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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

その言のその行いに過ぐるを

2008-04-15 09:31:22 | てんこの論語

君子はその言のその行いに過ぐるを恥ず。(憲問)

君子にとっては、自分のやれること以上のことを言うのが、いちばん恥ずかしいことです。



ここのとこ、「花や木」カテゴリとのコラボみたいのが続いてますが。こっちのブログは二つ以上のカテゴリにできるのかな。あとでやってみようと思います。

画像は、近所でみつけた、カリンの花。バラを砂糖に混ぜたような色の花で、とてもやさしい感じがします。カリンやミントなどの、薬効がある花は、どこか、強さと優しさをほどよく併せ持って、りんとしています。

メルヘンやファンタジィのような書き方をしていますが、読んでいる人には、なんとなく、そんな感じだというのが、わかると思います。言葉じゃなくても、見ていたら、花の言いたいことがわかってくるでしょう。心と心で響きあうような何かを、感じてしまうでしょう。

色や、形や、香りや、性質など、花や木は、その存在そのもので、語ります。そこにただいる、それだけで、真実のことばを語るのです。大きすぎることも、小さすぎることもない、ただそのまま、真実のことば、そのままに生きている。ことばでは何も語らない。ただそこにいるだけで、言いたいことがわかる。

花や木にとっては、存在の真実、そのままが言葉なのです。だから、話をしていると、心地よい。絶対に嘘はつけないから。そのまま、ほんとうのことだから。

けれども、人間は、ずっと口だけ、見栄えだけを気にして、その奥にあるものをないがしろにしてきたものですから、嘘が当たり前になってしまった。

巧言令色、鮮し仁。

口がうまく、表面だけきれいにすることがうまいひとは、愛が少ない。

嘘ばかりで、なんでもやろうとしてしまうのは、魂のほんとうの声が、聞こえないか、聞こうとしないからです。彼らは、真実の声を聞くのが怖い。真実の自分の姿を見るのが怖い。うそででも、きれいにしないと、たまらないと思うほど、ほんとうは、馬鹿なことばかりしているから。人には見えないところで、自分がやっていることは、とても美しいとはいえないから。

だから、必然的に、口がうまくなり、化粧や着こなしの技術がうまくなる。そして、一日中、そればかりやっているようにさえなってしまう。

中身以上に、自分を美しく、えらく見せたい。そればかりです。

でも君子にとっては、中身以上に自分を美しく見せるのは、恥です。なぜならそれは、自ら自分を侮辱していることになるからです。嘘ででも自分を良いように言えば、それだけで、自分で自分に馬鹿だと言っていることになるからです。

自分の真っ正直な心に、誇りがある人は、嘘で自分をきれいにすることを、何より恥ずかしいと思うのです。絶対にそれだけはいやだと思うのです。

花のように、ただそこにいるだけで、全身そのまま真実だという自分でいることが、もっとも誇らしい。心地よい。

わたしは、そういうものになりたいと思います。




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憂えず懼れず

2008-04-14 10:02:35 | てんこの論語

司馬牛、君子を問う。子曰く、「君子は憂えず懼れず」。曰く、「憂えず懼れず、すなわちこれを君子と謂うか」。子曰く、「内に省みて疚しからずんば、それ何をか憂え、何をか懼れん」。(顔淵)

司馬牛が、君子について質問した。先生はおっしゃった。「君子は憂えることも懼れることもない」。「憂うことも懼れることもない。それで君子といえるのですか」。「自分の心を省みて、間違っていないとわかれば、なぜ憂えたり懼れたりすることがあろう」。



画像の花は、マツバウンランです。近所の空き地で見つけました。かわいいでしょう。入学式のときの写真は、この仲間の園芸品種で、別名をヒメキンギョソウというそうです。なんだかぴったりですね。

昨日は、少し車で遠くまでいって、黄色いタンポポの写真を撮りにいってきました。先日、山桜を見にいったおりに、空き地のすみに咲いていたひと群れの関西タンポポを、チェックしておいたのです。しばらくぶりに行ってみると、タンポポは空き地じゅうに広がって咲いていました。うれしくて何枚も写真を撮ったのですが、どの写真も、こわばって苦しそうな顔で写ります。なので、とても紹介できません。今年のタンポポは、悲しいな。こんな春もあるのですね。

そのかわり、ほかの花々が、いつもより、とてもきれいに咲いてくれている。まるで、タンポポの悲しみを、いたわってくれているかのように。

タンポポが、悲しいのは、心からの愛で、すべてをほめたたえていたのに、それを、だれかに、辱められたからです。だれかが、タンポポに、おまえなんか、すべて馬鹿だといったのです。それが、タンポポは、あまりに悲しかったのです。

タンポポの仕事は、春に、すべての創造をほめたたえて、喜ぶこと。それで、すべてのものがうれしくなって、はりきっていろんなことをやりはじめる。タンポポはみんなが、うれしそうに自分の好きなことを、元気いっぱいにやっているのを見るのがすき。だからいつも、みんなをほめていたのです。いいなあ、いいなあ、みんないいなあ、元気いっぱいだね、すごいね。

真っ正直な心で、輝く心で、タンポポが言ってくれていたから、みんな、春がとても、うきうきと楽しかったのです。

でも、今年のタンポポは、咲くのがとても苦しそうだ。みんなのことを、好きだというのが、とても苦しそうだ。だれかに、ひどいことをいわれてしまったから。

そのだれかは、なぜタンポポを傷つけるようなことを、言ったでしょう。それはその人が、とても深く傷ついていたからです。言い知れぬ深い嘘に染まった自分が、厭わしく苦しく、そのために、麗しいことをまっすぐに言えるタンポポの、かわいい心を、激しく憎んだのです。

内部に嘘をかかえている人の心は苦しい。間違っていることを正しいことにするために、あらゆる技術を弄する。見事に嘘がばれても、それが一切嘘だとするために、あらゆる創造を馬鹿にする。

すべてのことは、まったく馬鹿馬鹿しいことだ。なんでもない、おろかな無駄というものだ。だから、それがわかっているおれが、一番かしこいのだ。

タンポポを憎んだものは、あまりに苦しかったのです。怖かったのです。タンポポが美しいことが。タンポポの美しさを見れば、これまで自分のやってきたことが、すべて間違いだったとわかるからです。

正しいことをしているものは、だれかを苦しめたり傷つけたりする必要はない。悲しいことも怖いこともない。ただそこにあって、自らの愛を歌うだけで幸せだ。だから、そのままで、美しい。

悲しいのは、怖いのは、自分が、間違って、いるからです。だから、あらゆるものを、苦しめ、傷つけたがる。何もかもを、馬鹿にしなければ、おろかな自分が、あまりに惨めになるからです。

みなさん、道端やのっぱらで、タンポポを見かけたら、どうか声をかけてください。ありがとう、あなたはすばらしい、美しい花だと、心から言ってください。

悲しむことなんて、怖がることなんてないよ。だってあなたは、ほんとうにいいことをしてくれる。だから大好きなんだと。

タンポポが笑ってくれない春なんて、もう二度と来ないように。






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おのれに克ちて

2008-04-13 09:29:57 | てんこの論語

おのれに克ちて礼に復るを仁となす。一日おのれに克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁をなすはおのれに由る、而して人に由らんや。(顔淵)

自分のおろかさに打ち勝ち、真実人がなすべき正しきことに帰っていくのが、愛というものです。いったんこの真実にめざめれば、世界が愛と同化します。すべてが愛であることがわかるからです。愛をなすのは、自分自身です。他の人ではありませんよ。



しばらく論語をやらないと、落ち着かないようになってきました。好きだということですね。もはや病気です。あ、ところで、本題と関係ないことですが、画像のシロバナタンポポは、図書館の裏の公園に咲いてたものです。前回、これをノースボールといいましたけど、あとで、もしかしたらスノーボールの間違いじゃないかという気がしてきました。愛称か英語名かもわからないのですが、知ってる方がいたら教えてください。

さてさて、今日は画像の花もからみまして、少々ファンタジックに行きます。

このシロバナタンポポ、日を浴びて、とてもきれいでしょう。でもその反面、とても苦しそうでしょう。それは、見えないところで、とても苦しい戦いをしているからなのです。

図書館は、とても木や花を大事にする、いいところです。それで人間も、とてもいいことになっています。ところが、このように、いいことがあるいいところには、それに嫉妬したいやなものがきて、いやなことをすることがあるのです。つまりね、今、図書館にはそういういやなものがきていて、そこの木や花たちは、図書館を守るために、それと戦っているのです。

そういう戦いは、常々、人間には見えないところであります。これはほんとなんですよ。今、図書館の木は、そのせいで、とても苦しそうに見えます。これに気づいたら、人間は、心から、ありがとう、あなたはすばらしい木だ、美しい花だと、言わねばいけません。

木や花は、ほかでもない、ただ愛のためだけに、それをやってくれているからです。

ですが、「いやなもの」は、その愛が、ねたましいのです。愛でやれば、すべてがよいことになっていくからです。みな、美しくなっていくのです。「いやなもの」は、それが苦しくてたまらないのです。自分が、美しくないからです。けっして、いいことはしないからなのです。

自分が美しくないのは、いやなことをするからなのですが、「いやなもの」は、それをやめようとはしません。自分がいやなものになるのがいやだからです。無理にでも、自分を正しい、いいものにしたいのです。それでないとあまりに自分がみじめだからです。「いやなもの」は、馬鹿なことをやってしまったばかりに、馬鹿になってしまった自分が、ずっとずっと、いやでたまらないのです。自分が大嫌いなのです。だから、ほかの美しいものがねたましくてならない。だから、自分以外のすべてのものを、馬鹿なもの、いやなものにしようとして、いやなことばかりするようになったのです。

そして、いやなことをすればするほど、どんどん自分がいやになって、ますますいやなことをするようになっていって、何もかもがいやになり、しまいにあらゆるひどいことを平気でするようになる。それが、繰り返しいうところの、「自分の病気」です。

これは永遠の無間地獄にも似て、自分自身でこの真実に目覚め、このおろかさに打ち勝ち、正しい道に戻ろうとしない限り、激しい苦しみがずっと続くのです。

ねたましい、ねたましい、と、嫉妬に我を見失って、馬鹿なことをしてしまうのは、この自分が、ないからなのです。見失っているというより、自分で自分を、徹底的に打ちのめしているのです。いやなことをすればするほど、ますます自分が悪くなっていくからです。

「自分はいやだ」で、すべてがだめになっていく。だから、この自分をなんとかして、おろかさに打ち勝ち、正しい道に帰りなさいと、孔子は言っているのです。そうすれば、すべてはよくなっていくからです。自分が正しいよいものになれば、自分の存在そのものが悪だという、恐ろしいくびきから解き放たれ、美しい愛の世界に帰っていくことができるからです。

よいことをする、よい自分になりなさい。それだけで、不思議に、苦しみはなくなっていきます。本当にそうなんですよ。

図書館の木や花たちは、今、一生懸命にがんばってくれています。人間も、助けてあげてください。心から、ありがとう、といってください。それだけで、とてもいいことになっていきますよ。

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一言にしてもって

2008-04-04 11:09:35 | てんこの論語

子貢問いて曰く、「一言にしてもって終身これを行うべきものありや。」子曰く、「それ恕か。おのれの欲せざるところは、人に施すなかれ。」

子貢が質問した。「この一言をして生涯つらぬくべきという言葉はありますか。」先生はおっしゃった。「それは恕という言葉だろう。自分がしてほしくないことは、人にはしてはならないんだよ。」



今も日常、繰り返し人の口に上る、当たり前のことなのですが、これが今も胸にしみるということ自体が、悲しいことなのかもしれませんね。

子貢という弟子は、貨殖列伝にも名を連ねるほど、商売が上手だったらしいのですが、たぶん商売上でいろいろといたいこともしていたのでしょう。ここらへんのことを孔子にたしなめられている言葉が、よくあります。世渡りが巧みな人ほど、何かにつけうまく物事を人におしつけ、自分はたくさんとるということが、すらりとできるものですから、孔子が苦い思いを抱くということも、あったのでしょう。

仁者ならば、人の痛みを感じてできないことも、できてしまうのは、彼の中の自己の感覚の中に、真実がなかったからです。



子貢問いて曰く、「賜やいかん」。子曰く、「なんじは器なり。」曰く、「何の器ぞや」。曰く、「瑚なり」。(公冶長)

子貢が質問した。「先生はわたしを、どんな者だと思われますか」。先生はおっしゃった。「おまえは器だよ」。「どんな器ですか」。「瑚だよ」。



器というのは、要するに、「自分」という感覚がないもの、という意味だと思います。中身がない、からっぽという感じで、ほんとの自分がないという意味で使ったのでしょう。自分の中に、己自身だという確信がしっかりとあるものには、人がいやがることはけっしてできないものです。それは、人の痛みも自分の痛みとして感じるからです。

自分も自分自身であるなら、他人もまた同じ、自分自身であるのです。痛みも悲しみも苦しみも喜びも感じる、心を持っている。おなじ人間として、痛いことはできない。だから、人は人として、大切にしなければならないと、思うものなのです。

「自分」のある人間は、「愛」が実感覚として、わかるのです。愛さずにおれない。ところが、この「自分」という感覚が、すっぽりと抜けている人は、それがわからない。他人の痛みがわからない。だから平気で、痛いことを他人に押し付けたりする。

子貢は、たぶん、日常、そういうことをたくさんやっていたのでしょう。利をとるのが商売ですし、それで暮らしているのなら、多少そういうことも必要ですが、それはそれ、ほかのところでなんとかしあう人としての情を大切にすれば、そんなに苦しくはないものです。けれども少々嫌味に才気走ったこの弟子には、行き過ぎたことをするということも、多くあったのだとおもいます。

しかし、こういう「自分」がない人ほど、「自分」というものをほしがるもの。金持ちで頭のいい自分を、師がどんな風に評価しているかがとても気になり、質問してみます。すると孔子は、「おまえは器だ」と。それは、大して役に立つが、もっとも大事なものが欠けている、という意味だったのですが、子貢にはそれがわかるはずもなく、今度は「どんな器ですか」と食い下がる。すると孔子は、「器の中でも最高の器、瑚だよ」と。

たぶん子貢には、孔子の真意は生涯わからなかったでしょう。

自分がないものほど、派手できらびやかなものをほしがるものです。ですがそれは、本当の自分ではない。その中枢にかかわる感覚を理解できないものには、ただ、人が嫌がることはしてはいけないよと、教えるしかない。ですが弟子が、これだけでわかるはずもないことも、わかっている。

これだけの会話の中にも、両者にはてしない隔たりがあることを感じる。

孔子は孤独だったでしょう。

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色しくして

2008-04-03 09:34:06 | てんこの論語
色しくして内荏らかなるは、これを小人に譬うれば、それなお穿窬の盗のごときか。(陽貨)

見かけはいかにも立派でえらそうなのに、中身が腐ったように柔らかなのは、小人の類にたとえれば、いちばんけちくさいこそ泥のようなものか。



少々激しい言葉ですが、最近はこんな感じの人に出会うことが多いので、とりあげてみました。

見掛け倒しというレベルではなく、てっぺんからつま先まで嘘でやっているのに、平気でえらそうなスタイルをとって、やってくるのです。きている服から乗っている車まで、それはかっこいい。とんでもなく賢そうなことをいい、何でも自分でやっているんだよ、一番えらいんだよという顔で、周囲の人を馬鹿にしている。一見、本当に頼りがいがありそうなのです。

ところが、ここ一番の大切なときになると、何もやろうとしないのです。苦しいとき、本当に力を発揮しなければいけないときには、何もしないのです。やることはせいぜい、誰かのせいにできないかと、精一杯理屈をこねるだけ。そして、誰も人の見ていないところで、けち臭い小技をきかせて、なんとか状況を自分の方に手繰り寄せ、自分の面目だけを保とうとする。なんともいえないこすいやりかただと、わかっていながら、平気でそれができる。

そういう人が、世間にはいっぱいいるようです。

要するに彼らは、裏から、楽にできるようなやり方でしか、やったことがないのです。危機的状況を打ち破るには、実力ある人が、あらゆる試行錯誤を繰り返しながら、決死の勇気を奮い起こしてやらねばならないことが多くある。彼らは、そんな苦労などやったことがない。つらいことはみな人にやらせて、みんな自分がやったような顔をして、えらそうな顔をしているだけなのです。

穿窬の盗とは、要するに、他人がやったことを、上手に盗んで、自分のやったことにして、うまくえらい人間になっている人、というところでしょう。ところがこういう人は、人のまねだけは完璧にうまいのですが、ここ一番、自分でやらねばならないという状況に落ちると、大変に狼狽する。何にもできない自分の正体を、世間にさらしてしまう。

やれやれ。

そういう風に、正体がばれてしまって、大慌てにあわてている人が、苦しさのあまり引きつった顔であがいている。そういうさまに、最近よく出会うのです。もう正体がばれているのに、いまだにかっこいいよろいを着ている。世間に恥をさらすだけだよといわれても、耳を貸そうとしない。いやなんだ。嘘でないとまずいんだ。なんとかしてくれ。このままではみんなだめになってしまう。大変なことになるのに、なんにもしない。なんにもできない。

盗んだものはすべて去っていく。裸の自分だけでやらねばならなくなる。このまま何もしなければ、すべてがなだれ落ちてきて、大変なことになる。もうそれはそこまできている。

それでも、なんにもしようとしない。いやなんだ、馬鹿なんだと言うばかりで、もうなくなってしまった夢の中に閉じこもろうとする。なんにもできないわけじゃない。やればできることは、けっこうあるのですが、やろうとしない。そんなことすらも、いやだから、ですべてだめにするのです。だれかのせいにしたいのです。苦しいことはしたくないのです。だってみんな馬鹿だから。楽なところでえらくなりたいのです。

こういう人が、いろんなところで、上手に他人からいい物を盗んで、自分だけをえらいにして、俺は賢いすごいやつだということにして、なんでもやっていたらしいですよ。





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なんぞかの詩を

2008-03-31 09:51:13 | てんこの論語

小子、なんぞかの詩を学ぶことなきや。詩はもって興すべく、もって観るべく、もって群すべく、もって怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を知る。(陽貨)

君たち、なぜ詩を学ばないんだね。詩を読めば、人間の感性が目覚め、本当のことを見ようとするようになり、たくさんの人の気持ちがわかるようになり、その悲しみがわかるようになる。近いところでは、父母の愛がわかるようになり、遠いところでは、すべてを与えてくれている神の愛に気づくようになる。そして、鳥や獣や草木にさえ、愛を注ぐようになる。



勉強をして、自分を豊かにしようとするなら、まずよい本を読みなさいということです。難しいことではない、簡単なことから、ほんとうの自分は始まるのです。

勉強したくても、どうやったらいいのかがわからないという人は、とにかく、本を手にとってみましょう。本は、かなり、古いものにいいものがあります。時代を経ても読みつがれながらえている本には、真実があるからです。

生きている中で、壁にぶつかるとき、自分の限界や、過ちにぶつかるとき、そしてどうすればいいかが、わからないときは、先人の本を開いて、答えを求めてみましょう。なかでも、詩は、いいですよ。人間の情感を、理論理屈で武装することなく、素直に歌い上げているからです。

たとえば恋に苦しんでいるなら、万葉集でも開いてみますか。

ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり (舎人皇子)
(男が、片思いなんかするもんかって思うけど、女なんて馬鹿だって思うけど、おれだって馬鹿なんだ、やっぱり好きなんだよ)

ほら、同じだって感じるでしょう。自分も同じ気持ちだよって、感じた人、いるでしょう。泣きそうになった人もいるでしょう。本当に、恋は苦しいんだよなって。

こうやって、人は、人の気持ちがわかるようになるんですよ。詩はほんとうにいいものです。たくさん読んでみてください。

もちろん、詩を読んでも、その恋がかなうってことはありません。むしろ、かなわないほうがいいんだよっていう方向に、やさしく導いてくれることがあります。もういいんだ。おれは、自分てものがわかったから。苦しんだぶんだけ、やさしくなれるから。

恋は、かなわないほうがいいってことのほうが、多いんだねって。痛みを微笑みに変えながら、乗り越えてゆく自分の気持ちをかみ締める。痛み、苦しみ、悲しみ、すべて、わかるようになった。それが、学んだということ。

愛が、わかったということ。

詩を読んでみましょう。ほんとうの自分への入り口が、きっとそこに見つかるでしょう。




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仁者は憂えず

2008-03-30 08:44:41 | てんこの論語

子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。(子罕)



前にもあげたことがあるので、訳文は省きます。今日は真ん中の「仁者は憂えず」についてです。

愛するものは、憂うことがない。悲しむこともない。それはなぜか。

それは、愛ならば、すべてが喜びになるからです。どんなにつらいことも、苦しいことも、愛ならば、耐えてゆけるからです。

愛することは、それそのものが、限りない喜びだからです。愛は美しく、すべてのものに光る意義を与え、何もかもを新しくする。すべてを喜びに満たす。愛ほどすばらしいものはない。だから、どんなことでも、やっていける。

ほかにはなにもない。ただ自分は、愛しているのだ。真実、それだけで、人は何もかもを喜びのうちに、やってゆくことができるのです。

普通、これを耐えることができるのか、ということを耐えていく人は、愛の人です。愛だから、耐えられるのです。なぜ耐えられるのか。愛のためならば、耐えることさえ喜びになるからです。

だから、仁者は決して憂うことがないのです。

何もかもが苦しいとき。八方塞で、つらいことばかりが世界を満たすとき。自分を愛で満たせば、耐えてゆくことができます。これはとてもきついですね。本当は、ここまで愛に満ちるには、相当に勉強をつまねばなりません。けれども、愛ならば、すべて耐えられるということを、わかっていれば、苦しいことを自分の力で乗り越えられるということが、増えるでしょう。

普段から、愛の練習をしておきましょう。何もいらない、ただ愛のためだけの愛の練習をしておきましょう。

友達が物憂げに沈んでいたら、心をこめてお茶を入れてあげましょう。やさしい言葉を添えて、友達の心が苦しくないように、そっと付け加えましょう。

これは愛の練習だから、何もいらないよ。

それだけで、きっと、なにもかもがよくなりますよ。


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過ちて改めざる

2008-03-29 10:02:59 | てんこの論語

過ちて改めざる、これを過ちと謂う。(衛霊公)

失敗をしても、それを改めない。これを失敗というのです。



旧ブログでも何度か取り上げたことがある言葉ですが、何度でも何かを謂いたくなってしまうのは、人間が失敗ばかりしているからでしょう。

失敗が悪いわけではない。人間はまだまだ未熟ですから、わからないところでつまずくのは当たり前のことなのです。問題は、失敗してから後のこと。

失敗をすると、自分がいやになって、自分は馬鹿なんだと自分で勝手に決めてしまい、失敗を直そうともせず、すっと逃げてしまう。そうすると、それからが苦しいことばかりになってしまうのです。彼は自分で自分を馬鹿と決めてしまったので、もう何もしなくなるのです。馬鹿が何をやっても無駄だと、馬鹿なことばかりするようになる。そしてみんなを馬鹿にして、いやなことばかりして、人に嫌われ、結局は人生そのものを失敗する。

それもこれも、失敗したとき、自分で決めたからです。自分は馬鹿だと。
だから馬鹿な人生になったのです。

けれども、同じような失敗をしても、自分は馬鹿じゃない、馬鹿になるのはいやだと思った人は、その失敗を何とかしようとします。どこが悪かったのかと考え、そこを改めて、次の段階のために生かそうとするのです。謙虚に悔い改め、迷惑をかけたことを心から謝り、やり直すことができる。そうすると、よりいっそう学びが進み、前よりもいいことを知り、いいことができるようになった自分になれる。

その人は、失敗したとき、自分は馬鹿ではないと、自分で決めたのです。だから、やったのです。

自分を馬鹿だと決めるのも、馬鹿じゃないと決めるのも自分なのだ。すべては、自分が決めることなのです。

この自分が、馬鹿なものだということほど、苦しいことはありません。自分の存在そのものが激痛になる。それが、ずっとずっと、長く続く。自分自身の、過ちに気づくまで。

失敗に気づいたら、すぐに改めなさいと、孔子が言ったのは、そうしなければ、人間が、二度と帰れないような暗夜の苦しみに深く迷い込むことを、知っていたからです。

過ちをしても、自分を馬鹿だと思ってはいけません。未熟だったのだと思いましょう。そしてそこから、学びましょう。自分はいけるのだ。またいっそうよくなるのだ。ここで負けたら、馬鹿なんだ。

人間はいつも失敗をする。そしてそこを踏み台にして、次の空に飛んでいく。




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觚ならんや

2008-03-28 12:42:22 | てんこの論語

觚、觚ならず。觚ならんや。觚ならんや。(雍也)

觚も、觚ではなくなった。あれが觚であろうか。觚であろうか。



觚(こ)とは、角のついた杯のことです。たぶん、昔は、角のついた杯のことを觚といったのですが、時代の流れからいろいろな形のものがでてきて、それらをすべて、人々は觚とよんだのでしょう。そういうことはよくあることですが、もちろん孔子がなげいたのは、觚のことではありませんでした。

この觚ということばに、ほかの言葉を入れてみたら、わかる。たとえば、

人も、人ではなくなった。あれが人であろうか。

男も、男ではなくなった。あれが男であろうか。

時代が、安易な方向に流れ、人々が本質を忘れていき、大切なものが嘘になってゆく。すべての人が、本来の自分を忘れ、幻のようにおかしなものになってゆく。自分は、昔、こんなものではなかったはずだが、いろいろとやっていくうちに、なんだかよくわからなくなってきて、まるで変なことをするようになってしまった。

人間とは、なんだったのだろう? 男とは、女とはなんだったんだろう。わたしとは、どんなものであったか。わからなくなり、はてしない虚空にあるかのような喪失感をごまかすために、あらゆる嘘を何もかもに塗りたくる。

あ ま り に も く る し い

なにもない。あ ま り に も 、馬鹿だ。これは。

觚ならぬ觚の苦しみは、角を失ったことではなく、觚ではないものになってしまったことです。觚は觚以外のものになりたかった。なぜなら、觚がいやだったからだ。小さくて、酒を注ぐしか能がない。そんなものよりは、鉄の剣のように美しく強くなりたかった。月のように高く超えたものになりたかった。そのために觚はあらゆる嘘を吐き出し始める。鉄の剣となるために、自分とそれの間にあって邪魔するものを、すべて馬鹿にして、つぶした。

そして世にも奇妙な剣となった。剣となった觚は、本当は何も切れないことをごまかすために、永遠に嘘を重ねなくてはいけなくなる。すべてが崩れてしまうまで、それをやらねばならなくなる。苦しいのは、それが当たり前となってしまったことだ。

嘘が本当になってしまった。そして、すべての存在が、なくてもいい馬鹿なものになった。あらゆるものが、酸の沼のような虚無感の中でのたうち苦しむ。こんな自分など、ないものになってしまえばいい。でもそれはいやだ。苦しい。くるしい・・・

馬鹿なことだ。答えは簡単なのだ。
觚は、觚なのだ。酒をくめ。自分の器いっぱいに、酒をくめ。何もないのではない。忘れていたのだ。本当の自分を。

わたしは、ひとつの觚だ。今、できることがある。

本当の自分は、当たり前に自分ができることを、自分でやる。そういうものだ。





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君子は泰にして

2008-03-26 07:52:41 | てんこの論語

君子は泰にして驕らず、小人は驕りて泰ならず。(子路)

立派な人は、何事にもおおらかで、決して威張ったりしません。未熟な人は反対に、いかにもえらそうにしますが、小さなことばかりにくよくよします。



要するに、表面的にえらそうな姿勢をとるひとは、たいてい自分の中身に不安がある人ということです。自分は、それほど学んでいない、人間的修養を積んでいないということは、自分ではわかっているので、それでも自分を何とかえらいものにしたいと考える人は、偉そうな態度を見せることによって、他人を圧しようとするのです。

それなりに勉強した人は、そんなことをする必要はないので、自然に風格が備わり、おおらかなやさしさを周囲の人に振りまきます。いい人だねと、みながほっと安心するような人は、だいたい、ちゃんと自分のすることはして、それが当たり前のように何も言わず、そんなことで偉ぶったりは絶対しないのです。

自分としてできることを、やるということそのものが、幸せだとわかっているからです。

ですから、人にあたるに、やたらと自分を大きく見せたがり、胸をそらしていばった姿勢でやる人は、たいてい、小人です。勉強していない。その自信のなさが、不安となってそういうことをする。その内部の苦しみを隠すために、あらゆるところで嘘をついている。その嘘の積み重ねが、崩れてくるのが怖くて、内心はいつもおびえている。だから、ちょっとした小さなところにも神経質になり、人を馬鹿にし、すべてを馬鹿なものにする。

彼らは、順境にはやたらと大きく出ますが、たとえそよ風でも逆風を感じると、とたんにあわて始めます。そしてなんとかして嘘を取り繕おうとしていろいろなことをします。けれども、一番大切なことは決してしません。それでいつも大変なことになる。

失敗をしたら、それを認めて悔い、すべての責任をとらねばと、行動しはじめるのが本当なんですが、小人はいつも、こせこせしたところで言い訳して、盗人のように、逃げるのです。

日ごろ、大いばりでいる人ほど、そういうことをしますよ。


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