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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

義を見てせざるは

2008-03-25 09:12:50 | てんこの論語

その鬼にあらずしてこれを祭るは、諂うなり。義を見てせざるは勇なきなり。(為政)

祭る必要のない神を祭るのは、ことあらばなんでもやってもらおうと甘えて諂うのである。人としてしなければならないことを見て、それをしようとしないのは、自分がないということである。



人生、試練は幾度もあるものですが、それに正面から立ち向かおうとはしない人に、いらだって言った言葉だと思います。自分でやろうとはしない。できることでもやろうとはしない。なんでやらないのだと。自分で自分を馬鹿にして、何にもできないと、何もやらない。

自分を馬鹿にしている人は、つらいことがあるときのために、神々に諂う。日ごろ祭っておりますので、どうか助けてくださいと。当然やるべき自分の努力は怠り、何でも神にやってもらおうとする。神々の苦い顔が思い浮かぶようです。現代では、保険に入るってことにあたるかな。いざというときのために、準備しておくのは、悪いことではないでしょうが、それで、人生を楽にいこうとばかりするのは、なんだか馬鹿みたいだ。

いったい、何のために生きているのか。何のためにその自分はあるのか。

きれいな服を着て、いい家に住み、かわいい伴侶と、かっこいい車と、豊かに暮らせる収入と、それだけあれば、まあいいや。なんにもしなくていいから。それでずっときて、突然、試練の壁にぶち当たったら、いったいどうしたらいいのかと、あわてるばかりで、なにもしない。何もできない。そういう人が、今たくさんいるようだ。

やらねばならないことは、たくさんある。今すぐ、自分ができることも、たくさんある。それなのに、やろうとしない。できるのに、やらない。それはなぜなのか。自分が、馬鹿になっているからです。何も勉強していない、何もやっていないから、何もできない。面倒なことは、みな他人にやらせてきた。人間はみな馬鹿だから、おまえは馬鹿だといって、命令すれば、たいていのことはやらせることができた。多くの人が、ほとんどそれだけで人生をやってきたのです。

そういう人が、初めて真剣な試練に出会うとき、だれも助けてくれない、自分だけでやらねばならない人生の課題に出会うとき、本当に驚きあわてる。何も自分ではやろうとせず、まずは誰かのせいにできないかとスケープゴートを探す。そうやって自分のしなければならないことから逃げるために、ずっともがき続けて、とうとう馬鹿なことになる。

いったいなぜこうなったのか。それは、自分を、馬鹿にしすぎたからです。すべての人間を、自分を含めて、馬鹿にしすぎたからです。

やらねばならないことは、やるのが、本当の人間です。それができるからです。その、本当の自分の力を信じずに、すべてをなんでもない馬鹿なものにして、何もやってこなかったから、そうなったのです。





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敝れたる褞袍

2008-03-24 09:47:36 | てんこの論語

敝れたる褞袍を衣て、狐狢を衣たる者と立ちて、恥じざる者は、それ由なるか。(子罕)

破れたぼろい綿入れを着て、立派な毛皮の服を着た者と並んで立って平気なものは、由だね。



礼を重んじた孔子にとって、衣服にかまわないことは、美徳のうちには入らないと思うのですが、少々これは、何かを皮肉りたかった含みがあると思います。

粗野で乱暴なことを、たびたび孔子にたしなめれれていた由(子路)ですが、巧言令色を何より嫌った孔子にとっては、こういう弟子の素朴なところが、好もしく見えることもあったのでしょう。

美麗な衣服を着て、格好だけでもえらく見せたがる者が、学問をさぼりがちであることに、孔子は苦い思いを抱いていたに違いないからです。手っ取り早く人に感心してもらうには、見栄えをよくするのが一番だと考える人は、昔も今もたくさんいます。人は何より、見栄えに一番だまされるからです。

最近では、衣服のデザインとか、布の材質などとかが、よほど発達して、たいていの人がそれを着るだけで、とてもかっこよくきれいに見える服があります。わたしも最近、ようやく美脚ジーンズとかいうのを買いました。なるほど、色といい形といいデザインといい、それをはくだけで、わたしの大根足がきれいに見えるのです。これはいいなと思う反面、少々まずいなと思うことがあります。

着るだけできれいに見える服があれば、人は自分の美しさにそれだけで満足して、それ以上の人間的努力を怠るだろうからです。この傾向は、若い人ほど顕著です。自分の若さ美しさを鼻にかけた若者が、年をとって見栄えの衰えた人を軽蔑し、だれも尊敬しなくなり、学ぼうとしなくなっています。見栄えがよければ、たいていのわがままは通ると思っているからです。

これは悲しい。もしそれなりの容姿であれば、それなりの勉強をして自分に力をつけ、何かができる立派な大人になれるだろうに、少々見栄えがよかったがために努力を怠り、楽しむだけで何もしなくなり、気がついたら何もできない大人になっている。勉強をしない人は、子供っぽいことを大いばりでやり、人を馬鹿にしてわがままばかりやってしまい、そして年をとって美貌を失ったときには、ほとんど何もなくなる。何もやってこなかったからです。

立派な人になるためには、勉強しなくてはいけないんです。それは昔から、ごくごく当たり前のことなんですが、それがいやだという人が、勉強したくないばっかりに、いろんなことをしてしまったという結果が、今のこの世界かな。

お若い方々、勉強しなさい。励みなさい。かわいいから、かっこいいからといって、油断していると、馬鹿なことになりますよ。




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君子は義に喩り

2008-03-23 10:56:30 | てんこの論語

君子は義に喩り、小人は利に喩る。(里仁)

立派な人は、義を先に考え、未熟な人は、自分が得することを、真っ先に考える。



「義」とは要するに、人としてやるべき正しきこと、ということです。ほんとうにいい人は、まず自分が得することよりも、みながよくなるために、自分が何をするか、何ができるのかを、考える。これは、小学校で習うような、とても基本的なことなのですが、大人になったら、これが馬鹿みたいな嘘になっている。おもしろいことですね。

子供にはきちんと教えるのに、大人になったらいつの間にか、嘘になっている。その転換は、どこらへんであるのでしょうか。

最近、人によく言われることなのですが、「おまえは何にもしない」と。それはわたしが、「悪いこと」や「ずるいこと」はなんにもしない、ということなんだそうです。それだけのことに、まったく目を丸くして、なんなんだこれは、という驚き方をされるのです。そして、それが本当に困るんだ、ということ言われるんです。

わたしは単に、わたしらしい生き方をしたくて生きているだけなんですが、(その結果が引きこもりなんですけど)彼らが言うには、一人でも正直に生きてる人がいると、自分たちが嘘になるからだそうなんです。

人間はみんな馬鹿だから、小人だから、自分の利ばっかり考えるものなんだと。そういう世界で生きるためには、悪いことやずるいことをしなくちゃ馬鹿なんだと。これが正しいんだよと。それが正しいってことにしなくちゃ、みんな馬鹿なことばっかりしてるから、つらいんだと。

だから、お前も馬鹿になれよ、みんな馬鹿になれよ、馬鹿ばっかりになれば、俺はつらくない。みんなおんなじだから。

問題なのは、これが、あまりにきつすぎる現実の問題に発展していることです。馬鹿が正しい、利に喩るほうが正しいにしたら、ひどすぎる問題が起きたのに、誰も何もしないということが起こったのです。義によって行動する人が、誰もいなくなったからです。

現実にひどい問題があるが、それを解決するためには、国家予算並みの報酬を人々に払わねばならない。そんなこと、誰もやらない。誰もやらないから、問題はひどくなるばかり、小手先で解決しようとしてもいたちごっこになるばかり。みんなずるいことや悪いことで切り抜けようとする。もっとひどくなる。もっとひどくなる。そしてとうとうひっくり返り、あふれかえる。

馬鹿になってしまった現実の前に、呆然となり、あわてるばかりで、何もできない。それが小人の結末というものです。「馬鹿がいい」にしてしまったら、どういうことになったかを、人は現実にありありと見ることになる。恐ろしいことになった。とりかえしのつかないようなことさえ、してしまった。

「義」によって行動した人はいたか? いました。ごくごく少なかったが。もはや苦しくなりすぎている現実の中にも、それはかすかに生きていた。

これからは、「馬鹿」にされていた「義」が、ようやく、動き始めることでしょう。さて。

馬鹿はいっぱいやりましたが、これから、これを、どうしていくべきか。

まずは、何をやりますか?



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たれかよく出ずるに

2008-03-15 08:56:21 | てんこの論語

たれかよく出ずるに戸に由らざらん。なんぞこの道に由ることなきや。(雍也)

外に出るのに、戸口を通らぬものはいない。なぜ人は生きるに、このまことの道をゆかないのか。



最近、その人生で本当に馬鹿なことをしてしまい、その結果が返ってきたことに驚いて、蒼ざめているという人に出会うことが多く、嘆息しています。

その人は、自由と勝手を勘違いし、人にわからぬところで、とてもずるいやり方で他人を陥れる、ということをずっとやっていたのです。それで自分はよい目をするようにもっていき、裏から人にやられて落ちていく者を、馬鹿だということにして、えらく鼻高々に生きていたのです。

それが今になって、痛い現実となって自分に返ってきたとき、いったい自分は何をしたのかと、馬鹿みたいに驚いているのです。彼らは、因果応報ということばは知っていましたが、どうやら本当に自分のしたことが自分に返ってくるなどとは、思いもしなかったようです。自分のしたことは、自分に返ってくる。これは、道を深く学んだものにとっては、身についた感覚となって備わっているものなのですが。

無知不勉強ほど、つらいものはありません。長年積み重ねてきたことが、どういうことになっていたのかを初めて知ったとき、あまりの現実に蒼白になり、その前に何もできない自分を初めて知る。何も知らなかった。馬鹿なことになってしまった。どうすればいいのか。あわてるばかりで、彼らは何もしない。それは、何も学んでいないからです。自分で何かをやるということを、ずっとやって来なかったのです。

豊かな暮らしと、自由を保証されたこの世界で、人は何でもできると思い、何でもやってきた。人を馬鹿にすることなど、簡単だった。いとも簡単な方法で、気に入らないやつをやり込めることができる。ずるいやり方で、人をつぶすことができる。それができるとわかったとき、馬鹿な人間はためらうこともなく、やってしまった。それはそれは、愚かなことだったのですが、今の時代、誰も彼らにそれを教えることはできない。自由を旗印に、大いにやっている彼らの、得意満面の顔を見つつ、人は苦い顔で時代を嘆くしかなかった。

そして嵐のような一時代が過ぎたとき、本当の自分の姿が見えてくる。馬鹿だったと、やっと気づいた人たちは、蒼ざめた顔で凍りつく。何も知らなかった。彼らは。

本当の自由とは、好き勝手に何でもできるという意味ではありません。まことの自分で、まことの自分をやることができる。それを自由というのです。学びを経た人は、まことの自分で何もかもをやろうとするとき、自分は愛しか行うことができないということを知る。自分とは愛だからです。このわたしとは、わたしだ。それが本当にわかったとき、自分とは愛だとわかる。

まことの道をまっすぐに学んできた人には、それがわかるのです。真の自由とは、すべてを愛でやることなのだと。

この道を、馬鹿だといって、あらゆる勝手をやってきた人の結果が、今ありありと見えようとしている。時代は、うそと幻の時代から、真実の時代へと移ろうとしているからです。

なぜ人は、まことの道を行こうとしなかったのか。それは、何も知らなかったからです。



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学を好むと

2008-03-02 11:10:06 | てんこの論語

君子は食飽くことを求むるなく、居安きことを求むるなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。(学而)

立派な人は、美食やよい家などを求めることはなく、やるべきことはすばやくやり、ことばには慎み、道の先達に師事して、未熟なところは正してゆく。勉強好きということですね。



論語がすきなのは、当たり前のことを、あっけらかんとまっすぐに言ってくれることです。これがほんとうにいい。青空に、一片の雲もなく、まったくそのとおり、という真実だけが、透き通るばかりの雄大さで笑っている。いいなあ。

最近、プライベートに試練が多いので、こういうことばが胸に響きます。毎日のように、不快な雑音が内部からも外部からもうるさく響いてきて、苛立ちから逃れることができず、つい言動が荒くなる。そういう自分にも不快を感じ、生きるのが少々苦しくなる。

そういうときは、自分の好きな書物を開くのがいいですね。

体調不良から、最近、活字量の多い書物は避ける傾向にあったのですが、昨日、久しぶりによさそうな本を買いました。6000円と、高かったのですが、出版社のよい仕事のようです。普段なら買い控える値段なのですが、何か、とても、美しいことばに飢えていたのでしょう。最初の一ページを読んだだけで、レジに直行してしまいました。今、その本をPCの横の書棚に置き、幸せそうに眺めながらこれを打っています。しばらく、これで、なんとかできそうだ。

わたしは、贅沢な食事といえば、ピザの宅配くらいだし、家はおんぼろだし、着てる服は亭主のお古だったりするんですが、いい本があれば、幸せだあ、という人間のようです。いいものがあったら、幸せ。

最近の作家さんには、あまり好きな人はいないんですが、不思議、おもしろい分野に、おもしろい人がいたりするんですよ、そういうのを見つけるのも好きです。古い本の中に、当たり前の美しい真実を、金剛石のかけらのように見つけるのも好き。また、まったく新しいところから、かわいい真珠の核のような、美しい芽を見つけるのも好き。



故きを温ねて、新しきを知る。もって師たるべし。(為政)

古典に美しい真実を学びながら、新しきものにその再生の美のあるを見る。それがわかる人が、教師というものでしょう。



永遠の真実というのは、いつも、新しく生まれてくるものです。古いものの中にある真実が、新しく生まれたもののなかに、変わらないでいて、まったく新しい形で生まれ出ている。その美しさがしみじみとわかる。そうなって初めて、人を導く教師ということができる。

新しく生まれてきた子供たちの中に、美しい真実の再生を見出し、それを正しく導くことができるからです。

新しく生まれてきた人たちよ。自分の本当のやりたいことを信じて、やっていきましょう。愛は、常に新しい。自分たちが今やっていることが、まったく新しい形を、愛に与えるのだと。それはすばらしく面白い、創造なのだと。



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巧言令色、

2008-03-01 10:15:04 | てんこの論語

巧言令色、鮮なし仁。(学而)

口はうまく、うわべだけは愛想がよい、そういうものには、愛は少ない。

 *

ここしばらく、歌にこっていました。詩も文語調がいいですね。論語は、言いたいことをまっすぐにはっきりといいますが、短歌のように、心を美しいことばにこめて、さりげなく伝えるのも好きだな。さて、人の心に、自分の気持ちを伝えるには、一体どっちのほうがいいでしょう? ともかく。

今日は論語です。

このことばは、日本のことわざにもなっているくらい、知られていることばですが、最近は、忘れられていることが多いような気がします。当たり前のことなのだけど、それがほんとだとわかると、やばい、という人が、世間にたくさんいるから、立派な人のことばだということにしといて、普段はないことにしておくっていう感じの。そういうことはたくさんありますね。

テレビをみても、さまざまなケースにそつなく対応し、意味があるのかないのかわからない言い回しを活用して、自分は立派な人だよって顔で、よくわからないことをしている人が多いです。それはそれはきれいな服をきて、スタイリストの指示通りの完璧な着こなしをして、なんとなくセオリーどおりのキャラクター、というのを演じている。おもしろいのか、それとも悲しいのか、やってはいるけれど、目はいつも、苦しい、と言っている。

うわべだけの美しさが、すべてだから、これがなくなると苦しい。けれど、ずっとこのままでも、なんにもないから、あまりに苦しい。どうしたらいいのか、わからない。何をすればいいのか、わからない。

馬鹿だと思われるのがいやだから、必死でやっている。けれど、もうみんなわかっている。わからないことにして、なんとかしているだけだ。

技術だけはうまいよ。でも、ほんとは、何もかもいやだっていって、ごまかしているだけなんだ。ほんとうは、もっと大切なことをしなくてはいけないのに、それからずっと逃げていることを、すべて、うわべだけでごまかしているんだ。それを、だれにも知られたくないから、こんなことばかりやって、これが正しいんだってことにしてもらっているんだ。

テレビの中の、きれいな人、ことばのうまい人の目は、たいてい、こんな感じのことを言っています。そして、見ている人は、だいたい、わかっています。けれど、はっきり言ってしまうと、いやな感じになる気がして、言わないだけなのです。しかし、最近、これがひどい害になっていることに気がつき始めた人が、もうこんなことはやめようと、言い始めています。

馬鹿なことはやめようと。

本当に愛ある人は、ことばにだすより先に、行動に出ます。自分をかっこよく見せることが目的じゃないからです。愛のために、やること、そのものが、目的だからです。そういう人は美しい。うわべを飾らなくとも、内側に光る、自分が本当の自分である喜びが、真実の幸福の美しさを教えてくれる。

その美しさは、うわべだけで生きている人が、どんなに巧みな技術で真似ようとしても、決してまねできないのです。

うわべでごまかすことができなくなったら、とても困る人は、今、たいそう苦しんでいます。もう、ばれてしまったからです。表面だけきれいなのは、みな、うそだということが。すべて、わかっている。けれど、やらないと、苦しい。それだけで、生きてきたから。

うわべだけの美しさが、馬鹿に見える。そういう時代になりつつあります。もう、人間は、それがいやになるほど、馬鹿みたいなことをやらされ続けてきたからです。








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宋朝の美あらずんば

2008-02-25 09:13:48 | てんこの論語

祝鮀の佞ありて、而して宋朝の美あらずんば、難いかな、今の世に免れんこと。(雍也)

今の世の中、顔がよくて口がうまくなければ、生きていけないようだ。

 *

祝鮀(しゅくだ)、宋朝(そうちょう)はともに人名で、前者は衛という国の祭官、後者は美貌で名高い宋の公子だそうです。

こんなことをいっては何ですが、最近、これはみごとだな、という男性を、とんと見なくなりました。やたらと清潔にして、髪型や服装をきれいにまとめた男性だとか、さらさらと軽い弁舌のうまい人だとかは、よく見るんですが。

テレビを見ても、立派に胸をそらして、俺は偉いんだぞ、というポーズをとっているのですが、なんだか今にも張りぼての芯が折れてしまいそうだ、という感じの人が多いのです。

外見は磨きまくり、どこかで聞いたようなことばを、完璧に磨き上げて論理構築した演説をし、一見すばらしいと感じさせるようになんとかつくりあげてはいるんですが、見ていると、苦しいと感じる。

これは、だれかが何とかしないと、みんなだめになってしまうぞ、という感じの人が多いのです。できない仕事を、無理にやったがために、ひっこみがつかなくなって、どうしよう、という目をしているんですよ。それが丸見えなのです。

要するに、外見を取り繕うことの上手な人ばかりが、成功するようになったから、こんなことになったんだな、という感じの男性を、テレビや新聞なんかで、よくみるようになりました。大変だなあ、と感じています。彼らは、一度、ほんとにやってることがばれると、どういうことになるかわかりませんよ。

 *

君子は言に訥にして、行いに敏ならんと欲す。(里仁)

 *

やるべきことをちゃんとやってる人は、あまりものを言わないものです。やってることそのものが、自分の報酬みたいなものだからです。自分はやれるものなのだという幸福が、なによりすばらしい。だから、特に主張する必要はない。わかってくれるものだけがわかってくれればいい。

格好だけ、完璧にすることが巧みな人は、たくさんいるのですが、そっちに一生懸命になる暇があったら、ほんとの自分を磨くほうが、ずっといいと思うんですが。

自分自身である自分を、何より幸福だと考えて生きている人のほうが、ずっと美しいと、わたしは思います。




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異端を攻むれば

2008-02-14 12:44:19 | てんこの論語
子曰く、異端を攻むれば、ここに害やまん。(為政)
(しいわく、いたんをおさむれば、ここにがいやまん。)

先生はおっしゃった。間違っていることをやめさせれば、この世に苦しいことがなくなるでしょう。

 *

このことばは、いろいろ解釈に迷いがあるようで、人によって現代語訳に違いがありますが、わたしはこんな風に訳してみました。

人それぞれに価値観は違う、という考えが主流になっている現代では、明らかに間違っていると思えることでも、自分と他人は違う、の一言でうやむやになってしまうことがあります。どう考えても、そんなことをすればひどいことになる、ということでも、それが間違っているということを、大きな声では言えない。「例えばこうではないかな?」と、控えめに婉曲に言わねば、手ひどい目にあわされてしまう。そういうことが、現代では、よくあります。

間違っていることでも、間違っているよといえない。それはどうしてなのか。それは、平等と自分勝手をわざと間違えて、好きなことをしている人が、たくさんいすぎるからです。正しいことと、間違っていることの、境目を、わからないようにしていなければ、いやなことになるという人が、たくさんいるからです。

このことばの現代語訳に、迷いがあるのも、今の世界では、正しいことを正しいと自信を持って言うことが、不可能に近いからなのです。手元の資料では、「間違っている意見でも、研究すれば、過ちを免れる」と訳してあります。どう考えてもへんな意見でも、いっぱしに扱わなければ、相手に憎まれて、やられてしまう。そういう意識があるからでしょう。

正義と偽善を混ぜ、汚い混合液をつくり、ありとあらゆるところに塗りたくっている。そういう人が、たくさんいる。ですから、正しいことをやりぬこうとすることが、厳しすぎるほどに厳しい。彼らは、正しいことなど、この世にあっては困ると思っている。そうでなければ、やっていることが、いやがうえにも馬鹿になってしまうからです。その馬鹿を、たいまいの金と暇と、あらゆる手間をかけてやっているということになるからです。

では、正しいことが、この世界にないのかといえば、決してそうではない。それは、舞台裏のすみに放って置かれているだけで、確かに存在している。それがなければ、すべてが苦しく、いやなものになってしまう。いえ、それがなければ、すべてがだめになってしまう。

当たり前の、真実こそが、正しい。あらゆる存在の美を、よしとしている愛が正しくなければ、すべてがないものになってしまう。それなのに、愚かな人は、それを間違っていることにしたいという。でなければ、自分が間違っていることになるから。

間違っていることを、正しいとして、生きていけば、どんなにうまくやっても、うその苦しさから逃げることができない。常に、嘘に真実の着物を着せるために、あらゆる努力をしていなければならない。そのために、あらゆる事実を曲げ、殺していかねばならない。

そうして、生きるものの世界が、あらゆる苦しみに、害に満ちることになる。

正しいことは正しく、間違っていることは間違っている。その明快な真実がわかっていれば、孔子のこのことばは、あっけらかんと、ただ事実を言っているだけになります。それが、解釈するものの首をあれこれひねるほどに迷わすのは、現代の真実が、恐ろしいことになっているということです。


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約をもって

2008-02-11 10:20:07 | てんこの論語

子曰く、約をもって、これを失う者は鮮なし。(里仁)

先生はおっしゃった。なにごとにも控えめを心がけなさい。そうすれば、滅多に馬鹿なことにはならんから。

 *

最近、テレビで大きな選挙戦のニュースが流れていますが、その候補者の演説を聞くたびに、思うことがあります。そんなことを言って、大丈夫なのか?

候補者は、上等なスーツをびしっときめ、身振り手振りも派手に、高々と美しい理想をかかげている。そんな麗しいことを、そんなに簡単に言っていいのか。わたしは心配になります。

彼らの言っている理想は、遠い昔から、人類がこの地上に実現しようと、苦労しつづけてきたものなのです。それを知っているものなら、それを実現することが、どんなに困難なことなのかを知っている。たくさんの人が、それをやろうとして、夢破れ、打ち砕かれていった。

彼らは、派手な舞台で、たくさんの支持者に囲まれながら、公然とそれを言うということの意味が、本当にわかっているのだろうか。

それが自分にできると、本当に思っているのだろうか。

少しでも、その理想の実現に着手し、何かの仕事をしてきた人なら、それがどんなに苦しいことかわかる。自分だけでなく、どれだけの人に助けてもらわねばならないか、わかる。人類の苦しみは、どれだけ深いものか、わかっている。

実際のところ、選挙の公約などは、破られて当たり前という感じで、支持者も考えているようです。おそろしくカッコイイことを言っても、別に守らなくてもいいんだという、浅はかな考えが、はびこっている。

しかし、言ってしまったことばは、返らない。いつしかそれは、必ず自分に返ってくる。かっこつけて、言ったことばに、見事に自分の愚かさを見破られる。そして、信用を失い、人が離れていく。何もかも、嘘だったのかと。

 *

巧言令色、鮮なし仁。(学而)

 *

近現代では、物質文明の巨大化から、魂の文化がおろそかにされる傾向がありました。ひところ言われた、人間疎外ということですが、そこから、自分の意見はとにかく、上手にはっきりと人前で表現せねばならないということになり、それから、演説の技術が発達した。まるで映画のようなかっこいいセリフ、アニメのように戯画化された候補者、笑い方やちょっとしたしぐさまで、マニュアルの存在を匂わせるかのように、どこか似通っている。最近の演説は、まるでショービジネスのようです。

やたらと美しく見せているけれど、見ていると苦しくなって、逃げてしまう。ここまで弁舌の技術が発達したら、嘘がはびこることを、どうして防げばいいのか。

 *

古え、言をこれ出ださざるは、躬の逮ばざるを恥じてなり。(里仁)

昔、人が軽々とものを言わなかったのは、それができなかったら恥ずかしいと思っていたからだ。

 *

実際、大きなことを言って、できなかったら、すごくかっこ悪いんですが、ずいぶんとみな、大きなことを言っています。みな、本当にそれができるのなら、この世界は、とっくにすばらしい理想の世界になっているはずなのですが。



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和して同ぜず

2008-02-10 09:27:43 | てんこの論語

君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。(子路)

君子は全体の和を重んじるが、自分の意見はちゃんと持っている。小人はやたらと人の意見に賛同するが、芯から和しているわけではない。

 *

前にも取り上げたことがあるような気がするんですが。今日はちょっと違った視点から見てみたいです。

孔子の生きていた昔と違って、君子と小人の差は、少なくなってきているような気がします。特に先進諸国においては、そう大きな差はない。小人的生き方をしている人でも、大事なところのスイッチをひねれば、自分も君子的に生きられることを、どことなくわかっている人が多い。

小人的生き方をしている人も、なぜ自分が同じて和さないか、わかっているのです。

それは、小人的なことをしている自分をいやだと感じているから。

いわゆる「自分のない人」は、自分が弱くつまらないものだと思っていますから、自分を守るために、多数の意見に賛同したがり、強い方につきたがる。だから、ちょっとでも相手を弱いと見ると、攻撃し、全体の和を乱してしまうということがある。昔なら、この自分の弱さに気づかなかったでしょうが、今は、中学生でもこのことを知っています。わからないのは、よっぽど、幼い人だけです。

「自分が一番」でないといやだという「子供病」の人は、どこにでもいますが、結局は、自分がまだ勉強不足で未熟だという事実がいやなのです。弱いから、社会が怖い。自分以外の人間がみんな自分より強く、すばらしいものに見える。だから、怖くて、逃げてしまう。

それは要するに、自分は弱くてつまらないものだと、自分で決めてしまったということで、それがまた、自分がいやになる原因となり、ますます、逃げてしまう。そうして、人は、「すべてはつまらないものだ。生きていく価値なんか誰にもないんだ」という虚無感にまみれて生きるようになり、すべてのものを、陰湿に攻撃するようになるのです。それによって、「自分が一番」になろうとするのです。虚無感を武器に「自分が一番」になれば、怖いものはない、と思う。みんな自分よりバカだからです。

こういう人は、みんなが和して何かをやっていくということを、邪魔したがります。どこかでまぜっかえして、すべてをだめにしてしまう。そして、みんなバカだ、にしてしまうのです。いわゆる、「困ったちゃん」という人ですね。

しかし、「自分が一番」というのは、実際には君子的生き方をしている人も、同じなのです。自分にとっては、自分が一番なのです。この自分を、なんとかしていくために、あらゆることをやっていく。未熟な自分を少しでも強くするために、学んでいく。それはやはり、「自分が一番」だからです。

君子が和すのは、みんな、だれもが、「自分が一番」なのだと、わかっているからです。だから、みんなの「自分」を尊重する。大切にする。それぞれの意見の中に、大切な自分の声があることを知っている。それが、それぞれにみんなちがって、みんな美しいということがわかっている。

「君も君なのか、おれもおれなんだよ」て感じでね。これが、愛の響き、というやつです。自分が自分であることの幸福、つらさ、苦しさ、それはだれもみんな同じなんだということを、君子は知っている。だから、愛する。

この、「自分が一番」のスイッチを、軽くひねれば、すぐにも君子になれる人が、けっこういますよ。今は。

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