子曰く、君子は食飽くことを求むるなく、居安きことを求むるなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。(学而)
訳)○先生はおっしゃった。君子は美食を求めることはなく、いい家に住みたいとも思わない。やるべきことはきちんとやり、言葉をつつしみ、よいことをよい先生に学んで、未熟なところを正していく。これが、人生を学んでいくものの、よい態度といえるでしょう。
これは、正直、あまりにも当たり前なことを、すんなりと言ってるものですが、これを、立派に自分のことばとして言って、耐えられる人は、滅多にいないでしょう。
今の人間はみんな、おいしいものばかり食べて、贅沢な家に住むという生活ばかり目指しています。それが手に入れば、あとはなんでもいい。暇にあかして、人にはあまり言えないこともやる。要するに、ほしいものを手に入れてしまえば、なんと、あとはなにもすることがない。なにもなくなってしまった。という状況になる。本当にそうなる。
安楽ばかりを目指して、あらゆることをやりながら、それを手にいれてきたが、いざ手にいれてみれば、これがそうなのか、という現実を見る。自分とは何なのだ。これが幸福なのか。何もすることがない。何もない。あふれるほどにものがあるが、なんでこんなに苦しいのか。苦しさのあまり、やってしまうことが、あまりにも人間として、つらいことだ。自分はなんというものになってしまったのか。わからなくなる。
本当の人間の生き方とは、どんなものなのか。美食と、いい家を手にいれて、それで幸せならば、なぜこんなにも苦しいのか。それは、もう何もやることがないのに、まだ生きているからだ。どうすればいいのかわからないのに、教えてくれる人はいない。なぜなら、美食といい家を手にいれるために、払ったものの中に、それも入っていたから。大切なものをまとめてお金に換え、食べ物と家を買うために払ってしまったから。
だから、あらゆるものがあるのに、なにもない。だから、なにかを手に入れるために、苦しいことの限りをつくす。あらゆることをやってしまう。阿呆に阿呆を重ねる。それをやれば苦しくなりすぎるのに、やめられない。失ってしまったものがどんなものだったのかを、決して認めたくないから。世界中のすべてのよいもの、美しいものを攻撃し、壊し尽くして、無意味のガラクタだらけにしていくのは、このためだ。人間は、おいしいものを食べ、きれいな服をきて、立派な家に帰る。そして、割れた心がいつも叫んでいる。みんな大嫌いだ。消えてしまえ。
孔子は言います。ほんとうの幸福は、常に美しい自分でいることだと。美しいことをし、常に学び、心豊かになっていくことを喜ぶ。真に教養ある人間を目指していくことだと。
それは当たり前のことですが、今の世では、流行らない骨董品、になります。常に揶揄や侮蔑の対象になる。あんなのは、阿呆みたいだ。ずるくやってうまくやればいいのに、まじめにやってるよ、というくらいに。
まじめにまっすぐやるのが、ほんとうはいいんですが、今の世界でそれをやろうとするのは、至難の業です。ほんとうに苦しい。
でもやっぱり、わたしは孔子が好きだな。阿呆だといわれようが、やっぱりこっちでいきます。苦しいことは山ほどあるけれど、自分が好きだ、と思える。わたしは幸福だ。