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商鞅の改革

2005-08-23 17:25:44 | 十八史略を読む
十八史略を読む-74 戦国の七雄-7 秦 その4 商鞅(しょうおう)の改革

秦の孝公の時代、黄河・華山以東には強国が6,小国が10余あったが、皆、秦を夷狄(いてき)同様に見なして排斥し、諸侯の会盟にも参加させなかった。

孝公は現状を打破しようとして、「奇計を用いて富国強兵を実現するものには高い地位と領土を与える」と布告を出した。

これを知って、衛の公孫鞅(こうそんおう)が秦に来た。

彼は孝公に会い、帝道、王道、覇道を説き最後に富国強兵の策を示した。

孝公はたいそう喜びすぐに、法令の改革に着手しようと思ったが、人民の非難を浴びることを恐れて迷っていた。

公孫鞅は「ご心配には及びません。人民というのは着手する段階でわからせなくとも,成功の結果だけを享受させればよろしいのです」と言って孝公をはげました。

かくして、法令の改革は成った。その内容は次のようなものであった。

『五人組、十人組の制度を設け、人民を互いに監視、告発させて、組ごとの連座制を布く。他人の罪を知りながら告発しないものは、腰斬(ようざん)の刑に処する。告発したものには敵を斬ったのと同じ賞を与え、一方、罪人をかくまったものには、敵に降伏したのと同じ罰を与える』

公布後、まもなく、太子が新法を犯した。

公孫鞅は言った。「人民が法を守らないのは、上のものがこれを犯すからだ」

しかし、太子は世継ぎであり、本人を処分するわけにはいかない。そこで、侍従長の公子虔(けん)を処罰し、教育係である公孫賈(こうそんか)を入れ墨の刑に処した。

この効果はてきめんで、国中一人残らず法に服するようになった。


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