凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

屈原の死 

2005-08-10 13:02:18 | 十八史略を読む
十八史略を読む-62 戦国の七雄-5 楚 その3 屈原の死
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から

秦の恵王は斉を攻めようと思ったが、楚が斉と手を組んで秦に対抗することを恐れ一計を案じた。

策士張儀を楚の懐王のもとに送り込み「もし、王が斉に通じる国境の関所を閉じて、姓との国交を絶つならば、わが国の領土ふたつ6百里を献上しましょう」

懐王はこれを真に受け、北の斉に勇者を送り込んで、斉王を辱めた。斉王は激怒して、急遽秦と同盟を結んだ。

さて懐王は約束の地を受け取るために使者を秦に送った。すると張儀は「お約束の土地は広さ6里でしたな」

懐王は大いに怒りすぐさま秦に軍を進めたが、大敗を喫した。

秦は昭王の代となり、楚の懐王と盟約を結び、続いて懐王に書簡を送り、「是非、もう一度武関でお目にかかりたい」といった。

屈原が反対したが懐王は会見の場にのぞんだ。秦は会見の場で懐王を捕らえ、秦に連行してしまった。懐王は秦で悶死してしまった。

屈原は懐王に信任されていたが、讒言にあって遠ざけられた。名作「離騒」はその怨念を綴ったものである。

その後屈原は頃襄王のとき、再び讒言にあって、江南の地に流され、ついに汨羅(べきら)に身を投じて死んだ。

秦は楚を攻め、楚都郢(えい)を陥れた。楚は陳に都を移した。さらにまた頃襄王が死んで、考烈王が即位すると、都を寿春(じゅしゅん)に移した。


最新の画像もっと見る