その鬼にあらずしてこれを祭るは、諂うなり。義を見てせざるは勇なきなり。(為政)
祭る必要のない神を祭るのは、ことあらばなんでもやってもらおうと甘えて諂うのである。人としてしなければならないことを見て、それをしようとしないのは、自分がないということである。
*
人生、試練は幾度もあるものですが、それに正面から立ち向かおうとはしない人に、いらだって言った言葉だと思います。自分でやろうとはしない。できることでもやろうとはしない。なんでやらないのだと。自分で自分を馬鹿にして、何にもできないと、何もやらない。
自分を馬鹿にしている人は、つらいことがあるときのために、神々に諂う。日ごろ祭っておりますので、どうか助けてくださいと。当然やるべき自分の努力は怠り、何でも神にやってもらおうとする。神々の苦い顔が思い浮かぶようです。現代では、保険に入るってことにあたるかな。いざというときのために、準備しておくのは、悪いことではないでしょうが、それで、人生を楽にいこうとばかりするのは、なんだか馬鹿みたいだ。
いったい、何のために生きているのか。何のためにその自分はあるのか。
きれいな服を着て、いい家に住み、かわいい伴侶と、かっこいい車と、豊かに暮らせる収入と、それだけあれば、まあいいや。なんにもしなくていいから。それでずっときて、突然、試練の壁にぶち当たったら、いったいどうしたらいいのかと、あわてるばかりで、なにもしない。何もできない。そういう人が、今たくさんいるようだ。
やらねばならないことは、たくさんある。今すぐ、自分ができることも、たくさんある。それなのに、やろうとしない。できるのに、やらない。それはなぜなのか。自分が、馬鹿になっているからです。何も勉強していない、何もやっていないから、何もできない。面倒なことは、みな他人にやらせてきた。人間はみな馬鹿だから、おまえは馬鹿だといって、命令すれば、たいていのことはやらせることができた。多くの人が、ほとんどそれだけで人生をやってきたのです。
そういう人が、初めて真剣な試練に出会うとき、だれも助けてくれない、自分だけでやらねばならない人生の課題に出会うとき、本当に驚きあわてる。何も自分ではやろうとせず、まずは誰かのせいにできないかとスケープゴートを探す。そうやって自分のしなければならないことから逃げるために、ずっともがき続けて、とうとう馬鹿なことになる。
いったいなぜこうなったのか。それは、自分を、馬鹿にしすぎたからです。すべての人間を、自分を含めて、馬鹿にしすぎたからです。
やらねばならないことは、やるのが、本当の人間です。それができるからです。その、本当の自分の力を信じずに、すべてをなんでもない馬鹿なものにして、何もやってこなかったから、そうなったのです。