子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿ながし。(雍也)
(しいわく、ちしゃはみずをたのしみ、じんしゃはやまをたのしむ。ちしゃはうごき、じんしゃはしずかなり。ちしゃはたのしみ、じんしゃはいのちながし。)
訳)○先生はおっしゃった。知者は流れる水を楽しみ、仁者は山を好む。知者は常に活動し、仁者は静かにそこにいる。知者は己を楽しみ、仁者はすべてを喜んで生きる。
難しいことばですが、知者とは要するに「やる者」、仁者とは「愛する者」のことだと解しています。知者は己の力をすべて駆使してあらゆることをし、その己の力と存在感すべてを楽しむ。あらゆることができ、あらゆることをし、それですべてをなめらかに動かしていく。美しい世界を営々と運んでいる、その己のすばらしさを感じることそのものが、うれしい。
流れる水のように美しく、常に動いている。動いているからこそ美しい。それが、うるわしい知者というもの。彼は、必ず、「できる者」。やれば必ずなせる者。すばらしい人。
仁者とは、「愛する者」。知者のように常には動かない。すべてを見て、すべてのすばらしさを感じ、すべてを喜ぶ。彼が山を好むのは、その深い緑に静かな愛があるのを、深く感じるからです。山のすべてが静かに愛しているということを、心の奥深くで、わかっているからなのです。仁者はやさしく、すべてを認めていく。悲しみも、苦しみも、人間の中の小さなうごめきのすべてに、やさしく目を注ぐ。そして静かに見ている。見えないところで、やさしいが大切なことをしている。
愛しているよと、ほほえみで答えていく。だから仁者のそばにいくと、人は荒れていた心が穏やかになっていくのを感じる。悲しみが澄んで、どこかに流れていくような気がする。
仁者はただ静かにそこにいるだけで、すべてを改めていく。そういうもの。本当に大切なことをしていながら、何も言わずに、そっとひいて、なんでもないもののようにそこにいる。長いこといる。ただそれだけなのに。幸せだなと、みながなんとなく感じている。
なんでもないことばのようですが、深い意味があります。孔子は、ほんとうに、深い真実がわかっていた。ただ当時の人には、理解しがたかっただけなのでしょう。