祭のころ、いとをかし。上達部・殿上人も、表の衣の濃き淡きばかりのけぢめにて、白襲どもおなじさまに、涼しげにをかし。
木々の木の葉、まだいと繁うはあらで、わかやかに青みわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこし曇りたる夕つ方・夜など、しのびたる郭公の、とほく「そら音か」とおぼゆばかり、たどたどしきをききつけたらむは、 なに心ちかせむ。
祭ちかくなりて、青朽葉・二藍の物どもおし巻きて、紙などに、けしきばかりおしつつみて、いきちがひ持てありくこそ、をかしけれ。末濃・むら濃なども、つねよりはをかしく見ゆ。
童女の、頭ばかりを洗ひつくろひて、服装はみな、綻び絶え、乱れかかりたるもあるが、屐子・沓などに、「緒すげさせ」「裏おさせ」など、持てさわぎて、「いつしかその日にならなむ」と、急ぎをしありくも、いとをかしや。
あやしう躍りありくものどもの、装束き、仕立てつれば、いみじく「定者」などいふ法師のやうに、練りさまよふ。いかに心もとなからむ、ほどほどにつけて、母・姨の女・姉などの、供し、つくろ上 ひて、率てありくも、をかし。
蔵人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬが、その日、青色着たるこそ、「やがて脱がせでもあらばや」と、おぼゆれ。綾ならぬは、わろき。
(枕草子~新潮日本古典集成)
祭は廿日なれば、けいごのめしおほせ十八日なり。上卿權中納言、賀茂よりあふひどもまゐりしを、大ばん所にて、人々さうじにおさんとて、こあふひえりて候ふよしほど、左頭中將、ことに色はなやかなるなほし、けいごのすがたいとうつくしうてまゐりたり。おなじく右頭中將もまゐりたり。これもはなやかに、あらぬすぢにほこりたるけしき、とりどりにみゆ。公忠もほそだちゆるさるとぞきゝし。けいごのすがたどもおもしろくて、辨内侍、
千早ぶるまつりのころに成りぬれば近きまもりも心してけり
(弁内侍日記~群書類從)
北まつりの頃賀茂にまゐりたりけるにをりうれしくてまたるゝほどに使まゐりたりはし殿につきてついふし拜まるゝまではさることにて舞人のけしきふるまひ見し世の事ともおぼえず東遊に琴うつ陪從もなかりけりさこそすゑの世ならめ神いかに見給ふらむとはづかしき心地してよみ侍りける
神の代も變りにけりと見ゆるかなそのことわざのあらずなるにも
ふけゆくまゝに御手洗の音神さびてきこえければ
御手洗の流はいつもかはらぬを末にしなればあさましの世や
(山家和歌集~バージニア大学HPより)
御禊の日、上達部など、数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌ある限り、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍までみな調へたり。とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。かねてより、物見車心づかひしけり。
一条の大路、所なく、むくつけきまで騒ぎたり。所々の御桟敷、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口さへ、いみじき見物なり。
(源氏物語・葵~バージニア大学HPより)
かくて、六条院の御いそぎは、二十余日のほどなりけり。対の上、御阿礼に詣うでたまふとて、例の御方々いざなひきこえたまへど、なかなか、さしも引き続きて心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、ことことしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前なども、くだくだしき人数多くもあらず、ことそぎたるしも、けはひことなり。
祭の日の暁に詣うでたまひて、かへさには、物御覧ずべき御桟敷におはします。御方々の女房、おのおの車引き続きて、御前、所占めたるほど、いかめしう、「かれはそれ」と、遠目よりおどろおどろしき御勢ひなり。
(略)
近衛司の使は、頭中将なりけり。かの大殿にて、出で立つ所より ぞ人々は参りたまうける。藤典侍も使なりけり。おぼえことにて、内裏、春宮よりはじめたてまつりて、六条院などよりも、御訪らひども所狭きまで、御心寄せいとめでたし。
宰相中将、出で立ちの所にさへ訪らひたまへり。うちとけずあはれを交はしたまふ御仲なれば、かくやむごとなき方に定まりたまひぬるを、ただならずうち思ひけり。
「何とかや今日のかざしよかつ見つつおぼめくまでもなりにけるかな
あさまし」
とあるを、折過ぐしたまはぬばかりを、いかが思ひけむ、いと もの騒がしく、車に乗るほどなれど、
「かざしてもかつたどらるる草の名は桂を折りし人や知るらむ
博士ならでは」
と聞こえたり。
(源氏物語・藤裏葉~バージニア大学HPより)
同じ人の、四月のみあれの比(ころ)、藤壺にまゐりて物語りせしをり、権亮維盛のとほりしを、よびとめて、「このほどに、いづ くにてまれ、心とけてあそばむと思ふを、かならず申さむ」などいひ契りて、少将はとく立たれにしが、すこし立ちのきてみやらるゝほどに、立たれたりし、ふたへの色こきなほし、さしぬき、若楓のきぬ、そのころのひとへ、つねのことなれど、色ことにみえて、警固の姿、まことに絵物語りいひたてたるやうにうつくしくみえしを、中将、「あれがやうなるみざまと、身を思はば、いかに命もをしくて、中々よしなからむ」などいひて、
うらやまし見と見る人のいかばかりなべてあふひを心かくらむ
「たゞ今の御心のうちも、さぞあらんかし」といはるれば、物のはしにかきてさしいづ。
中々に花のすがたはよそに見てあふひとまではかけじとぞ思ふ
といひたれば、「おぼしめしはなつしも、ふかき方にて、心ぎよくやある」とわらはれしも、さることと、をかしくぞありし。
(建礼門院右京大夫集~岩波文庫)
みづがきの久しき世より葵草かくるや神のめぐみなるらむ
(明題和歌集)
もろひとのけふみなかくるもろかつらあまねきかみのしるしなりけり
(為忠家後度百首~日文研HPより)
中務卿宗尊親王家の百首歌に 前右兵衛督教定
神まつるけふはあふひの諸かつらやそうち人のかさしにそさす
(新後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
夏歌中に 従二位家隆
乙女子かゆふかみ山の玉かつらけふはあふひをかけやそふらん
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
あふひくさかさりくるまのけしきまてけふはことなるものみとそきく
(夫木抄~日文研HPより)
何となく葵かけわたしてなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひよすれば、牛飼、下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ。見るもつれづ れならず。暮るゝほどには、たてならべつる車ども、所なくなみゐつる人も、いづ かたへかゆきつらん、程なく稀になりて、車どものらうがはしさもすみぬれば、簾、たゝみも取り拂ひ、目の前に淋しげになりゆくこそ、世のためしも思ひ知られてあはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
(徒然草~バージニア大学HPより)
御こしのかよ丁也すかたまて、世のためしにもかきをかんとせさせ給けり。わたらせ給ほとに、そこらひろきおほちゆすりみちてえもいはすかうはしきに、我もと思たる車とものしちをろさせてすきさせ給は、猶いとけたかし。みやしろにまいりつかせ給へるありさまなと、れいさほうのことに事をそえさせ給へり。殿もやかてとまらせ給ぬれは、いつれの殿上人、上達部かはかえらん。わか上達部なとは、つちの上にかたのやうなるをましはかりにて、よもすから女房たちと物かたりしつつ、あくるもしらすかほなるに、京にはまたをとせさりつる郭公も、みかきのうちには聲なれにけり。わかき人人のみみととめぬは、いかてかはあらん。
(狭衣物語~諸本集成第二巻伝為家筆本)
まつりの日あるきんたちの葵にたち花をならしていひたりし
いにしへのはなたち花をたつぬれは
とありしに
けふあふひにもなりにけるかな
(赤染衛門集~群書類従)
賀茂のまつりの物見侍ける女のくるまにいひ入て侍ける よみ人しらす
行かへるやそうち人の玉かつらかけてそたのむあふひてふなを
(後撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
祭のころ、大将内裏(うち)へ参りて侍りける車の中に、忍びて入れさせ侍りける 宇治の川波の藤中納言女
名をだにも聞かで年経る草なれど心に今日はなほぞかけける
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。(略)
今日も、所もなく立ちにけり。馬場の御殿のほどに立てわづらひて、
「上達部の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」
と、やすらひたまふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、
「ここにやは立たせたまはぬ。所避りきこえむ」
と聞こえたり。「いかなる好色者ならむ」と思されて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせたまひて、
「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになむ」
とのたまへば、よしある扇のつまを折りて、
「はかなしや人のかざせる葵ゆゑ神の許しの今日を待ちける
注連の内には」
とある手を思し出づれば、かの典侍なりけり。「あさましう、旧りがたくも今めくかな」と、憎さに、はしたなう、
「かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべて逢ふ日を」
女は、「つらし」と思ひきこえけり。
「悔しくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを」
と聞こゆ。人と相ひ乗りて、簾をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。
「一日の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩きたまふかし。誰ならむ。乗り並ぶ人、けしうはあらじはや」と、推し量りきこゆ。「挑ましからぬ、かざし争ひかな」と、さうざうしく思せど、かやうにいと面なからぬ人はた、人相ひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも、心やすく聞こえむも、まばゆしかし。
(源氏物語・葵~バージニア大学HPより)
祭の日、御前に人ずくなにて候ふに、葵に御手習をせさせ給ひて
木綿(ゆふ)かけて思はざりせばあふひぐさ標(しめ)の外(ほか)にぞ人を聞かまし
御返し聞えむも映(は)ゆければ、木綿(ゆふ)を御み帳の帷(かたびら)に結ひつけて立ちぬ
標(しめ)の内を慣れざりしより木綿襷(ゆふだすき))心は君にかけてしものを
(和泉式部集~岩波文庫)
久しくをとせぬ人のもとへ、祭の日葵につけて申つかはしける よみ人しらす
忘れにしそのかみ山のあふひ草けふたにかけて思ひ出すや
返し 前参議経盛
けふのみや思ひいつらんあふひ草我は心にかけぬ日そなき
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
四月祭の日、葵につけて女につかはしける 藤原顕綱朝臣
思きやそのかみ山のあふひ草かけてもよそにならん物とは
(新勅撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
六条院、須磨に移ろひ給はんとて、故院の御墓に詣で給ひける御供にさぶらひて、賀茂の下の御社をかれと見渡すほど、斎院の御禊に仮の御随身にて仕うまつれりしこと思ひ出でられて、下りて御馬の口を取りて聞こえける 源氏の衛門大夫
引き連れて葵かざししそのかみを思へばつらし賀茂の瑞垣(みづがき)
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
藤原雅宗朝臣、近衛使つとめ侍ける時、思つゝけ侍ける 前中納言雅孝
ことしまて四代かけきつるあふひ草たえぬ契は神やうくらん
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
少将隆房、賀茂祭使つとめけるに、車の風流よく見えければ、又の朝大納言実国、父の大納言嶐季のもとへ申おくり侍る、
色ふかき君が心の花ちりて身にしむ風のながれとぞみし
返し、
子を思(おもふ)心の花の色ゆゑや風のながれもふかくみえけむ
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
少将成家朝臣、賀茂祭の使せし時、出立は右の大臣(をとゞ)の六条堀河なりき、権大納言実家卿とぶらひわたりて、舞人の座の二献の献盃といふ事などせられて後、又の日かれより、昨日の次第ことごとよろしかりしこと、出立のところ大臣の家なるに、亭主ゐられてことおこなはれき、ありがたき例也などいはれて侍り返ごとの次に、つかはし侍りし
かげなびく玉のうてなのむしろにも君を待てぞ光そひける
たちかへりて、返し
いさやその光までとは知らねども思ふ心の色は見えけん
又、返し
さラに又むかしのゆへもしのばれて袖の涙も色ぞかはりし
権中納言公衡朝臣も出立の所にとぶらひきたりて、舞人の初献の献盃などせられしことも喜申さむとせしほどに、祭の日北の陣にて御覧ありけるを、すこし雨の降りたりけることなおいひて、少将許にいはれたりける 中将
昨日しもうるほす雨の気色にて時にあふひを近しとぞ見る
返し 少将
村雨も時にあふひのしるしとは君がとふにぞ思ひ知りぬる
(長秋詠藻~「和歌文学大系22」明治書院)
まつりの使つとめ侍し事を思出て読侍ける 後宇多院宰相典侍
忘れすよいのるみ山のあふひ草かけし昔は遠さかれとも
(新拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
後鳥羽院かくれさせ給うける時、御月忌始賀茂祭の日にあたり侍けれは、通忠卿の母の許に申つかはしける 修明門院大弐
思ひきやあふひをよそのかさしにてたれも涙のかゝるへしとは
返し 右近大将通忠母
かたみそとみるに涙そかゝりけるあふひはよそのかさしと思ふに
(続千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
祭の日、いとつれづれにて、「今日は物見るとて、人びと心地よげならむかし」とて、御社のありさまなど思しやる。
「女房など、いかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」などのたまふ。
中将の君の、東面にうたた寝したるを、歩みおはして見たまへば、いとささやかにをかしきさまして、起き上がりたり。つらつきはなやかに、匂ひたる顔をもて隠して、すこしふくだみたる髪のかかりなど、をかしげなり。紅の黄ばみたる気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、うるはしからず重なりて、裳、唐衣も脱ぎすべしたりけるを、とかく引きかけなどするに、葵をかたはらに置きたりけるを寄りて取りたまひて、
「いかにとかや。この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、
「さもこそはよるべの水に水草ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる」
と、恥ぢらひて聞こゆ。げにと、いとほしくて、
「おほかたは思ひ捨ててし世なれども葵はなほや摘みをかすべき」
など、一人ばかりをば思し放たぬけしきなり。
(源氏物語・幻~バージニア大学HPより)
さて、この世の御栄花をととのへさせ給はぬかは。御禊よりはじめ、三日の作法、出車(いだしぐるま)などのめでたさは、御心様(ざま)、御有様、大方優(いふ)にらうらうじくおはしましたるぞかし。(略)
後一条院・後朱雀院、まだ宮たちにて、幼くおはしましけるとき、祭見せたてまつらせ給ひけるに、御桟敷の前過ぎせさせ給ふほど、殿の御膝に二所(ふたところ)ながら据ゑたてまつらせ給ひて、
「この宮たち、見たてまつらせ給へ。」
と申させ給へば、御輿の帷子より、赤色の御扇のつまをこそ指し出ださせ給ひたりけれ。殿をはじめまゐらせて、
「なほ、心ばせめでたくおはする院なりや。かかるしるしを見せさせ給はずは、いかでか見たてまつらせ給ふとも知らまし。」
とぞ、感じたてまつらせ給ひける。院より大殿に聞えさせ給ひける、
ひかり出づるあふひのかげを見てしかば年へにけるもうれしかりけり
御返し、
もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のしるしなるらん
(古本説話集~講談社学術文庫)
粟田殿の三郎、前頭中将兼綱の君。その君の祭の日ととのへたまへりし車こそ、いとをかしかりしか。檜網代といふものを張りて、的の形に彩られたりし車の、横さまの縁を、弓の形にし、縦縁を矢の形にせられたりしさまの、興ありしなり。和泉式部の君、歌によまれてはべるめりき。
十列の馬ならねども君乗れば車もまとに見ゆるものかな
さて、よき御風流と見えしかど、人の口やすからぬものにて、「賀茂明神の御矢目おひたまへり」と、言ひなしてしかば、いと便なくてやみにき。
(大鏡~新編日本古典文学全集)
御楔にはやへやまぶきをひねりかさねて。やへ++のへだてには。あをきひとへをかさねつゝ。いくへともしらずかさねてをしいだされたり。まことのはなのさきたるゆふはへと見えて。いみじくおかし。まつりの日はうらうへのいろなり。こきふたりうすきふたり。やがておなじいろのうはぎ。からきぬなり。くれなゐのこきうすき。むらさきやまふき。あをき蘓芳などみなふたりづゝなり。うへさにはむらごにてはかまそはきももからきぬも。うすものにてもんにはかねをし。ぬいものどもをし。こゝろ++にゑなどかきたれば。すゞしげになまめかしうおかし。かんたちめもとのうちのおほとのをはじめたてまつりておはしませば。いみじうめでたし。かんたちめてんじやう人のこるなし。日ごとにいみじき見ものにてなんありける。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)
(長保二年四月)十一日、戊午。
退出した。左府の許に参った。未剋の頃、右中弁と同車して御禊を見物した。左馬頭(藤原相尹)も一緒に見た。一条大路と大宮大路の辻に列して見ることは、長年の例である。ところが、天皇が一条院にいらっしゃって、便宜が無かったので、左近馬駐(うまどめ)の南において、列して見た。斎院(選子内親王)に供奉した者は、大宮大路において下馬した。堀河橋の東に到って、また馬に騎(の)った〈これは宣旨である。〉。
十四日、辛酉。
内裏に伺候した。賀茂祭が行なわれた。(略)
この日、天皇は蔵人助の陪従及び祭使たちの飾馬(かざりうま)を御覧になった。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛弘四年四月)十七日、癸未。
賀茂斎院御禊を見物した。右兵衛佐(藤原)道雅が、織物の袍を着していた。赤色のようであった。衆人は、頗る不審に思った。前駆(ぜんく)は、右衛門佐(藤原周家)の代わりに、内匠頭(たくみのかみ)藤原理邦が勤めた。次第使(しだいし)は、元の者が障りを申した代わりに、右馬助(うまのすけ)(平)孝義が勤めた。右衛門佐は四位であったので、本人は奉仕しなかったのである。
十九日、乙酉。
朝から天が陰(くも)った。巳から午剋の頃、雨が降った。衆人が歎いていたが、未の初剋の頃に、天が晴れた。雲気は無かった。万人は喜んだ。近衛府使(藤原)頼宗が、東対から出立した。出立の儀が終わって、内裏に参った。一宮(敦康親王)を賀茂祭の御見物に向かわせ奉った。出立の儀に来られた公卿は皆、桟敷に参った。申剋であった。内蔵寮使(くらりょうし)は権頭(藤原)能通、近衛府使は頼宗、中宮使は実成、東宮使は(高階)業遠であった。馬寮使(めりょうし)は(藤原)通任であた。祭使が善を尽くし美を尽くしたことは、未だこのような年はなかった。雨が晴れた事は、神感の致すところである。公卿十五人が来られた。
二十日、丙戌。
内大臣(藤原公季)と東宮傅に同行して、賀茂祭使の還立(かえりだち)の儀を見物した。公卿十余人が同行した。未剋に祭使が還った。この間、中宮使の供の者である右近衛(秦)正親に内大臣が衣を下賜した。内大臣の随身である左近衛府の末忠に、私が衣を下賜した。還饗(かえりあるじ)は、常と同じであった。公卿十二人が参列した。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛弘七年四月)二十四日、癸酉。
賀茂祭が行なわれた。「上卿は右大将(藤原実資)であった。ところが、この何日か、穢(え)に触れた。そこで中宮大夫(藤原斉信)が代わって行なった。(藤原)朝経弁もまた、煩っていた。右中弁(藤原)重尹が代わって行なった。行事は宰相右中将(藤原兼隆)であった」と云うことだ。「中宮大夫の家の桟敷と仁和寺僧都(済信)の桟敷で、各々、瓦礫を投げ合って、闘乱を行なった。中宮大夫の家の仕丁が傷を被(こうむ)った」と云うことだ。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(元久元年四月)十六日。天晴る。賀茂祭の日なり。今日、殿下院の御桟敷に参ぜしめ給ふと云々。入道、密々に仰せて云ふ、執柄桟敷に参ずる事、未だ其の例を聞かず。晴の御幸の時、大臣已下参入すと雖も、猶此の事無しと云々。左衛門督、今年此の御桟敷の事を経営、海内の財力を竭すと云々。小童等見物す。予、門戸を出でず。後に聞く、御桟敷の公卿、殿下・太政大臣・源大納言・前大納言・二条中納言・左衛門督以下と云々。風流に泉を造り作す。綾を以て簀子となし、帷の紺を以て石帖となし、銀を以て茵となすと云々。使少将、度々落馬すと云々。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(承元元年四月)十三日。天晴る。鳥羽を出て、京に帰る。未の時、一条万里小路の辺りに出づ。数刻相待つ(見物)。酉の時許りに、透車二両渡る。一両(院の御牛。卯の花・杜若を付く。郭公飛ぶ。牛童、赤色。仲隆か)。次で車、金銅のおもだか・金銅のすはまを以てし、銀の千鳥物見に飛ぶ。家季か。次で弁の車、上官等渡る。右兵衛佐仲隆、■(有へん+龍)近衛弘澄・蛮絵の随身二人・雑色六人・取物四人。左衛門佐家季(舌短の鐙、泥障・伏輪、大和鞍)・■(有へん+龍)守(殿の左府生)・所従前に同じ。尉三渡る。兵衛佐重保(蔵人五位、初度の御禊、尤も凡なり)、童一人・白張の雑色少々。右衛門佐代隆範、同一人・雑色、萌木六人(夾尻、衣を出さず)・宮主、所の雑色・同乗(白重)。長官、少将頼房、蛮絵の随身二人(白き雑色)。次で御車(糸毛)。此の間に松明。次で糸毛三両・檳榔六両の中、童女あり。夕陽已に没す。新月漸く昇る。斎院の御禊、未だ見ざるに依り、見物し蘆に帰る。
十六日。夜より雨降る。申酉許りに間々止む。賀茂の祭。見物の志無きに依り、門戸を出でず。伝へ聞く、近衛の使、右少将実嗣朝臣。車以下、催馬楽、風流の車(伊勢の海、金銅、すわうかひ付き相交はる)。童、顕文紗・萌木・紅打ちたる泥絵・金銅すはまの錦棚。雑色、二藍・紅衣・笠の上に梅花の紅白・廻りに柳梅の花笠と云々。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)