君子はその言のその行いに過ぐるを恥ず。(憲問)
君子にとっては、自分のやれること以上のことを言うのが、いちばん恥ずかしいことです。
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ここのとこ、「花や木」カテゴリとのコラボみたいのが続いてますが。こっちのブログは二つ以上のカテゴリにできるのかな。あとでやってみようと思います。
画像は、近所でみつけた、カリンの花。バラを砂糖に混ぜたような色の花で、とてもやさしい感じがします。カリンやミントなどの、薬効がある花は、どこか、強さと優しさをほどよく併せ持って、りんとしています。
メルヘンやファンタジィのような書き方をしていますが、読んでいる人には、なんとなく、そんな感じだというのが、わかると思います。言葉じゃなくても、見ていたら、花の言いたいことがわかってくるでしょう。心と心で響きあうような何かを、感じてしまうでしょう。
色や、形や、香りや、性質など、花や木は、その存在そのもので、語ります。そこにただいる、それだけで、真実のことばを語るのです。大きすぎることも、小さすぎることもない、ただそのまま、真実のことば、そのままに生きている。ことばでは何も語らない。ただそこにいるだけで、言いたいことがわかる。
花や木にとっては、存在の真実、そのままが言葉なのです。だから、話をしていると、心地よい。絶対に嘘はつけないから。そのまま、ほんとうのことだから。
けれども、人間は、ずっと口だけ、見栄えだけを気にして、その奥にあるものをないがしろにしてきたものですから、嘘が当たり前になってしまった。
巧言令色、鮮し仁。
口がうまく、表面だけきれいにすることがうまいひとは、愛が少ない。
嘘ばかりで、なんでもやろうとしてしまうのは、魂のほんとうの声が、聞こえないか、聞こうとしないからです。彼らは、真実の声を聞くのが怖い。真実の自分の姿を見るのが怖い。うそででも、きれいにしないと、たまらないと思うほど、ほんとうは、馬鹿なことばかりしているから。人には見えないところで、自分がやっていることは、とても美しいとはいえないから。
だから、必然的に、口がうまくなり、化粧や着こなしの技術がうまくなる。そして、一日中、そればかりやっているようにさえなってしまう。
中身以上に、自分を美しく、えらく見せたい。そればかりです。
でも君子にとっては、中身以上に自分を美しく見せるのは、恥です。なぜならそれは、自ら自分を侮辱していることになるからです。嘘ででも自分を良いように言えば、それだけで、自分で自分に馬鹿だと言っていることになるからです。
自分の真っ正直な心に、誇りがある人は、嘘で自分をきれいにすることを、何より恥ずかしいと思うのです。絶対にそれだけはいやだと思うのです。
花のように、ただそこにいるだけで、全身そのまま真実だという自分でいることが、もっとも誇らしい。心地よい。
わたしは、そういうものになりたいと思います。