月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「ボーン コレクター」(「The Bone Collector」)の音楽

2009年03月29日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

久しぶりに見ました。こういう上質のミステリーは、その内容を半分くらい、というか、結末は覚えていても大事なところを忘れてしまっているころに見ると、新鮮な感じが失われることなく観ることができて面白いですね。

ここのブログでは、映画の内容ではなくて、この映画の音楽を担当しているクレイグ・アームストロング(Craig Armstrong)のことをご紹介したいなあと思いました。
緊張した展開が続いたラストに流れる音楽は、まさにラヴソングであることでも分かるように、本作は惨い連続殺人事件で残される次の事件への予告、その手がかりを追う鑑識の天才との息詰まる攻防戦のミステリーではあるのですが、ある意味、主演のデンゼル・ワシントン演じる刑事、障害を負って寝たきりになっている天才捜査官と彼の配下となって働くことになる青少年課の女性刑事、アンジェリーナ・ジョリー演じるアメリア刑事との間に生まれる信頼と理解と尊敬をベースとした愛の物語でもあります。こういった感想を書いておられる方は、たぶん本作に関してはどなたもいらっしゃらないのではないかと思いますけれど、そのように観ることもできる映画だというのは、音楽で分かります。

そのような絆で育まれる愛情を、グレイグ・アームストロングは音楽で表現して見事でした。この音楽家は、ニコラス・ケイジ主演の「ワールド トレード センター」(2006年 オリバー・ストーン監督)の映画音楽も担当していましたが、本作でアメリア役を演じたアンジェリーナ・ジョリーをスターダムに押し上げたアクション映画『トゥームレイダー2』も彼が音楽を担当しているんですよね。『ハルク』でもそうだったかなと。
まあ、いろいろな音楽を作ろうと思えば作れるのが音楽家だとはいえ、彼の音楽は、作品をただのアクション映画やサスペンス映画では終わらせない構成力があって、主人公ばかりではなく出演者のハートや人生を誇り高いものにしていく壮大さと、私たち観客の心に染み入るリリックなフレーズが印象的だなあと思います。
彼が音楽を担当している映画をいつか、またご覧になられるような機会がありましたら、そういったことも思い起こしてご覧になっていただきたと思いました。

視聴版・・・・こちらで視聴できます。
  ↓
http://listen.jp/store/album_0724381190753.htm


「ブラディ サンデー」

2009年03月08日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

実在の事件をここまで徹底したドキュメンタリー・タッチで映画として撮り上げた手法には、脱帽する。この事件はこうした手法でなければ、おそらく伝えたい思い、伝えたいメッセージを伝えきれなかったかもしれない。ボーンシリーズの監督として一般にはしられるようになった監督だが、ポール・グリーングラス監督の生来のジャーナリスト魂が静かに炸裂している映画だ。

娯楽映画をよしとする私としては、落ち込んでいるときにはお勧めできない映画だけれども、そして、何度見ても深い悲しみと絶望感に見舞われる映画だけれども、この映画はせめてご覧になる前に、イギリス史とそのイギリスとアイルランド両国の歴史を大枠でもいいので勉強してから見るべき映画だろうと思います。U2のファンも、それが、少なくとも本作とポール・グリーングラス監督へのマナーだと思ってもらいたいものです。


「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」・・・・(2)

2009年02月03日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

読み返すゆとりもなく中途のままアップしてしまった日記、
「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」(1)を書き換えて、
こちらをアップいたしました。

さて、
秀作となった本作を担った出演者のご紹介です。
スタッフの方は、ネットでご検索ください。

まずは、
捨て子のベンジャミンを拾って育てるクウィーニーを演じていたタラジ・P・ヘンソン(Taraji P. Henson



まだ30代の女性が若い娘役を演じてもさほど違和感はありませんが、老人の顔をした小さなベンジャミンを育てる様子や祖父のような老人(実は中身は青年)となったベンジャミンに接する姿、とても安心感がありました。つまりは、母親で在り続けていることに違和感がなかったこと!これは脅威です。



施設の老人たちの世話をし、彼らを一人ひとり看取り続ける姿に違和感が感じられないというのは、それは天性の仕事と言えるかもしれません。黒人差別が強かった時代とはいえ、そういう時代に限られた仕事として施設の住み込みの使用人になったとはいえ、その女性としての姿と貫禄は、まさに母性愛の権化、グレイトマザーそのもので見事な安定感、存在感でした。そういった女性をタラジ・P・ヘンソン(Taraji P. Henson)は見事に演じていました。

そして、こちらの主演女優の彼女も見事でした。
二十歳前くらいの若い娘役から、老いて臨終を迎える90歳くらいの老婆までの長い長い人生の物語で、それぞれの時代ごとにそれぞれの年代を違和感なく演じきったケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)、もともと年齢不詳の老け顔なので中性的な魅力があり、男性の役をしても違和感がないけれど、今回のここまでの老女の役には凄まじさを感じます。

今年40歳になる彼女ですが、すでに3人の子供の母親。
ハードで多用な女優業を担いながら、養子ではなく自ら3人の子供を産んで育てるというのはたいしたものです。(やはり仕事で成功したい女性は、結婚するなら才能のある年下の男性に限るかも!)驚愕したのは体のラインが少しも崩れていない(ように見えた)ことでした。何といっても、ただ若い娘役というだけではなく、本作のデイジーは世界的に活躍するようになるダンサーなので、体のラインは決定的!

映画冒頭のこのシーン、顔がドアップで映し出されたとき、40年後のアンジョリーナ・ジョリーかと勘違いしてしまいました。



上の画像ばかりでは気の毒なので、こちらもアップ。

2年前の彼女ですが、本作ではもっとシェイプアップされていたように感じます。変わらずに美しいラインでした。 

さて、もう一人の主演、
ベンジャミンを演じたブラッド・ピット(Brad Pitt)の画像は、(1)でサービスさせていただいたので、こちら(2)では若くなったときの彼は割愛させていただきます。どうぞ映画でじっくりその変容をご覧ください。ここでは、ベンジャミンがブラッド・ピットの実年齢に近づくまでの画像をご紹介しますね。

このあたりになると、ブラッド・ピットだと分かりますね。
いまだ老人ながら、タグボートの船員としてだんだんとたくましい男性に変わりつつある頃で、70代。



わざとこうしたダサい格好をしているのではなく、その時代のファッションなのです。時代で言うと、第二次世界大戦が終わった後なので、1946~50年頃。この眼鏡は、老眼用。

自分が、他の人間と違ってかつての自分と比べたら間違いなく若返ってきていることを客観的に自覚しつつ、この先も若返るのか誰にも分からない・・・・そんな心境下のベンジャミン。



デイジーは自分と比べたらまだまだ若く美しい。やりたい仕事で成功し仕事仲間の恋人やボーイフレンドもいる。自分とは住む世界が違うのか。でも、二人は繋がっている・・・



紆余曲折を経て、ベンジャミンはデイジーと同じ年代を迎えます。時代が変わり、まさにビートルズ文化全盛の頃。



めまぐるしい60年代が終わり、月日は流れ、



もはや、目も良くなり眼鏡は必要なし。お金の心配も無し。
けれど、新たな、それも深刻な悩みが、ベンジャミンを襲います。
静かな音楽がその姿をじっくりと私たちに見せてくれますので、ベンジャミンのこれまでの半生に思いを馳せつつ、このときの彼の悩みに思いを馳せるならまさに等身大。
人生の中盤を迎えたときに出会う悩み、あるいは人生の分岐点に立たされたときの悩みというものと出会うのではないでしょうか。

年見た近作、『バーン・アフター・リーディング』(「BURN AFTER READING」)でのオツムの弱い青年役は、実にチャーミングなブラッド・ピットでしたが、シリアスな彼の表情は、やはり素敵ですね。


(『バーン・アフター・リーディング』でのブラッド・ピット。ジョージ・クルーニーとの相性の良さで、今までにない役を演じちゃった!というノリの良さでしたね)

本作のベンジャミン、性格的には『ジョー・ブラックによろしく』を彷彿させるところがあり、若かりし頃のブラッド・ピットに会えたような不思議な衝撃がありました。
メイクではないし・・・いったいどうやったのかとハリウッドの技術力には驚愕しますね。昔の映像を操作して作ったのでしょうか。

そのベンジャミンがまだ老人時代、恋に落ちるお相手となったのがエリザベス。彼女を演じていたのが何とティルダ・スウィントン(Tilda Swinton)。


(ティルダ・スウィントン)

キャスティング、見事だなあと思いました。



彼女に仕事を尋ねられたとき、ブラッド・ピットが「船員だ」と答えるとき、「それにしては、歳を取りすぎているのでは・・」と答えるシーンが印象的でしたね。なぜって、このときのベンジャミンはまさに晩生の二十代・・・・これが、ベンジャミンにとって、娼婦以外の女性との初めてのラヴでした。初恋の相手は一生忘れられないと言うけれど、ベンジャミンにとってもそれは同じだったようです。

このティルダ・スウィントンが出ていた近作の映画『フィクサー』では、緊張感のある役柄でしたけれど、『バーン・アフター・リーディング』ではフランシス・マクドーマンド(Frances McDormand)の方が強烈で彼女が出演していたことを失念していたほど。
こちらの女優さんです。


(個性派の女優、フランシス・マクドーマンド)

ティルダ・スウィントンでイメージするのは、個人的には、何といっても、あの『コンスタンチン』での堕天使ガブルエル。あの役は強烈でしたね。あれ以来すっかり彼女の魅力に参ってしまった次第ですが、あのときの”中性的な”ティルダ・スウィントンの魅力!
ケイト・ブランシェットとある意味同タイプですね。二人ともスレンダーで中性的な魅力を持った女優だと思います。こういう女優は、中年になると演じる役柄が限定されると思っていましたけれど、新しい魅力を是非披露してもらいたいものです。

ご紹介したい俳優や女優はまだまだいるのですが、
まずは、ベンジャミンの実父のトーマス・バトンを演じた彼。


(ベンジャミンの実父役のジェイソン・フレミングとベンジャミンとの再会シーン。自分が捨てた息子を前に、それを秘めたまま。何を話していいのかわからない、けれど、話したい・・・そんな父親の姿を好演していました)

街の娼婦宿でベンジャミンを見て、一目で自分が捨てた息子ではないかと思い彼の後をつけるシーン、そして、娼婦宿に出入りする者同士、ときどき酒でもいっしょに・・・と誘うシーンですが、
代々受け継いできたボタン製造の会社も大儲けしていまや大きくなり、リッチマン。けれど、後を継ぐべき息子を二十年前に捨てたのは自分。愛する妻を失ったばかりに妻を奪った赤ん坊が憎かった。醜く生まれたその子がもう生きてはいないものとばかり思っていた父親・・・それをジェイソン・フレミング(Jason Flemyng)が好演。

彼もまた20代から老年までを演じた一人です。
このシーン、心に残った美しい場面でした。
本作とは無関係ながら、実年齢ではブラッド・ピットが彼より年上というのも面白い。

こちらも忘れてはならない一人。
ジャレッド・ハリス(Jared Harris

ベンジャミンがホームを出てから長い時間を共に過ごすターグボートの船長です。ベンジャミンにとって、まさに男のタフな世界を見せてくれた父親代わりとなる人物。彼の死に際の台詞には泣かされました・・・

そして、
最後に忘れてならない一人がこちらですね。



映画冒頭に出てくる、あの針が逆向きに進む時計を作った人物。愛息を戦争で亡くした時計職人の ガトー氏。ルーズベルトを俯かせるほどのスピーチ、あれが本作の導入となり、また本作の隠されたテーマだと思われました。イライアス・コティーズ。(Elias Koteas)のそのスピーチ、是非映画でお聞き下さい。

 


「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 ・・・(1)

2009年02月02日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

心に残る映画でした。「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(原題「The Curious Case of Benjamin Button」)」)
デヴィッド・フィンチャー監督(David Fincher)作品。

主演のブラッド・ピッドがこの監督と組むのは、『セブン』『ファイトクラブ』に続いて三作目になるようです。相性がいいのでしょうか。
サスペンス映画で秀悦だったマイケル・ダグラス主演の『ザ・ゲーム』(「The Game」)が、ショーン・ペンと共に個人的には印象的でしたが、同監督のサスペンス映画『パニック・ルーム』(「Panic Room」)と『ゾディアック』の期待はずれの二つを思うと、ブラッド・ピッドとの3作、特に、『ファイトクラブ』(「Fight Club」)はとても印象に残っている作品です。デヴィッド・フィンチャー監督は、ブラッド・ピッドの魅力の掘り出しが出来る監督だなぁと。

では、本作を辿ってみましょう。
このシーン、どう見てもブラッド・ピットには見えなかったですね。

本作『ベンジャミン・バトン』は、時間の不可逆性の中で生きる人間の生と死の物語。生まれてから死に至るまでの個々人の人生の物語です。
不可逆性というのは、時計の針を戻すことはできても、人生の時間の針は戻せないということ。



映画の冒頭で愛する息子を戦死で失った時計職人の男が引きこもり、とんでもない時計を製作するのですが、まさにその時計は可逆への挑戦でもあるかのような、時間を刻む時計の針が逆に進む時計でした。

その時計が多くの人間が行き交う駅の壁に掛けられるというシーンが映し出され、男はその落成式に姿を現した大統領に向かって、「もし、息子が戦争になど行かなかったなら・・・」、あの子は死なずに生きて良い人生を送ることができたかもしれない!「あのとき、もしも・・・・だったなら」という、抑えても抑えきれない悔やむ思いを吐露する痛ましさ・・・・

そのように過去に時間を戻すことができない人生、不可逆性の一回きりの人生を生きるということはどういうことなのかという導入で、本編は始まります。

愛する妻が難産の末に生まれた子を託して死んでいった衝撃から、夫は、老人のような顔をして生まれた我が子を、ある施設の前に捨てに行きます。捨てられた先は老人施設でした。

施設には、お年寄りたちの使用人として彼らの世話をしている住み込みの黒人女性クウィーニーたちがいて、赤ん坊は彼女に拾われベンジャミンと名付けられその施設で育つことになります。「醜くても、この子も神の子よ」という信仰心の厚いクウィーニー。ベンジャミンを我が子として育てていくクウィーニーを愛しいっしょに家庭を作っていこうとする男性は、まるで聖書の中に出てくるヨセフのようでしたね。
奇形として生まれた赤子を「奇跡」として受け止める彼女は、何が起こっても前向き。そんな女性を母として、ベンジャミンは施設の老人たちとの暮らしが全てという世界の中で人生をスタートさせていくわけですが・・・・
ホームの中は結構にぎやかです。
現役時代にはさまざまな分野で活躍していただろうお年寄りたちばかり・・・・オペラを歌う元オペラ歌手のおばあちゃんがいたり、



中身は7歳の子供でも外見は80代の老人であるベンジャミンは、他の子供のように遊んだり甘えたり、子供が叱られるように叱られるといった「子供時代」とは無縁・・・
関節は曲がって脆く皮膚は固くなって皺が刻まれ耳も遠く目は白内障・・・先は長くないと思われている彼に、「何が起こるかなんて、先の事は誰にも分からない」とクウィーニーは生きる勇気を与えます。
そんなベンジャミンにピアノのレッスンをしてくれる老人も現れたときは、思わずほっと胸をなでおろすような気持ちになりました。
彼女の「あなたには音楽が必要ね・・・」という言葉に導かれていくベンジャミン、

けれど、そこは養護老人施設。新しく誰かが入居してくるということは、誰かが亡くなるという事。
まだ幼いベンジャミンが人生の初めに出会ったのは、
「老」と「病」と「孤独」と「死」・・・・・
そんな世界で、ベンジャミンは初めて出会うのです。これから育っていく「生」というものに。



外見は老人でも、目は心の窓です。
子供には分かる・・・
「なぜ、そんなにおじいさんみたいなの?」

ベンジャミンの目が捉えたのは、施設に入所する老女の孫のデイジーでした。このとき彼女とベンジャミンの心に生まれたもの・・・・
それが二人の人生のベースに生き続けることになります。

この二人の物語は、
病院のベッドで臨終間際の老いた女性が、
娘に手渡した「日記」の鍵が開けられるところから
回想されていきます。

死期が迫っている。
苦しい息の中から、彼女は娘に古い日記を取り出し、
その鍵を開け日記を読んでくれるよう話します・・・



日記を読み始めるキャロライン。ジュリア・オーモンドは主演ではないけれど難しい役どころをきっちり引き受けていましたね。
映画は、死期が迫っている老母とその娘の会話、日記のところどころで、老母が思い出したかのように話をする・・・こうした現実と読み始められた日記を通して語られる回想録が自然に繋がっていくという形を取っていきます。

ナレーションによって姿を現していくベンジャミンの人生が、淡々と、静かに、丁寧に丁寧に、綴られていきます。人間の成長のようにゆっくりゆっくり進みながら、あるときからエンジンがかかる人生のように、物語は展開していくのですが、本作はまったく冗長さとは無縁です。

孫の傍に近寄ったベンジャミンを「色爺」と怒り警戒し、
口うるさかったデイジーの祖母の死。



老人養護施設だったホームの中だけが世界の全てだった人生からの離陸・・・・ベンジャミンの旅立ちが始まります。



車椅子生活だった当時から比べたら、曲がっていたはずの腰はまっすぐになり自分の足で歩け、毛髪のなかった頭には白髪が生え、いつの間にか10年くらい若返ったようです。
外見は変わらず老人でも、
中身は青年になったベンジャミン・・・

これから彼はどうなるのだろう。
どこまで若返るのだろう。
早くそんな彼=ブラッド・ピッドが見たい!
と思われるかもしれませんが、
そういう意味では、本作はじらしの名人芸をなっているかもしれません。

二人が再会するまで、ベンジャミンの青春が語られ、希望に満ちたデイジーがダンサーとして上り詰めていく様子を私たちは見せられることになり、こうして再会した後も、二人はそれぞれの人生を生きるのに忙しい・・・・つまり、自分の人生に夢中で人生を立ち止まって考えるゆとりが特にデイジーにはありません。子供の中で育って成長していくプロセスと老人の中で成長してきたベンジャミンとの対照は実に興味深かったですね。



こうして本編は、ベンジャミン・バトンとデイジーの人生を主軸にした人間交差を通し、人が「生きていく」ということの意味を、「成長する」ということの意味を静かに感じさせてくれるかのようです。
一方は、仕事も恋も思い通りに進展してきた人生で挫折を体験し、自己との向き合いを経て「大人に」なり「老い」に向かう人生を通し、もう一方は、「若返る」ことで働いてお金を得ることの意味を知り人生の楽しみを覚え、恋をし遊びもし、やがて戦争に行くことで、それぞれがそれぞれの人生を生きていく中で、わたしたちと同じように「生きていく」ということはどういうことなのかを感じていく。

ベンジャミンが出会い、出会ったことで相手の人生と分かち合ったもの、そこから学んだものに、わたしたちもまた本作を通して出会ったということであり、その出会いからベンジャミン同様に何かを感じさせられ何かを学ばせてもらっていく・・・
観客はそういう存在になっていくと言えるかもしれませんね。

異国で出会い恋に落ちた人妻のエリザベス。



ベンジャミンに初めてキスをしてくれた女性となる。ドーバー海峡を泳いで渡ることに挫折してから泳ぐことをやめて結婚したという女性ですが、ベンジャミンの出身地が「ルイジアナのニューオーリンズ」と聞いて、(ニューオーリンズが)二つあるなんて知らなかったわという会話、印象的でした。このティルダ・スウィントンに関しては拙ブログの(2)で取り上げる予定です。

そして、

ベンジャミンにタグボートの仕事をくれて、やがては世界中を仕事で一緒に回り、戦争にもいっしょに行くことになったタグボートのマイク船長。死の間際、「おまえは、人生を、親を、運命を、呪いたくなるときもあるだろう。その背負ったものに叫び出したくなるときもあるだろう。だが、最期のときがきたら、そういうことは皆、忘れてやれ」と語って死んで行く。ベンジャミンにとって、雇い主というだけではなく、上司、父親、兄、先輩、仲間、戦友といった役 を兼ねていたように感じます。

こうして展開される物語は、
まさに、教養小説と同じ自己形成物語と同じ。

「人は生きて、死んでいく」「歩む道は違っても、誰もが同じところに行き着くのだ」と人間のイモータルな存在性が本作の通奏低音になっており、その苦しさ、切なさ、悲しさ、儚さ、痛さを通して生きるということどういうことなのか、「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」という作品は静かに考えさせてくれるかのようでした。

色を抑え、回想という時間軸ではセピア色という常套的手法を用いながらも実に品の良い美しい映像が、それを強要することなく観ている私たちに感じさせ悟らせる・・・・

この二人の主演の変容ぶり、
長い人生を通じて老いと若さを演じきった姿、
その演技力は賞賛に値するものでした。



思えば、数奇な人生・・・・とは、主人公の人生の枠を超えて、
実は誰もが、他でもないその人独自の個的な人生を生きるとき、
つまりはベンジャミン的に人生の悲喜ともどもを
受容して味わって生きるとき、
誰もの人生がある意味、
数奇な人生と言えるのかもしれません。

冒頭の場面、娘に看取られ臨終間際の老母(これが誰か、映画でご覧になってください)が死を迎えた心境を、しわがれた低い声で、「わくわくするわ」と語った台詞・・・
実に印象的でしたね。

私は原作の作家、F・スコット・フィッツジェラルドの良い読者ではないので、原作となった本は読んでおりません。なので、以上は、あくまで映画として見た本作についての感想でした。

ということで、
次のブログ(2)において、
本作に出演している上掲の出演者を始めとした
印象深い俳優&女優たちのご紹介をしたいと思います。

以下は、サービス画像です。



 


「パーフェクト ストレンジャー」(原題「Perfect Stranger」)とジョヴァンニ・リビシ

2008年12月21日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

このスリラーは、以前にも取り上げた気がするのですが、今回は、主演のハリー・ベリー(Halle Beerry)ではなく、またチョイ役だったブルース・ウィリス(Bruce Willis)でもなく、ある俳優を取り上げたいなあと思ったのでアップしました。

その前に、ちょっとハリー・ベリーに言及。



(現在 42歳)

『X-メン』シリーズも終わってしまいましたが、ハルー・ベリーがこうした人気作品に出演するようになったのは最近ですよね。彼女のデビュー後初の評価されることになった作品が、テレビ映画『アカデミー 栄光と悲劇』とのことですが、私はいまだ見ていないので知らないのです。が、そのとき33歳だった彼女の活躍は、まさに30代半ばから。そういう印象が大きいですね。



ボンドガールに初めて黒人女優が起用されたということで評判になった007『ダイ・アナザー・デイ』のときも35歳。いまや随分昔の映画のように感じられますが・・・・・、そこで一気にブレイクしたハリー・ベリー、映画ファンの間ではその前作にあたる映画『チョコレート』(原題「Monster's Ball」)での体当たり演技が注目を浴びていました。

このように30代に入っていきなりブレイクし活躍し始める女優というのは珍しいかなと。以後、ぐんぐん輝きを増して『キャットウーマン』(「Catwoman」)で見事な脚線美を見せたときには38歳。もうじき40歳というときで、本作では41歳。

エステや整形をして若さを維持していると言われる女優も、白人の女優の場合、この頃になるとだいぶ苦しい。結婚や出産を体験している女優さんだと、若い頃のイメージではやっていけず役柄もかなり変わってきます。けれど、このハリー・ベリーは、この頃から俄然美しくなっているぞと。しかも、自信が放つ輝きのせいで若返っている気さえします。ファンには怒られるかもしれませんが、メグ・ライアンタイプの女優と実に対照的ですね。

ハリー・ベリーは白人の母とアフリカ系の黒人の父を持ち、人種的にアフリカ系黒人と呼ばれているようですが、ブラックパンサーのような肢体は無論本人の大変な努力もあるのでしょうが、年齢を感じさせず実に見事ですよね。
そして年齢と共に増してきた知的な輝きが、彼女の若さの秘訣かなと。高齢出産にも関わらず、ますます若くなり、いまや繊細な役柄を演じると実にチャーミングです。そんな彼女を起用した本作ゆえに、ただのスリラーでは終わらなかったとも思えます。

監督、ジェームズ・フォーリー(James Foley)!
さすがに精神分析医になりたかったという監督です。
ハリー・ベリーの表情も、実に繊細な表現でした。

が、今日、ご紹介したいのは、
そんな彼女の同僚役で出演しているジョヴァンニ・リビシ(Giovanni Ribisi)の方なんです。

本作のラストのどんでん返しのどんでん返し。そこまで観客をぐんぐん引っ張っていくのは、やはり脚本や監督の演出の冴えともいえるでしょうが、個人的にはこのジョヴァンニ・リビシの功績は大きいと思う私。ラスト、強権的な男性像をちらっと出してみたかっただけなんでしょうが、それが本作の悲劇性を高めたとも言えるので、彼のその繊細な演技に拍手。

主演級のタイプには見えない俳優ですが、なかなか計算された表情を作る俳優だなあと以前から注目している一人ですが、このスリラーを見るのは二度目か三度目ながら、心憎いほどの繊細な演技でハリー・ベリーを上回っていたように思えますね。まだ若いけど。

1974年生まれなので、いま34歳。
本作では、33歳ということになりますが、ハリー・ベリーが7歳も年上だとは思えないほど、このジョバンニの存在感はなかなかでした。脚本もいいけれどォ・・・(笑)

得がたい俳優だと思いますね。
まだ若いけれど、今後がとても楽しみな俳優です。


本作については、以下、ご参考までに。
  ↓
★http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11164/
http://www.so-net.ne.jp/movie/sonypictures/homevideo/perfectstranger/


「実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男」

2008年12月03日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

●「実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男」
(原題「BRUCE LEE THE CURSE OF THE DRAGON」)

1993年制作 
監督フレッド・ワイントローブ、トム・カブン

とても懐かしかったですね・・・
ブルース・リーに関しては、いまさらここのブログでご紹介するまでもないと思います。ご存じないお若い方がいらっしゃったら、まずは映画『燃えよドラゴン』をご覧下さい。映像的に古さは否めませんが、そういった瑣末なことを超える魅力が彼のカンフーと肉体と、そこから立ち現れてくる彼の人間性にあります。それを観るだけでも素晴らしい。

父息子二代に渡っての、まさにこれからというときの急死など、
いかに映画界広といえどもないだろうと思います。
死因については薬物による過敏反応によるショック死という剣士報告が出されているにも関わらず、いまなお暗殺説がなくならないブルース・リー。32歳、あまりにも惜しまれる死でした。
その息子であるブランドン・リー(Brandon Lee)、
映像を久々に観ました。
デビューしたときには胸が高鳴ったもので、
遺作となった映画『クロウ』(原題「THE CROW 」)は数回観ました。かえすがえすも惜しまれます。この制作中に現場で使われた空砲のはずの銃で撃たれて亡くなるとは・・・・
誰がどういう目的で実弾を込めたのか、
この事件は迷宮入りです。

早すぎる突然の死ということもありますが、
何だか、今年の初めに急死したヒース・レジャー(Heath  Ledger)と重なって見え切なくなりました。

 

★画像は後日時間ができた時、ここのページに追加しますので、
お楽しみに。


「The Package」(邦題「ザ・パッケージ 暴かれた陰謀」)

2008年11月28日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

観初めてしばらくはジーン・ハックマン主演のミリタリーものかと思ったら、核兵器廃絶条約の調印をめぐり、それに反対する米ソ双方のある集団による陰謀というサスペンス。
たまたま見逃していたアクション映画の1本だったので、午前中久々にお茶を入れながら楽しんだ次第です。

このDCDの表紙画像だとちょっと分かりにくいですが、右下の俳優は、トミー・リー・ジョーンズ(Tommy Lee Jones)。本作では一匹狼的な狙撃手の役。ジーン・ハックマン(Gene Hackman)はあまり変わらないけれど、こちらはかなり若いので、いつ頃の映画かしらと思っていたら、米ソ大統領役が、ゴルバチョフとブッシュ両大統領のそっくりさんを使っていたので、ペレストロイカの80年代の映画かソ連崩壊の90年代前半の世界情勢に合わせて、そうした政治的流れをテーマにエンターテイメント映画を制作しようとしたのでしょう。
そう思ってチェックしてみたら、1989年の制作。歴史はこの映画の通りにはいきませんでしたけれど、製作者の意図は分かりやすい政治エンターテイメント映画です。

監督は、アンドリュー・デイヴィス。(Andy Davis)この映画の数年後にハリソン・フォード主演の「逃亡者」(「THE FUGITIVE」)を製作し、その映画でトミー・リー・ジョーンズがブレイクしたことを思うと感慨深いものがあります。なぜって、彼のデビュー作があのフランシス・レイの主題曲でブレイクした青春映画「ある愛の詩」だというのがピンと来なくて、どういう役で出ていたか気づかなかった俳優だからです。


(40代後半のトミー・リー・ジョーンズ)

本作ではドライさと明るさと人情のある複雑な性格の暗殺者となり、主役のジーン・ハックマンに撃ち殺されてしまいますが、そんな彼に、ジーン・ハックマンに悪役が似合うようにこちらも逆の立場の役を振ったほうが面白いと思ったのかもしれないですね。本作では43歳のトミー・リー・ジョンズが役者としてエンターテイメント映画でブレイクしていくのはこの後の、まさに40代半ばから。人生体験を踏んできたこういう俳優って、こうなるとどんな役でもこなせるので貴重です。

あ、そうそう、
本作でジーン・ハックマンの別れた妻で軍で中佐になっている役なのに、陰謀組織に追われたときに「助けて!誰か助けて!」と何度も叫びながら逃げる中年の軍人女性を演じているのは、ジョアンナ・キャシディ(Joannna Cassidy)。

いろいろな映画に出ている女優なので、よく見かけますが、彼女のような女優に「助けて~」と言わせる脚本のセンスはイマイチです。
ヤンチャな夫像のジーン・ハックマンと離婚して軍で出世している女性役。追い詰められたハックマンが救いを求める最後の拠り所でもある女性ですから、ここで、実はか弱い女性なのだという説明はどうかと思いますが、彼女の部下役の女性もまた、陰謀組織の情報を入手して震えた挙句に殺されてしまう。当時はまだそういうセンスだったのかもしれませんね。ちなみに、この部下の女性役を演じていたのが、

パム・グリア(Pam Grier)という女優です。

 

B級映画ではお馴染みの魅力的な黒人女優ですが、せっかくこういう映画に起用するならもっと彼女の持ち味を演出してもらいあたかったです。監督のアンドリュー・ディヴィスは前作の『刑事二コ 法の死角』で彼女が気に入ったのでしょうが、本作では彼女の魅力を引き出すのに失敗しているなあと。

それと、元夫婦が協力して陰謀を暴いていくときの強力な味方となる警官役を演じているのがデニス・フランツ。(Dennis Franz)

あの『ダイ・ハード2』で空港の頑固な警察署長をやっていた俳優といえばお分かりいただけると思いますが、なかなか個性派です。
本作では、ジーン・ハックマンを救って背中を撃たれ病院に搬送されますが、その重態のはずの彼が数日もしないで現場に復帰してくるシーンは、かなり無理があり、この映画をちょっと残念なエンターテイメントにしている一因ですね。

それはそうと、もう一人ご紹介すると、
陰謀の指揮官として中堅どころにいた軍人役を、
ジョン・ハード(John Heard)が好演しています。

本作のときは40代半ば。
軍服姿も似合っていました。
いまでは、還暦を過ぎて貫禄も十分となり、こちらもどういう役でもいけそうな俳優なので、今後の活躍をますます期待したい一人です。

ところで、原題のpackage が暗殺の銃を入れた包みのことなのか、暗殺という陰謀のユニットにそれぞれ役割を与えられて入れ込まれた人間たちのことなのか、観終えた後もよくわからなかったでが、あの頃の陰謀ものンサスペンス映画ってこんな感じだったのかなあと思いつつ、役者たちのキャスティングで楽しめたように思います。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD3835/


「海神」(へシン)

2008年10月26日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行

韓国ドラマは苦手。
なのだけれど、映画はそうでもありません。
見てみようかなと思ったのは、(まだ見ていないので何とも言えないのですが)映画に近いドラマとでもいうような作品なのではないかというイメージで、



「ドラマ界のアカデミー賞ともいえる国際エミー賞。スペクタクルな戦闘シーンなどの映像美と骨太のストーリー構成が評価され、本選進出作品に選出。中国、台湾、インド、アメリカなどでも好評を博している、クオリティの高い作品だ。」ということで、見てみようと思ったのですが、韓国ドラマファンの方達にはよく知られているドラマなのでしょうか。『海神』という史劇ドラマです。

歴史に埋もれていたような他民族の歴史物語を大スペクタクルとして制作されたとあっては、史劇ファンの一人としては見てみようというもの。しかも、時代は9世紀、新羅、唐、そして日本を巻き込んだ世界が舞台の韓国版ベン・ハー的な人生を送ったという実在の人物(チャン・ボゴ)という人物が主人公とあっては興味も湧きます。

主演の男優二人はチェ・スジョン(誰?というほど、韓国ドラマの事を知らない私)、ソン・イルグク、(こちらも誰?・・・)
女優ではチェ・シラとスエ(いずれも、誰か分かりません・・・)




こちらのフレッシュサラリーマン風の男性が、
俳優のチェ・スジョン。



こちらの医学研修生みたいな男性が、
俳優のソン・インスク。

役に入ったとき、このお二人がどういうお顔になるのか、ちょっと想像できないでいます。髭やカツラをつけ、9世紀の海賊の風貌がどんなふうに演出されているのかも不明なので、逆に先入観なしで見られそうです。
韓国でも、TVドラマはやはり若手の独壇場なのでしょうか。彼らが、エミー賞狙いと言われているらしい作品の主役です。

さて、どんな史劇に仕上がっているのか、
楽しみに見たいと思います。



☆ご参考までに。
http://www.koretame.com/heshin/


 


「悲愁」

2008年10月23日 | ◆ハ行&バ・パ・ヴ行
●「悲愁」(1959年 監督ヘンリー・キング)

★まずは、こちらをご覧ください。→http://movie.goo.

いま思えば、このラヴストーリーは、人生の困難の渦中にあって一人では何も出来ない男とそんな男を愛してしまった自立心旺盛なキャリアウーマンの女性との不倫物語でもある。

精神を病んで入院中の妻があり、全寮制の学校に行っている一人娘のために離婚は出来ないという、いわば利他的な精神を持つ男性というのは少なからず存在するものだけれど、そんな男が仕事も失い、当然金銭的にもどうにもならない状態になったとき、アルコールに逃げ、自分に尽くしてくれる恋人に暴力まで振るう、いわば典型的なDV男だが、愛は献身であるということで、恋人は男を励まし男を支え続ける。その苦労がやっと実りそうになった矢先に、男は突然死という内容です。


(紆余曲折を経て、やっと全てが好転しだしたときの二人。心が晴れて将来への夢に心躍らせせるデボラ・カーの生き生きとした表情とこのときのグレゴリー・ペッグの表情の安堵感。二人の表情の意味するところを対比すると、ここの表情は格別でしたね。こういった表情で見せることができるのは名優と名女優たる由縁でしょうか。)

確か、この映画を初めて見たのは中学生か高校生のとき。
若かったせいか、グレゴリー・ペックという俳優は、以後、
私にとって「近づきたくない男性」の象徴となってしまった映画だったように記憶しています。
そのため、本作後に観ることになった映画『ローマの休日』は、
私にとってはホラーサスペンスとなったことを思い出させられました。こんなことを書くと、苦笑されそうですが、本当のお話。

愛は、怖い・・・・・

グレゴリー・ペッグとデボラ・カーという二大スターの映画にしては、何とも暗い映画ですけれど、この二人だからこそ悲恋物語という「絵」になるのであって、そうじゃなければ、本作のストーリーは、
DV男と、その男と共依存という病んだ関係を精算できない生い立ちを持つ女性との男女関係というものになるかもしれず、決して悲しいだけの恋物語ではありません。

「愛は、全てに耐える」という見本のような役柄だったとも言えるデボラ・カーですが、こんな表情を見ていると、映画『王様と私』を思い出させられるから困ります。



当時、美貌と知性の双方が光り輝いていたデボラ・カーに、こうした恋愛を映画の中で演じさせるというのは、今の感覚からいえばリスキーかもしれないですが、当時にあってもリスキーな要素はあったはず。
なのに、恐らくかつても今もリスクとはならないと思われるのは、男性にとってデボラ・カーのような手の届きそうにない女性でも、「恋をすれば、女は皆同じ・・・・」ということを証明してくれる有難いストーリーになっているからです。デボラ・カーにとってもその世代の多くの女性たちにとってもリスキーな映画ではなかったということですね。

監督のヘンリー・キングは、戦前のハリウッドで活躍した大監督ですが、このとき63歳。朝鮮戦争で愛する人を失った映画ジェニファー・ジョーンズのラストが心に残る映画『慕情』の監督でもありますが、本作が『慕情』ほどには愛されなかったのは、やはり、DV男と戦死する男への共感の違いなのではないかと思う私。無論サミー・フェインの音楽の貢献ということが大きいでしょうが・・・・
本作は、ストーリー展開とではホラーに、現実無視の観念性という点では、ファンタジーに通じるものがあるなァと。

昔観たときには、アル中に負けてデボラ・カーの暴力を振るうグレゴリー・ペッグが「弱い男の象徴」として後々までも記憶に残ったものでしたけれど、
今回は、この場面を見て思い出したことがもう一つありました。
このリビングのシーン、好きなんです。



唐突ながら、男にとっては自己完結したシーン。女にとっては、

悪夢のショックシーンとなる場面ですが、これがやっと迎えることができた二人の平和なくつろぎの静かな時間に訪れるところ、唸らされますね。まさにここの場面でも「序破急」です。

息をしていない愛人に動転し、家を飛び出し通りで「ヘルプ!」と叫び、お向かいのお宅に飛び込んでいくデボラ・カー


(この頃、個人宅で電話を引いているところはまだまだ少なかったのでしょうか。)

救急車が来て、遺体を運び出していった後のこの家の様子も、
とても印象的でした。愛する人の、急の、かつ、永遠の不在感を感じさせる演出で、監督の思いが伝わるシーンですね。



本作は、「愛は、自己犠牲と献身である」というキリスト精神が、1960年前後の映画の中でも見事に花開いているわけです。
このラストのシーンで、1960年に大人だった方達の多くが、涙したのではないでしょうか。当時生まれていなかった世代にとっては、驚きかもしれません。なぜって、ビートルズが世界の若者を席巻するまで、あと数年。

このラスト、映画『慕情』とは正反対。
こちらの『悲愁』の方が、後で作られたことを思うと、監督は、こうしたラストにシンパシィを持ったということなのでしょうか。



けれど、いまなお愛されているのは、同じ大人の男女の恋愛ながら、一人残された女性が、顔を上げて生きる『慕情』のラストのような気がします。
うな垂れて終わる愛は、やはり、
女性にはおススメしませんね。

髪を下ろしたデボラ・カーも素敵でしたけど。