goo blog サービス終了のお知らせ 

世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

救世主

2014-04-21 06:03:33 | 虹のコレクション・本館
No,125
ダニエレ・クレスピ、「救世主」、17世紀イタリア、バロック。

いや、見つけた。これ、イエスの本当の顔に似ている。
彼はこんな感じの顔をしているよ。もちろん実像はもっと美しいが、感じがよく似ている。

探せばあるもんだね。

芸術家というのは、よい仕事をしている。この絵を頼りに、イメージを固めていくといい。
これをもっと優しげでどっしりとした感じにすれば、もっと実像に近くなる。

どうだい、男っぽいだろう。やさしいが、少々きつい感じもするだろう。
いいやつなんだよ。

人間のために、なんでもやっている。どんなことでもやってくれる

彼は本当に、あなたがたを愛しているんだよ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エヴァ・プリマ・パンドラ

2014-04-20 06:18:04 | 虹のコレクション・本館
No,124
ジャン・クザン、「エヴァ・プリマ・パンドラ」、16世紀フランス、盛期ルネサンス。

美しい裸体像であるが、かすかに退廃の気配がするのは、かのじょが右手はされこうべに触れ、左手は蛇をまきつつ酒壺にかけているからだ。

エヴァもパンドラも、人類の運命に暗雲をかけた女性だ。画家はこの絵に、男を狂わす女の姿を象徴的に描きたかったのだろう。

まるでヴィーナスのようだが、男はこれを憎んでいるのかもしれない。

しかしわたしは、男は何もかもを女のせいにするなと言いたいね。実際、イヴは知恵の木の実をアダムに食べさしたりはしていないよ。先に食べたのはアダムの方だ。
パンドラの伝説だとてそうだ。はっきり言って、馬鹿なことをやって人類の運命を狂わせたのは、男の方だよ。それくらいわかるだろう。

男が馬鹿なことをするのは、たいてい女のためだ。女の気を引きたい。いい女を手に入れたい。そのために、あらゆることをする。馬鹿なことをして、大変なことになる。そういう自分のやったことの結果を、みんな女のせいだと男は言いたいんだろう。女がいなければ、こんなことはしなかったと。

だが実際ね、男の運命を狂わそうとして何かをやる女性なんか、めったにいないよ。よほど男を憎んでいる馬鹿は別だが。たいていの女性がやったことは、何げなく町を歩いていたということだけだ。その姿を男に見られて、勝手にほれられて、勝手にいやなことをやられて、すべて自分のせいにされて殺される。そういうことを経験してきた女性は本当に多いんだよ。
わかるね、みなさん。

男はここを、もっと真剣に考えるべきだ。

自分のやったことを、女性のせいにするんじゃない。女性は男の運命を狂わそうなどとは考えていないんだよ。男が勝手に狂ったのだ。

これは一目瞭然の事実だが、今まで誰もはっきりとは言えなかった。なぜと思う。言えば殺されるからだ。それももっとも卑怯な方法で。男は、自分の真実をついて自分を貶めようとする女がいやなんだよ。言うことを聞けと、あらゆる馬鹿をやってきた。その結果、永遠に女がいなくなった。

とうとう、愛想をつかされた。

エヴァはもはや、男を愛さない。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローヌ川の星明りの夜

2014-04-19 06:20:27 | 虹のコレクション・本館
No,123
フィンセント・ファン・ゴッホ、「ローヌ川の星明りの夜」、19世紀オランダ、後期印象派。

これは美しい。ゴッホの心そのものの絵だね。
彼は炎の人などと呼ばれて、激しい人生を歩んだと言われているが、それは彼の人生を裏から馬鹿が激しく邪魔したからだ。耳切り事件などは、彼がやったことじゃない。彼にかかった馬鹿がやったことなんだよ。

狂気というのは実際、裏の世界の馬鹿が人間存在を激しく荒らす現象なのだ。

実際の彼はこのように、繊細な美を感じることのできる細やかな感性の持ち主だった。

以前に彼は植物の魂を描いていると書いたことがあったが、それは彼が植物の心を感じる感性を持っていたがために、植物にとって快いという枝ぶりを描いているからなんだよ。
人間というのは、植物の心がわからないので、植物の魂を無視して、人間好みの枝ぶりを描いてしまうんだ。それで実にきれいに描いてはあるんだが、見ていると植物が苦しんでいるという絵になってしまう。

だがゴッホの絵にはそれがない。植物が自然に安らいでいる形に描いてくれている。
彼は知らぬ間に、植物の魂と共調し、その自然な姿を描いていたのだ。

こういう感性の持ち主は珍しい。

故にこの絵にも、星と共調した彼の心が見える。星というものにも、美しい魂があるんだよ。それは人間にもわかりやすい表現の流れとなって、伝わってきているのだ。普通の人間にはわからないが、ゴッホにはわかっていた。

だからこの絵が描けるんだね。

メルヘンチックな絵に見えるがね。彼はこの絵に、神の愛がどれだけ清らかに人間世界を愛しているかということを、描いている。

すばらしい画家だよ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パオロとフランチェスカ

2014-04-18 06:17:19 | 虹のコレクション・本館
No,122
ウィリアム・ダイス、「パオロとフランチェスカ」、19世紀イギリス、写実主義。

これも、西洋絵画でよく描かれるテーマである。難しい悲恋の物語だね。色々な画家が描いているが、これがかわいらしいので選んでみた。

フランチェスカ・ダ・リミニに、ある日ジョヴァンニ・マラテスタとの縁談が起こる。だがジョヴァンニは醜かったため、フランチェスカに嫌われないために、自分のハンサムな弟、パオロを身代りにして向かわせる。フランチェスカとパオロは恋に落ちるが、フランチェスカは結婚までだまされたことに気づかない。

結局、惹かれあう二人は兄ジョヴァンニによって殺されるのである。

誰が一番悪いかと言えば、ジョヴァンニだろうにね、ダンテの神曲では、ふたりは愛欲に溺れた罪で地獄に落ちているのである。わたしは、これはないと思うけどね。

どうしても、男が、女の方が悪いのだとしたい気持ちが、こんな風にした話ではないかと思うよ。

醜いということは、男にとって、あらゆる罪よりも苦しいことなのだ。醜さ故に女に嫌われるということが、一番きついのさ。だから、フランチェスカも、自分が悪いことにされても、何も言わないのだ。

苦しいね。

かわいい恋人たちだ。男と女がこんな風に惹かれあうのは、当たり前なんだよ。邪魔せずに、大切にしてやればよかったのに。なんとかしてあげればよかったのに。

わたしなら、そう思うね。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の三つの世代と三美神

2014-04-17 06:06:29 | 虹のコレクション・本館
No,121
ハンス・バルドゥング・グリーン、「人間の三つの世代と三美神」、16世紀ドイツ、北方ルネサンス。

人間の若さの喪失ということを、真正面から描いてみた絵である。この画家は似たようなテーマでほかにも描いているが、これが一番できがいいので選んでみた。

肉体を持つ人間はどうしても、美の喪失というものを経験せざるを得ない。年をとっても若い時と同じような美をまとえるということは、事実上不可能なのだ。

しかしそれにしても、きれいな喪失の仕方と言うのがあるんだよ。
年を取ったら、それなりでなく、それゆえにこそかわいらしく、美しくなってくる人もいる。

要するに、年齢を経た人間の美しさとは、生き方の美しさなのだ。

この絵の女性の衰え方は、生きている間、たいした努力をしなかったという場合の衰え方だ。見ていてなんとなくわかるだろう。この上、あまりよくないことをすると、もっとも醜くなる。女性ならまだ見られるが、男はもっとひどい。

現実には、絵にもできないような例がたくさんあるが、これはまだ、良心的な描き方をしてくれているということだ。

女性も男性も、これを見て、美の衰え方の一つの形というものを、学がいい。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スザンナと長老たち

2014-04-16 06:12:01 | 虹のコレクション・本館
No,120
アルテミシア・ジェンティレスキ、「スザンナと長老たち」、17世紀イタリア、バロック。

このテーマの絵を選ぶのは二回目だが、特筆すべきだと思ってあげてみた。

ジェンティレスキは女流としては最もおもしろい画家である。男からの性暴力を経験したということが、かのじょの絵に深く影響していることは、感じざるを得ない。

このスザンナは男を心底嫌がっている。

男が描くと、絶対に女は嫌がっているという風には描かないものだ。ルクレティアやスザンナやバテシバなどのテーマも、悲哀の表情は描くものの、拒絶の表情は描けない。

しっかり、男は、女に拒絶されるのが嫌だからだ。

けれども、男は、女に嫌がられているということを、もっと真剣に考えてみるべきだね。実際女性は、本当に男が嫌になっているんだよ。

油断すれば、すぐに、セックスだけを目的に体を奪われ、物のように捨てられる。
簡単に求婚を断れば、殺される。
勝手に思いをかけられて、恨まれて、何にもしていないのに、いつのまにか妙な責任を押し付けられて、殺される。

いい迷惑だろう。こんなやつが愛されるわけがない。

実際ね、男は、責任をとらずにセックスをしたい、という目的だけのために、女をいじめすぎているんだよ。

この絵は、女性の側から男に気持ちをぶつけた、数少ない例である。

後世にも伝えていくべきだ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖母子と二天使

2014-04-15 03:20:20 | 虹のコレクション・本館
No,119
フィリッポ・リッピ、「聖母子と二天使」、15世紀イタリア、初期ルネサンス。

ボッティチェリの師匠にあたる。ボッティチェリの優美な女性像はこの画家に学んだものだが、フィリッポ・リッピは修道僧にも関わらず、20以上も年下の修道女を誘惑して駆け落ちするなどということをする、好色な男である。

その画風は優雅でありながらも、どこか男のあくの強さを感じる。ボッティチェリの描く女性が純真そのものに見えるのとは対照的だ。

しかしこの絵の女性は美しい。駆け落ちして妻にしたルクレツィアをモデルにして描いているのだが、画家の好色な視線はあるにしても、女性美に対する深い愛は感じるね。

こちらを見ている天使のいたずらめいた視線が、画家のずるさを思わせるが、目を伏せているルクレツィアの表情に、男に流された女性の悲しさを見て、それを絶妙に描いている、画家もたいしたものだ。

女が男にからめとられて、それをよしと受け入れてゆくときの美しさが、彼にはそそるんだろう。

まあ、こういうのが、この画家の好みなんだろうね。いい女をつかまえたときの、男の喜びを感じるよ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェイン・モリスの肖像

2014-04-14 03:32:26 | 虹のコレクション・本館
No,118
イーヴリン・ド・モーガン、「ジェイン・モリスの肖像」、20世紀イギリス、ラファエル前派。

ラファエル前派では、バーン・ジョーンズについで、よく使わせてもらっている画家であるし、女流でもあるので、一枚は選ばなければならないと考えて、選んでみた。

これは、ロセッティの愛人であったジェイン・モリスの老後の肖像であるらしい。
若いころの面影を残しているが、あまりにつらい人生であったことが、この顔から憶測できるね。

どういう葛藤があったのかは、わからないが、ひとりの女性を死に追いやり、夫を裏切ってまで、恋人ロセッティとの関係を続けた人生が、幸福であったはずはない。

若いころのかのじょは、シダルの死で、一時は恋に勝利したと、喜んだこともあったかもしれないが。ロセッティの絵の中では、女神や聖女になっていたジェインも、現実世界では、結局は恋に翻弄された女だったのだろう。

ロセッティはミレイよりもずっと、後世に影響を残している。バーン・ジョーンズなどは、ロセッティを洗練させて世間に受け入れられやすいように技術的に整理したような画風だ。ド・モーガンにもそのような感じがある。技術よりも何よりも、女に溺れて破壊的な人生を送った彼ロセッティそのものに、後進の画家は神話を感じていたのだろう。

この肖像画は、ロセッティが残した、愛の名残だ。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014-04-13 03:19:55 | 虹のコレクション・本館
No,117
アルフォンス・ミュシャ、「花」、19世紀チェコスロヴァキア、アールヌーヴォー。

これはまた、美しい女性像である。
どちらかというと豪華に美しく描きすぎだ。好みではないが、語るに重要な点があるので取り上げた。

女性を描く時には、たまにはこのように花や宝石類などで豪奢に飾ってしまいたくなるね。美しいものを、思い切り美しく描いてみたいという欲求が生まれる。男を描く時にはこれができない。

女性美というのを見ると、神の御業の見事さを思うよ。神の美しさの極みを見る。いや、感嘆するね。女性とは要するに、神の美を受け入れたものなのだ。美しいものを作りたいという、神の御心を受け入れたものなのだよ。

男には、これを要求することは、無理だ。その存在の独自性を矯めるようなことは、神は男にはなさらない。その存在に美を与えつつも、自己存在そのものに、おのずからその美を表現せよという。それが男の美だ。

だが女性美とは、自己存在の独自性の美というよりも、神が与えたそのままの美の表現である。女性とは、ある程度、自己存在の独自性を弱め、神の独自性を自らに受け入れるというものなのだ。だから、女性美の中には、神の美があるんだよ。

女性は時に、目を閉じ、一歩下がることによって、自らの中に神の愛をたぐりよせ、自らによって、神の愛を表現することがある。それが、女性の美というものだ。

これを見ると、そのみごとさを思う。男ならば、これほど飾られるのは、いやだ。だが女性なら、受け入れる。美しくなればなるほど、神が美しくなるからだ。

どうだね。女性美とは、すばらしいだろう。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しみの聖母

2014-04-11 04:04:53 | 虹のコレクション・本館
No,116
カルロ・ドルチ、「悲しみの聖母」、17世紀イタリア、バロック。

この画家は、可憐な女性を描くね。
真実の天使との共通点を感じるので、とりあげてみた。実に美しい女性像である。

しかし真実の天使は、ここまで女性ではない。人類の女性には、こういう感じになる可能性があるが、彼には、無理だ。

彼はいわば、セックスの対象になる寸前の幼女という感じだよ。美しいが、硬い。とても性の相手にはならない。そういう点で、彼は実に男なのだ。

しかしこの女性は、性愛の対象になりうる。どこか、男を拒否する幕が柔らかいだろう。本当の女性とは、こういうものだ。自然に、男を愛するように、できているんだよ。神がそういう風に創られたのだ。

人間の男は、こういう女を大事にするべきだったね。やわらかな愛で、男に尽くすよう、もとからできていたのだ。罪びととして死んでしまった息子をいたんで、悲しみに萎れている。どんな男にも、こんな女がいた。

かわいらしいね。花のようだ。美しい。ほめたたえ、愛し、心を尽くしていけばよかったものを。こんなものをなくしたのだ。男は。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする