凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

唐朝なる

2007-06-01 21:32:44 | 十八史略を読む Ⅳ
十八史略を読む-Ⅳー15-大帝国 唐の成立5-唐朝なる


ついで李淵は、一軍を割(さ)いて河東(かとう)を包囲させて背後の備えとし、自らは軍を率いて西に向かった。また、後嗣(こうし)の建成(けんせい)には要衝の地潼関(どうかん)を守らせ、世民には、渭水の北岸の地を平定させた。これによって、関中で兵を挙げたものたちは、はたしてことごとく李淵のもとに降った。


そこで、これら諸軍をあわせ率いて都の長安を包囲し、ついに勝利をおさめた。都に入城した李淵は、恭帝を立て、自らは代丞相・唐王となり、九錫を賜った。それからまもなく、恭帝より帝位を禅(ゆず)られた。即位後、ただちに長子の建成(けんせい)を皇太子に立て、世民を秦王、元吉を斉王とした。


「十八史略 Ⅳ 帝王の陥穽 :徳間書店、花村豊生、丹羽隼兵訳、1987年7月第六刷」から

李淵ついに立つ

2007-06-01 21:30:36 | 十八史略を読む Ⅳ
十八史略を読む-Ⅳー14-大帝国 唐の成立4-李淵ついに立つ


世民の説得によって、李淵の気持ちはかなり傾きかけたが、それでもなお優柔不断に態度を決しかねていた。斐寂が一計を案じた。ある日、酒宴を開いて李淵を招き、その席に晋陽の離宮にいる煬帝の行幸用の宮女を侍らせたのである。そして酒宴がたけなわとなったとき、斐寂が李淵に向かって、「これが煬帝に知れたら殺されずにはすまない」といってなかば脅迫的に決起を迫った。
そうこうするうちに、はたして李淵の危惧していたことが起こった。


その頃煬帝は、李淵の敗戦の責任を問うべく使者を派遣することにした。李淵の身柄を江都に引っ立ててこいというのである。このニュースをキャッチした世民は、斐寂とともに最後の決断を父に迫った。
「もはや一刻も猶予はなりません。今すぐご決意を。ここ晋陽は兵馬ともに精強、しかも離宮の倉には、百万の物資が蓄えられております。いま煬帝は長安におらず、その留守を預かる代王は若い。ために関中の豪傑たちは、ぞくぞく兵を挙げております。父上がもし精鋭を率いて西進を開始なされば、彼ら豪傑たちを傘下におさめることなど、まるで袋の中のものを手にとるようにたやすいことです」


李淵は、ここでついに決意し、すぐさま兵を募った。近隣の諸郡から志願するものがぞくぞく馳せ参じてきた。
世民が、まず兵を率いて西河郡を攻略した。そして郡丞の高徳儒(こうとくじゅ)を捕らえて引きすえ、「貴様は先年、つまらぬ野鳥を目出たい鸞(らん)だなどといって主君を欺いたけしからん奴。このたびわれわれが兵を起こしたのは、、貴様のような佞臣を誅殺するためだ」といって、斬り捨てた。


勢いに乗った世民は、さらに兵を進めて霍邑(かくゆう)を取り、続いて臨汾(りんふん)、絳郡(こうぐん)を撃破し、韓城、馮翊(ふうよく)を降伏させた。


「十八史略 Ⅳ 帝王の陥穽 :徳間書店、花村豊生、丹羽隼兵訳、1987年7月第六刷」から

解語の花

2007-06-01 21:23:47 | 中国のことわざ
中国のことわざ-285 解語の花(かいごのはな)

美人を形容するコトバです。「語を理解する花」という意味で初め、楊貴妃を玄宗皇帝が指して言った言葉です(唐に続く五代の王仁裕の撰による「明元天宝遺事」という玄宗にまつわるエピソードをまとめたものから取った話)

唐の長安の主宮殿である大明宮の境内に,人工の太掖池(たいえきち)があり、四季それぞれ美しい花を咲かせていました。
ある秋の一日、玄宗は楊貴妃と共に身内の一族を連れて、今を盛りの白蓮(びゃくれん)を鑑賞していました。
一同、口々に白蓮の美しさをたたえていると、玄宗が楊貴妃を指して言いました。
争か我が解語の花に如かん(いかでか わがかいごの はなにしかん)
白蓮の花も美しいけれども、自分が愛するこの「解語の花」には勝てないだろうという意味です。

田川さんは一度でも良いからこんなせりふを明眸皓歯の女性に言ってみたいものだと書かれていますがまったく同感です。

出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

明眸皓歯

2007-06-01 21:21:32 | 中国のことわざ
中国のことわざ-284 明眸皓歯(めいぼうこうし)


難しい四字熟語ですが、ワープロで打てば一発で出るのですね。


広辞苑では「澄んだ瞳と白い歯。美人の形容に言う」とあります。
杜甫が楊貴妃を形容した詩句から出てきたものです。
杜甫は中国を代表する詩人ですが、科挙に合格できなくて、そのために高位高官に登ることができませんでした。しかしそれが幸いしたのでしょう、安禄山の乱で捕らえられたときも、小物だと言うことですぐに釈放されました。詩聖といわれた人ですから、相当の能力はあったのでしょう。もしも杜甫が科挙に合格していれば、“国破れて山河あり”で始まる「春望」などの名句は生まれなかったかも知れません。


杜甫は玄宗の離宮があった曲江に足を向けました。そこで読んだのが七言古詩「哀江頭」です。まずは冒頭四句。

少陵の野老 声を呑んで哭す
春日潜行す 曲江の曲
江頭の宮殿 千門を鎖し
細柳新蒲 誰が為に緑なる

春の一日、玄宗の栄華をしのぶために曲江を訪れたが、そのあまりの変わり様に涙が出た。賊中にあっては、その目や耳がはばかられるので、身をひそめてゆき、泣くにも声を呑まなければならない。今はなんと離宮の宮殿のあまたの門も閉ざされている。春たけなわ、柳も蒲も新緑をつけているが、もうそれを愛でるべき人もいない、

少陵の野老とは杜甫のことで、誰が為は玄宗と楊貴妃です。


第13句から4句は詠います。
明眸皓歯 今何にか在る
血汚の游魂 帰るを得ず
清渭東流して剣閣深し
去住彼此 消息無し

あの明眸皓歯の楊貴妃は今どこにいるというのか。
血に汚された御魂はあてもなくさまようて、ここに帰ることもできないのだ。
渭水は相変わらず長安の北を流れているが、玄宗皇帝は、けわしい剣閣のかなた遠い蜀の国におられる。
二人は今や互いに遠く離れ消息もつかないでいるのだ。

時に757年、楊貴妃は既に、一命を果てていました。
全編、憂愁に閉ざされた詩ですね。
それだけに明眸皓歯がひときわ輝いていると田川さんは書かれています。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行



風声鶴唳

2007-06-01 21:19:07 | 中国のことわざ
中国のことわざ-283 風声鶴唳(ふうせいかくれい)


広辞苑によれば「“ひ水の戦い(“ひ”はさんずいに肥と書く)で敗れた前秦軍の壊走ぶりから“、風の音や鶴の鳴き声をも敵かと思って驚き恐怖心をつのらせること。怖じ気づいた人が、ちょっとしたことにも驚き怖れること」とあります


泰治元年(265年)司馬炎は三国鼎立の中から天下を統一して晋を建てましたが、それから40年後には、再び天下騒乱の時代に入ります。様々な民族があちこちに国を建ててはめまぐるしく交代を繰り返した五湖十六国の時代です。晋も長安の都を洛陽に移して、以後を東晋といいました。


長安から晋を追い出したのは符堅の前秦王朝でした。符堅はさらに東に攻め込み、“ひ水”を挟んで東晋軍と対峙しました。383年のことです。
両軍の軍勢を見ると符堅の軍は百万、東晋の軍は僅かに8万これでは勝負になりません。そこで東晋の将である謝玄は一計を案じて使者を符堅のもとに送って伝えさせました。
「東晋軍は速戦をのぞみたいが、このままでは多勢に無勢で川も渡れない。どうか少しばかり引いてほしい。その間は大軍というものがどのように引いてゆくのか見物させてほしい。そちらが引いた後に我が軍は川を渡るから、そこで決戦をいたそう」
符堅の幕僚達はこぞってその手に乗るなと反対しました。しかし符堅は同転んでも勝利間違いなしと有頂天になっていたか、あるいは謝玄の申し出を「飛んで火にいる夏の虫」とうけ取ったのかも知れません。
「我が軍を引き、敵に“ひ水”を渡らせるその間に数十万の鉄騎をくりだして敵をつぶそうと言って」謝玄の申し出を受け入れた。


前秦側は突然の思いがけない引き上げ命令で混乱が起きたのは自然の成り行きでありました。謝玄はそれを狙いすましたように、八千の精鋭を選んで川を渡り攻め込みました。不意をつかれた前秦軍は算を乱して敗走しました。
その様子を「晋書」謝玄伝は次のように記しています。


「風声鶴唳を聞き、皆な以て王師の己に(すでに)至ると為す。草に行き露に宿り、重なるに飢凍を以てし、死者中に七八」
風の音、鶴の鳴き声を聞いても、それが東晋が攻め込んできたと思いこんだ。そして荒れた草原に追い込まれ、夜霧にぬれ、折り重なるように倒れて飢えと寒さで十中七、八人が死んでいったというのです。


符堅はこの戦いで負傷して長安に逃げ帰りましたが、前秦王朝はたちまち斜陽を迎え、其の翌年の684年後秦の姚萇に滅ぼされました。
田川さんは富士川の合戦で「風声鶴唳」があったのではないかと記しておられます。源頼朝軍と平維盛軍が富士川を挟んで対峙したときのある夜のこと、水鳥がいっせいに飛び立ちました。平維盛軍はそれを源頼朝軍と思いこみ算を乱して逃げ、一敗地に塗(まみ)れたのでした。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/37251868.html

蟷螂捕蝉

2007-05-25 04:40:49 | 中国のことわざ
中国のことわざ-282 蟷螂捕蝉(とうろうほぜん) 蟷螂、蝉を捕う(とうろう、せみをとらう) 


カマキリに関する成句をもう一つ紹介しましょう。
「蟷螂捕蝉」は目前の利益だけに目が向いて,大局を見ないことのたとえです。


時は春秋時代、呉王が楚を討とうとしました。
まわりのものたちは皆、不利と考えていましたが、「妨げんとするものは死罪とす」という呉王のコトバに恐れをなして口を皆閉ざしておりました。
そのような中で、呉王に仕えていた若者が次のようなパフォーマンスを行いました。


呉王はある朝、庭園を見て驚きました。
一人の若者が弓を持って朝露にまみれて歩いているのです。
呉王はいぶかって、「何をしているのか」と若者に聞きました。
すると若者はこう答えました。
「今、朝露の中を蝉が気持ちよさそうに鳴いています。満足げな蝉だがカマキリにねらわれています。かまきりはもうすぐご馳走にありつけると満足げです。だが、カマキリは雀にねらわれています。雀ももうご馳走は目の前だと満足しています。けれども、私がその雀を矢で射殺そうとしているのです」
聡明な呉王は若者の意図するところをさっと掴みました。楚をねらう自分はこの蝉のもののような存在だと反省したという次第です。
このたとえ話は、中国ではよほどお気に入りと見えて「荘子」や漢の劉向が撰した「説苑」にもあるそうです。


出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

蟷螂の斧

2007-05-24 05:59:29 | 中国のことわざ
中国のことわざ-281 蟷螂の斧(とうろうのおの) 


蟷螂はカマキリの漢名です。
広辞苑によれば、「自分の微弱な力量を顧みずに強敵に反抗すること。はかない抵抗のたとえ」とあります。


この「蟷螂の斧」は古く「荘子(そうじ)」の中にあらわれています。
紀元前6世紀、春秋時代の魯の国に顔闔(がんこう)という賢人がおりました。彼の人物を見込んだ衛の霊公に、太子の守り役として招かれました。しかし太子は子供ながらに酷薄な性格の持ち主で、顔闔は受けるのがよいか迷って、やはり衛の賢人として知られた“きょ伯玉”に相談しました。
その時のコトバは次のとおりです。
「汝、夫(そ)の蟷螂を知らずや。其のひじを怒らせて車轍にあたる。其の任に勝(た)えざるを知らざるなり」
君はカマキリを知っているだろう。腕を振り上げ斧をかまえて車に立ち向かい、ゆくてをとめようとしたりするではないか。それは、普段弱い虫を残酷に殺しているので、身の程知らずになっているからだ。そして、そういう人物(霊公の太子のような人物)に対しては、いっぺんに改めさせようと正面から向かうのではなく、相手にあわせるようにしながら、だんだんと欠点を改め教えさとすべきだ、と伯玉は言っているのです。


時代は下って、三国時代の詩文家陳琳が劉備に袁紹の側につくようにすすめた檄文の中にもこのコトバが出てきます。陳琳は万里の長城の守りを固める兵士の労苦をうたった五言古詩「飲馬長城窟行」の哀切きわまりない名詩を作ったことで知られています。
「蟷螂の斧を以て、隆車(りゅうしゃ)の隧(すい)を禦(ふせ)がんと欲す」
春秋時代の“きょ伯玉”が言った言葉と同じ意味です。
カマキリの斧で、行きよい良く走る車(隆車)の行くて(隧)をさまたげ、ふせごうとするということで、弱者が身の程知らずに自分より強いものに立ち向かうことのたとえです。無謀な行動のたとえでもあります。
自分が世の中で一番強いと思いこんでいる、いわゆる「夜郎自大」に対する戒めもこめられた成句です。


前漢末期の乱世に立った曹操にとって、最初の敵は袁紹でした。建安五年(200年)の官渡の戦いで曹操が袁紹を破る前、一時、袁紹の方が優勢でした。そこで陳琳は袁紹に加担しました。そして、曹操に対抗しようとしていた劉備に、袁紹の側につくよう檄文を送ったのです。
曹操を「蟷螂の斧」にたとえ、曹操はもうダメだ、すぐにでも「隆車」の袁紹に踏みつぶされるだろうから、袁紹側にお付きなさいと劉備にすすめたのです。
なお、袁紹が官渡の戦いで敗れると、陳琳はこんどは曹操の側についてしまったと言うことです。まあ節操がないものと思いますが、戦国の時代の智恵だったのかも知れません。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

無用というコトバ

2007-05-23 07:51:56 | 中国のことわざ
中国のことわざ-280 無用というコトバ 


久しぶりに興膳宏さんの漢字コトバ散策から取り上げました。
無用を広辞苑で引きますと、三つの意味があって、①役に立たないこと。必要でないこと②してはならないこと。天地無用。口外無用③用事がないこと。無用の者入るべからずとあります。今回は①に関してです。


この「無用」というコトバは、老荘思想に特有の考えで、世間的な常識に対する逆説を含んでいます。現代においては、少しでも無駄なものを削って、短い期間の間に成果を上げようとする風潮が強いですね。しかし、ムダは人や社会にとって本当に無用なのかもう少し突き詰めて考える必要があるのではないかと、冒頭に興膳さんは書かれています。


荘子の逍遙遊篇には、曲がりくねり、節くれ立った無用の大木を巡る議論が見えます。
荘子はそれを木材に使うなどという考えを捨てなさい。そもそも見渡す限りなにもない荒野に立つ木の下で、ゆったりと歩き回ったり寝そべることができるのは、この木の役立たずのおかげで木が大きく成長してくれた恩恵によるものだと認識すべきであると言っているのです。


荘子によれば、「無用」なるものをムダとして片っ端から切り捨ててしまえば、結局は人間の存在自体が危機に瀕すると指摘しています。


興膳さんは独立行政法人化された国立大学を例に取られています。六年間の中期計画期間中に、何らかの目のつく成果を出して自己の存在をPRしようとするあまり、企業との共同研究や委託研究ばかりが重要視されて、本来大学が行わなければならない「無用」の学問の有用性が忘れられてしまうことを強く懸念されています。


企業経営でも同じことが言えるのでしょう。目先の利潤に目が行き、ともすれば研究開発がおろそかになる傾向があるようです。こうして企業は将来の飯の種を失って、次第にじり貧状態に陥いります。そのようなリスクが垣間見えるようです。


出典:広辞苑、日本経済新聞8月27日漢字コトバ散策から
詳しくは新聞をご覧ください。

傾城傾国

2007-05-22 19:24:14 | 中国のことわざ
中国のことわざ-279 城を傾け国を傾ける 傾城傾国(けいせいけいこく) 


「城」は中国語では、「城市」つまり都市の意味である。傾城傾国は一つの都市,一つの国を投げうち傾けさせるほどに、男にとって魅力に満ちた妖艶な美人の意味である。美人にうつつをぬかして入れあげ、「病膏肓(やまいこうこう:物事に熱中してどうしようもない状態になる)」となれば、ついには「傾城傾国」となるのである。


この語は「漢書」外威伝に出てくる。
漢の武帝の時、いわば宮中歌舞団のリーダーに李延年という男がいた。ある日、武帝の前でこんな歌を歌った。

北方有佳人      北方に佳人あり
絶世而独立      絶世にして独り立つ
一顧傾人城      一顧すれば人の城を傾け
再顧傾人国      再顧すれば人の国を傾く
寧不知傾城与傾国   寧んぞ知らず傾城と傾国と
佳人難再得      佳人は再びは得難し

「北方に絶世の美人が群を抜いて独り立っている。一度見れば城を傾けさせ、二度見れば国を傾けさせるほど、忘れがたい魅力がある。傾城傾国したとてかまわぬではないか。こんな美人は二度と手に入らない」というのである。


こうして李延年が武帝にすすめそそのかした美人は、ほかならぬ自分の妹であった。
自分の妹を武帝に売り込むためのPRソングだったのである。
英雄色を好むのたとえ通り、心動かされた武帝が召しだしてみれば、まさに絶世の美女であった。武帝はただちに皇宮に入れ、妾妻の一人にした。
李夫人への武帝の寵愛は深いものがあったが、美人薄命のたとえで李夫人は若くして亡くなってしまった。武帝の悲嘆は深く、予め自らの墓として造営しておいた陵墓たる茂陵(もりょう)の傍らに葬った。現在の西安西郊にある茂陵の傍らに寄り添うように営まれている李夫人の墓を見ることができるという。それは武帝の数ある女性の中で李夫人ただ一人受けた待遇であった。


中国史には数多くの美女が登場するが、その中から傾国の美女とされる女性を次に挙げておきましょう。
1 呉王夫差は越王句践から西施を授かり、彼女の色香に惑い、越に滅ぼされる
2 最後まで虞美人をそばから離さなかった項羽は垓下で劉邦軍に敗れ覇権へののぞみを絶たれる
3 唐の玄宗皇帝は妖艶な楊貴妃と戯れ、政治に興味を失って安禄山の乱が起き唐王朝が衰運に向かった。

美女はこのほかにもたくさんいますね。例えば、夏と殷の滅亡の原因となった妻妾の末喜(ばつき)と妲己(だつき)がいます。彼女らは傾国の美女とはいわれていません。どのように中国でいわれているのかというと可哀想にも「毒婦」です。「毒婦」はなまめかしく美しいが男を惑わす腹黒い女です。
虞美人や楊貴妃は悲しい最期を遂げたましたが、せめてもの慰めは毒婦と呼ばれなかったことでしょうね。


出典:田川純三。中国名言・故事人生篇、日本放送出版協会、1990年6月20日

新疆は石油・天然ガスの調達・企業進出の戦略拠点

2007-05-22 19:18:47 | 中国知っ得情報
中国新疆ウイグル地区はカザフスタン、キルギス、タジキスタンなど中央アジア諸国との経済一体化が急速に進んでいるそうです。現在これらの地域の豊富な天然資源の獲得に向け各国のエネルギー外交が続いていますね。そんな中、中国政府は新疆ウイグル地区が国境を接する地勢を生かして中央アジア諸国との連携を強めているのです。

中国のプラスティックパイプ製造最大手の会社は水不足に悩むカザフスタンの首都アスタナまで水不足の解消のため460kmの水道管パイプ敷設事業を実施しています。
ウルムチには自由交易市場がつぎつぎと建設されています。その一つ市中心部にある「辺疆商貿城」には、2軒のホテルと税関が隣接しており、中央アジアから訪れたバイヤーが市場で買い付けた商品をワンストップで輸出できるそうです。
テーマからはずれますが、一つ大きな問題、それは偽物のソニーのMP3(新せんで製造)が100元(約1500円)で堂々と売られていて、それがカザフスタンやロシアに行くと80-100ドル(1万から1万2千円)となるということです。

中国の民間コンサルタントの一人は、「新疆と中央アジアにはシルクロードを通じた2000年の交易史がある。石油など豊富な外貨収入があっても産業のない中央アジアに、中国企業が進出し、国家建設に協力するのは“近水楼台先得月(水辺にある高閣は月見にもってこい”という意味で、利益を得やすいことを指す中国のことわざ)」と述べ、新疆と中央アジアの経済一体化には米国や日本が追随できない地政学上の利点がある」と強調しています。

毎日新聞5月22日朝刊から