奥能登出身のものにとっては、夏・秋まつりといえば「キリコ」まつりです。私が子どものころ、
8月7日は七夕まつりで子どもだけでキリコを作成します。高さもせいぜい2-3M?と思います。
かつぎながら、練り歩きました。終わったあと、みんなでカレーライスを食べるのが楽しみだった。
そして秋は大人のまつり。高さは7m前後?当時は電線が引っかかる時もあり、上って除けました。
鮮やかな色の装いでキリコをかつぎ、台上には太鼓や鐘をたたくこどもたち。灯の入った提灯のもと
で小さな子どもたちも載せてもらう。7-8基のキリコが数メートル動いては止まり、家の軒先で酒
やごちそうを頂きながら、次にいいく。それぞれの集落に入ると当該のキリコが先頭に誘導し、終わ
って、次の集落にいくと、一番最後にまわり、当該集落のきりこが先頭になる。
各家では、「ヨバレ」と称して、客人、友人を招いて接待、歓談します。食器は
すべて輪島塗のお椀、女たちが手作りの料理を準備しました。翌日は、食器をお湯で洗浄し、配膳箱に
しまい、来年に備える、そんなことが続けられていました。9月のキリコまつりは、収穫のあとの感謝
で、昔からの伝統で、祭礼日はそれぞれ違い、「ヨバレ」のはしごもよくありました。20年以上前か
ら、キリコの担ぎ手もいなくなり、キリコの下に台車をつけ、4-5人でも動かせるようにする。過剰
な接待は家庭への負担、主婦への負担も大きいことから、簡素化がさけばれ、今は「ヨバレ」は少ない
かも知れません。
「キリコ」はもともと神輿のお供をし、道中を照らし、神様を守る役目。深夜
、神社に集結し、乱舞して奉納する。海辺や川岸に近い所に松明をもやして盛り上げます。能登は海に
囲まれ、神々が海からやってきた、その神を迎え、また送るため海辺近くに松明所が設置されたとも
いわれます。母なる海へ戻るため、キリコを海に投げるところもあります。有名な七尾・石崎町や珠洲
市三崎町のキリコ(奉燈)は高さ10m以上、重さも1tを超す大型のもの、当然担ぎ手も30-50人
を要します。記録では正保3年(1647)ごろ、神輿のお供に笹竹の上部に小さな角形の行灯をつけた
「笹キリコ」が原型ともいわれます。輪島の神社に残っているそうです。それがいつの間にか巨大、華美
となってきました。時の領主が民衆の祭りへの祈りを利用し統治のため、集落ごとに競わせたとか、江戸
時代の日本海交流のなかで、全国の祭りのよさを取り入れたとか、諸説があります。全国にも奥能登に
しか残っていない、貴重な文化です。
24日、母が心配で珠洲の実家によったとき、偶然祭礼の前日でした。14-5年ぶりに、ふるさとの
キリコまつりをみることができました。母も元気そうで安心。