球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

読書メモ:沈黙

2022-07-21 | 日常
家にあった本の読書第二弾。
さっき家族に"本どうだった?"と訊かれて会心の返答が出来なかったから、
これらの作文を通じて自分が出来るようになりたいこと…というのには失敗している。
本当はそういう時にパッと会心の回答が出来るようにすることだ。
さておき、そういうことが出来るようになるために今日も作文。

遠藤周作作品の中でも一部に人気の"沈黙"。
あらすじは…
時は1600年代。日本にフランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教に来て以来急激に信者を増やし、長崎には多くの教会もできた。
しかし、既存の仏教を邪教と言い出したり現地の人々を誑し込んだことで
為政者の怒りを買い、キリスト教および宣教師は弾圧を受けるようになった。
そんな中、厳しい現状を知りながらなおキリスト教を布教すべく長崎に降り立ったポルトガルの司祭のロドリゴ。大方の"厳しい"予想に違わず、棄教して政府の狗となった元信者に騙され捕らえられてしまい、同士の死を目の当たりにし、最終的には信仰を棄て、日本人として生きることを強制させられる…

という話で、上に書いた最後の数行が250ページくらいに膨らんでいると思えば良い。感想を書きたいが難しい。難しい理由は、主人公ロドリゴの気持ちと読んでいる自分の思惑が交わらずに平行すること、この手の小説を読むときにどうしても出したくなる結論、"で、信仰というのは一体何?"の答えは出ないといった感じで、ぼんやりしたグレーがくっきりしたグレーになっただけ、何も単純化できるものは無かったといった読後感のためである。

1.自身の信仰(キリスト教)に対する思い
先に自分の立場を述べておくと、私は自分の家で引き継いでいる宗教(真言宗豊山派)、および神道については(神棚がある家では毎朝拝む程度に)自分の習慣として根付いている。が、それ以外の宗教については興味がないし、話を聞く気もない、頼むから関わらないで…という程度には嫌っている。
理由は…ある程度長く生きていればその手の信者には何回か出会うわけだが、人の信条を否定して自分の話ばかり始める…みたいな手合いにしか会ったことがない。迫害されろとずっと思っていた。
だからなのか、作品中で、"日本にはキリスト教などという概念は不要、余計なものを持ち込むな"とロドリゴに語る日本の要人の言葉にはいちいち共感しながら読んでいき、同士を失い絶望に沈むロドリゴの描写を見て、可哀想、でもいいザマだねとも思った。最後、彼が信仰を棄て、日本名を得て日本人と同じような扱いを受けて死んでいったところについて、少しは同情する気持ちも湧いて良いはずなのだが、読んでいるときの自分の気持ちは、"まぁ日本に来たのが間違いだったね"と言いたくなっていた。
俺がその時代に生きたら、きっと彼らを喜んで迫害しただろう。
自分のかけがえのないルーツにケチをつけた無礼者として。
生い立ちにケチを付けられる、というのが俺の地雷なのだろう。

2.ロドリグの立場で…信仰とは
劇中でロドリグのひとり言に、"不幸な人を救うために日本に来た"というものがあった。これは読者である自分の心が揺れる表現で、司祭個人としては"キリスト教を広めるために日本に来た"訳ではなかったのだ。
人を救いたい気持ち>キリスト教を広めたい気持ちということになるので。
こんなことを心から思える人がいたら尊敬できるという高尚さ、
上の章で書いたような罵倒が心に流れる。

そんなロドリグの高潔な志とは裏腹に、
棄教しないキリシタンは政府側によって惨たらしくも処刑されていく。
あるいは、ロドリグに"お前が棄教しないのであれば、日本人の信者を処刑する"と言って、自分が世話をした現地の信者を拷問にかけ殺してしまう。

あまりにもご無体な神。この地獄のような光景、
日本の汚い屋敷と部屋、蝉の声のやかましさの中には、
かつてフレスコ画で見たような神聖さは無かった。
自分が棄教しないがためにゴミのように淡々と死んでいく信者。
何故神はこのような状況において彼らに、ロドリグに救いを与えず、沈黙を保っているのか。信じているのに救われないではないか。何故だ。

小説だから何か奇跡が起きるのかと思いきや、そんなことは無く、
ロドリグはただ心身が衰弱し、最後に彼は"踏み絵"をするところまで追い込まれる。
他の信者に何度となく踏まれて一部が削れてしまっているキリストの顔が、
最後に彼を慰めてくれた。
"あなたが苦しむのをずっと見てきましたよ、さあ、私を踏みなさい"と。

ロドリグの心の在り方は尊いと思う。
しかし、、、ロドリグに深いシンパシーを抱いたとしても、
彼がどうすればよかったかはわからない。
最後にキリストの表情から、善いものを見いだせた彼は幸せだったかもしれないし、どうしようもなく不幸のようでもあるし。
だが遠藤周作はそれが幸せかどうかという話はしなかった。

信仰という題材で、人はかくも不確かなものを信じて迷うことを信仰というのです、という話であれば
一応僕は納得しよう。

恐らく人毎に相当感想が別れる小説だと思う。
これを目にされた方は、どうか一度読んでみるだけでなく、
素で感想というものを書いてもらいたい。

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