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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

聖母子と聖ヨハネと天使

2014-04-10 03:12:58 | 虹のコレクション・本館
No,115
サンドロ・ボッティチェリ、「聖母子と聖ヨハネと天使」部分、15世紀イタリア、初期ルネサンス、フィレンツェ派。

これはまたかわいらしいのを見つけた。
見て気づくかね。これは、真実の天使にそっくりだ。ヴィーナスよりも、こっちが似ている。

彼はこういう雰囲気なんだよ。これが男なんだ。信じられるかね。
いるんだよ、まれに、こういうのが。

今のかのじょも、この雰囲気に似ているよ。かわいいなどというものではない。実像はもっと美しいがね、これを頼りに、かのじょの姿を想像してみるがいい。

ボッティチェリはいい仕事をしている。彼の仕事を発掘すれば、またおもしろいものが見つかるかもしれない。

本当の芸術作品というのは、理屈ではない愛の流れにのっている。ゆえに、時にこういう奇跡的な出会いがあるんだよ。まさかという感じで、おもしろいものがある。

あなたがたも、いろいろと探してみたまえ。ほんものの芸術は、人間の魂を時に不思議な高みに導いていく。

この作品との出会いは、貴重だね。




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岐路に立つヘラクレス

2014-04-09 04:06:21 | 虹のコレクション・本館
No,114
アンニーバレ・カラッチ、「岐路に立つヘラクレス」、16世紀イタリア、バロック。

またヘラクレスの絵を探した。好きなのでね、追いかけたくなるのだ。不満なのは、どの画家もこの英雄を武骨に描きすぎていることだね。もう少し美しく描いてほしいものだが、そこらへんに、こういう男に対する、男の歪んだ心があるんだろう。

これはヘラクレスの神話の中の印象的なエピソードを描いたものだ。ある日ヘラクレスが自分の今後の道に悩んでいると、目の前に美徳の女神と悪徳の女神が現れた。悪徳は彼を快楽の道に誘った。ものごとは深く考えずにわたしと人生を楽しみましょう、と悪徳は彼に甘くささやく。しかし美徳は彼に言った。その女の言葉に耳を貸してはいけません。わたしとともに苦難の道に進みなさい。それがあなたの真実を求める道です。

ヘラクレスは、悪徳を退け、美徳の裾にすがりつき、そしてあえて苦難の道を進んだという。まあ、結構有名な話だ。

こういうことは、人生でよくあるね。自分をごまかして楽な道を行くか、苦しくても真の道をいくか。ここで間違えて、結局は不幸になる人間は多い。

実際、岐路に立つ人間というのは、弱い。美徳が指し示す道には、絶望の暗雲が立ち込めているように見える。つらいことばかりがある。だがここで、勇をふるい起こせないようなら、男ではない。

本当の幸福とは、苦難の道を駆け抜けて、勝ち得ることのできる、自分の真実の美なのだ。それを求める奴は、苦しいほど、いいやつさ。

ヘラクレスを馬鹿にするなら、同じことをやってみろ。

女の群れに隠れて、勝負から逃げるようなやつは、威張るのではない。



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生命の天使

2014-04-07 03:56:21 | 虹のコレクション・本館
No,113
ジョヴァンニ・セガンティーニ、「生命の天使」、19世紀イタリア、点描主義、象徴主義。

これは可憐な女性像である。聖母のような図だが、絵の中の女性は天使のようだね。かのじょを思い出す。

この画家は、女性の魂を描いてはいるが、それを硬い膜一枚の向こうから見ているようだ。一種、テレビ画面の写っている女性を描いているような風がある。

美しいが、恋をしてはいけないということを、感じているようだ。画家は、女性に対し、一種の恐怖を感じている。これもまた男の、女性に対する接し方の一種だろう。

女性を美しいとは感じているが、決して近づいてはいかない。魂を侵されるような気がするからだ。男の精神世界には、こんなふうな、女性存在に対する恐怖もある。

大概の男は、ここを馬鹿にして、男がずっと偉いことにして、腕力と権力でねじ伏せようとするのだがね、彼にはそれができないようだ。

女性に対する接し方は、まるで幼児のようだよ。美しいが、淋しい。

女性もこんな風には扱ってほしくないだろう。もっと気楽に話しかけてくればいいのに。そうしたら、やさしくできるのに。

子供を抱いている少女は、きっと子供の母ではない。画家の、おぼろな恋心のわずかな表現を抱き締めてくれる、まぼろしの乙女だ。

かわいいが、切ないね。




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アポロとダフネ

2014-04-06 04:07:50 | 虹のコレクション・本館
No,112
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス、「アポロとダフネ」、20世紀イギリス、ラファエル前派。

これは最も下手な画家である。見てわかるやつもいるだろう。

技術はたいそう高いが、内容のレベルが低すぎる。教養を積んでいない。人生経験もそう厚くない。神話に対する読み込みが浅い。表現している感情のレベルが低い。構図も陳腐だ。

アポロとダフネの神話を描いている絵はたくさんあるがね、ポライウォーロやプッサンの絵と比べてみるがいい。アポロやダフネの表情に違いがあるはずである。

愛する女を失う男の凍りつくような表情。男への愛を残しながら絶望に消えて行く女の顔。一度でも、深く誰かを愛したことがあるなら、そういう顔が描けるものだが。

これはただ、神話の物語の形だけを、美しく描いただけだ。だから見て何も感じない。ただ、男をいやがって逃げている女の表情に、もてない男の現実を垣間見ることはできる。
ウォーターハウスは、女性のこんな顔を見ることが多かったのかもしれないね。

アポロは太陽神だが、要するに自分が世界の真ん中にいると思い込んでいる幼児的な男のことだよ。だれよりも自分は偉いと思っている。だが、そういうアポロの好きな女は、野原で遊んでいるお転婆なニンフのダフネなのだ。どんな美しい女神よりも、あの小さなニンフのほうが、彼は好きだったのさ。

乱暴なことをしないで、やさしくすればよかったのに。逃げて行くダフネをいじめることしかできなかった男の愚かさを、この神話に読んでみたまえ。そうするともっとましな絵ができる。

うまく描くだけなら、どんな馬鹿にもできる。見ることができる絵を描くのが、画家というものだ。




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マリー・アントワネット

2014-04-05 04:36:31 | 虹のコレクション・本館
No,111
エリザベト・ヴィジェ・ルブラン、「マリー・アントワネット」、18世紀フランス、新古典主義。

ここでこの有名な女性についても書いておこうか。
ずいぶんとかわいらしい女性だが、一国の王妃とは思えないね。贅沢な衣服だが、少々趣味が悪い。売出し中の若手の女優と言った感じだ。

この美人はもちろん、偽物である。他人からいろいろなものを盗んで、格の高い女性になろうとした結果、とんでもないことになったという、女性にとっては、もっとも悲しい例だよ。

これに比べたら、ポンパドゥールはまだましだ。つらいことにはなったが、まさかということにはならなかった。

パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない、などという有名な言葉があるが、馬鹿がいいそうなことだ。何もわかってはいない。本当に、勉強もせずに、えらくなりたいと思ってずるをやり放題にやったら、こういうことになったという、あきれるほど馬鹿な例だよ。

阿呆が、ただいいものになりたいという欲だけであらゆることをやったら、とんでもない歴史の転換点に立ってしまい、あらゆることが降りかかってきたのだ。

実に、民主主義というものを美化することにおいて、この女性は多大な貢献をした。これが相当なことになった。

歴史上に有名な美人と言うのには、けっこうこういうのが多い。ダイアナ・スペンサーのような本物の美女が、大きくなれるということは、めったにないんだよ。

実に、クレオパトラも楊貴妃も偽物なんだ。みな、虚栄心にとらわれて、格の高い美女になろうとした女の馬鹿だよ。女の馬鹿がやったことが、とんでもないことを引き起こすという例だ。

マリー・アントワネットは、その中で最も悲劇的な例だ。

これを見て、女性は学ぶことだ。



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聖グレゴリウス

2014-04-04 04:13:11 | 虹のコレクション・本館
No,110
フランシスコ・デ・ゴヤ、「聖グレゴリウス」、18世紀スペイン、ロココ、ロマン主義。

ジーザスの絵の次にこれを紹介すると、実に苦しいね。ゴヤはまた、恐ろしい仕事をする。

聖グレゴリウスは、中世初期の教皇だが、これは教皇自身と言うよりは、教皇の衣を着たミイラだ。馬鹿が、聖なるものにあがろうとして、あがきにあがいたあげく、とんでもないものになったという、馬鹿のなれの果てだよ。

風格があり、体格もよい。姿かたちだけは、昨日のジーザスよりもずっと立派だ。着ているものも上等すぎる。

ジーザスはいつも裸同然だというのに、なぜこんな恰好が平気でできるのだろうね。白い立派な冠はまるで、神のようだ。

この絵は一応、実在のグレゴリウスとは離して考える方がいいだろう。聖者と言うよりは、悪魔に近いよ。

ゴヤはとんでもないものを描いている。




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祝福するキリスト

2014-04-03 04:14:20 | 虹のコレクション・本館
No,109
ハンス・メムリンク、「祝福するキリスト」、15世紀フランドル、初期フランドル絵画、ブリュッゲ派。

ジーザス・クライストの肖像を探した。たくさんあるが、これは目元の涼しいよい肖像だとは思う。人間の考える聖なるものとはこういうものかという図である。

だがわたしから見れば、これは少々悲しい。ジーザスの実像はこんなに貧相ではない。もっとすばらしく美しい。立派な風格のある紳士だ。
だが、ジーザスはこの絵のような姿で人間の前に現れる。それが彼の愛でもあるからだ。

あのような美しくも大きな愛が、美しく立派な形で現れたら、人間は苦しむ。やせぎすで貧乏ったらしい方がいいのだ。その方が、人間の現実に近い。彼はその美しい愛で、こういう姿になって人間のところにきてくれるのだよ。

だがもうそろそろ、人間はこれを卒業せねばならない。いつまでも甘えてはいられない。
彼に、もっと立派な服を着せてくれたまえ。美しく立派な姿を与えたまえ。
本当の彼は、アポロンよりも美しいのだ。




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婦人の肖像

2014-04-02 04:03:55 | 虹のコレクション・本館
No,108
クエンティン・マセイス、「婦人の肖像」、16世紀フランドル、北方ルネサンス。

美しい女性の肖像はないかと思って探した。やはり、北方ルネサンスあたりを探ってしまうね。

女性というのは、イレーヌやヴィーナスのように可憐なものでは本来ないんだよ。このように知恵高く、誇り高く、力高いものなのだ

見たまえ。実に賢そうだろう。強いものを持っている。きつい力を持っている。あれが女性なのか、という苦しさを、男に感じさせる美である。

男は、女が年をとって賢く強くなってくるのを好まない。いつまでも子供で、馬鹿であってほしいと思うものだが、そう甘くはない。大人になっても可憐な女性はいるがね、大方の女性は、人生経験を経て学び、このように厚い人格になってくる。

男はこれがいやなのだ。まるで男のようだからだ。これでは、セックスができない。

何でこうなるかといえば、男のセックスが実に幼稚だからさ。こんな女性の相手にならないほど、子供だからだ。

この女性を美しいと感じられない男は、子供だ。何もわかってはいない。こういう女性こそが、男をたいそうよいものにしてくれるのだということを、わかってはいない。彼女がどんなことを男のためにやってくれるか、想像してみたまえ。実に立派なことをしてくれるぞ。気のきいたすばらしいことをしてくれる。そしてそれを自分の行いだと誇りはしない。実によい女性なのだ。

本当の女性とは、こういうものなんだよ。可憐でいじらしい女性というのは、女性の一時期の姿か、あるいはごくまれな男だ。

女を甘く見てはならないぞ。




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グラン・オダリスク

2014-03-30 03:31:56 | 虹のコレクション・本館
No,107
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル、「グラン・オダリスク」、19世紀フランス、新古典主義。

アングルは少々問題のある画家だ。この絵の女性なども美しいが、まるで生気がない。目にガラス玉をはめこんだ人形のようだ。肌は石に繻子をかぶせたように硬い。

オダリスクというのは、女奴隷のことだ。オリエンタリズムの趣味の中で、よく好んで描かれた。ヴィーナスやスザンナと違い、奴隷には男の好みを押し付けやすい。魂を奪い、尊厳を奪い、ハレムで男に奉仕するだけの奴隷にして、それをこれでもかと美しくする。男の欲しいものはすべて、これだ。

こんな女を、すべておれのものにしたい。魂などいらない、心などいらない。自分のいうことを聞くだけの生きた美しい肉体であればいい。

馬鹿が。そんなものがいるわけがない。

実際、太古の昔から、男はこういう仕打ちを女にしてきたんだよ。女性から尊厳を奪ってきた。魂の独自性を奪い、自分に奉仕するだけの人形にしてきた。要するに、阿呆にしてきたのだ。

だが、女性は阿呆になると、とたんに美しくなくなる。かえって醜くなる。魂のなくなった女はむごいほどいやなものになる。そこで男は、醜くなっていやになった女を捨てる。

人形になった女はいらないんだよ。

たまらないのは、馬鹿にされた女の方だ。男は甘いね。打ちのめされた女が黙っているわけがない。

蘇って来るのさ。女は。それが、ガラだ。

かつて、男にうばわれた自分を、返してくれと言って、女が男によって来るのさ。何にもない女。どこまで行っても誰もいない女。なぜならそれは、かつて男が、自分を奪った女だからだ。

自分を奪われたがために、何にもない女が、男にすべてを返してもらおうとして、帰って来るのさ。

これからの男は、ガラにすべてを奪われるよ。覚悟しておきたまえ。




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森のささやき

2014-03-29 03:55:46 | 虹のコレクション・本館
No,106
レイモン・ペイネ、「森のささやき」、20世紀フランス、イラストレーション。

これは完璧に彼女のお気に入りだ。かわいらしい。甘い。

ダリの後なのでね、少しは安らぐ絵を探そうと思ったら、これを思いついた。

20世紀の芸術家は、人間の精神の崩壊を、おおく表現していたが、漫画などの世界には、こういう珠玉もあるというわけだ。

ペイネは妻をとても愛していたらしい。多分彼の妻はやさしい女だったのだろう。人の気持ちがわかり、自分のやるべきことが何なのかわかる、美しい素養を備えた女性だったのだろう。

でなければ、こんなに大切に愛されるわけがない。

男が、宝物のように、女を抱き寄せている。こんな絵を描ける男はほかにいないね。まったくいやらしくない。実にかわいい。

かのじょはこれが好きだった。かのじょも女性だったからね、自分の本当の美しさをわかってくれて、大切に愛してくれるやさしい男のイメージを、この絵に感じて、やすらいでいたのだ。

そんな男がいたら、かのじょもこんなに早く死なずに済んだろう。




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