月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「イル・ポスティーノ」(後編)

2008年11月01日 | ◆ア行

こちらは、映画『イル・ポスティーノ』の鑑賞備忘録の後編です。


(手紙を配達するごとに、ネルーダに引かれていくマリオ・・・マリオにとって新たな人生の幕を開ける力を与えてくれる存在という予感でしょうか)

ネルーダとの出会いと交友によって、世界が開け人生が躍動し始めたマリオ(俳優はマッシモ・トロイージ)ですが、島の酒場と食堂をかねた店で働く娘に目が開きます。ここのシーン、とても印象的です。


(ベアトリーチェを演じている女優は、マリア・グラッツィア・クチノッタ という女優で、1969年生まれの今後の活躍が期待されているイタリアの若手代表の一人かもしれません。)

彼女が心の世界に映り始めた瞬間、マリオの心は波立ちます。
彼女は美そのもの・・・・


(彼女のことを詩に書いて欲しいと頼むマリオ・・・・「そんな知らない女性の事は書けないよ」と語るネルーダ)

ここの会話も印象的でした。「どうして先生は書けないんだ」とやるせなくなって語るマリオに「詩は自分で書くものだよ」というネルーダ。すると、マリオはこう言うのです。
「違う。詩は、それを必要とする人のものだ。どうして詩人なのに書けないんですか」と。
ネルーダは、ここで思わず唸らされてしまい、
明日までに考えて返事をすると答えるのです。マリオはいつしかネルーダのことを「先生」と呼ぶようになっていて、


(マリオの問いに答えるために浜辺を散策するネルーダも、なかなか良かったです・・・)

二人はこうして郵便を配達するポストマンと手紙を受け取る人といった関係の知人ではなく、心の通い合う存在になっていきます。



ベアトリーチェに対する思いを懸命に説明しようとするマリオに、
「恋に落ちたんだな」と語るネルーダ。



「彼女の事を思うと、そう、先生の詩を読んだときと同じ気持ちになるんです。何と言うか・・・」と懸命に何かを伝えようとするマリオ。かつて、「自分が感じていることを、こういうことなんだ」と詩と出会った時の感動を語ったマリオは、いま、もう一歩さらに進もうとしているのです。

「寄せては返す波のような・・・」
「それは詩のリズムだ」

マリオは、自分のベアトリーチェに対する思いを詩に書き上げていくことを決心します。

この浜辺でのシーンが、とても好きですね・・・
フィリップ・ノワレとマッシモ・トロイージの演技がとても良かった。

かつてのマリオは、もういません。毎日ただ起きてただ食べて、外に出て帰ってきたらまた食べてそして寝るだけだった空疎な暮らし・・・・漁師になれと言われてもどうしても漁師になる気持ちになれず仕事もせず卵の薄い膜で全てが覆われているような世界。その薄皮でぼんやりとしていた世界が、打ち破られたのでしょう。


(父親との二人暮らし。マリオがどういう育ち方をしてきたか、この父親とのいつもの食事のシーンでそれが分かる。これは実に凄い描写ですね・・・)

先生の元に飛んでいくようになったマリオですが、
やがて、マリオはネルーダ夫妻が立会人となってベアトリーチェと結婚し、ネルーダも祖国もチリに戻ることができるようになります。




これは、ファンタジーでもある物語ですが、
ネルーダは実在の人物。
彼がイタリアに政治亡命し名も知らない小さな島でその亡命中の数年間を過ごしたことは事実ですが、マリオは架空の人物。でも、マリオのような素朴でまっすぐな善人、そこに生まれ出た愛の心は、きっと真実だったのでしょう。





マイクを向けられて、先生からこの島のこと、この島で美しいものを紹介してくれとマイクを向けられて、「ベアトリーチェ」としか答えられなかったマリオ・・・・

やがて、こうした二人の交友も、
ネルーダが帰国してから途絶えてしまいますが、ネルーダも帰国後は相当に多事多用になったはず。何せノーベル賞を受賞するのだから・・・・

自分たちのことをもう忘れてしまったのだと残念がる島民たち。思い余って憎しみの言葉も聞こえ出す・・・
選挙前には散々いいコトを口にして住民に対しても一生懸命な議員が当選後には手のひらを返したように何もしない。それと同じだで「先生」も餌を貰って飛び立った小鳥と同じで、餌をくれた人間のことなど忘れちまうのさと。

人一倍「先生」のことを恋しく思っているマリオだけが、「先生」の悪口を言わないどころか感謝の思いを口にします。その思いと心が、周囲をも満たしていくのですが、そのシーン、実に深い感動を覚えました。

ここで、人一倍口の悪い登場人物のこともご紹介しておきたいと思います。ネルーダのことを恩も忘れて飛び立っていった小鳥と同じだと言い放つベアチリーチェの母親代わりのおばさんは相当に口が悪いです。
さすがに島に一つしかない酒場の女主人。最初、彼女の祖母かと勘違いしたほどイタリアの古い時代のたくましい女性像そのままで、大地に足を着いて日々の暮らしを担っているたくましさと口は悪いけど憎めない人の善さが、この映画に安定した落ち着きをもたらしてくれていたと思いますね。人生の酸いも甘いも体験してきたリアリストで、俗世の代表という感じですが、彼女の毒舌には時に苦笑し時に唸らされました。

「男が言葉で女を喜ばそうとしたときは、言葉だけじゃなく手も出してくる。それは神父も詩人も同じだよっ」という台詞や、姪である未婚のベアトリーチェへの愛を詩で表現したマリオの詩を読んでびっくり仰天したときの台詞。
「詩に裸のことが書いてあるから、きっと姪の裸を見たに違いない!」神父のところに駆け込んで行ったときの台詞。そしてネルーダのところに押しかけての堂々の問答。

「それは比喩というもので、詩の表現だから」
と説いても絶対そうじゃないと彼女は否定する。なぜなら、
「詩はウソをつかない」からだと。
そして、「姪の裸は、マリオの詩に書かれてある通りだ」と。

このベアトリーチェの伯母役を演じていたのは、リンダ・モレッティという女優さんですが、どこかで見た顔だなあと思って検索してみましたら、結構昔の映画に脇役で出演している女優で、今度見直す機会があったときに楽しみにチェックしてみたいなアと思います。

★リンダ・モレッティ⇒http://www.imdb.com/name/nm0604323/

敬慕するネルーダから頼り一つ来ないまま、月日は流れ、ある日ネルーダ夫妻が重数年ぶりに島を訪ねてきます。
マリオが島の美しさについて何も語れなかった、あのときの録音機器が映画ラストでは大きな役割を果たしていきます。

このラスト、泣かせる場面としてはある意味常套手段の展開ですが、それが過剰でもいやらしくもなかったのは、やはり音楽の力かもしれませんね。ルイス・エンリケ・バカロフ のピアノのお陰ですね。
思いつくままに、書いてきましたが、本作はイタリア映画としてのラインを外さない名画の1本と言えると思います。

末尾ながら、ネルーダの若い妻マチルデを演じていたのは、アンナ・ボナルートという女優ですが、プーピ・アヴァーティ監督の映画「兄弟姉妹」という作品に出ているようですが、未見なのでイマイチよく分かりません。

★プーピ・アヴァーティ監督の映画紹介
http://www.asahi.com/event/avati/index02.html



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