凄かった。今年のナンバーワンかも?福知山シネマで1週間上映して
くれたおかげで、映画館でみれました。
連合赤軍についてよく知っているわけではないので、これが実録なのかは
わからないです。だけど自分がこの若松監督の表現した当時の環境に
ひとりのメンバとして存在していたらおなじこと(同士殺しへの加担)を
したのではないか、逃げられなかったのではないかと
納得させられる迫力がありました。
また、この事件の影響の大きさについて改めて考えさせられました。
新左翼運動、学生運動が急激に失速する契機になったといわれる
事件ですが、それにとどまらず今の自分や多くの日本人が
革命を夢見ない あるいは、すでに進行していた経済最優先の日本に
漫然とみんなが従うという状況になるのを、後押ししている事件
なのではないかという気がしました。
私は当時小学生で、おぼろげながらテレビをみた記憶がありますが、
振り返ってみれば同じ月には「札幌オリンピック」がありました。
開会式は、その頃ようやく各クラスに設置されたテレビでみました。
生徒は皆釘付けになっており開会式の途中で担任の女先生が
ほかのクラスに「家庭科を教えにいってくるからXX先生が来たら
テレビ消すのよ」と言って出て行って、数分して「向うでもテレビ
みてたので、帰ってきた」と言われたのを覚えています。そんなのどかな
小学生時代の同じ月にあさま山荘事件は起こりました。こちらも釘付け。
瞬間最高視聴率89%。誰もが話題に。「あの鉄の球でぶち壊せ」
だとか、家に帰ると毎日「どうなった」から会話がはじまりました。
でもその後あきらかになった連合赤軍内でのリンチ(山岳ベース)事件
については、誰とも話した記憶がありません。新聞で死体が置かれた
挿絵を見た覚えがあるのですが、なんだか見てはいけないものを
見てしまったような気がしました。皆も衝撃が強すぎて、あまりにも
おぞましくて、話題としてさけたのではなかったろうかと思います。
そして、この映画で一番印象に残ったのは、まさにその
「あさま山荘への道程」のリンチ事件でした。
主演は、坂井真紀。まあ3時間超のなかで主演はころころと変わるので
この表現は適当ではないかもしれませんが全体で誰が一番印象深かったか
といえば、粛清された遠山美枝子役の坂井真紀。役者としてはアイドル
的なイメージをもっていたし、遠山という人については全く知らなかったので
見るまでは?と思ったのに映画では、追い詰められ壊れてゆく姿をみごとに
演じていました。全体を通してとぎれなかった緊迫感のなかでも特に極限に
近づいていた場面でしょう。あとから知ったことですが、遠山美枝子は
若松監督の『赤軍-PFLP世界戦争宣言』(1971年)の上映運動を
手伝っていたとのこと。監督の特別な思い入れがうかがえます。
もうひとり監督の特別な思い入れがあるのではと感じたのは、前述の映画に
現地協力した重信房子。冒頭のほとんど記録映像のなかで実写で登場。
『学費値上げ阻止!』などの立看がならぶ大学のキャンパス。
アジっているのを立ち聞きしている、ちょっと時代を飛びぬけたような容姿の
女性。(演じるのは、『約三十の嘘』伴杏里。モデル出身)そこに、はじめて
きましたという感じでやってくる遠山が横に立ち二人は視線を一瞬合わせる。
歴史的の瞬間!?_その後二人が腕を組んでデモするなどいろいろあって、
夜の街で二人がわかれるシーンがまた印象的。「フー」「ミエコ」と呼び
あう二人だが、もう生きて会うことはないとお互いが思っているのが伝わって
くる。<字幕 赤軍派国際委員 重信房子 レバノンへ脱出>
もっとも私は、ここで遠山が日本に残ったということは、山で殺される側に
なるんだろうなあと予想し、重信は今も生きてるわけだから、海外に出た方
が生き延びるんだと思ったのだが、実際当時の感情は逆。
以下は文藝別冊から引用したブログの引用
「『フーの方が、先に死ぬんだねえ』/ミエコはいった。/わたしは、
何も答えなかった。/ミエコの目に、みるみる涙が浮かんできた。
わたしに『死ぬ』という言葉を言ったのはミエコがはじめてだった。」
引用終わり
考えてみれば当然で、まさか日本でそれも同志で殺しあうなんて
誰も思っていなかったことでしょう。レバノンに行ったほうが、
死ぬ確率は高かったはず。運命だなあ。
書き出すと、あのシーン、この役者さんと、いろいろ語りたくなる
映画ですが、もう朝です。でも、もうひとつだけ、ネタバレ気味ですが
ラストのところ。一番若いメンバが叫ぶところ。
このシーンは、映画の冒頭で『この作品に描かれた事件や出来事は
すべて事実だが一部フィクションもふくまれる』とあったフィクションの
部分だろうけど、実録とはいえただ事実を描いて観客に判断を委ねる
のではないところがよかったと思いました。監督の生の声というか、
若い人への思い入れを感じました。
また機会があればつづき書きたいです。ではまた。
くれたおかげで、映画館でみれました。
連合赤軍についてよく知っているわけではないので、これが実録なのかは
わからないです。だけど自分がこの若松監督の表現した当時の環境に
ひとりのメンバとして存在していたらおなじこと(同士殺しへの加担)を
したのではないか、逃げられなかったのではないかと
納得させられる迫力がありました。
また、この事件の影響の大きさについて改めて考えさせられました。
新左翼運動、学生運動が急激に失速する契機になったといわれる
事件ですが、それにとどまらず今の自分や多くの日本人が
革命を夢見ない あるいは、すでに進行していた経済最優先の日本に
漫然とみんなが従うという状況になるのを、後押ししている事件
なのではないかという気がしました。
私は当時小学生で、おぼろげながらテレビをみた記憶がありますが、
振り返ってみれば同じ月には「札幌オリンピック」がありました。
開会式は、その頃ようやく各クラスに設置されたテレビでみました。
生徒は皆釘付けになっており開会式の途中で担任の女先生が
ほかのクラスに「家庭科を教えにいってくるからXX先生が来たら
テレビ消すのよ」と言って出て行って、数分して「向うでもテレビ
みてたので、帰ってきた」と言われたのを覚えています。そんなのどかな
小学生時代の同じ月にあさま山荘事件は起こりました。こちらも釘付け。
瞬間最高視聴率89%。誰もが話題に。「あの鉄の球でぶち壊せ」
だとか、家に帰ると毎日「どうなった」から会話がはじまりました。
でもその後あきらかになった連合赤軍内でのリンチ(山岳ベース)事件
については、誰とも話した記憶がありません。新聞で死体が置かれた
挿絵を見た覚えがあるのですが、なんだか見てはいけないものを
見てしまったような気がしました。皆も衝撃が強すぎて、あまりにも
おぞましくて、話題としてさけたのではなかったろうかと思います。
そして、この映画で一番印象に残ったのは、まさにその
「あさま山荘への道程」のリンチ事件でした。
主演は、坂井真紀。まあ3時間超のなかで主演はころころと変わるので
この表現は適当ではないかもしれませんが全体で誰が一番印象深かったか
といえば、粛清された遠山美枝子役の坂井真紀。役者としてはアイドル
的なイメージをもっていたし、遠山という人については全く知らなかったので
見るまでは?と思ったのに映画では、追い詰められ壊れてゆく姿をみごとに
演じていました。全体を通してとぎれなかった緊迫感のなかでも特に極限に
近づいていた場面でしょう。あとから知ったことですが、遠山美枝子は
若松監督の『赤軍-PFLP世界戦争宣言』(1971年)の上映運動を
手伝っていたとのこと。監督の特別な思い入れがうかがえます。
もうひとり監督の特別な思い入れがあるのではと感じたのは、前述の映画に
現地協力した重信房子。冒頭のほとんど記録映像のなかで実写で登場。
『学費値上げ阻止!』などの立看がならぶ大学のキャンパス。
アジっているのを立ち聞きしている、ちょっと時代を飛びぬけたような容姿の
女性。(演じるのは、『約三十の嘘』伴杏里。モデル出身)そこに、はじめて
きましたという感じでやってくる遠山が横に立ち二人は視線を一瞬合わせる。
歴史的の瞬間!?_その後二人が腕を組んでデモするなどいろいろあって、
夜の街で二人がわかれるシーンがまた印象的。「フー」「ミエコ」と呼び
あう二人だが、もう生きて会うことはないとお互いが思っているのが伝わって
くる。<字幕 赤軍派国際委員 重信房子 レバノンへ脱出>
もっとも私は、ここで遠山が日本に残ったということは、山で殺される側に
なるんだろうなあと予想し、重信は今も生きてるわけだから、海外に出た方
が生き延びるんだと思ったのだが、実際当時の感情は逆。
以下は文藝別冊から引用したブログの引用
「『フーの方が、先に死ぬんだねえ』/ミエコはいった。/わたしは、
何も答えなかった。/ミエコの目に、みるみる涙が浮かんできた。
わたしに『死ぬ』という言葉を言ったのはミエコがはじめてだった。」
引用終わり
考えてみれば当然で、まさか日本でそれも同志で殺しあうなんて
誰も思っていなかったことでしょう。レバノンに行ったほうが、
死ぬ確率は高かったはず。運命だなあ。
書き出すと、あのシーン、この役者さんと、いろいろ語りたくなる
映画ですが、もう朝です。でも、もうひとつだけ、ネタバレ気味ですが
ラストのところ。一番若いメンバが叫ぶところ。
このシーンは、映画の冒頭で『この作品に描かれた事件や出来事は
すべて事実だが一部フィクションもふくまれる』とあったフィクションの
部分だろうけど、実録とはいえただ事実を描いて観客に判断を委ねる
のではないところがよかったと思いました。監督の生の声というか、
若い人への思い入れを感じました。
また機会があればつづき書きたいです。ではまた。