子曰く、黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何かわれにあらんや。(述而)
(しいわく、もくしてこれをしるし、まなびていとわず、ひとをおしえてうまず。なにかわれにあらんや。)
訳)○先生はおっしゃった。沈黙の中に思索し、学ぶことに励み、それを人にあくことなく教え続ける。わたしはこういうのがすきだな。これがわたしってものなんだろう。
自分というものが何なのかと考えるとき、やってきたことのすべてを振り返ってみて、なんとなく、こういうのがすきだな、幸せだなってことをやっている。それがわかると、ほう、これが私か。私って言う人間は、なんとまあ、苦しいな。いいやつじゃないか。そんなことを思ったりします。孔子も、たびたびそんなことを思ったのでしょう。
思索し、学び、教える。わたしはそれが好きな人間だ。それをすると、苦しくない。やっていること自体が、かなりに、悪くない。少々きついこともたびたびあるが、これがあるだけで、わたしはなんとかやっていける。そういうもの。
それがわかっていると、辛いことがいくらあっても、笑ってやっていける。そういうものがある。これがわかれば、人間は幸せだというもの。
自分とは、こういうものだね、というもの。
孔子はそれをつかんでいたんでしょう。わたしはこういうわたしだ。ずいぶんと変わっているが、なかなかにいい。けっこう幸せだが、少し痛いのは、そんなわたしがだれなのか、常にわからないからだ。
私はいいやつだ。けっこう幸せだ。だが少し痛い。それは何で痛いのか、わからないからだ。だからこそ常にやっていく。自分が自分であるだけで幸せだということが、いったいなぜなのか、たぶん誰にも、永遠にわからないから。
だけどとにかく、わたしは考えるよ。そして学んでいく。たくさん学んで、いっぱいみんなに教えていく。真実を教えれば、みんなよくなる。みんな幸せになる。それはとてもいい。わたしはそういうものだ。
きっと、これからもずっとこうしていくだろう。常に考え、常に学んでいく。そして教えていく。なぜならわたしは、愛してるから。
愛だからこそ、わたしはやっていく。