球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

我が信仰② 趣味にお布施

2019-03-12 | たぶん難解な話
先日の続き。
②一部の人が"オタクの趣味"を否定されることを何故極端に恐れるのか
について。しかし、いざ書こうとすると面倒くさい。
少し重めのテーマを書くことにしちゃったなぁと思い返しているところ。

さて、日本の宗教というと一応は神道と仏教が占めているそうだが、
形式的なところを置いておいて、個人が何を信仰するかが、非常に多様で、悪く言うといい加減。

少なくとも、うちは実家が真言宗豊山派であるし、神道も一部取り入れていることは知っているが、
信仰心とは切り離されている。
仏教の一派であることを感じるのは法事と墓参りと、実家に帰った際に仏さまに線香をあげるときくらい。
日常で辛いことがあったとして、いつか暗い雲が晴れると信じて仏を拝むことは無い。
多分、日本の過半数の家庭はそんな感じではないかと思う。

で、そういった人が何を心の拠所としているかというと、自分の趣味、になっている。
特撮が趣味なら、仏像を買うかの如く偶像(フィギュア)崇拝だってするし、
関連グッズを購入することで、"お布施をする"という表現すら使うことを嫌がらない。
というか、(信仰の対象が消滅することが一番の恐怖なので)むしろ進んで使っていると思う。

少なくない日本人の信仰心は、今や"趣味"にある。
人は何かに信仰を捧げないと生きていけないというのが本質か、と思わされる。

昔は子供が産まれれば"子供の幸せが自分の幸せ"という
次世代信仰に若いうちから移行する人が多かったが、
晩婚化の進む昨今、趣味信仰の長い人が増え、社会的に目立つようになったのだと考える。



トクサツガガガで取り上げた登場人物は、上記のように、特撮などに
自分の趣味に信仰を捧げた人のようになっていると考えていいだろう。
他者からの干渉に関して敏感なのもそのためだ。
趣味を否定されることはいわば"折伏(される)"である。

ユダヤ教とイスラム教の対立とかに比べるのはさすがに憚られるが、
宗教間の衝突に関しても、個人間での諍いであれば、似たような話になるのではないだろうか。
信仰の有利、不利は、"種の保存"に適しているかどうかで決まるのかな…
トクサツガガガの劇中では、"世間体の良さ"で有利、不利が決まっていたような気もするが
この辺りは情報が足りず、良く分からない。



もう一点、トクサツガガガのドラマをやっている間、
視聴者の視点が大きく二つに分かれていたことを指摘しておくべきだろう。
①トクサツガガガの登場人物たちのように、自分の趣味・世界を"守る"ことを強調していた人
②"趣味なんてオープンにすればいいじゃん、なんでコソコソするのかわからん"と言っていた人
この二者の言い分がtwitterでもずっと平行線で、互いに理解を示さず、貶めあっていたのが不快だった。


②の人の信仰のあり方が①の人とは違うから発言が分かれるのか?と考えた。
②の人は単一の趣味に信仰を置いていなくて、他にも多彩な趣味があって、
 信仰のリスク分散のようなことをしているからそういう発言ができるのか?
 それともこれまで運よく折伏の難に遭わずにこれたのか? そんな幸運ってあるのかな?

ここでグダグダするなら、大人しく神を崇めなさいと言い出す輩も出そうだ。
"移ろいゆく流行り事に信仰を求めるのは愚かです、今も昔も神はあなたを見守っています"
みたいな文句で。

後世これを見る人へ。
2019年、日本の一部で、大してニュースになることもなく、
小さな火種を日々生みだし、個人宗教戦争が起きていた。
トクサツガガガのドラマがやっていた時は、毎週twitterのトレンドとして
熱量の高い投稿が飛び交っていた。皆本気だった。

コメント
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