati/index02.html



「イル・ポスティーノ 」(前編)

2008年11月01日 | ◆ア行

●1994年制作 イタリア映画 
●監督マイケル・ラドフォード


(郵便配達人マリオを演じたマッシモ・トロイージ)

この映画を観た人の心を打つのは、何といっても、このマッシモ・トロイージの演じたマリオという人間の悲しさかもしれません。美しさと言ってもいいけれど、彼を見ていて思い出された映画がありました。スペイン映画の古典名作「汚れなき悪戯」です。

★ご参考までに。
http://movie.goo.ne.jp/dvd/detail/D110513571.html

哀切感あふれる「マルセリーノの歌」で、制作された当時多くの人を魅了したこの名画の、あのマルセリーノが、そのまま大人になったような男がマリオ・ルオッポロと言えばお分かりいただけるかもしれませんね。マッシモ・トロイージ という俳優です。彼は、この映画の撮影終了後に41歳の若さで亡くなり、映画のマリオがマッシモを連れて逝ってしまったかのようです。

そのマリオが慕い敬愛した詩人パブロ・ネルーダを、こうも見事に演じてみせてくれたのが、


(パブロ・ネルーダを演じたフィリップ・ノワレ このとき63歳)

このフランスを代表する名優フィリップ・ノワレ。本作のようにイタリア映画にも主演するほどで、まさにヨーロッパを代表する俳優といっていいでしょうか。年齢を重ねてますますその存在感に深さと味わいを増してきたフィリップ・ノワレですが、その実、若かりし頃と少しも変わらない・・・と思わせる稀有な名優といっていいかもしれません。彼の出演した名作は多々ありますが、個人的に思い入れのあるのは『追想』(1975年)という映画で、この映画で最初に彼が胸に刻まれた私としては、『ニューシネマ・パラダイス』(1989年)以上に印象が強烈に残っています。ロミー・シュナイダーが異様に美しい映画は『離愁』という映画の方ですが、『追想』での彼女は、実に女性的だと感じたのは、このフィリップ・ノワレに愛される女性を演じたからかもしれません。

本作で彼が演じるネルーダも、実に味わい深い。フィリップ・ノワレのネルーダがあってこそ、マッシモ・トロイージのマリオが存在感を持つと言ってもいいほどで、この映画はネルーダの影を抱いて人生を輝かせたマリオと、その彼によって人間の生の量りがたさを敬虔な気持ちで改めて感じ入ることになる詩人ネルーダの物語でもあります。


マリオは、イタリアの貧しい島の貧しい漁師の息子。父親に言われて仕事を探すことになります。そこで、たまたま目に付いたのが、郵便配達人募集の張り紙。


(たまたま郵便局の前で求人募集の張り紙を目にするマリオ。この島では、郵便などほとんど来ないし、手紙を書いてもらって出す人も文字が読めない高齢者は手紙が本当に相手に届くのかどうか疑心暗鬼という状態・・・・・1950年代のイタリアの小さな島って、そういうレヴェルだったのかと。文盲がいないと言われる日本との違いに驚くかも。)

ところが、配達する先が一軒だけ!まさにその家に届けられる郵便物専用のポストマン。というのも、その島に有名人が居住することになったからで、その人物宛に世界中から手紙が届けられるためで、その山のような郵便物を配達するための、いわば臨時ポストマン。

その有名人というが、当時チリから政治亡命してきた詩人パブロ・ネルーダでした。後にノーベル賞を受賞することになるチリを代表する大詩人ですが、


(彼のサインを貰えば、女性にもてると単純に考えたマリオは、ネルーダにサインを貰うために本を買って持参。そこに自分の名前マリオ・ルオッポロと書いてもらおうとするのですが・・・・ここ、笑えます)

彼は共産党の政治家でもあったので、当時のチリもまた政界は混迷し、ネルーダは政治亡命しなければならない立場に陥り、イタリアが彼を保護したためにマリオの住む小さな貧しい島で亡命生活を送ることになったわけです。
その新聞で大騒ぎしている「偉い詩人」のところに、マリオは毎日山のような郵便物を配達することになるのですが、

その「偉い詩人」らしい人物が仮住まいしているのは、山をいくつも越えた先の丘の上・・・・漁師以外に男の仕事など皆無に等しい島で、マリオは郵便配達人としてこの山を自転車で往復する毎日が始まりました。自転車を大事そうに漕ぐ彼を見ていると、映画『自転車泥棒』のことが思い出されます。



来る日も来る日も郵便物は届きます。
それらを言われるままに配達し、教えられた言葉、「配達人は配達以外の仕事はしてはならない」という教えを守りながら、マリオの仕事は愚直なまでにまじめ。


(島民の多くは文字が読めない。かろうじて文字が読めるマリオは、郵便物の仕分けの仕事もするようになって手紙の差出人の名前を読むようになるのですが、そこに書かれた名前が男か女か時々分からない。発音して女名だと教えられると、「また女からだ」と口にするシーン、ここ可笑しかったです)

多くの差出人名が女性なので、「女からばかり手紙が来る」と不思議がります。女は詩人が好きらしい・・・・いっしょに働く郵便局長から「ネルーダはどんな風にしているのかね」と尋ねられ、「妻のことをアモーレと呼ぶんだ。変わってる」「そりゃ、変わっている」(笑)
本を読んだり、レコードをかけて妻とタンゴを踊るネルーダを思い浮かべ、「普通じゃない」「詩人だからな」「さすが詩人は違う」といった会話をしていたのに、やがて、


 


マリオは、だんだんとネルーダに興味を持ち始め、配達のときに「郵便配達人」として決められた会話以外の会話、「水が出なくなったんだよ」「見てみましょうか、壊れているかもしれない」「いや、普通に必要な分を使っただけなのだが、出なくなった」「それは、使いすぎだ。水がなくなったんです」「?」「この島には月に一度給水船がくるけれど、水道はない。」「どうして」「ディコジオ(議員らしい)が水道工事をするといつも言うが、いつも作らない」「どうしてだ」といった会話をし、何となく彼の事が気になって仕方がなくなっていきます。ますます彼に興味を抱いていくマリオ・・・


(「意志さえあれば社会は変えられるんだ」というネルーだの言葉に何かを感じ始めるマリオ)

映画で描かれる時代は1950年代なので、第二次世界大戦が終わってまだ数年といった時代。ムッソリーニの率いたイタリアも敗戦国となり、戦後のイタリア社会は戦時中の反動から反ファシズム⇒共産主義という流れでコミュニズムの嵐が吹き荒れ混迷の政治を辿ったように思いますが、1950年代はまさにその大きな第一波の渦中の時代。このマリオの住む島のように、選挙前にのみ口約束をしては当選後に公約を反故にするという議員が跋扈している時代でもあり、暮らしは貧しく、月に一度給水の船が来るだけで、島にはいまだに水道もないという時代。

マリオは、「偉いらしい有名人」のネルーダからサインしてもらった本で女性にもてようと思いつくのですが・・・・、やがてネルーダの詩集を家でたどたどしいながら、読むようになります。


(詩の一語一語を声を出して読み始めるマリオ、詩文の意味が分からず頭をひねりながらも、「人でいることに疲れた」という一文に「これなら分かる」と共感していきます)

配達に行ったとき、ネルーダと話がしたくて、つい諳んじてしまっている彼の詩の文章を口にして、ネルーダの関心を引くことに成功しますが、


 

詩はどうやって書くのかと唐突に尋ねるマリオに対して、一瞬言葉を呑み込むネルーダですが、マリオの他意のないまじめさに誠実に対応します。詩人ネルーダの人柄が初めて出てくる場面ですね・・・・マリオに詩の意味を説明してくれと言われ、「説明したら詩ではなくなるんだよ」と語ります。
そこで、「隠喩」という言葉を初めて聞いて知るマリオ・・・・
それって、何だ!?



マリオは考え始めます。
ネルーダが詩想を練る時に「浜辺を歩く」と語ったことを思い出し、それを愚直に実践していきます。家にあるたった一冊の本であるネルーダの詩集を開き、毎晩寝る前に読みふけり、



身の回りの自然をじっくり眺めるというネルーダの言葉を思い起こし、月を眺めては考え、考えては眺め、そうして詩作を始めるようになっていくマリオ・・・



ネルーダが語った言葉を反芻し身の回りの自然を意識して見始め、暗喩という言葉の意味を考え続けていく・・・

「別の言葉で説明したら、詩ではなくなる」

詩の詩たる由縁を語るこのネルーダの言葉は、
マリオの中に何かを投げ込みました。



詩作に目覚めたマリオ・・・
この後どうなっていくのでしょう。

繊細で美しい映像が織り成していく世界は、マリオの心に生じていく変化を見逃さず、いまだぼんやりとして定まらない心や好奇心に満たされていく心、懸命に理解しようと働く心や考えに集中する心、知ることの喜びや詩作に目覚めていく心、師を得て敬慕する心と友情を感じて幸福を感じる心、やがて恋に躍動するマリオの心の機微が映像と音楽で、あたかも本作が織り込まれていくようです。この見事な撮影を担当しているのが、映画「サン・ロレンツォの夜」のフランコ・ディ・ジャコモ。そして、
ある場面では小さくある場面では大きく流れ出る感傷的なメロディアスな曲、感傷を誘うけれど、淡々とした繊細なメロディが、何とも心に残る音曲を奏でるピアノは、ルイス・エンリケ・バカロフの演奏。ちょっと驚きました。何とも印象的な、心が静まり慰められる美しい音楽でした。

★ルイス・エンリケ・バカロフ
http://www16.ocn.ne.jp/~stupendo/review4.htm

これら二人の異才を両輪にして本作を監督したマイケル・ラドフォードは、果たしてマリオの心をどこに向かわせるのでしょう。

後編で書いていきたいと思いますので、
お楽しみに。

 

 

 


「あじさいの歌」

2008年10月21日 | ◆ア行

1960年制作、監督滝沢英輔。石原裕次郎特集をやっていて放映されていた1本。未見の映画だったので見たのだが、これは、デビュー数年後の石原裕次郎出演の青春映画というよりは、「太陽の季節」「狂った果実」での鮮烈なデビューイメージ、そして「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」「錆びたナイフ」での男が共感する男のイメージが定着した石原裕次郎の、ある意味イメージチェンジを図った「乳母車」や「陽の当る坂道」ラインの家族青春ドラマ。



そういえば、「陽の当る坂道」でも、あの堂々たる本妻役は轟夕喜子だったような気がするので、調べてみたらビンゴ。


(肥満ぎみであることで母親役やマダム役が似合う女優になってしまったとも言える轟夕喜子)

本作も、主演は石原裕次郎というよりは、その往年の大女優の一人だったはずの轟夕喜子ではないかと思われるほど、一人の女性、一人の女優としての存在感が示された映画。
早くに亡くなられたけれど、沖縄アクターズスクールでユニークな教育論で日本の教育界に一石を投じた牧野正幸氏のご母堂ですね。この映画でも酸いも甘いも噛み分けた苦労人でいながら品格を失わない堂々たる母親像を演じきっていました。

本作の内容を、まず、こちらでご覧ください。http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD22975/story.html

深刻な内容になってもおかしくはないストーリーながら、どことなく軽妙なコメディタッチともいえる味わいになっているのは、裕次郎の演じる茫洋として厚かましい青年のキャラもあるけれど、脇を固めている使用人夫婦の殿山泰司と北林谷栄が軽妙ないい味を出していて、


(殿山泰司と北林谷栄。このお二人も変わらないですね・・・)


(上京して売りに出ていた旅館を買うために持ち主の不動産会社を訪問したところ、東野栄治郎と再会する大阪志郎と轟夕喜子)

お屋敷の主の奥方と駆け落ちした(ことになっている)元使用人の藤村役の大阪志郎の存在。
母親が不倫の果てに夫と子供である自分を捨てていったという幼少時の出来事がトラウマになっている主人の東野栄治郎から、
妻との不倫を疑われ屋敷を出て行った男ながら、その後は轟夕喜子を主として付き従ってきた忠誠心ぶり。
少しも暗い影がない不思議な軽さを見せているのも、演じているのが大阪志郎だからでしょう。まるで、ドラマ「大岡越前」と同じですね。(笑)

茫洋とした好青年河田という役は、ある意味石原裕次郎によく似合うっていたけれども、

深窓の令嬢役の芦原いづみが、野暮ったく見えて仕方がなかったと感じるのは私だけだろうか。

後年、裕次郎の奥方になって引退した女優の北原美枝と、
当時日活で人気を二部していた芦川いづみ。当然、若手人気スターとなった裕次郎との共演は多いけれど、


(家を出てから赤線で売春をしていたという母親を訪ねて大阪に向かう芦川いづみと彼女に頼まれて同行する裕次郎)

どうして人気があったのかと不思議でならない。白痴的な無垢な表情を見せるところが、戦後の焼け跡でのパンパンイメージで傷ついた日本女性のイメージを忘れさせる女性像だったのかもしれないですね。個人的には、北原美枝が女優を辞めたことが残念でならない私です。ま、相手が裕次郎なら、仕方がない。


(母親が家を出た理由を娘に語る東野栄治郎。短気でワンマンだったが、娘の将来を憂え二度と過ちを犯したくないと自分に非があったことを悟る。)

ヨーロッパの古の上流階級の師弟教育のように、学校に行かずに大学教授たちの家庭教師で勉学をして世間をまったく知らない令嬢役という芦川いづみの父親役が東野栄治郎ですが、これにも違和感があったのは、祖父役ならピッタリだったのにという思いのせいかもしれません。
当時43歳の轟夕喜子の相手役ができる俳優が日活にはいなかったのかもしれない。当時53歳だった東野栄治郎だけれど、いまの感覚からすると、70歳以上に見える老け顔です。


(母と娘と知りながら名乗りあわない二人。こうして見ると、昭和30年代の新旧世代の女優が並んでいるシーンゆえ、感慨深いです)

昭和30年代の日本は、老成するのが現代よりはずっと早かったのかもしれませんね。当時制作された映画を観ていると、女性は40歳、男性は50歳を過ぎるともう老境だったのではないか・・・・と感じられることが少なくない私です。

石坂洋次郎が描いた世界は、当時にあっても、東京の山の手で見かけられた日本人像でしょうから、日本人全体を代表するものでは無論ないだろうけれど、こういう映画を観ていると、この数十年間で、日本人はすっかり変わってしまったということを痛感させられますね。


(裕次郎のガールフレンド役の中原早苗。こんな役を演じていた彼女が、後年化け猫や俗の極みのような女性役が多くなるとは・・・・、感慨深いものがありましたね)

ところで、彼のガールフレンド役の一人が中原早苗だと分かるまでには時間がかかってしまいました。利発でモダンな女子大生役がとても似合っていたので、後年の化け猫役のイメージが強い私としては、驚きモノでした。


 


「アライヴァル ファイナルコンタクト」(原題「Alien Hunter」)

2008年10月17日 | ◆ア行
●「アライバル ファイナル・コンタクト
(2003年 ロン・クラウス監督)

ジェームズ・スペイダー主演の映画ということで、
久しぶりに彼の主演する映画を観ることにしましたが、

まさか、こういうSF映画に出ていたとは・・・・


(この表情に、非暴力志向と愛情関係に抱く諦念を読み取るなら、本作は相当に楽しめるのではないでしょうか)

彼の役柄は、スタンフォード大学だかプリンストン大学だかを超優秀な成績で卒業、いわゆる○○大学始まって以来の数学的天才というキャリアながら訳アリの共通言語学の研究者。でも、ちょっと変わったその研究はその世界では有名らしい。何といっても、宇宙言語の翻訳が研究テーマ・・・・

上司の教授から呼び出された彼は、NASAだか原子力委員会だかの研究施設のある北極で発掘されたものから電波(通信波)のようなものが出ているということで、北極の基地(研究施設)に向かうことになります。



この氷の塊の内部から出ている電波は通信なのか。宇宙への通信だという仮説でその言語を解読研究するのが、ジェームズ・スペイダーの仕事なわけですが、


(この博士を演じていた俳優名、いましばらくお待ち下さい。どこかで見た顔なのですが・・・・)

北極の基地で政府の委託でいろいろなことを研究し続けているのが、このかつての恩師の博士。実に温厚。彼の元で、ノーベル賞ものの研究をしている学者たちやスタッフで基地施設内はすし詰め状態。その中に、


(元恋人の女性役を演じているこの女優はエイミー・グレアム)

かつてジェームズ・スペクイダーの恋人も。
大学で色恋沙汰を起したことが原因で、教授だったジェームズ・スペイダーは退職し学生だった彼女は退学。そんな過去を共有する二人の再会。彼女はここで新しい彼と共同でノーベル賞ものと称される研究に従事。


(その新しいパートナー役のジョン・リンチ(左)が、なかなかの皮肉屋で、ジェームズ・スパイダーの研究テーマ、宇宙人の存在を前提とする宇宙言語の翻訳研究をバカにする役を好演)

けれど、ジェームズ・スペイダーの出現に動揺を見せます。
この辺り、宇宙船や潜水艇映画では珍しいクルーの恋愛感情で、さすがジェームズ・スペイダーを起用したがためのモテモテシーンかと思うと、それでは監督の意図するところとはちょっと離れてしまうかもしれませんね。


(ジェームズ・スペイダーの研究に興味を持って応援する博士の助手役の女の子をレスリー・ステファンソンがチャーミングに好演)

若い助手にモテモテとなるジェームス・スペイダーですが、ご覧のように色気とはちょっと違う流れ。実はこの映画にはキスシーン一つ、愛の告白シーン一つないのです。

まあ、こうした一生に一度あるかないかの研究対象を目の前にしているので、世俗的な感情も昇華されるのかもしれないですね。
何といっても、この未知の高度な知的生命体に向き合ったとき、心を開いた状態で初めて相手のことが理解できた瞬間をスペクターは体験するので、人類が持つ地球的暴力とは正反対。

最初、SFがかった面はあっても科学サスペンス映画かと思って観始めたのですけれど・・・、正直、SFファンタジーという側面が出てきたときには、ちょっと焦っちゃいました。

でも、通常のエイリアン物と違った展開で、
なかなか興味深いものがありました。

本作では人類との共存を模索する地球外硬度知的生物という設定ですけれど、映画『マーズアタック』の彼らとは対極。
なのに、彼らと接触した人間は感染して細胞が破壊される。

このことを、実はNASAとワシントンは知っていたという辺り、ああ、またロズウェルものかと思ってしまいますが、ちょっと違います。
彼らの存在と感染した基地施設内の人間を、人類のために基地ごと核爆弾で消滅させる決定が下されるのですが、(この映画では、アメリカとロシアとの間で決定されますが、映画『ディープ・ショック』には国際原子力委員会だのG7だのの決断も出てきまーす)
つまり、氷の中に入って眠っていたエイリアンは人類を破滅させる菌を保持しているという設定です。



感染したかどうか分からない=感染していないとは言えない!ということで、人類のために基地内で核爆弾が投下されることを受け入れようとするジェームズ・スペイダーたちですが・・・・・そんなのはごめんだという職員と対立。そのとき、優男のジェームズ・スペイダー側に立って戦ってくれる黒人が、カール・ルイス。まさか、あのカール・ルイスだとは最後まで気づきませんでした。

けれど、本作はブルー系のフィルムでまとめられていて、ラストのファンタジーに向けて全編が用意されているせいか、全然悲壮感がなくラストのアクションは≪利他愛≫に溢れていて、エイリアンたちによって救出されるシーンは、一見の価値アリかもしれませんね。そうじゃない行動を取った人間たちは死に絶えてしまいます・・・・
それでも、核はロシアの原潜から発射されます。

ド派手なアクションゼロ。小難しい理屈もゼロ。ホワイトハウスのシーンと基地でのシーンが交互に映し出される手法も程よくて悪くなかったです。ただ、ラストのファンタジー、ジェームス・スペイダーたちがあの後どうなっちゃったのか・・・・気になるおバカな私なのでした。自衛の名の元に二者択一の単純で暴力的な発想しかできない地球から去った彼らは、別の生命体となって幸せに暮らしたということかもしれません。

★ご参考までに。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4183

★エイミー・グレアムの姉妹へザー・グレアム
http://movies.jp.msn.com/actor.aspx?p_personid=20641