
東海道本線の電化区間における輸送力増強と輸送の効率化のために登場した、
日本で最初の本格的な長距離列車向けの電車である。
昭和24年~昭和33年にかけて652両が製造された。
製造を担当したメーカーは帝国車両、日本車輛、東急車輛、宇都宮車輛、新潟鉄工所、
近畿車輛、日立製作所、川崎車輛、汽車会社で日本国内にあった鉄道車両メーカーの
大半が関わった。
編成の組み方は投入路線によって異なるため省略する。
形式別の概要は以下の通り。
■基礎形式
クハ86形:制御車。3等車。
モハ80形:中間電動車。3等車。主制御装置、集電装置、電動発電機、CP搭載。
サハ87形:中間付随車。3等車。
サロ85形:中間付随車。2等車。
モユニ81形:郵便荷物室付きの制御電動車。単行運転可能。後にクモユニ81に改称。
■形態別の分類及び改造による形式
クハ86001~クハ86020:正面3枚窓。半鋼製車体。
クハ86021・クハ86022:正面2枚窓。丸妻。半鋼製車体。
クハ86023~:正面2枚窓。折妻。半鋼製車体。
・100番台:座席間隔拡大車。サロ85形に100番台は無し。
・300番台:座席間隔拡大・全金属車体。
クハ85形:中間付随車に運転台を取り付けて制御車としたもの。
・0番台:サロ85からの改造。
・100番台:サハ87形から改造。
・300番台:サロ85形300番台・サハ85形300番台からの改造。
サハ85形:サロ85形からの格下げ改造車。
・0番台:そのまま格下げたもの。特に改造されてない。
・100番台:0番台を3ドアに改造したもの。
・300番台:サロ85形300番台からの格下げ。ごく短期間で全車がクハ85形300番台に改造。
モハ80形800番台:身延線用にパンタ部分の低屋根化を実施したもの。
モハ80形300番台から改造。
モハ80形850番台:上記と同じ内容でサハ87形300番台を電動車化。
クモニ81形100番台:クモユニ81形から郵便室を無くして荷物室にしたもの。
車体は半鋼製で昭和32年製造の300番台からは全金属車体である。
正面は非貫通で初期車が丸妻の3枚窓、昭和25年製造のクハ86021号から
2枚窓となった。
クハ86021号とクハ86022号は3枚窓車と同じ台枠を使った関係で丸みのある
独自のスタイルであったが、クハ86023号以降は真ん中で折り目の入った
スタイルとなり、「湘南電車」の代名詞となった。
この前面デザインは昭和30年代前半まで一大ブームとなり大手私鉄から路面電車、
果ては軽便の気動車までが採用するにまで至った。
塗装はオレンジとグリーンのいわゆる「湘南色」を始めて採用し、鉄道車両の
カラー化の先鞭をきった。
正面部分を中央で半円形で塗り分けた「金太郎」塗りとなったが、これが決まるまで
幾度か塗り替えを重ねた。
また湘南色とあわせて横須賀線用の「スカ色」も開発されたが、この時は在来車両の
片面ずつに湘南色とスカ色で塗り分け試験塗装車として運用したことがある。
この他には「茶坊主」と呼ばれたクリームと茶色の関西急行色(今の新快速に相当)が
ある。
行き先表示は側面にサボが設けられているのみで正面には名前付きの優等列車でのみ
ヘッドマークが付けられる。
車内は2等車、3等車とも4人向き合わせの固定クロスシート(ボックスシート)で
ドア付近のみロングシート(3等車)である。
2等車はソファタイプの座席で間隔も広めにとられている。
3等車は初期車はシート間隔が定員を稼ぐため従来の客車よりも狭く、背もたれの
モケットも腰半分より下にしかなかったが、これらは後に改善されている。
トイレはクハとサハ、サロに設けられており、いずれもデッキに出入口を設置して
車内とは分離している。
サロ85形の初期車では横須賀に駐留していた進駐軍を意識して洋式便器を
当初より採用していたが、日本人には見慣れないものであったため、途中から
和式に変更された。
なお、サロ85形は長距離運用や優等列車での運用も考慮して車内販売控え室も
設けられていた。
ドアは片側2箇所・デッキ付きで全て片引き戸である。
この当時の東海道線は客車用に低めのホームであったが、ドアステップは設けられて
いない。
主制御装置は抵抗制御で初期車については戦前からの標準品である電空カム軸式の
CS-5を採用したが、昭和26年以降に登場したものは改良型の電動カム軸式のCS-10を
採用した。
この制御装置の採用で制御段数の多段化が可能となり、ブレーカーなどの機器の
配置を見直したため、乗り心地や故障時の安全性の向上が図られている。
ブレーキは空気自動ブレーキであるが、中継弁として電磁弁を各台車に設けており、
長大な編成でも安定したブレーキ力を得る事に成功している。
台車は初期車が枕ばねを重ね板バネとした箱型台車、中期がこれの枕ばねを
コイルバネとしたもの、最終的にはペデスタル式のコイルバネ台車となった。
いずれの台車も車軸をコロ軸として長距離・高速走行での発熱も抑えている。
モーターの駆動方式は吊り掛け式で従来車と変わらない。
これらの走行機器は従来のものをベースに改良を加えたもので、既に関西私鉄では
本形式以上の性能を持つ車両が戦前から運用されていたが、本形式では広範囲で
運用することや大量に製造することからコストを抑制するため、贅沢で特殊な
機構より堅実な今ある技術の延長上にあるものを改良して使うことを選択している。
この考え方は後の151系「こだま」型や0系新幹線の開発にも活かされている。
昭和25年の3月より東海道線東京~沼津間と伊東線で運行を開始したが、営業開始前に
メーカーからの自力回送途上で車両が全焼したり、初期故障を繰り返したため、
「遭難電車」という有り難くない仇名も頂戴したこともあるほか、当時の鉄道雑誌でも、
かなり手厳しい非難が書かれた事がある。
初期故障が収まってくると、客車列車よりも速度が速く、乗り心地も良かったことや
速度が客車列車よりも顕著に速かったため、次第に利用客の支持を得られるように
なっていった。
当初モノクラスであったが、昭和26年よりサロが増備され、基本10連+付属5両+
郵便荷物車1両の16という日本の電車初の長大編成を実現した。
また、東海道線のみならず、スノープロウなどを装備して寒冷地仕様としたものが
登場し、高崎線、東北本線などへも投入が進められた。
優等列車へは週末の温泉準急「あまぎ」(東京~伊東・修善寺間。今の「踊り子」の
前身)に投入され、準急列車ながら東京~熱海間を客車特急列車「つばめ」と
同等の所要時間で走破した。
特異なものとしては非電化区間への乗り入れで、蒸気機関車やディーゼル機関車に
牽かれ、客車や電車に発電機を搭載して補助電源を確保するというものであった。
この他、駿豆鉄道線(現・伊豆箱根鉄道駿豆本線)直通にも用いられたが、同線は当時
直流600Vだった為、国鉄の直流1500Vと電圧差があった為、電動発電機などの
一部の機器を複電圧仕様に改造し、主制御装置はそのままで乗り入れるという
離れ業をやっていた。
これでは満足に走行できないように見えるが、補助機器は正常に動いており、
当時の駿豆鉄道は戦前からの木造電車が1両でのんびり走るローカル線だったので
速度が出なくても問題がなかった。
三島駅の東海道線と駿豆鉄道側にはデッドセクションがあり、その前後の通電区間と
本形式がユニット構造を組まない電動車であることを巧みに利用した切替作業を
行いこれを実現した。
その後、これらの特殊な運用は電化の進展、気動車の開発による無煙化、
私鉄側の昇圧などで消滅している。
関西ではクリームに茶色の独自の塗装になったものが急行(今の快速・新快速に相当)に
用いられ、モハ52系「流電」を置き換えた。
その後、電化区間の延伸が続き、昭和32年には東京~名古屋間の準急「東海」、
名古屋~大阪間を結ぶ準急「比叡」にも投入され、電車でも長距離優等列車として
運用できることを証明した。
これにより、長距離優等列車用の電車の開発が進められ、日本で長距離列車の
大半が電車となる端緒となった。
なお、特急用電車の開発が具体化したため、本形式のサロ85020号に一時的に
冷房装置を取り付けて試験運用を行った。
余談だが、このサロ85020号は冷房を外した後、しばらくして横須賀線に転じて
運用されていた時、鶴見事故(昭和38年11月9日21時頃発生。鶴見駅付近で貨物線で
脱線した貨車が東海道線の上り線を支障したところに上下の横須賀線列車が進行。
上り線列車の先頭車が貨車と衝突した衝撃で下り列車側面に激突。4・5両目の車体を
抉り取ってようやく停車した。死者161名・負傷者120名の大惨事となった)
に巻き込まれている。
この車両のすぐ隣りのモハ70079号は脱線した対向列車の先頭車が直撃して
車体が跡形も無く粉砕されたが、サロ85020号は連結側の車体が損傷した程度で
済んだため、修理の後、復帰している。
昭和30年代後半になると新性能電車の台頭により、首都圏での運用が減り、
全国の地方路線へと運用範囲を広げていった。
その過程で中央線や身延線の低断面トンネル対応のパンタグラフへの交換、
短編成化に伴う中間付随車の先頭車化や付随車の電動車化、1等車(2等→1等→
グリーン車)の格下げなどの各種改造を受けている。
昭和50年頃まで事故廃車もなく、静岡運転所所属車が東海道線で東京まで顔を
出すなど、全車健在であったが老朽化の進行により廃車が始まった。
最後まで残ったのは飯田線の豊橋口の運用で昭和58年まで運行された。
その後、クハ86001号車とモハ80001号車が交通科学館に展示されたほかは
全車が廃車解体された。
一大センセーションを巻き起こした2枚窓の先頭車は残念ながら残されなかった。
廃車となった車両の部品は一部が払い下げられ、台車が西武鉄道のE31形電気機関車に
流用されたほか、座席が祐天寺にあるカレーショップ「ナイアガラ」で使用されている。

○モハ80001号車。本形式の中間電動車。最後まで本形式から客用の制御電動車が
登場することはなかった。ドアの窓が3段なのはガラスを節約するため。

○車内。写真は初期車のもの。

○2枚窓車・・・のレプリカ。窓枠などは本物と同じものである。
車番はクハ86形のラストナンバーの続番でクハ86374号の車号を付けていた。
これは西武池袋線石神井公園駅近くの小山病院にあり長らく「電車の病院」として
親しまれたが平成21年の夏頃、再開発による病院の移転で解体された。
同病院の理事長は西武鉄道の嘱託医を務めた著名な鉄道愛好家である。

○西武E31形電気機関車の台車。80系300番台の数少ない遺品の一つ。
現在は保存された1両を除いた3両が大井川鉄道に譲渡されている。

○民鉄各社でも「湘南顔」の採用が相次いだ。これはその例で西武の3000系電車。
西武鉄道は「湘南顔」がお気に入りだったようでこの車両まで改良を加えながら
長く採用された。
日本で最初の本格的な長距離列車向けの電車である。
昭和24年~昭和33年にかけて652両が製造された。
製造を担当したメーカーは帝国車両、日本車輛、東急車輛、宇都宮車輛、新潟鉄工所、
近畿車輛、日立製作所、川崎車輛、汽車会社で日本国内にあった鉄道車両メーカーの
大半が関わった。
編成の組み方は投入路線によって異なるため省略する。
形式別の概要は以下の通り。
■基礎形式
クハ86形:制御車。3等車。
モハ80形:中間電動車。3等車。主制御装置、集電装置、電動発電機、CP搭載。
サハ87形:中間付随車。3等車。
サロ85形:中間付随車。2等車。
モユニ81形:郵便荷物室付きの制御電動車。単行運転可能。後にクモユニ81に改称。
■形態別の分類及び改造による形式
クハ86001~クハ86020:正面3枚窓。半鋼製車体。
クハ86021・クハ86022:正面2枚窓。丸妻。半鋼製車体。
クハ86023~:正面2枚窓。折妻。半鋼製車体。
・100番台:座席間隔拡大車。サロ85形に100番台は無し。
・300番台:座席間隔拡大・全金属車体。
クハ85形:中間付随車に運転台を取り付けて制御車としたもの。
・0番台:サロ85からの改造。
・100番台:サハ87形から改造。
・300番台:サロ85形300番台・サハ85形300番台からの改造。
サハ85形:サロ85形からの格下げ改造車。
・0番台:そのまま格下げたもの。特に改造されてない。
・100番台:0番台を3ドアに改造したもの。
・300番台:サロ85形300番台からの格下げ。ごく短期間で全車がクハ85形300番台に改造。
モハ80形800番台:身延線用にパンタ部分の低屋根化を実施したもの。
モハ80形300番台から改造。
モハ80形850番台:上記と同じ内容でサハ87形300番台を電動車化。
クモニ81形100番台:クモユニ81形から郵便室を無くして荷物室にしたもの。
車体は半鋼製で昭和32年製造の300番台からは全金属車体である。
正面は非貫通で初期車が丸妻の3枚窓、昭和25年製造のクハ86021号から
2枚窓となった。
クハ86021号とクハ86022号は3枚窓車と同じ台枠を使った関係で丸みのある
独自のスタイルであったが、クハ86023号以降は真ん中で折り目の入った
スタイルとなり、「湘南電車」の代名詞となった。
この前面デザインは昭和30年代前半まで一大ブームとなり大手私鉄から路面電車、
果ては軽便の気動車までが採用するにまで至った。
塗装はオレンジとグリーンのいわゆる「湘南色」を始めて採用し、鉄道車両の
カラー化の先鞭をきった。
正面部分を中央で半円形で塗り分けた「金太郎」塗りとなったが、これが決まるまで
幾度か塗り替えを重ねた。
また湘南色とあわせて横須賀線用の「スカ色」も開発されたが、この時は在来車両の
片面ずつに湘南色とスカ色で塗り分け試験塗装車として運用したことがある。
この他には「茶坊主」と呼ばれたクリームと茶色の関西急行色(今の新快速に相当)が
ある。
行き先表示は側面にサボが設けられているのみで正面には名前付きの優等列車でのみ
ヘッドマークが付けられる。
車内は2等車、3等車とも4人向き合わせの固定クロスシート(ボックスシート)で
ドア付近のみロングシート(3等車)である。
2等車はソファタイプの座席で間隔も広めにとられている。
3等車は初期車はシート間隔が定員を稼ぐため従来の客車よりも狭く、背もたれの
モケットも腰半分より下にしかなかったが、これらは後に改善されている。
トイレはクハとサハ、サロに設けられており、いずれもデッキに出入口を設置して
車内とは分離している。
サロ85形の初期車では横須賀に駐留していた進駐軍を意識して洋式便器を
当初より採用していたが、日本人には見慣れないものであったため、途中から
和式に変更された。
なお、サロ85形は長距離運用や優等列車での運用も考慮して車内販売控え室も
設けられていた。
ドアは片側2箇所・デッキ付きで全て片引き戸である。
この当時の東海道線は客車用に低めのホームであったが、ドアステップは設けられて
いない。
主制御装置は抵抗制御で初期車については戦前からの標準品である電空カム軸式の
CS-5を採用したが、昭和26年以降に登場したものは改良型の電動カム軸式のCS-10を
採用した。
この制御装置の採用で制御段数の多段化が可能となり、ブレーカーなどの機器の
配置を見直したため、乗り心地や故障時の安全性の向上が図られている。
ブレーキは空気自動ブレーキであるが、中継弁として電磁弁を各台車に設けており、
長大な編成でも安定したブレーキ力を得る事に成功している。
台車は初期車が枕ばねを重ね板バネとした箱型台車、中期がこれの枕ばねを
コイルバネとしたもの、最終的にはペデスタル式のコイルバネ台車となった。
いずれの台車も車軸をコロ軸として長距離・高速走行での発熱も抑えている。
モーターの駆動方式は吊り掛け式で従来車と変わらない。
これらの走行機器は従来のものをベースに改良を加えたもので、既に関西私鉄では
本形式以上の性能を持つ車両が戦前から運用されていたが、本形式では広範囲で
運用することや大量に製造することからコストを抑制するため、贅沢で特殊な
機構より堅実な今ある技術の延長上にあるものを改良して使うことを選択している。
この考え方は後の151系「こだま」型や0系新幹線の開発にも活かされている。
昭和25年の3月より東海道線東京~沼津間と伊東線で運行を開始したが、営業開始前に
メーカーからの自力回送途上で車両が全焼したり、初期故障を繰り返したため、
「遭難電車」という有り難くない仇名も頂戴したこともあるほか、当時の鉄道雑誌でも、
かなり手厳しい非難が書かれた事がある。
初期故障が収まってくると、客車列車よりも速度が速く、乗り心地も良かったことや
速度が客車列車よりも顕著に速かったため、次第に利用客の支持を得られるように
なっていった。
当初モノクラスであったが、昭和26年よりサロが増備され、基本10連+付属5両+
郵便荷物車1両の16という日本の電車初の長大編成を実現した。
また、東海道線のみならず、スノープロウなどを装備して寒冷地仕様としたものが
登場し、高崎線、東北本線などへも投入が進められた。
優等列車へは週末の温泉準急「あまぎ」(東京~伊東・修善寺間。今の「踊り子」の
前身)に投入され、準急列車ながら東京~熱海間を客車特急列車「つばめ」と
同等の所要時間で走破した。
特異なものとしては非電化区間への乗り入れで、蒸気機関車やディーゼル機関車に
牽かれ、客車や電車に発電機を搭載して補助電源を確保するというものであった。
この他、駿豆鉄道線(現・伊豆箱根鉄道駿豆本線)直通にも用いられたが、同線は当時
直流600Vだった為、国鉄の直流1500Vと電圧差があった為、電動発電機などの
一部の機器を複電圧仕様に改造し、主制御装置はそのままで乗り入れるという
離れ業をやっていた。
これでは満足に走行できないように見えるが、補助機器は正常に動いており、
当時の駿豆鉄道は戦前からの木造電車が1両でのんびり走るローカル線だったので
速度が出なくても問題がなかった。
三島駅の東海道線と駿豆鉄道側にはデッドセクションがあり、その前後の通電区間と
本形式がユニット構造を組まない電動車であることを巧みに利用した切替作業を
行いこれを実現した。
その後、これらの特殊な運用は電化の進展、気動車の開発による無煙化、
私鉄側の昇圧などで消滅している。
関西ではクリームに茶色の独自の塗装になったものが急行(今の快速・新快速に相当)に
用いられ、モハ52系「流電」を置き換えた。
その後、電化区間の延伸が続き、昭和32年には東京~名古屋間の準急「東海」、
名古屋~大阪間を結ぶ準急「比叡」にも投入され、電車でも長距離優等列車として
運用できることを証明した。
これにより、長距離優等列車用の電車の開発が進められ、日本で長距離列車の
大半が電車となる端緒となった。
なお、特急用電車の開発が具体化したため、本形式のサロ85020号に一時的に
冷房装置を取り付けて試験運用を行った。
余談だが、このサロ85020号は冷房を外した後、しばらくして横須賀線に転じて
運用されていた時、鶴見事故(昭和38年11月9日21時頃発生。鶴見駅付近で貨物線で
脱線した貨車が東海道線の上り線を支障したところに上下の横須賀線列車が進行。
上り線列車の先頭車が貨車と衝突した衝撃で下り列車側面に激突。4・5両目の車体を
抉り取ってようやく停車した。死者161名・負傷者120名の大惨事となった)
に巻き込まれている。
この車両のすぐ隣りのモハ70079号は脱線した対向列車の先頭車が直撃して
車体が跡形も無く粉砕されたが、サロ85020号は連結側の車体が損傷した程度で
済んだため、修理の後、復帰している。
昭和30年代後半になると新性能電車の台頭により、首都圏での運用が減り、
全国の地方路線へと運用範囲を広げていった。
その過程で中央線や身延線の低断面トンネル対応のパンタグラフへの交換、
短編成化に伴う中間付随車の先頭車化や付随車の電動車化、1等車(2等→1等→
グリーン車)の格下げなどの各種改造を受けている。
昭和50年頃まで事故廃車もなく、静岡運転所所属車が東海道線で東京まで顔を
出すなど、全車健在であったが老朽化の進行により廃車が始まった。
最後まで残ったのは飯田線の豊橋口の運用で昭和58年まで運行された。
その後、クハ86001号車とモハ80001号車が交通科学館に展示されたほかは
全車が廃車解体された。
一大センセーションを巻き起こした2枚窓の先頭車は残念ながら残されなかった。
廃車となった車両の部品は一部が払い下げられ、台車が西武鉄道のE31形電気機関車に
流用されたほか、座席が祐天寺にあるカレーショップ「ナイアガラ」で使用されている。

○モハ80001号車。本形式の中間電動車。最後まで本形式から客用の制御電動車が
登場することはなかった。ドアの窓が3段なのはガラスを節約するため。

○車内。写真は初期車のもの。

○2枚窓車・・・のレプリカ。窓枠などは本物と同じものである。
車番はクハ86形のラストナンバーの続番でクハ86374号の車号を付けていた。
これは西武池袋線石神井公園駅近くの小山病院にあり長らく「電車の病院」として
親しまれたが平成21年の夏頃、再開発による病院の移転で解体された。
同病院の理事長は西武鉄道の嘱託医を務めた著名な鉄道愛好家である。

○西武E31形電気機関車の台車。80系300番台の数少ない遺品の一つ。
現在は保存された1両を除いた3両が大井川鉄道に譲渡されている。

○民鉄各社でも「湘南顔」の採用が相次いだ。これはその例で西武の3000系電車。
西武鉄道は「湘南顔」がお気に入りだったようでこの車両まで改良を加えながら
長く採用された。