月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「12人の優しい日本人」

2009年03月08日 | ◆サ行&ザ行

陪審員もの+このタイトルを見ただけで、ああ、あれのパロディ版かと思ってしまったほど。そう、ヘンリー・フォンダ主演の忘れがたい映画『12人の怒れる男』、シドニー・ルメット監督の陪審員モノの名サスペンス。
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/12ANGRY%20MEN.htm

ずいぶん昔の映画だけれだけれも、本作を見て、また見てみようという思いになりました。人物の表情で心理をえぐり出す映像が凄い映画でもありました。この間見たばかりの『波止場にて』の撮影を担当していたのも同じボリス・カウフマンでしたね。
もうじき日本の裁判制度にも陪審員制度が導入されることになっていますが、本作はまさにそれを受けて作られたのかと思ってしまうほど良くできているコメディで、これが1991年に制作された映画とは思えないほど。

豊悦が若いので、ずいぶん前の映画だとわかるけれど、そうじゃなければ最新の映画かと思ってしまうかも。三谷幸喜監督の映画と勘違いしていたのですが、脚本が三谷幸喜監督で、本作の監督は別。中原俊という監督です。
画像の整理ができましたら、改めてアップしたいと思いますが、ホント、爆笑の連続でしたけれど、最後はかっちり日本人が喜ぶような締めでまとめてくれていました。

ところで、
映画『12人の怒れる男』がもう一本あるんですね。前述のシドニー・ルメット監督のは1957年のアメリカ映画ですが、

同名映画はロシア映画(2007年)。監督は二キータ・ミハルコフ
リメイク版なんですね。http://www.12-movie.com/
どのような『12人の怒れる男』になっているのか、実に興味深いです。脚本の大筋がシドニー・ルメット監督の映画の脚本に準拠しているというからです。レジナルド・ローズの脚本をロシアを舞台にどう現代風に脚色したのか期待してぜひ見たいと思います。

 


「赤壁」(第二部)

2009年03月03日 | ◆サ行&ザ行

エンターテイメントとしては失敗作なのではないか。
何度欠伸(あくび)が出てしまったことか。

中村獅童は存在感があって良かったですが、全体的に期待を裏切られたなあという思いが強いので、以下のブログを書こうと思います。

兜をかぶるといきなり柔な感じで、まったく周喩のイメージではなくなるトニー・レオンはイマイチだし、彼にとって至宝の愛妻小喬(しょうきょう)は、

「三国志」を逸脱して、後半いきなりのイメチェンでドタバタ活劇をやってしまうし、

そんな美女にたぶらかされて千載一遇の攻撃の好機を逸する曹操を演じたこちらもほとんど「武」の出番はなく、いつもアップで表情が映し出されるだけ。これでは曹操の多面性がちっとも分からない。
まるで、金城演じるこちらの諸葛孔明に合わせたかのようです。



この孔明も周喩との関係に緊張感がなく、呉の軍師の一人となっている兄弟子の彼が、

ひょうきんなキャラで引き立て役をやってくれているために、それらしく見えるだけである。この兄弟子とて主に孔明を引き合わせた手前、呉の中では立場上かなりの緊張感を抱かされているはずなのだが、孔明の引き立て役で終わっているし、赤壁の戦いに臨む呉にあって孔明の才知の冴えを象徴する一つ、

10万本を超える弓矢を揃えるのにたった三日あればいいと語った顛末はご覧の通り描かれてはいたが、

赤壁の戦いという名称が生まれた大火となった背景、つまりは大火を生んだ策略、騙し合いの醍醐味がサラッとしか描かれていないことで本作は台無し。三国志の内容を当然知っているという前提で映画は作られているらしいけれども、三国志ファンの観客であってもここは頭を振るだろうと思われました。

そして、あっという間に戦いは陸戦に突入。

前半同様、陸戦では様式美を加えた戦闘シーンに、さすがジョン・ウーだと思わせる作りで後半のメダマはここかと思うほど力が入れられていたように思うのだけれども、前半と同様の作戦では飽きるというもの。

多くの兵士と勇将らが命を落とすが、劉備サイドの猛将たち、つまりは三国志のヒーローたちが全然出番がないかのように冴えない。前半で曹操に命を助けられた関羽将軍が後半では曹操の命を助けるはずが、そういった流れになっていないため、前半のそのシーンは何の意味があったのか。
唯一第一部とつながるのはこの御仁だけかもしれない。エリートゆえに勇気と無謀、慎重さと臆病さの狭間で呻吟していた孫権と、

そんな兄と違って奔放なじゃじゃ馬の姫であるこちら。

曹操側の野営の陣地に潜入して敵情視察をやってのける姫だったが、戦争に参戦したくて仕方がなかったという姫も、戦争の何たるかを知る場面。
敵の陣地で知り合った貧しい農家の出の若者と友情めいたものを持ち、男のなりをしていた彼女を弟分として何かにつけてかばい可愛がる人のいい若者が登場する。

潜入し兵士として偽る詐術を後ろめたく感じる中で、何とか彼を救おうとするが、哀れ、この若者もまた多くの戦場での屍の中に加わることとなったとき、戦争の悲惨さを目の当たりにしたときの彼女の表情で、本作は一転して何か違うモノになっていく。
その頂点がこちらの御仁の表情。

人徳の篤い劉備の表情で監督は、戦争の悲惨さを語らせようとしたのだろうが、それがとってつけたような演出で違和感が残る。
三国志への思いが強すぎて、あれもこれも映画に盛り込もうとして全てが中途半端に終わってしまった。
エンターテイメントとして徹して欲しかった。



このツーショットで、本作のテーマはここにあったのだよとダメ押しするところで、ええ~っ、ここまでダメ押しするかと腹立たしくなりました.が、監督のパワーの衰えを一人感じて見終えた次第です。
本作がこの二人の絆においた映画にしたかったなら、彼らの才知比べが「表」なら、国家の運命を左右する重責を担う立場の男たちの孤独と勇断を下す強さと激しさと誇りゆえに友を求める思いも深い。そこが「裏」となる。
ならばこそ、軍師としてのプライドにきっちり焦点を当ててもらいたかった。つまり、大火を生んだ戦いの背景をスリリングにきっちり緊張感を持って描いてもらいたかったですね。
(出演者に関しては(第一部)でご紹介しているので省略し、スタッフのご紹介に関しても省略させていただきました。

それにしても、このツーショットを見て、映画『傷だらけの男たち』と重ね合わせてしまうのは、私だけかしら・・・

 


「シリアの花嫁」・・・(3)

2009年02月24日 | ◆サ行&ザ行

なかなかご覧になれない映画だろうと思いますので、映画の内容をできるだけたくさんの画像を交えてご紹介しております。

さて、国境に着いた花嫁一行。まずはイスラエル側でシリアに行くための事務手続きを取ります。

問題なくスタンプを押してもらって、まずは一安心。普通ならスタンプを押されたパスポート(?)を持参して花嫁本人がシリア側で手続きを取ればいい場面ですが、モナのパスポート(?)は国連管轄の事務官の女性が受け取ります。

イスラエルとシリアが領有を争っているゴラン高原なので、両国の和平のために駐留している国連が、いわばゴラン高原での出入りを管理しているわけです。



シリア側からの了解のスタンプをもらえば、花嫁はシリアに行けるのですが、シリア側の国境管理事務所では、思いがけないことが起こっていました。

イスラエル側で押されたスタンプが、昨日までのスタンプと違うと言い出したのです。驚いてもう一度確かめに戻る国連の管理事務所の女性は、イスラエル側にそのことを話しに戻ると、
その日赴任したばかりの官吏が言うには、今日からそのスタンプになったのだとの返事。何の問題もないという。

かくして、何の問題もないというイスラエル側でしたが、シリア側が問題としたのは、「このような変更は聞いていない」しかも、「ゴラン高原はシリア領土なのに、なぜイスラエルが”出国というスタンプを押すのか”という抗議で、事態は硬直していきます。

かくして時間はどんどん流れ、待っている家族には倒れる人間もでてきてしまう。

国境の向こうには、やっと花婿たち一行が到着。花婿と親戚一同を乗せたバスが途中で故障し、時間には遅れたものの花婿自ら修理して駆けつけた次第。

遠目ではあっても初めて結婚する相手と出会ったモナ・・・・
けれど、花嫁は境界線を越えられない。

それは、この期に及んで花嫁にとって、
自分の人生が決まらないことを意味します。 

緊迫した状況の中で、
イスラエルの官吏とシリア側の官吏の間を何度も往復して疲れ果てる国連の女性。実は、彼女もそこでの任務は今日で終わり。ましてや、花嫁の弟はかつての恋人でいい加減な奴だと思いきろうとしていた相手・・・・「手続きは後日改めてやればいい」という官吏の言葉に帰ろうとします。

それを、険しい表情で留める弟マルマン。

彼の真剣さに驚きつつも、もう一度掛け合うことになった女性。
イスラエルの役人は「もう勤務時間は終わりだから」ということで去ろうとしますが、家族は一歩も譲らないという気迫・・・・

家族の思いに打たれた役人は、「わたしにも子供がいるから、気持ちはわかる」と一度自分が押したスタンプの一部を修正液で消して協力することに。
喜びいさんでシリア側の事務所に向かうと、そこにいたのは先ほどまでの役人とは違う男。さっきまでいた官吏は、勤務時間が過ぎたので交代して帰ったとのこと。



せっかくイスラエル側が譲歩して問題の文言をスタンプからけしてくれたというのに、シリア側の新しい国境警備の役人は、「そんなことは聞いていない。こんな修正液で消したスタンプは無効だ」の一点張り。両国の緩衝地帯を管理する国連の事務官である女性は 、



何とかしてほしいとイスラエル側に再び戻ってくるのですが・・・
花嫁の国境越えにあまりに時間がかかっているので、
不安を感じ始める花婿の一行。

許可が下りないことを知り、シリアでは有名人である花婿は、国境の警備役人の上司である人間を飛び越えて大臣に直接電話をするよう促され、いきおい勇んで電話するのですが、

電話は空しく鳴るばかり・・・・
”上からの指示がなければ許可は出せない”の一点張りのシリア側に業を煮やして戻る国連の女性事務官を境界線の向こうで見守る花婿一行。



許可が下りないの。でも何とかしてみる・・・・
暗い顔の事務官と姉のアマル。

そんな様子を見つめながら、
モナは何かを思いつめた表情になります。

いまや何とかシリア側に行かせてやろうと思うイスラエル側の官吏もまた、上司に電話をして事態を打開する方法を訴えようとしますが、その頼みの電話も空しく鳴るばかりでした。

そうこうしている間に、
モナは一人境界線を越えて出て行きます。

予想外のモナの行動に、その後姿をただただ見守る兄弟たちと両親・・・・

モナの姿に一人胸に込み上げてくるもので、
いまにも叫びそうになる姉のアマル。その後ろには、いまや愛も信頼も持ちえていない別居中の夫・・・・・夫は妻であるアマルに、「男である俺の立場を分かってほしい。」と彼女に譲歩と従順を求めていたのです。

自分の人生を自ら歩みだした妹の姿を見て、
アマルはその場から走って離れるのでした。

花嫁モナは、もう一つの境界線を超えられるのかどうか。
それは、この映画のテーマではないのです。
国と国との諍い、シリア人でありながら不当に外国に占領された地で住み暮らす者たちの思いは決して一言では語れない。また、杓子定規な役人の対応はどこの国にもあることで、われわれ一般人というのは、そうした国家の意向を体現すべく行政官としての職務を遂行しているだけの役人に対して何の力も持ち得ないことが往々にしてあります。そんな八方塞の状況に立たされたときの、人間としてどう行動するのか・・・・
その行動を支えるものは何か。

映画は、希望という意味の名前を持った姉のアマルの自立の歩みで終わります。
「シリアの花嫁」(1)の冒頭でご紹介したように、ゴラン高原を越えてシリア側に嫁いだ花嫁の事をお伝えしましたが、その境界を越えたなら後戻りはできないということは、わたくしたちの人生においてもあることではないでしょうか。
そういう意味で、本作「シリアの花嫁」という映画は、イスラエルの不法領有を批判したり、シリア側の武力で持ってしてもどうにもならない国家の限界に思いを馳せさせるものでもなく、ましてや反戦映画ではなく人生への姿勢を静かに示す映画であると感じました。

 


「シリアの花嫁」・・・(2)

2009年02月18日 | ◆サ行&ザ行

「シリアの花嫁」(原題「The Syrian Bride」)

監督・共同脚本・プロデューサー :
エラン・リクリス(ERAN RIKLIS )
共同脚本 :
スハ・アラフ(SUHA ARRAF )
撮影監督:ミヒャエル・ヴィースヴェク(MICHAEL WIESWEG)



冒頭映し出される街並み。
瀟洒な家に住み暮らすシリア人一家の一日の夜明け。


(とても結婚式の朝の表情とは思えない。彼女は何を思っているのか・・・・ヒアム・アッバスのこの表情が、本作の導入です。

ベッドで目を見開いたまま、朝を迎える中年の女性。彼女は誰だろう、何を思い煩ってこうした表情なのか、と誰もが思います。
けれど、起床後、すべてをテキパキとこなしていく彼女アマラ(。(ヒアム・アッバス)は、その日結婚式を迎える花嫁の姉であり、母親以上に挙式の世話役だと分かります。
その一日をカメラマンがビデオに写し撮っていくのですが、なぜ?だろうと観ている側は思うのでは?



挙式の朝の家の様子、家族の様子、花嫁の美容院での表情、式に集まる近所の人たちや家族の様子、とにかく何でも映していくのですから。しかも、誰もノーとは言わない。
彼に録画された画面が、時折映画の中で、まるで永遠に留めるかのように白黒で映し出されます。



こんな風に白黒画面として捉えられた彼ら彼女たちの表情は、現実にせわしく進行している流れの中で記憶に留められていく瞬間・・・・・この花嫁モナ(クララ・フーリ)の表情もまた、とても今日結婚する女性のものとは思われない。洋服さえ変えたらまさに葬儀です。

そんな中で繰り返し登場するのが花婿となるこちらの男性。シリアのテレビ界で人気の俳優らしく、TVを通して彼が笑いかけたりふざけたりしている映像を花嫁が眺める場面が出てくるのですが、


(陽気なTVタレントタレルを演じているのは、ディラール・スリマン)

二人は実は直接会った事がありません。まるで日本の戦前の結婚みたいですが、これもゴラン高原の抱える現実。
テレビタレントとして人気の彼タレルは、局内でも女性たちに花嫁の写真を見せながら一人のろけていて、その花嫁が今日嫁ぐ女性モナだと分かるのですが、両者の表情とあまりの落差に驚かされます。
が、タレルを演じるディラール・スリマン(Derar Sliman )のこの陽気さと恰幅の良さが、だんだんと本作の救いになっていくような印象でした。

この町の住民たちは、



いたるところに設けられた境界線のあちらとこちらに分かれたまま、ハンドマイクで家族や親戚とこうやって連絡しあっているのです。

花嫁が姉と美容院から帰ると、
何やら家の中は緊迫した様子・・・・
黒服の長老派たちが集まっていて、



緊迫した空気・・・
何やら不満と怒りを表明する長老たち・・・・



苦渋の表情の父親ハメッッド。演じているのは、マクラム・J・フーリというアラブ系パレスティナ人ながら、イスラエルを代表する俳優。実に見事な味のある演技と存在感でした。
ここで、花嫁の父親は、政治的宗教的に難しい立場にいると分かります。話し合いは決裂し、長老たちは、娘の結婚の祝いの席には参列せずに席を立ちますが、

花嫁の父親がシリアとの国境線に向かうことにも猛反対して出ていきます。なぜ?と思ってしまいますが、その直後、姉のアマルが懸命に父親を説得します。



もう関わらないでと厳しい口調で語る長女アマル。今日は娘の結婚式なのだと訴えます。この会話で、父親が長きに渡って刑務所暮らしで不在だったことが分かるのですが、そうでなくても父親は現在もイスラエル当局の監察下にある、そんな立場らしい。
ここで、この家族の重い歴史が目に浮かんでくるような場面ですが、父親はいきなりここでシリアの大統領の写真を飾り始めます。

こうした家の中での挙式の準備が進行しているときに、場面は空港に。イタリア男みたいなイメージで登場した彼は、
今日は妹の結婚式なんだとご機嫌な感じですが・・・



なぜイタリアから来たのか。
イタリアで何をしていたのか。
どこに住んでいたのか。

ビジネスマンだと答えても入国審査でストップがかかります。
自分の両親たちのいる実家に帰るのが、ここではそう簡単ではないという現実がわかります。

その頃、タクシーで妹の結婚式にかけつける家族。
花嫁のもう一人の兄ですが、今日を最後に妹とは二度と会えないからと語り、ここに帰るのは8年ぶりと語る。
こちらはシリア側からの入国らしく、意外と簡単に入国できたようです。妻がロシア人でロシアからの入国だからでした。が、そのことが、イスラエル側に占領されている故郷では、歓迎されない。



それを心配そうに見守る後ろの座席の母と息子・・・
何やら複雑系の一家です。

その頃、花嫁は塞ぎこみ始め、その表情も暗い。



夫となるタレルと従兄弟同士にあたる姉のアマルは、実際に彼をよく知っているらしく、占領される以前はいっしょに遊んだ仲だと推察できます。彼女は、何が何でも妹を結婚させたいらしい。「心配しなくていいの。ここを出て幸せになるのよ」と語る。

花嫁である妹の挙式を懸命に執り行なう姉のアマルですが、彼女には年頃の娘がいて、ボーイフレンドと何やら話し合っている。どうも大学進学のことらしい・・・・



けれど、父親に激しく反対されて泣き出します。
反対の理由は、「本人に問題があるわけじゃない。問題はあいつの父親だ。父親はイスラエルの協力者なんだぞ。許すわけにはいかない」と怒鳴って去ります。



そんな娘を母親は「大丈夫よ。あなたの進みたい道に私が進ませてあげる」と言うのですが、どうやらアマルは夫とは別居中のようでうまくいっていないことが分かってきます。

アマルは一人家を出て、イスラエルの出入国を担当する官憲に面会に出かけ、娘の結婚式なのだから国境まで見送ることを許可してほしいと訴えます。もう二度と会えないのだから、花嫁の父親として許可して欲しいと。



しかしながら、話し合いは難航。

その頃、
長男夫婦が実家近くまで来たとき、タクシーの運転手は、巻き込まれるのはごめんだとばかりに彼らを家の近くで下ろします。



長男夫婦が実家への道を歩き始めると、
家の前ではデモが行われていました・・・・



ゴラン高原の町の人々の間に生まれている政治的な、当然宗教的な対立や亀裂が察せられますが、映画の中ではラジオやテレビからのニュースとして国境沿いのさまざまな諍いが報じられます。
そんなゴラン高原の郷里から出て行った長男ハテムにとって、
8年ぶりの家族との再会。


(長男を演じているのは、エヤド・シェティ。母親役は、マルレーン・バジャリという女優ですが、いかに厳しい状況に置かれていてもやっていく母親としての存在感、強さを感じさせていました)

よけいな話は何も無し。
8年ぶりの再会で万感迫る思いで抱擁する母と息子。
温厚ながら内面には強いものを宿しているこの長男ハテムを演じていたエヤド・シェティ(Eyad Sheery)、陽気な次男とは正反対のような性格ですが、家族愛はいずれも皆強く、それだけに後半の緊張感ある展開では、この家族が全員心を一つにしていく場面が実に深い感動を呼んでいるのだと思います。

姉と比べると母親の出番はそれほど大きくはありませんが、それだけにその表情だけで見せるあたり印象深いものがありましたが、マルレーン・バジャリ(Marlene Bajjali)という女優さんについては、イスラエル、フランス、ドイツのドラマに出演しているらしいとしか分かりません。彼女が、初めて会う長男の嫁が披露宴に集ってきた近所の御婦人たちから、ロシア女と結婚するなんて・・・という悪口が聞かれてくる中で、彼女の傍に行き、トマトの切り方を教えるシーン、美しかったですね。

こうして花嫁の結婚式の当日に、離れ離れとなっていた家族が集合してくるわけですが、父親は抱擁もしないどころか目を合わせることさえせず、長男の妻にも孫にも言葉一つかけないでいます。長男一家は、国境で見送ることさえ禁じられる。

やがて披露宴の準備で皆が忙しく立ち回る中、
一人、不安を隠そうとしない花嫁モナ・・・・

けれど、披露の祝いの席も終わり、
近所の人たちに挨拶をし、
いよいよ会った事もない男に嫁ぐために、
育った家を後にするモナ・・・

それぞれがそれぞれの思いを抱きながら、
姉アマルは父親の意向を無視して、長男ハテムの家族を車に乗せて遅れて出発します。

家族は、シリアとの国境に向かいますが、
国境を管理する官憲たちもまた、彼らの後を追うのでした。

(つづきは、(3)にてご紹介します)


「シリアの花嫁」・・・(1)

2009年02月17日 | ◆サ行&ザ行

去年の国際ニュースにあったゴラン高原のシリアの花嫁、http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2524129/3374321

この高原の街に住み暮らしていたイスラム教ドルーズ派の女性Arin Safadiさん(24歳)は、去年の秋に親戚筋のRabia Safadiさん(35歳)と結婚するため、停戦ライン上の国連軍の監視ポイントからシリア側に入ったとのこと。けれど、彼女は二度とイスラエルが統治する故郷にいる家族とは会えない・・・・

  
(これらの画像は、去年実際にあったゴラン高原での結婚の写真です)

まさに、本作『シリアの花嫁』は、
こうした現実を写し取った映画です。

映画は、モナという娘の結婚式の一日。
けれど、祝いの席上には花婿はそこにおらず、家族は何やらさまざまな事情を抱えているらしく、宗教上、あるいは政治上緊迫したシーンがさりげなく日常の一場面として淡々と描かれているだけに、音楽が止まったときにはドキリとさせれました。

モナの姉のアマルは彼女の結婚を心から祝っていて、
本人以上に熱心です。


(アマルとモナ)

本作は、結婚式を迎えた妹の一日を淡々と追っていきますが、何と言っても大活躍なのは、花嫁よりも姉のアマル。彼女を軸に一家のかかえる複雑な事情、兄弟姉妹の複雑な事情、彼女の子供たちとの関係などが描かれていくのですが、この複雑な役柄を演じているのが、イスラエルの国際派女優のヒアム・アッバスという女優でrす。
そして、嫁ぐ花嫁モナを演じているのは、クララ・フーリ。姉のアマルの動きの合間合間に微妙に揺れ動く心理状態を台詞ではなく表情で見せきっているので目が離せませんでした。
彼女たちの父親を演じるのは、クララの実父でもあり、イスラエルを代表するマクラム・J・フーリという名優です。

ゴラン高原に住む人たちの置かれている政治的立場、その問題を登場人物たちそれぞれに背負わせて展開される本作は、登場人物達の政治的な背景を通してゴラン高原が抱える政治的な問題に目を向ければ、個々人の運命を狂わす政治というテーマに行くつくが、政治的な背景を抱えさせた家族の個々に焦点を合わせれば、本作は、自分の運命を決めるのはあくまでも個々の意志であるという命題に行き着くでしょうか。



この映画は、2004年のモントリオール世界映画祭でグランプリ・観客賞・国際批評家連盟賞・エキュメニカル賞という4つの栄誉ある賞を受賞し、同年のロカルノ国際映画祭でも観客賞を受賞した映画である。世界中の観客の圧倒的な支持を得て10以上もの賞を受賞した映画なのに、それでも、現実の政治課題を解決する力にはなりえないのだという感想を抱かされました。



では、つぎのブログで、
作品そのもののご紹介をさせていただきますね。

 


「The Stranger」(「Orson Welles in srtanger」)

2008年12月03日 | ◆サ行&ザ行

生前、俳優ではオーソン・ウェルズが一番好きと語っていた女友達のバースディに、彼女を偲んで見ることにした映画でした。白黒の陰影に登場人物の心理を重ね、観る側を画面に釘付けにするあの印象的な白黒の陰影の芸術的映像は、本作でもいろいろと試みられていて、ああ、オーソン・ウェルズは天才肌ながら努力と研鑽の人だったのだと改めて思った次第です。彼女は、男性としてのオーソン・ウェルズのどこに惹かれてやまなかったのだろうと思っていたとき、そういえば、生前の彼女、リタ・ヘイワースに似ていたと思い出されました。男と女のことは、当人同士にしか分からないものがある・・・・・ということかもしれませんね。

【お知らせ】

すみません。操作ミスでこの映画の画像がPCから削除されてしまいました。なので、またこの映画を見た折に感想をアップさせていただくことにしました。楽しみにしていて下さった方には、この場をお借りしてお詫び致します。アップの折は、画像てんこ盛りでご紹介したいと思いますので、お許しくださいね。

   12月3日                        月光院璋子

 

それまで、こちらをお楽しみください。


「The Stragers」

2008年12月03日 | ◆サ行&ザ行

これ、恋愛映画ではありません。


(プロポーズのシーン。恋人からのプロポーズをリブ・タイラー演じるクリスティンは、なぜか断ります。なので、後に登場する犯人との関係をここでちょっと深読みをしてしまいそうになりますが、それは無関係です)

映画の最初のこのシーンを見る限りでは、
見間違うのも無理はないのですが、


(クリスティンの恋人ジェイムズ役のスコット・スピードマン。ここでも映画『死ぬまでにしたい10のこと』での夫同様に、≪死ぬまで≫やさしい青年を演じていました)

スコット・スピードマン(Scott Speedman)もホラー映画というイメージではないけれど、れっきとしたホラー映画です。

★ご参考までに。http://www.thestrangersmovie.com/

が、

ただのホラー映画ではないところが、
この映画の見所かもしれません。
本年公開の、ブライアン・ベルチノ(Bryan Bertino)という監督の映画ですが、知らない監督なので、どういう作品を撮りたかったのかと、作品を通して考えてみました。



ホラー映画をよくご覧になっていらっしゃる方からすると、おそらく本作は、B級ホラー映画クラスとして位置づけられるのではないかと思われるほど、展開そのものはホラー映画としてはありふれた展開なのですが、



それでも、見終えてしまったのは、
実話に基づいた映画という救いのなさではなく、
ひとえに音楽に誘い込まれてしまったせいかもしれません。
音楽を担当したのは誰かと思うほど、
効果音が絶妙で選曲された音楽もなかなかでした。
観終えたときに、恐怖とは無関係の映画の中で流された音楽が鳴り響いていたくらいでした。

物語は、冒頭の二人が結婚披露宴のパーティ会場でプロポーズして断られた後に、二人が重苦しい空気のまま車でいっしょに彼の別荘に出向いた、その夜の出来事。
煙草が切れたために車で買いに出掛けた後の別荘で、
クリスティンは、結婚指輪を嵌めてみるのですが、この指輪が外れなくなるシーン・・・・実に象徴的です。



リヴ・タイラー(Liv Tyler)は、ますますお顔が長くなったような気がしましたが、このヘアースタイルのせいでしょうか。
ホラー映画に出そうに思われない彼女を起用したのは、実はこの映画が愛を考えさせる内容になっているからでしょう。
無論、彼女を主演にしているので、
以下のような入浴シーンでファンサーヴィスをしています。

恋人から「君しか考えられない」と言われるほど愛されてプロポーズされたクリスティンですが、恋人からのプロポーズを断った理由は、「いまのままでいたい」「まだ結婚する心の準備ができていないから」というもの。 つまり、「愛のモラトリアム」ですね。
この後二人を襲う「信じられない出来事」がなければ、彼女はずっと「愛のモラトリアム」を維持したままだったかもしれない。

そう、この映画は、愛にモラトリアムなどないというメッセージを持っているのだと思った瞬間、映画の冒頭のシーンが意味を持ってきました。「このままがいい」という自由人クリスティンでしたが、恐怖の中で泣いて恋人にすがりつくだけの女性に変貌していくのですよね。

このマスクが何とも・・・・



「なぜ、こんなことをするの」と問われても、
お面をしたまま返事をしない若者たち。

世の中には、不条理なことが氾濫しているというのに、そして、人生もまた実に不条理なものだというのに。だからこそ、一瞬一瞬を大事に生きていかねばならない。ましてや愛する人との関係を「今のままの方が気楽でいいからこのままでいたい」という「愛のモラトリアム」などやっていたらどうなるか。

本作では、そのクリスティンが、
ラストで「意志を持った女性」に変貌します。



彼女の指に嵌められていた指輪に気づいたジェイムズに対し、ここで初めて、「永遠の愛」を誓うのです。もう遅い!と言うなかれ。こうしたことでもなければ、彼女は気づかなかったかもしれないのですから。モラトリアム女からパニック女へと変貌し、今わの際で意志を持った女性に変貌していく・・・・・実話とはいえ、その実話から創り出した本作『The Strangers』での恐怖は、彼女の変貌を覆い隠すトリックのように思われるほど。彼女自身、この惨劇の只中で見知らぬ自己と遭遇することになるのですから。
うがった見方をするなら、この『The Strangers』は二重の意味があるのかもしれませんね。

ただのホラー映画ではないというのは、そういう意味。展開を見ると、監督は愛との向き合い方を問うという隠されたメッセージを持っていたのだろうと思えてきます。
ソンなことはしたくないという意味で結婚に慎重な現代女性たちに、監督は、「それでいいのか?」と突きつけたかったのかもしれませんね。いわば、女性向けのホラー映画を作りたかったのかなと。


本作では、そうした愛を問いかける隠されたテーマがあるためか、起用された俳優もこちらのように優男ばかり・・・・それが、他とはテイストの異なるホラー映画にしていたように思います。
 

(グレン・ハワートンもホラー映画に出るようなイメージの俳優じゃないと思うのですけれど・・・・・)

ホラー映画じゃなければ、このジェイムズの親友マイクが別荘にやってきた時点で、別の展開もあったでしょうが、恐怖と愛を並べているために好青年を演じていたグレン・ハワートン(Glenn Howerton)も、あっという間に無残な死に方をしてしまいます。

ところで、
映画のラストで、
犯人たちが乗った車とすれ違う二人の少年ですが、



車から降りてきた犯人の女性に請われて、
聖書のパンフレットを渡すところ、
ここも、意味深でしたけれど・・・・



何より不気味で怖いと感じたのは、
別荘での惨劇以上に、実は、
この少年の表情でした。

普通、これだけ惨い遺体を、
こうやって傍にたたずんで
一人でじ~っと眺めたりしないでしょ!!

蛇足ながら、本作の邦題は、ただのホラー映画でいいのなら、カタカナの『ストレンジャー』よりも『見知らぬ訪問者』というオーソドックスなタイトルの方が良かったように思いました。


 


「禅 ZEN 」

2008年12月02日 | ◆サ行&ザ行

先行上映会にお誘いいただいたので、
迷わず行くことにしました。



監督高橋伴明、主演は中村勘太郎他。
藤原竜也が一人浮いていないかちょっと心配なキャスティングですけれど、主演の中村勘太郎と内田有紀の脇を固めているのが哀川翔や勝村政信のほかに笹野高史や高橋恵子など。
この顔ぶれを見ただけで硬派なイメージがします。


(若き道元を演じるのは、中村勘太郎)

やっと「道元」の映画が制作されたのかと思うと、
個人的にとても感慨深いものがありますが・・・
果たしでどんな映画になっているのか。
不安な思いもあります。

でも、とてもときめいています。
楽しみ!

 

 


「戦場の勇者たち」(原題「Home of the Brave」)

2008年12月02日 | ◆サ行&ザ行

2006年制作(2008年公開)
監督 アーウィン・ウィンクラー

アーウィン・ウィンクラー監督が撮ったイラク戦争帰還兵の物語と聞いただけで、いまは遠慮しておこうと思った映画、
その『戦場の勇者たち』(『Home of the Brave』)をwowowで観ました。そろそろ観てもいいかなという気持ちになったのは、12月といえば脳裏をかすめる真珠湾攻撃の8日のことを、たまたま昨日思ったせいかもしれません・・・・

アメリカという国のあり方、志願兵制度ゆえの兵士供給のシステムも含めてこの国の特質を随所で考えさせられる映画です。
音楽同様にとても静かな映画ですが、冗長なところがない展開で緊張感がいい意味で持続して観終えることができました。音楽は、スティーブン・エンデルマン (Stephen Endelman)です。監督の全作品と同じスタッフなんですね。


(主演の一人は、軍医役のサミュエル・L・ジャクソン)

サミュエル・L・ジャクソン(Samuel Leroy Jackson)が演じている軍医として従軍した医師が、帰還した後に勤務先の病院で手術執刀中に集中できなくなったシーンが印象的でした。
何事もなく暮らしに復帰できるタイプに思われただけに、平和な日常生活、家族生活に溶け込んでいけなくなる帰還兵をじっくりと演じていました。
その妻役の黒人女優(名前を失念)も実に良かったですし、父親の従軍がきっかけでイラク戦争のことを考えるようになった高校生の息子、思春期ゆえの難しさを抱える「この戦争には正義はない」「石油のための戦争だ」「この国はいつからこんな傲慢な国になったんだ」と語る高校生の息子、反戦主義となる表情はもなかなか良かった。


(ジェシカ・ビール)

女性兵士はいまや珍しいものではなくなったけれど、帰国直前に医療物資を届ける輸送車両に乗っているときに攻撃され、破裂した爆弾で重症を負い左手を失った女性兵士を演じていたジェシカ・ビールも好演していたと思います。
メグ・ライアンのときのように人気先行で配したばかりに失敗作で終わってしまった戦争映画と違って、本作で彼女を起用しているのは成功だと思いました。
搬送された陸軍病院には重症を負って入院している兵士たちがたくさんいて、命が助かっただけでも運が良く、さらに言えば、片手だけを失うだけで済んだのはさらに幸運だと言われても・・・・・
小さな子供を育て世話をするにも家事をするにも、失われた片手の痛みは、彼女の心の痛みを増すばかり。普通の暮らしに馴染めない帰還兵士の傷ついて病んだ心は、同じ体験をした人たちじゃないと分かり合えないに違いない。そのやるせない思いがとてもよく伝わりました。わたくしには、その精神状態は想像するしかできませんが・・・

そして、イラクに出向いた兵士たちの家族や友人や恋人たちもまた、多くの苦しみを背負うのですね。そんな国内に残った側の一人として、 

帰国直前に戦死した青年の恋人役として出演していたクリスティーナ・リッチ(Christina Ricci)、映画『耳に残るは君の歌声』(『The Man Who Cried』)のスージー役がいつまでも鮮烈な彼女ですが、本作ではほんの少しの出番ながら、戦死した恋人の遺品を彼の親友といっしょに手に取るシーンでの抑制した表情がとても印象的でした。

 

ブライアン・プレスリー(Brian Presley)も帰還兵の一人を好演していますが、彼の場合、帰還した後に復職しようとしたらすでに後釜がいて失職。市民にとって、戦地に行って戦って帰国した兵士たちの存在は、国家の名誉や誇りや崇高な使命を果たしてきた若者でも何でもないという場面。アメリカにとって帰還した若者兵士は、無職の若者に過ぎないかのようです。帰還兵におけるこうした再就職の問題なども実に深刻な問題なのですね。これでは星条旗が空しく感じられてならないのではないかと・・・・そういう瞬間が何度も出てきます。仕事を失っただけではなく、子供のときから兄弟のように育ってきた親友を目の前で亡くしている喪失感に、彼もまた精神を病み、それを乗り越えるために軍隊に戻っていく、そういう若者を演じていますが、こうした若者は少なくないのではないかと思われました。戦地で助けを求めている仲間がいる以上、そこに戻ることで人生を再構築していく・・・・その道を悩んだ挙句に選んでいく帰還兵の若者たち。
けれど、戦争の後遺症で日常生活を普通に営めなくなってしまう若者もいる。精神的に傷ついて助けを求めているけれど、恋人はその負担に耐えかねて去っていく。それを追って人生を破綻させる若者を演じていたのはが、こちらのカーティス・ジャクソンです。

 

カーティス・ジャクソン(Curtis Jackson )も、戦闘中に間違って撃ち殺してしまったイラクの一般市民の女性の亡くなったときの姿にずっと悩まされ、カウンセリングを受けても苛立ちが治まらない・・・
そんな若者を迫真の演技で演じていましたが、本人にとってはかなり辛い役だったのではないかと思えるほど真に迫っていました。

映画としては、キャスティングが演出同様に実に丁寧だったように思われ、それが本作を印象深い戦争映画にしているように思われました。

観終えた感想としては、
8000名を超える死者を出したイラク戦争の是非以上に、戦争を人類はいまだに克服できていないという現実ですね。
いつの時代も、「お前は迷い、俺は重症を負い、あいつは死んだ。これが戦争か」と映画ラストに無冠の名優リチャード・バートン(Richard Burton)言わしめた『The Longest Day』でしたが、あの戦争で人類は戦争というものに懲りたかと思えば以後もまったく懲りなかったように、戦争は人類ある限り続くものなのでしょう。

そうだとするなら、名もない兵士として従軍し帰還したアメリカの一般市民たちを迎える現実、「イラク症候群」の現実に対して、アメリカ大統領たる人物は、やはり、この戦争の意味と目的に対する説明責任と、帰国後の生活や人生をフォローすべき責任があると感じますね。

マキュアベリの、「戦争はいつでも始められるが、思うように終えるのは難しい」という言葉がラストに字幕で流されていましたが・・・・世界のトップリーダーには肝に命じてもらいたいです。

★ご参考までに。
  ↓
http://www.nikkatsu.com/yusha/

冒頭の戦闘シーンは、実にリアルで、感傷のない映像だったです。音(音楽)を消してご覧になるとその凄さが分かります。


 


「サイコハウス」

2008年11月28日 | ◆サ行&ザ行

これも観よう観ようと思いながらそのままになっていた映画の1本です。ラッセル・マルケイ監督が撮ったということで期待していましたが、内容的にはこれはもう間違いなく『揺りかごを揺らす手』の亜流サスペンスで、両方をご覧になった方が驚愕するかもしれません。ですが、それでも最後まで飽きさせることなく観ることができたのは、ラッセル・マルケイ流の映像の魅力。
そして、主人公のベビーシッターのアビー役の女優に興味を抱いたことと、アビーの精神状態は普通ではないけれど、サイコパスの犯罪と言えるような連続殺人を犯していく背景に、彼女の母親が精神異常患者だったということ以上に、彼女アビーが少女時代に受けた虐待が挿入されていたからだろうと思います。

周囲の誰もが親しみや信頼を寄せていくようなベビーシッターが、誰も見ていないところではヒステリー症状となって表情が一変したり、次の瞬間には殺人を何とも思わずに犯していくところはサイコと言えばサイコなのですが・・・・・、思い込みの異常さは、パラノイアといった方がいいような印象です。
そして「彼の妻の座を手に入れる」という最大の目的があってベビーシッターとして入り込んでくるところ、その理由が明らかにされるのはラストにおいてでしたが、日常生活での家事能力の高さや子供たちの世話をする能力、家庭学習を手伝ったり、ちゃんと躾をしたりコミュニケーション能力も高い。そうしたすべてが計算によるものだとしても、好きでもない相手から言い寄られたときの対応は普通の女性と同じだし、誰にも見られないように注意深く殺人を犯すところなどは、相当クールで慎重。相当自己抑制が働いてはいるけれど、異常な程の自己抑制とも思われない生活。ヒステリー症状を呈するのは、お目当ての男性が妻に愛情を示すときだけ。これって、サイコなのだろうかと。
少女時代の虐待のトラウマを抱えながら成人し、いつしかパラノイアという病気を抱えてしまった女性ということなら、サイコって言わないんじゃないかしら・・・・精神病理学的な知識がないので何とも言えないけれど、そんなことを思いながら見ちゃいました。

ラッセル・マルケイ監督は、『バイオハザード3』や『スコーピオン・キング2』といった近作で名前が挙がっていますが、個人的には、好きな俳優でもあるクリストファー・ランバート主演の『ハイランダー』シリーズが好きな作品です。

さて、そのアビーが射止めようという一大決心をしたお相手の弁護士を演じているのは、ウィリアム・R・モーゼス(William・R・Mosese)という俳優です。


(このウィリアム・R・モーゼス、誰かに似ているなァと思ってみていたのですが・・・・・思い出したら、「他人の空似」シリーズにアップしますね。)

妻を愛し仕事復帰をする妻を応援しようとしている夫、子煩悩で仕事を口実に育児から逃げる多くの男性と違って実に家庭的。孤独で男性不審のサイコ女性の心を奪ってしまった理由も、そういったところにありそうで、そんな家庭人としての男性像を好演していました。 

そんな理解のある優しい夫を持った妻に扮するのは、
こちらのゲイル・オグラディ(Gail O'Grady)という女優です。


(2007年制作のこの映画のときは44歳。かなり貫禄がついてきたゲイル・オグラディ)

本作ではかなり小太りになっていましたが、そうした容姿も二人の小学生の子供を持つち、それまで専業主婦として育児と家事とご近所づきあいに明け暮れてきた女性像としてはぴったりかもしれません。そろそろ生きがいだった仕事に復帰したいと考えるやり手の母親役が細身では違和感があったかも。

子供たちがなつき主婦の仕事をほとんど受け持つようになったアビーの存在を、やがて脅威に感じつつも、不安を隠し仕事や仕事の付き合いで育児に割く時間が取れなくなった生活を前向きに考える母親像を好演していました。

そして、このやがてサイコハウスと化す一家にとって、
家族同様になったベビーシッターのアビーを好演していたのが、
こちらのマリアナ・クラヴェーノ(Mariana Klaveno)という女優です。

このマリアナ・クラヴェーノ、
なかなか凄みはありました!



ホラーサスペンス向きというわけじゃないお顔なのですが、
本作では凄まじく怖い人間を演じてみせてくれ、
今後が楽しみだなァと思っています。

カーティス・ハンソン監督の「ゆりかごを揺らす手」が未見の方は、こちらをご覧になってから「ゆりかごを揺らす手」をご覧になるのも面白いかもしれません。個人的には、「ゆりかごを揺らす手」で妻役を演じたアナベル・シオラよりも、本作での妻役のゲイル・オグラディに好感を持ちましたし、「ゆりかごを揺らす手」でベビーシッターとして入り込んで復讐劇を繰り広げる女性を演じたレベッカ・デモ-ネイは、むしろ妻役の方が面白かったと思っているので、そういうヴァージョンがあったら面白いですね♪

ちなみに、
こちらがレベッカ・デモ-ネイです。

いかに怖い表情がぴったりでも、
こんなゴージャスなベビーシッターなんて、
いないですもんね。